2008/11/26

英会話はそれ程大切か?

1年ほど前に英会話教室の最王手ノバが倒産した。ノバに限った事ではないが相変わらず日本は英会話ビジネスが盛んな国である。

学校教育での英語教育の歪みは前にも書いた事があるが、日本人の英語教育に掛ける情熱は並々ならぬものを感じる。どうしてそれ程英語が大切か理解できない。確かに英語は話せないより話せた方が良い。しかしながら何か目的が有って英会話の勉強に打ち込むのなら理解できるが、海外旅行の為などが目的ならば余り意味を持たないのではないか。

ロンドンにおけるJSTV(日本語放送テレビ)の番組にも英会話の番組を少なからず見かける。もし真剣に英会話を身に着けたいのならば当地のTV(BBCや民法)番組の方が余程役に立つし、わざわざ高額な料金を支払って日本語の衛星放送を受信している人達は、イギリスやフランスで英会話の番組を見るために受信しているわけではない。それにもかかわらずいくつもの英会話番組には思わず『お金を返せ!』と言いたくなる。

日本人はなぜそれ程英語を話したいのであろうか?
一頃 cosmopolitan(国際人)と言う言い方がされたことがある。英語を話す事がその条件とでも考えているとしたらとんでもない勘違いも良いところだ。英語を話すだけならイギリスやアメリカの3歳児でも話す。しかしこの様な子供がいくら英語が話せても誰もコスモポリタンとは言わないであろう。

本当の意味で国際人と言われるような人ならば英語のみならず4カ国か5ヶ国語くらい話せなければ嘘くさくなる。これだけコンピュータや携帯電話が普及してきた世の中である。今少しすれば携帯端末サイズくらいの翻訳機が発売されても不思議ではない。そんな時になって高額な代金と時間を使って英会話を勉強してきた事が無駄にならねば良いと思うのだが。

大切な事は流暢に話せるか?では無く、何を話すか!と言う事ではないか。国家の品格の著者 藤原正彦氏の言葉を借りれば、英語が上手く話せれば話せるほどその話す内容が大切になってくる。もし中身の無い話を流暢な言葉で話せばバカを証明する事になってしまう。上手く英語が話せない人ならば黙っている事で日本人の謙虚さと受け取られる場合もあるが。藤原氏に言わせると英国人のインテリ層は日本の文化や歴史にも精通している者が多い。その様な連中の前で発音だけは上手に話せても、自国の歴史や文化を理解していなければ余計バカにされるだけだと言う訳だ。

確かに何年か前に自分も日本へ行く飛行機の中で、隣の席に座ったイギリス人のビジネスマンが日経を読んでいる光景に出会った事があるし、又別の機会には自民党政権の話や野党の政治家の名前をすらすらと織り交ぜて、日本の政局を流暢な日本語で話す人物にも会った事がある。こんな事を目の当たりに経験すると確かに英語(会話)を勉強する事も良いが、その前に日本の歴史や文化について一通りの知識は先に勉強しておかなければ、英語を話す事によって余計に恥ずかしい思いをする事があると言うのもうなずける話しである。

英国連盟に所属する拳士の中にもイギリスの大学を卒業して日本に研究者として留学した者や、人文社会学で日本の宗教体系から禅文化を論文に残したものが認められて博士号を取得した拳士まで居る。元々は少林寺拳法の武道としての魅力から入門してきた拳士達ではあるが、そこから日本に対する興味が進み研究対象になる事は自然な流れなのかもしれない。彼等の話す日本語には日常会話としてのレベルでは無い、一般の日本人が聞いても難しい専門分野内容の話が出てくることを思うと、英語の前に日本語を正確に勉強する事の方が大切だと思うようにも感じる。

2008/11/19

ゴルフのブルーモーション

今年のホリデーは日本から来た学生時代からの友人二人と、自分と家内の4人でポルトガルへ出かけた。ポルトガルは今年2回目である。ポルトガルが初めてと言う友人達と行った訳だが、自分はこれまでに拳法の関係で5回ほど訪れており好きな国の一つである。

家内も4月に家族で訪れた時が初めてのポルトガルであったが、その時は南部のアルガーブ地方に滞在したので北部の観光地等は初めてだった。それがホリデーであれば一ヶ所に滞在して、のんびりする事が目的であるので問題は無かったが、それまでの自分が経験した『ポルトガルは日本人の好みに合った美味い食事!』と言うには4月のホリデーは正直がっかりした事を覚えている。

今回は日本から来た友人と観光旅行が目的だった為、北の町ポート(Port)にロンドンから到着した。ここはポートワインの由来の街である。

ロンドンのスタンステッド空港からライアン エアーという格安の飛行機で飛んだ。飛行時間は2時間半位だからたいしたことは無いがこれまで一度も利用したことの無いスタンステッド空港が驚くほど大きく斬新なデザインの空港であった事に少なからず驚いた。

さて、今回の話はポルトガルの旅行が目的ではない。Portの空港に到着してネットで予約しておいたレンタカーを受け取りに行き、予約ではトヨタ カローラのエステート(ワゴン)ディーゼル車を頼んでおいたのだが、我々のスーツケースの大きさ(特に日本からの2人)がカローラ エステートでは納まらないのでは?と言う事で急遽ヴォルクス ワーゲンのゴルフ エステートをあてがわれた。大きさは普通のゴルフと同じだったが荷室部分がはるかに大きい為問題なく収納できた。この車はブルーモーションと言う低燃費型のターボ ディーゼルのエンジンらしい。

英国は日本と同じ左側通行のため、初めのうちは右側通行とマニュアルのトランスミッション(右手操作)に慣れるべく慎重に走り出したがその軽快な運動能力に驚いてしまった。ポルトガルの高速道路はガラガラで飛ばすにはこれ以上の条件は無い。気持ちよくアクセルを踏み続ければスピードメーターは軽く150kmを超えてしまう。車内はそのスピード域でも声を大きくして話さなくても普通に会話が可能で、ガソリンエンジンの車と同等か、より静かに感じる程であった。

レブカウンターが1500回転を越える辺りからトルクの乗った実に気持ちの良い加速を味わうことが出来る。一昔前のディーゼル エンジンの特徴だった加速が遅い、エンジン音がうるさい、排気ガスが汚いと言ったイメージからは程遠い素晴らしい印象を受けた。ブルーモーションとは聞きなれない名前が付いていたが何でもvwのディーゼル車の中でも燃費効率の良い車種に付けられる名称らしい。4モーションと言うのは昔からvw車にはあったが、これは四輪駆動の車を意味していたのでブルーモーションは同社の新しい省エネ車、それもディーゼルエンジン車に付けられる名称で運転の楽しめる車の名称かもしれない。

今回のポルトガル縦断には自分のほか日本から来た友人も運転を楽しんだ。特にポルトガル中部の町エボラから高速道路を使って南部のアルガーブ地方までの区間は他のヨーロッパ諸国とは異なり、車の少ないこともあり快適なドライブだった。

150kmからでも加速を受け付けるターボディーゼルには本当に感銘した。燃費の良さが売りのエンジンだとは思ったが、仮に普通のガソリンエンジン程度の燃費率だとしても、自分は魅力的なエンジンだと思った。その主な理由は先程ものべたようにエンジン音が静かである。走行中の車内ではガソリン車よりも静かだと感じた。停止した車のアイドリング状態を車外に出て音を聞けばガソリン車の方が静かだと思うが、一旦走り出してしまうとエンジン回転の低さも手伝い、非常にスムーズで静かな印象だった。加速も申し分なく、一昔前のディーゼルエンジン車を知る我々の世代には、今日のそれ(優れたディーゼルエンジン)は以前スイスで乗ったルノーのディーゼル、メガーヌも含め格段の進歩を感じずにはいられない。

ロンドンへ帰ってからも目はついついブルーモーションを探すが、イギリスはアメリカや日本と同様にディーゼル嫌いの国で中々見つからない。

ディーゼル嫌いの日本でもガソリンに比べればディーゼル フュールの値段は随分安いのに、イギリスは逆に少しではあるが高い!こんな馬鹿な事が許されて良いのか。あれほど政府に口うるさいイギリス人は、なぜこの件(ディーゼルの高値)については文句を言わないのか自分には理解できない。

価格がヨーロッパ大陸や日本のように安ければもっと多くの人達がディーゼル車に乗ると思う。現在もEU圏内にありながら通貨はスターリング ポンドを貫きユーロ圏に加わらない。同じヨーロッパ域内でも好みや政策がこれ程異なった国々を、EUと言う枠で治めようという試みは、はたしてこの先どうなるのであろうか興味は尽きない。

来年の今頃はVWブルーモーションのゴルフに乗っているのかな?楽しみでもある。

2008/10/31

警察官から裁判官まで

アメリカと言う国は本当に不思議な国である。世界中の紛争地に何らかの理由を付けて関わる事を率先してやっているように感じる。

確かに世界のスーパー パワー国家であることは誰しも認めているところであるが、もしかするとこの様な態度(おせっかい)がアメリカ人が望んでいない反感を生みだし、その結果としてアメリカに於ける9.11のテロにつながったのではないか?と思える節が無いでもない。

アメリカ議会において日本の従軍慰安婦問題が議題に取り上げられたことについて、いったい彼らのメンタリティは何をしてこの様な他国の事案にまで首を突っ込むのか小生には理解出来ない。

前にも書いたが第二次世界大戦の結果、日本が無条件降伏をしたからといって歴史まで彼らが都合の良いように書くことまで承服したわけではない。

何度も書いたようにこれらの案件(双方の意見が食い違う)には『客観的事実が必要だ!』と言う事は真実を伝え続ける為にも大前提となる事は世界共通の理念ではあるまいか。

日本政府が従軍慰安婦(当時はその様には呼んでいなかった)に関する国の関与を示す記録は無かった(抹消された可能性はあるとしても)と正式に抗議しているがアメリカ議会は無視のようである。

今一つ明確にすべきは当時の朝鮮半島は独立した国家ではなく台湾と同様に日本の領土として国際的にも認められていた事である。兵士や軍属として強制的に狩り出された朝鮮半島の人達が不満を持つことは理解できるが、彼ら彼女らを『朝鮮人』として軍属や挺身隊に徴用したわけではない。

東京裁判(極東軍事裁判)は歴史的に見ても違法な裁判であった事がこのところ当時のこの裁判に関わった人達の供述からも証明されている。

ちょっと冷静に考えれば分かる事だが、国の代わりに個人を当てはめて考えれば答えは明らかであろう。AとBと言う二人が喧嘩をしてAが勝ったとする、普通裁判になる場合には仮にBに非があったとしてもAが裁判官や検事、弁護人までやる事(任命する)は無いだろう、そんな事をすれば誰も正統な裁判とは評価しないからである。

事実東京裁判においてインドのパル判事は『東京裁判は裁判にあらず、復讐の儀式にすぎない』と強く抗議し、裁判自体を違法として、根底から否定した事が記録として残されている。

パル判事から指摘された『原爆投下や東京大空襲の方が罪深い』(被災者の99%が非戦闘員の民間人)と言う事実には無視を決め込み歴史を自分達(戦勝国)の都合の良い様に書き換えてきたのがアメリカを初めとする当時の連合国である。

日本政府からの抗議『従軍慰安婦を国として強制した事実は無い』と言う主張にも無視を決め込むこの様な態度は、『自分たちは世界の平和や人権に貢献している』と自負して居ても、現実には期待とは裏腹に世界中の多くの国や民族に敵対心をあおっているとしか思えない。

歴史に向き合い日本政府に従軍慰安婦問題について正式な謝罪を要求するならば、まず先に広島と長崎に対する原爆投下を謝罪する態度こそがアメリカの取るべき姿ではないか。日本国民がテロ行為等の報復行動に出ることはまず考えられないが、価値観の異なった国であればテロも充分に考えられる。

教育、宗教政治体制等どれもがテロの可能性としては否定できない。アメリカ国民が意図しないこれらの政治や経済のプロパガンダが結果的に世界中に敵を増やしているとすれば割を食っているのはアメリカ国民かもしれない。

2008/10/17

車の二極化(その2)

現代社会の車の二極化の一方は経済的な要素をより多く持った車の台頭であろう。小排気量の車は勿論そうだが、昨今の環境やエコロジーブーム、そして究極的には原油高騰に伴うガソリンやディーゼルの値上がりが、ハイブリッド車や燃料電池車そして究極的には電気自動車へと開発を急がせている。

数年前にはある程度予想も出来たが、まさかガソリンの値段が1リットル£1-20を超える時代がこれ程早くこようとは多くの人が想像していなかったのでは無いだろうか。 

その1でも触れた様に自分がこのところ興味を持つ車の種類が変わってきた事である。ガソリン価格の高騰と言う事も確かに一因ではあるが、それだけが原因ではない。以前はほとんど興味がわかなかったディーゼルの車、それも小排気量車がやけに気になり始めた。

英国は日本に似ていて乗用車のディーゼル比率がそれ程高くは無い。ひるがえってヨーロッパ大陸の国々では車種によっては50%を超えるディーゼル乗用車も珍しくは無い。なぜこの様に英国とそれ以外のヨーロッパ諸国では差が出るのであろうか?

英国ではディーゼル燃料の価格が日本や他のヨーロッパ諸国の様に安くなく、無鉛ガソリンと同じ価格である。そんなことも今ひとつディーゼルエンジンの乗用車が普及しない要因ではないかと想像している。

一昔前のディーゼルエンジンは確かに良いイメージは無かった。パワー不足(加速が悪い)、黒煙を出す(環境に悪い)、エンジン音がうるさい、等がおもな理由だった。だったと言う事は過去形である!現在の洗練されたディーゼルエンジンの車に乗れば多くのディーゼル嫌いの人が考えを改めるのではないかと思う。

特に最近ではヨーロッパ大陸の国々ばかりではなく、英国でも積極的にディーゼル車を買う人達が増えてきた。ガソリンと値段の差が無い英国だが、これ程までに燃料代が上がってくると少しでも燃費の良い車にと思うのが普通の選択だ。ディーゼルはその点ガソリン車に比べればはるかに燃費は良い。1Lで走れる距離に大きな差があればかなりの人がディーゼル車に興味を持つことは容易に想像がつく。

そして最新のディーゼルエンジンに乗ってみれば、過去のディーゼルとの違いを改めて認識することになる。パワーもガソリン車に劣らなく、トルクが太いため加速も充分に楽しめる。エンジン音もほとんどガソリンのそれと区別がつかない位になっているし、黒煙を吐いて坂道に差し掛かったらヒイヒイ言うようなエンジンは最近のディーゼル乗用車では先ずお目にかからない。

その様な体験が自分の好みを変えてきた事も確かである。今ひとつは車の持つポテンシャルをフルに使い切ってみたいと思うようになった。その1でも書いたように大排気量のスポーツカーやリムジンでは乗せられている感覚が強く、自分で車をコントロールしている感覚が乏しくなる事である。

その点1000ccくらいのエンジン車ならばパワーも知れている。パワーアシストも高級車や大排気量車の様には付いていない。環境さえ許せば車の持つポテンシャルをフルに引き出すことができる。田舎の曲がりくねったB級道路(スピードカメラも無く、制限速度もゆるい)を飛ばす楽しさも味わえる。それが小排気量のディーゼルエンジンならばよりベターな感じがする。

その様な事を想像するに1000cc~1200cc位の、ディーゼルターボのエンジンを積んだ、マニュアル トランスミッションの小型車が欲しいと心から思うようになった。大きく振り回せない車に乗っている自分を想像すると、トヨタではないがいかにもIQが疑われそうでカッコ悪いイメージになりそうだ。

2008/10/11

車の二極化(その1)

このところ原油の先物相場の値上がりに引きずられ、ガソリンの値上がりが随分と高くなってしまった。そのせいもあって車の売れ行きが酷く落ち込み、アメリカやヨーロッパなどはこれまでのところ前年比でかなり落ち込んでいるようだ。

そんな中にあって車の二極化が目立つようになってきた。一方は高級車と呼ばれる種類の車で一台数千万もする車、もう一方は経済の方向性もあって小型の小排気量車と云う具合である。

高級車と呼ばれる車を買う人達はいつの時代もそんなに変わらないのかも知れない。年間生産台数が数百台にも満たない高価格なスポーツカーや、排気量が6,000ccを超えるリムジン等を買う人達にとっては、少々経済の風向きが下方修正されたからといってどうと云うことも無いのであろう。

しかし自動車会社が主な顧客としている一般人は大きく経済の動向に影響される事は云うまでもない。特に昨今の世界経済の不透明さや、原油価格の高騰に引きずられた燃料価格の高止まりは、これらの車を買う人達の心理状況にも大きく影響を与える事は今さら云うまでもない。

アメリカやヨーロッパの新車売れ行き状況は前年度比のマイナス15%~30%という具合で、昨年まで他の自動車メーカーが苦戦する中、独り勝ちの状態であったトヨタまでもが、今年の販売台数を大きく下方修正するほどである。

ハイブリッド技術を誇り、他のメーカーとはかけ離れて成功をしてきたトヨタであるだけにその影響は世界中の車メーカーに大きな不安を与えた事は事実であろう。そのトヨタが自慢のハイブリッド車ではなく、コンベンショナルな技術を使って小型車を発売しようとしている。名前はIQと云うらしいが、いかにもIQ(知能指数)が高いものが選ぶと云う様な斜に構えた見方は自分だけかも知れない。

以前の自分の好みは単純だった。ポルシェやフェラーリは今でも見ると良いなとは思うが、以前はこのようなスポーツカーに乗りたい!と心底思っていた。乗りたいと思っても簡単に買える様な車ではないことは充分に承知していたが、それだからこそ何時かは買ってみたい車であった。

そんな自分が最近興味を持つようになった車は全く逆な方向の車である。現在乗っている車も結構大きいが、この様な大きな車はガソリン代の高騰と云うだけが理由ではなく、何か車に乗せられている感じが強いのだ。

確かにパワーも有り、ほとんどの取り回しはパワーアシストが備わり、高速走行も安定しているし楽チン極まりない。しかしながら前述した車に乗せられている感はどうしても拭えず、車の持つポテンシャルをフルに使い切る場所など、ドイツのオートバーンかサーキット位しかない。

以前ドイツを旅したときメルセデスCクラスのレンタカーで時速200kmオーバーで1,500km程を運転した経験が有るがあの様な道路環境は他の国には存在しない。ドイツの整備されたオートバーンであっても時速200kmオーバーを連続して維持することは無理である。追い越し車線に出てくるトレーラーや小型車に行く手を阻まれてしまうからだ。

それでも合法的にその様な運転が許される国であれば、ポルシェやフェラーリも魅力的なチョイスであろう。経済的事情が許すのであれば本当に欲しい車だ。しかし現実に英国に住む自分にとってロンドン域内では30マイル制限も珍しくない。日本に比べればいくらかは道路事情がましかも知れないが、ロンドン市内や周辺の高速道路には至る所にスピードカメラが設置されている事を考えれば、高性能の車はもはや宝の持ち腐れに等しい。 

そればかりか普段の乗り方が車の持つポテンシャルの半分も使わないとすれば、エンジンやサスペンションに掛かるストレスも相当なもので車にもよろしくないことは言うまでもない。以前聞いた話だが、『日本で使われているメルセデスSクラスはエンジンが回らない!』と言うのが定説らしい。普段ショーファー ドリブンの車として使われ、車の持つポテンシャルの30%くらいの速度域が、日常使われるスピードの上限である事がその主な原因との事だった。(その2に続く

2008/09/26

悲観主義よりも楽観主義のすすめ

楽観主義と悲観主義と言う言葉がある。英語にも Optimism と Pessimism と言う言い方をするが、自分は確実にoptimistの部類に入る人種である。大まかな見方をすると海外に出てくる日本人にはpessimistな人は少ないように思う。もし悲観主義者が外国で生活するとなると色々と大変である。文化の違いによるストレスはかなり大きく、性格的に悲観主義的な部分が大きい人では生活するだけでストレスが溜まりノイローゼになってしまう。

何か事を始めるに当たり思い悩む人は多いが、自分の場合はほぼ直感的に決める特徴がある。時として思い違いもあり失敗する事もあるが、行動に移る方が早い方である。言い換えれば走り出してから考え、修正が必要な場合には走りながら修正するタイプであろう。よく充分な計画と戦略を練って物事に当たると言う事を聞くが、確かにしっかりした計画が成功の重要な要因である事は分かる。しかしながら何事も計画通りに進むとは限らない、そればかりか計画通りに行かない事の方が多いのではないかとさえ思う。そんな失敗を先に考え最初の一歩を踏み出せないとしたら、成功どころかいつまで経っても結果は出てこない。

『失敗から学べ!』と聞く事もあるが、はたして人は失敗からそれ程学べるのであろうか?疑問のほうが大きい。失敗をイメージして物事に当たれば、その事自体がネガティブ効果を発揮して失敗する確立はより高くなるように思う。それよりも成功する事をイメージして事に当たったほうが、成功する可能性が高いと思うのだが。こんな事を書くと『何とノー天気な野郎だ』と笑われそうだが、事実そのとおりノー天気な性分だから文句の言いようも無い。『失敗からは学べない!』と自分が思うのは、『失敗した事は、取り返せない場合の方が多い』と経験から言いたいのである。

言い訳に聞こえるかもしれないが、言わんとするところはそうではない。もし人間が失敗から学ぶ事が可能であり、そしてその結果として失敗を取り返すことが出来ると仮定すると、誰も失敗する人は居なくなってしまう。なぜならば2度目、3度目には成功するからだ。しかしながら現実はそうではなく、失敗から学ぶ事など簡単には出来ないからその様に言って慰めているのではないか。

時間も異なるし環境も違う、禅的な言い方をすれば『一期一会』である。二度とその失敗を取り返せないのであれば、『失敗からは学べない』と言う事にはならないか。もしそうであるならば失敗に目を向け、又同じ様な失敗を繰り返すのではないか?とビクビクしながら事に当たる方が、その精神的ネガティブ イメージを繰り返し学習しているようなもので、余計に失敗の確立を大きくしている事になるのではないか。

ゴルフのパットを思い出してみると、前のグリーンで読み間違えてボギーになった事をくよくよ考えて、目の前のボールが又外れるのでは?と思い悩んで引きずって居ると、その時のパットは外れる事の方が多かった。つまり失敗したイメージが脳の中で繰り返される事により自然にその現象が腕の動きに連動してしまい、のびのびとしたパッティングのストロークを阻害する結果につながり易いと言う事ではないか。

この現象は何もゴルフに限った事ではなく、人の脳が及ぼす良いイメージと悪いイメージの作用は、理論では割り切れない影響が色々な形で現れるとは想像できまいか。

そうであるならば逆も又真実なり、『悪いイメージが悪い結果を招く確立を高くする』と言う事は、『良いイメージは良い結果を招く確立が高くなる!』と言い換えても良いのではないか。ゴルフの上達を夢見る人には、スイングの前に必ず良い結果を頭に描いてスタンスに入る事を心がけるだけでも、何割かのスコアは良くなる事を自分の体験から信じるのである。

2008/09/07

エコブーム

時代は世を挙げてのエコブームである。
何でもCO2が地球温暖化の原因であるからそれを少しでも減らそうと言う事で、風力発電や太陽光発電(ソーラパネル)等の自然エネルギーはどこの国でも引っ張りダコだ。

地球温暖化と言われてもねェ。
『世の偉いサイエンティストの先生が言うのだから間違いない』と言う訳でそれが、真実か(本当の原因)どうかは別にして、世の中エコ商法真っ盛りではある。

しかしその一方で皮肉れ者の小生が思うのは少し前に『オゾンホールが大きくなっている原因はフロンが原因である』等とずいぶん騒がれ、冷蔵庫の回収やら車のエアコンのフロンガスの代替品まで、随分と世の人々を血迷わせてくれたのが、このところ風向きが変わってきたではないか。南氷洋のオゾンホールはなんと『拡大していない!春先に起きる現象でありその年により大きくなる事も小さくなる事もある。フロンが原因ではない!』と言う偉い先生も居るではないか。

もしかして『フロンやハロンが原因だ』と騒いだ奴がお金儲けの目的で、あまり訳の分からない一般人を妄想に引き込み、その恐怖心を上手く利用して冷蔵庫やエアコンのフロン代替品を買わせて居たとも思えてくるが、邪推が過ぎるかな?

そんな皮肉れ者の小生は、又地球温暖化でCO2を減らせ、環境にやさしいを合言葉に電化製品やら車の買い替えなど上手に利用したいのではありませんよね?などと不届きな事を想像したりする。ロンドンでも家電の量販店に並ぶ冷蔵庫や洗濯機にまでエコマークが貼られ商品金額とエコレートは上手くリンクしているようにも見える。

地球温暖化と言うおまじないの前には『ノー』と言えない圧力を感じてしまう。
CO2削減を理由にこれまで反対していた原子力発電を再開する国が出たり、自然エネルギー関連商品は目下百花繚乱の勢いではないか。

何年か経ったら『地球温暖化はCO2が原因では無かった』とは言わないでほしい。うがった見方と言われようがオゾンホールから始まって地球規模のビジネスで儲けてやろうと言う連中は何でも理由を付けてしまうだろう。

テレビショッピングは売り込みの上手さでいつも感心させられるが、実際に使ってみて期待を裏切られることは多い。地球温暖化=CO2原因説が地球規模のテレビショッピングにならない事を祈るばかりだ。

2008/08/25

北京五輪の日本選手団はかわいそうだ

北京オリンピックでの日本選手の活躍は、残念ながら海外では日本と同じ様には見られない。

英国は公共放送のBBCがオリンピックの放映権を持ち、殆んど全ての競技をカバーしているように主張しているが、当然の事ながら英国の選手が活躍する競技を中心にプログラムが組まれているので、英国が参加しない野球やソフトボールなどは全くカバーされていない。

この様な我々日本人が期待する競技はインターネットのニュースが唯一の情報源となる。日本オリンピック委員会(JOC)が目標とした北京オリンピックでの獲得メダル、金10個以上(総数でいくつだったかは忘れたが)は、残念ながら目標に及ばなかった。

小生が受けた最初の違和感は開会式での行進である。こればかりはBBCでも全て映しているので、直ぐに分かった。何が違和感かと言えばどこの国の選手団でも、自国の国旗を誇らしげに振ってにこやかに行進しているのに、日本の選手団だけが自国の国旗(日の丸)と中国の国旗を同時に振らされていた事である。

この様な要請が中国からあるはずは無い!
もしあれば全ての国であるはずで、他国でも一つや二つ中国国旗を同時に振って行進していたはずであろう。しかしながら開会式当日の選手団で自国の国旗以外を振っていたのは日本の選手団だけだった様に思う。

なぜこんな事をしたのだろうか?小生は今もって理解に苦しむ。オリンピック開会式の入場行進と云えば、多くの参加国数による開催国の国威発揚(特に今回のオリンピックではその傾向が強かった)が一つの大きな目的である。それだけに、これを強要したJOCの責任者は何を考えているのだろうと余計あきれてしまった。

よその国の国旗を振らせておいて「自国(日本)の為に誇りを持って戦え(頑張れ)」と云えるのか?相当頭の悪い権威を持った者が命令したのであろう。

日本に中国との戦争の歴史があり、国民が日本に対して悪感情を持っているから、少しでもご機嫌を取ろうとしたのだろうか?

しかし中国と戦争をした国は日本ばかりではない、英国もドイツもそれぞれ植民地を持ち少なからず悲惨な歴史もあることは誰でも知っている。第一に当事国である中国がオリンピックに政治を絡めさせたくない事は明白である。これ程までに世界各国で相次ぐ妨害や抗議行動にあう聖火リレーを過去に見たことが無い。中国にしてみれば直前に起きたこの様な世界の反発や、チベット等の独立問題などの政治色をオリンピックから切り離すことに苦心していたはずである。 

そんな事情のある国で日本が過去の戦争責任や国民感情におもねっていたとすれば、選手にしてみればいい迷惑であり、戦う前から『遠慮して!ほどほどに頑張りなさい』と云っている様なものではないか。どこの国の選手も国の代表として誇りを感じて国旗を背負い戦う(競技する)わけである。その戦いの前に司令官が主催国におもねる様では初めからメダルの目標など口にしない方が良い。

全力で戦った選手には心より敬意を払うが、他国の国旗を選手達に振らせた責任者には日本国民の前で正式な謝罪をしてもらいたいと感じるのは自分だけであろうか?中国は日本の宗主国ではない。この様なへりくだった行為が過去最大の選手団を送りながら、前回のアテネ大会よりもメダルが取れなかった一つの要因ではないかと思う。

オリンピックは見るものを興奮させる。そして何よりも自国の選手が勝つと単純に嬉しい。必死に戦うアスリートは結果の如何を問わず世界中を感動させる。自国と関係の無い選手の世界新記録にさえ、時にはおめでとうと言いたくなる事さえある。

自分と自国のプライドとを背負って戦う素晴らしいアスリート達に困惑を与えたJOCの責任者に言いたい! あなた達に負けた選手や監督を批判する資格は全く無いと。

2008/08/05

世界安全情報とは

ヨーロッパ地区で放送される日本語のテレビ放送で毎日何度も『海外安全情報』と言うものがある。この題名どおり受け取れば、海外で安全な国か場所のことを情報として流してくれる!と受け取れるのではないか?

しかし現実に流されている情報はまったく逆で、海外における日本人旅行者が被害にあった情報で、『どこどこの国ではこの様な危険があります。日本人が被害にあっています!だまされない様に注意しましょう。』と言うものである。

確かに安全ではない国を紹介するわけであるから、それらの実例を挙げられた国の国民にとってはなはだ迷惑な情報かもしれない。しかし現実問題として事実に基づいた情報であれば仕方が無いであろう。

問題は本来『海外危険情報』と言うべきところを『安全』とまったく逆の言い方をしている事である。外国からのクレームを気にしてこの様な言い方をしているとすれば全く日本人をなめている事にはならないであろうか。いくら文句を言われるのが怖くても事実を伝えることが公共放送としての役目のはずである。

その大切な情報の主題が全く逆の言い方をしているとすれば日本以外の国であれば即座に国民からクレームがつくはずである。日本人はその様な事(文句)は言わないだろうと高をくくっているとすれば、それこそ自国民を見下ろした態度のように思うがどうであろう?

もし仮にイギリスのメディアが外国における危険情報として日本で実際にあった事件を例に挙げ、『日本ではこの様な事件が起きて英国人が被害に会っています、気を付けましょう!』と紹介したとする。その紹介された事件が事実と異なれば日本政府からクレームがつく事は充分に考えられる。しかし、現実にあった事件であれば文句の付けようもない。

たまたま英国人が被害者であっただけなのか、はたまた英国人を狙った特殊な事件かはこの際問題ではない。何故ならば現実に起きた問題であればその事件そのものに対する危険度を自国民に喚起することに何処の国が文句を言うであろうか。北朝鮮くらいは言うかもしれないが?

日本人は狙われやすい!
特に外国では日本と同じように行動する事がいかに狙われやすいかを当の日本人自身がほとんど理解していない。

なぜ日本人は狙われやすいのか?
先ず日本国内が比較的安全である。此の頃は日本に住む外国人の数も増え犯罪も国際的になってきたと言われるが、まだまだそれでも安全度は高い。通勤電車で居眠りしている人があれほど多い国も珍しい。

日本の社会は現在も現金を持ち歩く人が多い。犯罪が多くクレジットカードがいち早く発達した欧米に比べ、利便性が理由で携帯電話やいろいろなパスが増えてきた日本では構造が全く異なる。海外に旅行する人達でも多額の現金を持ち歩く旅行者として知られており犯罪に巻き込まれやすい。

また犯罪にあっても大声を出さない。言葉が話せない事も一因かも知れないが大声は出せるはずであるにもかかわらずである。そして目立つ!ヨーロッパ社会の中にあっては、最近でこそ韓国人や中国人の旅行者が多くなってきたが少し前までは東洋人の旅行者はほとんどが日本人であった。

以上の様な事を考え合わせるとよく目立って、現金を多額に持ち歩き、被害にあっても大声で騒がない! 犯罪者にはもってこいのターゲットと言う事になる。その様な事を考えれば世界中に日本の情報を発信している日本の衛星放送では、その本質をズバリ伝えることこそが重要な任務ではなかろうか。

『危険情報』を『安全情報』等と言葉を変え外国の顔色ばかり伺うような放送をしていては、相変わらず日本人は海外の犯罪者からすれば『お人好しの一番狙いやすいターゲットですよ』と言う事を政府が保証しているようなものではないか。

2008/07/18

完全公平なスポーツ等は無い

北京オリンピックが直ぐそこに迫っている。
何でも今回のオリンピック競技を最後に日本の得意種目である野球とソフトボールが公式種目から外れるようである。なぜこの2競技がオリンピック種目から無くなるのであろうか?

答えは簡単だ。
次の開催地であるロンドンが多くなり過ぎた種目の整理!と言う理由を前面に立てて、自分達の余り得意ではない種目を減らしメダルが狙えそうな競技に置き換えたいだけである。この様な例は他にもいくつも数えられる。日本でも東京オリンピックの1964年をきっかけに柔道を競技にねじ込んだ事は当時を知る自分には良く分かる。確かにその次の1968年メキシコのオリンピックでは柔道は消えてしまったがその後のオリンピックで復活を果たしている。


英国でも野球をする人は存在するが非常にその数は少ない。又英国人がアメリカで生まれた野球を今一つ軽く見ている様なところがある。何故ならばアメリカで生まれたベースボールの原型が英国の子供たちがするラウンダーズと云うゲームから来ている事にもあるのかもしれない。英国の人達がフェアなスポーツと自慢するクリケット(事実クリケットは競技意外にもフェアーと云う意味も有る)は英国の国技ではあるが、公式の試合に3日間も要する競技はマスメデイアが発展した今日では、時間的にも現代スポーツには向いていないようだ。かつて英国を宗主国としていた国以外では余りポピュラーなスポーツではない。

オリンピックが代表する近代スポーツの特徴としてあげられるのはどの競技のルールにおいてもフェアーネス(公平性)が最も重視されることではないだろうか。これはスポーツの持つ健全性は公平なルールが有ってこそ意味をなすと考えられているからであろう。

しかしながらよく考えて見れば分かるようにスポーツ競技における完全なる公平性なるものはありえない。人の顔かたちや体格が違うように人種における特徴も大きく異なることを考えれば、ある程度は想像できるのではないか。

例えばバスケットボールやバレーボールなどの競技は背の高い人達が圧倒的に有利な事は云うまでもない。この様な競技にはバスケットやネットの高さは変わらない事から身長の高い選手をより多くそろえたチームが有利な事は明らかであろう。例えばテニスにしても背の低いプレーヤーがウインブルドン等メジャーなコンテストで優勝した例は数少ないであろう。同じ条件のネットの高さであれば身長差が30cmも有ればサービスの瞬間から大きな差が出てしまう。何事もに例外は存在するが多くの場合人種的な特徴も無視できない。

前にも書いた事があるが水泳競技等はアフリカ系民族には骨格的(骨太で重い)なハンデイを持つ。逆にこの特徴は陸上競技や格闘技等の世界では大きなアドバンテージになる事も数多くの事例が証明している。 

近代スポーツの公平性を測る上で欧米の考え方は体重である。彼らの思考回路では体重=体力と捉えている。確かに一般的には体重の重い者の方が体力にも勝ると云えるのかも知れないが、これだけで公平性が解決すると考えるところに彼らの価値観の横暴さが感じられてしまう。 

日本でも有力選手が国体の開催県を渡り歩くジプシー選手が居る事は公然の事実だが、オリンピックやワールドカップ等の為に国籍を変えて有力なアスリートを抱え込む国が多い事もフェアネスと云う観点からはおかしな現象ではないか。近代オリンピックと云う割には競技での審判でビデオ等のより正確な技術が使われる事もほとんど無い。タイムを計測する陸上や水泳競技での電子時計は別にして柔道やレスリング、野球等の球技の判定に明らかな審判ミスがあった場合でもジャッジがビデオで確認された後ひるがえされる事はあまり例が無い。

この様に考えると完全なる公平性等と云うものは全くの妄想に過ぎないと云う事であろう。言い換えればいかに言い訳(理由付け)が出来るように考えられたのが近代スポーツの特徴なのかもしれない。

2008/06/23

人権問題とは

ミャンマーの軍事政権の非道振りが世界中の注目を浴びている。軍事政権が長年抑圧し続けた民主化勢力との話し合いは実現するどころか全くの独裁政策がより進んでいると言っても過言ではない。

今度の仏教僧の抗議デモを軍隊を動員して封じ込めた事に世界中から非難の声が上がっている。とりわけ欧米のマスコミはこの様な人権抑圧に厳しい論調を取るが、よく観察してみると中々簡単ではなさそうな問題も含まれている。

国連安保理のミャンマー非難決議は中国などの反対ですんなりいきそうには無いが、ここに来て北京五輪を控え中国も欧米の論調を無視できなくなっている。日本人記者長井さんの射殺が引きがねとなって、欧米の人権団体の動きがより激しくなってきているが、肝心の日本国内では今一つ同胞が殺されているにも関わらず反応が鈍い事が気になる。

人権問題は欧米諸国が自慢するほどの事ではないのだが、今回ばかりは日本人の記者が射殺される瞬間映像が世界中に流され大きな衝撃を世界中に与えているにも関わらず日本国内からの非難は関係者と政府筋の一部からしか聞こえてこない。

人権問題は欧米の主張するような単純な問題ではない。例えば今回のミャンマーは確かに軍事政権が民主化を武力で封じ込め、民主化のリーダーであるアウンサン スーチーさんを自宅軟禁状態にして何年も独裁政治を続けている事を欧米のメディアは取り上げ、国連でも改善を要求しているが一向に解決の糸口すら見えていないのが実情である。

しかしこの様な軍事政権の国や独裁者の支配する国は他にも幾つかある。例えば同じ様な軍事政権をとっている国はミャンマー以外にも北朝鮮、リビア、フィジー、タイ、パキスタン、スーダン等がある。アフリカや中南米諸国を加えれば何十カ国も同じような状況の国が存在する。

なぜ自分が欧米諸国の人権擁護が彼らが自負するほどのものではないかと思うのは、往々にして自分達の利害が絡んだ場合においては、利害が優先するというダブル スタンダードな面をいやというほど目にするからである。

例えば同じようなアジアの軍事政権のパキスタンでは、ムシャラフ大統領はクーデターで政権を乗っ取ったにもかかわらずミャンマーに対するのと同じような圧力を欧米から掛けられてはいない。これはムシャラフ氏がイスラム原理主義の封じ込めにアメリカに同調してアフガニスタンにおけるテロや首謀者のビンラディンを追及しているからに他ならない。

過去にもアメリカはイランを支配していたシャー国王がホメイニ氏の帰国とイスラム原理主義運動により国外に追放されると、それまで敵対していたイラクのサダム フセインに武器援助までした事実がある。サダム フセインがアメリカの言う事を聞いてイランと戦争をしている間、欧米は問題にもしなかった。フランスがイラク戦争においてアメリカに加担しなかった事も人権が主な理由ではなく、それまでの石油利権をアメリカに取られる事を嫌った事が主な理由である事から決してほめられたものではない。

タイにおいても軍事政権のクーデターにより現在の政府は出来ている。もし人権問題を言うのであれば天安門広場で自国民に銃を向け何万人もの市民の人権を蹂躙した中国も当然攻められなければならない。しかし安保理の常任理事国である中国には事件当初の抗議運動はあったものの現在では全く遠い歴史のような欧米諸国の態度ではないか。小生が彼らの人権問題を自分達の都合が優先するダブル スタンダード(二重基準)だと言うのはこの様な背景を垣間見るからである。

確かに人権問題はミャンマーの民主化勢力封じ込めや、パキスタン、タイの軍事政権、スーダンのダルフール紛争等どれをとっても一筋縄では解決できない問題であろう。しかし人権問題を声高に掲げるアメリカやヨーロッパのダブル スタンダードを正さぬまま敵対した勢力(国)にのみ軍事的圧力や戦争にまでエスカレートさせる姿勢には当然のことながらNo!と言わねばならないのではないか。

(*注:タイ、パキスタンは2007年末から民主化手続き開始.またこの記事は2007年10月に投稿されました)

2008/06/08

子供の行動は誰の責任か

学校やその他の場所で子供のいじめが深刻な時代を迎えている。中学生や高校生がいじめで自殺したりすると、先ず学校長がそれらのいじめを掌握していなかったと言う言葉を何度も聴いてきたように思う。もし本当に生徒が死に至るまで担任の先生が何も知らなかったとすれば、それだけで充分に担任としての職責を果たしていなかった事を証明したようなものであろう。

子供社会のいじめは今に始った事ではないが、先進国は何処の国でも同様の問題はあるようだ。そしてそれらのいじめに非常に厳しく対処するばかりでなく、学校教育の場で色々なイジメ防止策や発見の為のメカニズムを構築している。

では、先進国以外の国でイジメは無いのか?と聞かれれば答えに困るが、自分達(団塊世代)の例が参考になるかどうかは別として自分達が子供の頃発展途上国だった日本でもイジメそのものは確かに存在したと思う。しかし現在のような一人の子供をクラスの全員がイジメに関わり自殺にまで発展する様な陰湿な状態は思い当たらない。個人的な喧嘩や下級生に対するイジメ(個人的なもの)は当時も有った事は言うまでもないが、インターネットや携帯電話も無い時代はイジメ自体も現在ほど複雑な構造ではなかったように思う。


発展途上国での一般の国民はその日その日を生活する事が最重要課題であり、又独裁者が支配する様な国(フセイン統治下のイラクやキム ジョンイル体制の北朝鮮)では国や支配者がイジメの側にあり、一般国民は権力者の前には非力である為にお互いが協力する事のほうが自身の身を守る為にも必要となり、子供たちのいじめ等は問題にならないのだと思う。

それでは先進国はどうかと言えば、最近良く言われるセクハラ(セクシュアル ハラスメント)やパワハラ(パワーのある者の弱者虐め)の様に日本以外の国でも結構あるようだ。これらのハラスメントは最近では日本においても重大な問題と捉えられるようになって来たが、それでも欧米先進国に比べると現実の社会ではまだまだ加害者に甘いことも事実である。ではこの様な場合イギリスはどの様に対処するのであろうか?もし職場でのパワハラが問題になったとすると、被害を受けた側の人間は上司ではなく司法の判断を仰ぐ。

もちろん個人的に信頼できる上司が居る場合にはその人物に相談する事も充分に考えられるが、会社に組合があればそこに被害を受けた問題を持っていく事も普通にある。ユニオン(組合)が無い場合には先程のように直接司法に訴えることも珍しくない。それにより人権は保護される訳でその事が司法の場で解決を見た場合には、それ以後の職場で不利益をこうむることは無いというわけだ。

もし、それでもセクハラやパワハラが続けば警察の仕事になるからである。つまりそこまでしないと労働者の権利や人権は守れないことを先進国というストレス社会としての歴史の長い英国はこれまでの時間の中で学んできたわけである。

では日本社会はといえば、先進国(ストレス社会)としての歴史は欧米諸国に比べると時間的には少し短い。又文化的背景も例えばイギリスやフランスのように世界中に植民地を持っていなかったので、そこから受ける(学ぶ)文化摩擦も少なかったはずである。確かに第二次世界大戦以前は日本も韓国や中国の一部を植民地として統治した歴史はあるが、そのいずれの国もアジアの近隣諸国であり日本との繋がりは歴史的にも非常に長く、日本自体が歴史上それらの国から影響を受けてきた経緯がある。イギリスやフランス等ヨーロッパの国々がアフリカやオーストラリア、アジア、アメリカ大陸等に植民地を持っていた事と比べると文化的摩擦は比較的小さかったと思われる。

文化の違いは大きければ大きいほど摩擦も大きくなる。人種差別や性差別等の問題が深刻に存在した為に、それらの問題に対する改革(人権運動やウーマンリブ)が大きく取り上げられる様になった理由は、欧米社会においてそれらの問題が日本よりもはるかに深刻だった事がその背景にある。

自分が渡英してからこれまでの34年間の間にも、人々の人種差別や性差別に対する意識が随分変わってきた事を実感として感じ取ることが出来る。イギリスやフランスほど文化摩擦が大きくなかった事が逆に日本人社会がそれらの意識(人権や差別)に対する問題点を気薄にしてきたのかも知れない。その事が現在でも職場やいろいろな場所で弱者に対するハラスメントが無くならない一つの原因ではないかと思う。

その様な職場(大人社会)におけるハラスメントは確実に子供の社会にも影響を及ぼす事は言うまでもない。子供社会(学校)の虐めを大人のそれとは切り離して考えていては何時までたっても問題の本質的解決にはならないのではないか。言い換えれば子供の行動は大人社会のそれ(行動)と表裏一体と考えた方が自然だと思う。

子供たちの陰湿な虐めを無くそうとするのであれば先ず大人達がその手本を示すべきであろう。法律の整備を含め社会的弱者に対する差別や虐めを解決しようと真剣に取り組まなければ、子供達だけに虐めをやめさせようとしても問題の根本的解決は難しいのではないか?そんな疑問を拭い去ることが出来ない。

2008/05/30

人種差別は無くならないのか

今年のスペインはバルセロナのカタロニア サーキットで異変が起きた。昨年英国においてGP旋風を巻き起こした黒人初のGPドライバー L・ハミルトンが酷い侮辱的な言葉を投げつけられたと報じられ、大きな人種差別問題にまで騒ぎは広がった。

人種差別とF1 グランプリ、どこか不釣合いな話題ではあるが、今日ではGPレースであろうがフットボールの試合であろうがEU域内における人種差別的発言や行動は間違いなく裁判沙汰になる。

それほどまでに厳しく人種差別が取り上げられ、糾弾される時代になった事に気が付いていない者がこの様な騒ぎを起こす。教養レベルの問題かも知れないが、近年人種的対立が表立って取り上げられた事のない(過去には有ったが)日本では想像できない事かも知れない。

ヨーロッパやアメリカは国内に異人種が入り混じって国を形成している場合が普通である。人種的対立を無くす事が国の発展や平和にとって欠くべからざる重要課題である。この様な人種的対立が比較的少なかった日本と言う国家は本当に幸せな国であると言わねばならない。

その事がある意味においては日本人が人種差別に対する問題点を認識するのに、理解を難しくしていると言えないことも無い。

国家間の人種差別的な発言の多くはナショナリズムの典型である。ナショナリズムは愛国心ではなく国粋主義である。敵対する国や民族に対する侮辱や差別的発言はいきおい強くなるのが一般的である。ではなぜGPドライバーのL ハミルトンがスペインで侮辱されたのであろうか?昨年、彼はGP社会ではルーキーだったにも関わらず、それまで2年続けてワールド チャンピオンの座にあったスペイン人のF・アロンソと同じティーム(マクラーレン メルセデス)になり、結果的にポイントの上では同じながら優勝回数で上回りハミルトン2位、アロンソは3位と言う結果になった。

この事(実力が拮抗したドライバーが同ティームで競う)がイギリスとスペインのメディアでゴシップ的扱いを受け、それぞれのナショナリズムに火を付けたと言う訳である。両国ともタブロイド紙(ゴシップ中心の大衆紙)が双方を非難する記事を書き続けた結果が、この様な人種差別的発言や行動に繋がったものだと想像できる。

自分達のヒーローをGPドライバーに重ね、ティームの代表ロン デニスに対するスペインからの批判もかなり有った。GPを管轄するFIAは厳しくこの問題を糾弾し、もしこの様な人種差別的発言や行動が修まらなければスペインでのGPを取りやめるとまで表明した。 EU域内でも人種差別に対する処罰は厳しく、学校教育の場等でも人種や国家、異文化、異宗教に対する侮辱は無くすよう指導されている。

patriotism(愛国心)は大切ではあるが、nationalism(国粋主義)は人類共通の敵である。似たような意味合いを持つ言葉ではあるが、間違えないようにしないととんでもない結果を招く事を肝に銘じておくべきだろう。

2008/05/24

EV 電気自動車

温室効果ガスを如何に削減するかが車社会でも大きな課題となっている。EU域内で販売される車にも燃費基準は厳しくなる一方である。

そんな折日本では世界に先駆けて電気とガソリン エンジンを併用して車を走らせる、ハイブリッド車の開発をいち早く始め1997年にはトヨタやホンダが一般に売り出してしまった。日本車に対する世界での評価は信頼性と経済性は折り紙つき、この二点で日本車と張り合おうと言うメーカーは世界広といえども聞いた事がない。運転する楽しさをも含めた車に対する評価では個人差があるので、その車が持つ特徴により一言では難しいことも事実である。

そんな中三菱自動車からEV(電気自動車)が発表された。何でも2009年には売り出したいとの事でメーカーもかなり自信を持っているようだ。

考えてみればEVの歴史はガソリン車と同じくらい古いが、これまで実際には普及してこなかった。自分が渡英した1974年当時から英国では牛乳配達にEVが使われていた。当時は日本でもお目にかかった事は無かったので牛乳配達用のEVには正直言って驚いた。しかし航続距離の短さ等から当時の技術的限界としても使用範囲の限られた牛乳配達車御用達が限界だったのであろう。その点、内燃機関のエンジンはコストも安く(最近まで)性能やインフラ等の整備もいち早く世界中で整えられた事も、その発展に大きく寄与した事は言うまでもない。

しかしここに来て原油価格の高騰と環境破壊に加担する石化燃料に対する認識が大きく変わってきた。温室効果ガスの影響は地球の温暖化と言う人類共通の問題となった。楽しければ、安ければ良いと言う時代は『21世紀のモータリゼーション』と言うキーワードの上では通用しない時期に入りつつある。なぜならば温室効果ガスの及ぼす影響は宇宙船から見た地球そのものだからである。地球のどこかで排出された温室効果ガスはその国ばかりでなく、地球全体を取り巻くアトモスフェア(大気圏)内に留まり確実に地球と言う惑星に住むすべてのクリーチャ(生物)に影響を与えることになる。

そうなるとEVはある意味究極的な環境ヴィークル(エコ車)と言うことになる。料金の安い深夜電力を使えば現在のガソリン代より10分の1以下になるとの試算である。将来的にソーラ パワーも同時に(ハイブリッド)として取り入れられればさらに環境コストは低くなる事が考えられる。その為には優れた性能の蓄電池開発や家庭用電源のみならず、ガソリン スタンドの変わりに電源スタンドのインフラ整備やソーラ パワーやブレーキ回生パワーを併用したハイブリッド技術も必要となる。これは自分の想像を述べているので実際にこの様な事が技術的に可能かどうかも分からないが。近頃では隣国の韓国は言うに及ばず中国でもハイブリッド車を開発しているそうである、ハイブリッド先進国日本としては是非とも先に述べた『EVとソーラ パワーのハイブリッドを』と夢のような想像を膨らませている。

2008/05/15

技の求道者

武道に限った事ではない。およそ技術の必要なものはスポーツであろうと芸術であろうと上達を望む者、技の求道者にならなければ上達はおぼつかない。野球でもテニスでも、そして絵画でも楽器演奏でも同じであると思う。

少林寺拳法に入門時、入門者が読む入門式願文には『大練せば大成し、小錬せば小成す』と言う文言が出てくる。直訳すれば人より多く練習すれば人より上達する。人より練習量が少なければ上達もそれに見合ったものになる!と言う事だと解釈している。つまり拳法の技は『上達するためには人一倍練習せよ』と新入門の拳士に教えている事になる。

そう言えば自分が学生だった頃、驚くほど才能に恵まれた拳士が居た。その拳士にとっては余り努力しなくても少林寺拳法の技がそこそこに出来てしまうのだ。自分はと言えば何とかその様になりたいと思い、人の何倍も努力しないと中々追いつけなかった記憶がある。

それでも何とかしたい(勝ちたい!)と思い、早朝に毎日ランニングを始めた。武道で俗に言う『己に克』などと言う立派なものではなく、その才能にあふれた先輩拳士に追いつき、『いつか乱捕りで勝ちたい!』と言う単純なものだった。

毎朝6時に起き1時間くらい走っていた。雨の日以外は毎日走って居た事になる。不思議なもので1年間くらい続けていると、何やら不思議な自信の様なものが出てくるのが感じられた。それが本当に強くなっていたかどうかは別として、自分もやれば出来る(続けられた)という自信と、拳立の数が1年前とは比較にならない(10倍以上に)増えた事などで精神的に高揚していたのではないかと分析している。

この様に人間の自信等と言うもの、特に単細胞の自分の場合は「体力的充実度」に直結していたとも思える。

ある時、昔から柔法の技で関心を持っていた森道基先生に指導を受けるチャンスがあった。それからしばらくして又森先生から同じ技でアドバイスを受けたが、前に言われた説明と異なって居る事に気が付いたので聞いてみた。

『先生は前はその様に説明されませんでしたよ!』

随分失礼な質問だが、柔法の技に精通していた森先生の答えは至って簡単だった。

『僕も上達しているんだよ』  『今の説明が前の時より進化した結果だ!』と言うものだった。

なるほど森先生ほどの達人でも日々努力してより技を進化させている。凡人の我々がただ言われた事を何も考えずに繰り返していても、『より以上の上達は簡単には出来ない』と言う結論に至った。

阪神大震災の年、夏に森先生とサイプロス(キプロス島、共和国)で合宿をし、10名ほどの英国連盟拳士が参加したが、全員非常に感銘を受けた事がある。1週間の合宿だったが、参加拳士が熱心に指導を受けた事は当然な事としても、森先生ご本人の口から『今日の練習は終り』と一度として言われなかった。小生や他の拳士が先生のコンディションを気使い『そろそろ昼食の時間ですから』と午後4時頃に切り出す毎日だった。

熱のこもった指導と練習好きは、森先生ほどの大家でも練習の都度研究されている(指導方法等も)のだと知らされた。まさに『技の求道者』と呼ぶにふさわしい大先生であった。

2008/05/07

コンジェスチョン チャージ

ロンドンの車環境は酷く、東京やパリなどと言った大都市と同じ様な問題点を抱えている。先ず渋滞は日常茶飯事いつ何処ででも発生する。

これにより中心地のシティやウエストエンドでは空気も非常に汚れている。日本と異なり夏の平均気温が30℃を超える日が少ない事もあり、日本が1970年代初頭に経験した光化学スモッグの発生も遅れた!と言うより、ほとんど発生しないため対策事態が遅れることになった。環境対策といえば無鉛ガソリン(unleaded petrol)の販売も遅れ、一般的に広まるには90年代中頃まで待たねばならなかった。

そんな環境ではあったが自分が来た当初のロンドンでは車の数も今と比べれば圧倒的に少なく、渋滞などもほとんど経験しなかったので環境破壊に対する認識は、日本に比べれば低かった事は紛れも無い事実である。しかしながらいくら夏の気温が日本に比べて低くとも車の数が増え、慢性的に市内のどこかで渋滞が頻発するようになると空気の汚れ具合には気づかされるようになってきた。

そんな事情があり道路整備が渋滞解消の重点目標であったが、5年ほど前のロンドン市長選挙で労働党(中でも左派)の急先鋒だった人物リビングストンが市長に選ばれるや、道路の整備や拡張を凍結してしまった。変わりに市長が持ち出したのがCongestion Charge(渋滞税)と言うやつだ。ロンドン中心部に乗り入れる車はすべてとられることになった。自分も二度これに引っ掛かった事がある。まさか通過した部分がこの区域に含まれて居るとは思わず何気なく通り過ぎてしまった。数日後に請求書(ペナルティ)が送られてきてアッと気付いたがもう遅い。仕方なくペナルティ(罰金)を支払ったのだ。

今年からこの範囲が広くなった。ロンドン市は渋滞が減った!と主張し範囲をより広く制定してしまった。これが成功したかどうかは別としても同じような名目で税金を取り始めた都市はデンマークやその他の国にも出始めている。何処の国や町も税源は確保したいので、この新種の税金には各国の主要都市からも見学が多いと聞いた。始めは1日£5(約1,100円)だったチャージが今では£8(約1,700円)もするようになり気が付けばすぐに£10(2,200円)と言う道をたどる事など用意に想像できる。財源など一度出来上がってしまえば何処の政治家も決して手放さない事であろう。丁度日本の道路特定財源の様に。

ましてや近年は環境問題が益々強くなってきている。施政者にとって渋滞税は実に都合の良い(言い訳のしやすい)租税である。東京あたりももしかして石原都知事も狙っているのかな?政治家としての信条はリビングストン氏は石原氏とは対極にあると思うのだが。それでも2016年東京オリンピック招致を目指す東京都にとっては新しい税収確保は大いに魅力的であろう。

2008/04/27

識字率5%の意味するもの

日本の識字率は世界でも最高と言われる。事実かどうかは別としても確かにヨーロッパの先進国に比べても日本の方に分があるように感じている。英国における文盲率は30%と聞いた事がある。なぜならば英国に流入する外国人は日本に比べてはるかに多いからだ。

最近では日本も一頃より文盲率は上がって来ていると思われる。なぜならば経済大国であることが世界中に知れ渡る事により海外から日本を目指す外国人が増えているからである。識字率とはこのような在留外国人も含めて数えるためどうしても外国人比率の多い国は文盲率も高くなるという訳である。

日本は昔から読み、書き、算盤といって一部の社会層の人ばかりでなく一般教養としてこれらの学習を重んじてきた。その結果、世界でもまれに見る識字率の高さと、数学とまで行かなくとも計算能力の高さを有した国民であった。その事が江戸期から明治に時代が変わるやヨーロッパ先進国の技術やあらゆる文化の導入を短時間でなし得た原動力であったことは言うまでもない。

しかし今日取り上げたのは日本人の識字率である。ある人に言わせると日本人の識字率は5%であるらしい。これを直接読んで憤慨される人達は多いと思うが、ここで言う識字率5%と言うのは文盲率95%という訳ではない。5%くらいの人が新聞やニュース等から本質を見抜く力(眼力)を持っていると言いたいのだと思う。確かに昨今の日本国内の報道を見ると表面しか追っかけていないものをよく目にする。特に週刊誌やゴシップ中心のワイドショーに踊る文字を見ていると、前にも書いた『眼光紙背に徹す』は今の日本社会では不可能かな?と考えてしまう。

つまりここで言う識字率5%とはそれらマスコミの軽薄な論調に惑わされず、真実を行間から読み取れる人の事を言っているわけだ。

しかしながらこのようなマスメディアが発達した日本においては、表現の自由と言う事もあってTVニュースに流される映像や付随するコメント、そして新聞や週刊誌の果たす洗脳効果は想像するだけで気味が悪くなる。当然中には意図の感じられる見出しや映像などが一般の視聴者や読者を一方的な方向へ向けさせる役割を果たすことも度々目にする事がある。

これらマスコミの果たす役割は想像以上に大きく司法が裁く前に世論が形成されてしまい、国民の目はマスコミの描いたストーリーにいつの間にか流されてしまう。司法の判決以前に犯人を特定してしまう事も出かねない情勢であると言っても過言ではないであろう。オウムの松本サリン事件はまだ記憶に新しいが被害者にさえもマスコミが煽った論調で、犯人にされそうになった被害者が訴えている姿は事の重大さを認識する上で大きな教訓とはならなかった。

それにつけても、マスコミによる昨今の現象は異状を通り越して陳腐でさえある。ところかまわず電車や地下鉄の車両内はもとより週刊誌やゴシップ取材にしのぎを削るTVのバラエティー番組など、国民の知る権利とは名ばかりの興味本位の煽り方で、これでは本質などほとんど見抜けないのが良くわかる。視聴率を上げる為に番組制作をしなければならない民法ならともかく、国民から受信料をとって番組制作をしている天下のNHKでさえも、随分政府のご機嫌取りをしているような番組を時々見かける。これでは同じ公共放送と言ってもイギリスのBBC放送等とは政権との関わりではスタンスにおいて随分と差がある。

民族的なテーストの差も当然文面や映像に反映される事であろう。直接的な惨たらしい戦争地から送られる映像を流せば一部の日本の視聴者からはクレームが付くのかもしれない。しかしながら戦争の本質的な残虐さが伝えられてこそマスメディアが果たす真の価値が有るのではないか?単に綺麗な映像ばかりを視聴者に流し続ける事がメディアに関わる者の本来求められる姿勢ではないように思う。

2008/04/20

本当の豊かな社会とは

現在日本のおかれている豊かさは国連開発計画(UNDP)による06年度の報告では世界で7番目というランキングらしい。
その報告書によれば、日本は米国、スイス、オランダより順位は上でフランス16位、イタリア17位、英国18位、ドイツ21位よりはるかに豊かな国と位置付けられている事になる。

しかしこの報告書は今一つシックリこない。現実の経済状態を見ても確かに『失われた10年』と呼ばれた一時期の経済状態からは抜け出したのかも知れないが、自分が感じる豊かさの実態がその様な事を言われても『うんそうか』とはうなずけないのだ。

ではなぜシックリ来ないのかといえば、長年見てきたヨーロッパ諸国の人々の生活ぶりである。カルチャーが違うので一概に比較は出来ないのかもしれないが、例えば昨年の少林寺拳法創始60周年記念大会に英国連盟からは26名の拳士が参加した。

そしてそのほとんどの拳士は2週間くらいの日本滞在時間を取り、少林寺拳法のスケジュール以外にも観光等を楽しむ計画をタップリ取っているのである。

ヨーロッパに住んで思うことは彼らのライフスタイルが実に自由気ままに、何処へでも出掛けて行ける時間的余裕を持っている事である。確かに日本の平均年収などと比べると額面では遥かに分が悪いと思う。しかしながら一方で少ない収入イコール惨めな人生では無いと考えるようになった。日本という国のGDPは確かに世界でも屈指の高さである事は間違いない。しかしその豊かさはもしかすると国民生活の犠牲においてのみ成り立った数値ではないかと考えてしまう。

年収の額面も確かに豊かさを図る一つの指針にはなるであろう。しかしながらである、例えば年収が1000万を超える人でもその収入をどの様に使うかも豊かさを見る上では指針になるのではないだろうか?何千万円もの高収入がある人でもそのお金を使えない(使う時間が取れない)とか、その代わりに豪邸を建てたり高級車を買ったり、資産を残したりだけでは本当に豊かな生活をしていると言い切れるであろうか?

ステータスのシンボルとしての豪邸や高級車では豊かな生活とは呼べないのではないか。その日の食べるものにも困るようではとても豊かな生活とは言えないが、豪邸や高級車は無くとも(持てなくても)好きなときに好きなところへ出掛け、自由に楽しむ為の時間を持つ人間のほうが豊かではないかと考えるようになった。

これも英国に住んで長年イギリス人やフランス人、イタリア人等のヨーロッパ人達の生き方を見て来たからかも知れない。彼らのライフスタイルは至ってシンプルな人が多い。勿論物に執着する人も居る事は否定しない(ある意味では日本人より多いかもしれないが)が、自分の生き方をある程度もったヨーロピアンは物よりも時間の使い方を大切にしているのではないかと思う。

なぜそう感じるかと言えば、先にも書いたが少林寺拳法という一つの楽しみの為に日本へ出掛ける拳士を何人も知っている。

彼らは勿論拳法の練習や、そこで出会う仲間達との交流も楽しみにしている。又観光もその楽しみの重要な要素ではあるとは思うが、観光だけが目的なら毎年異なった文化の国へ行った方が楽しいはずである。そこには少林寺拳法や友人、そこに暮らす人達の文化に対する共鳴等、拳士である彼ら彼女らが好きなものに時間とコストを惜しみなく掛けられる時間的、精神的な余裕のようなものを感じるのである。

そんな事を想うとき本当の豊かさとは、自分の好きな生き方が出来る人達が本当に豊かな人達ではないかと思うようになった。

経済的な指標も一つの目安かもしれない、確かにアフリカやアジアの途上国に比べれば日本は充分に豊かな国である事には疑問の余地は無い。しかし人はこの世に生を受けて死するまでの時間には限りもある事を考えると、生きている時間の中でどれくらい自分の満足できる時間を過ごしたか?が最終的な豊かさの基準ではないかとも思ったりしている。

2008/04/09

調査捕鯨は日本人が考える以上に複雑だ

このところオーストラリア政府は政権が変わってから日本の調査捕鯨に厳しい態度を示している。日本政府のこの問題に対する反応は余りにも楽観的といわねばならない。先ず何が楽観的かと言えば、来日した外務大臣との会談では『この問題(調査捕鯨)が両国の他分野に対する影響は極力排除しなければならない事で合意した』?この様な意味不明の言い回しは外務官僚お得意の落としどころかも知れない。

その外務大臣閣下が日本に居るうちに、本国では環境大臣が『調査捕鯨は違法だ!』と決め付けて、『国際裁判所に提訴する』とのたまわって居るではないか。何のことはない日本の外交力の無さ(脆弱さ)を見せ付けられたようで、がっかりしたのは今回が初めてではない。

高村外務大臣閣下は我が少林寺拳法連盟の議員連盟会長であらせられるので文句を言うつもりは無い。しかしながら外務官僚が当然掌握していなければならないオーストラリア政府労働党の新キャビネットの閣僚発言が、どの様な外交問題を引き起こす可能性があるかと言う時に、玉虫色の落としどころと言う手法を相変わらず使っている事である。

南氷洋上でおきているグリンピースやシーシェパードの行動を見れば、その様な悠長な事を言ってお茶を濁していられない時に来ている事は誰が見ても分かる。アメリカのCIAリストによれば、シーシェパードは『環境テロリスト』のカテゴリーに含まれているし、グリンピースなる団体は国際環境保護団体を名乗ってはいるが、その中に居る人達は本当の意味で環境保護を訴えている人ばかりではない。政治活動の一環として環境は今や票に繋がる重要なマニフェストである。 

環境保護者の多くは善意によるところは多いが、残念ながらその純粋さが逆にカルト主義者に完全に洗脳されている事に、気が付いていない人達がほとんどである。この様な場合オウム事件を検証してみれば分かるように、傍がいくら正論を言っても麻原彰晃に洗脳された信者には全く通じないのと同じである。では何が洗脳されているかといえば『鯨は賢い!』『鯨は可愛い!』『鯨は絶滅の危機にある!』と言うことの3点を無条件で信じている。信じることは自由だがそれらの3条件を信じる!信じない!の自由は個人にあることを認めようとしない事が問題を大きくしている。 

問題はグリンピースのメンバーも、それ以外の人達もその事態を認識していない事である。そこから生じる考え方の違いは理論でどのように説明されようが、麻原に帰依したオウムのメンバーに正論をぶつけるのと同じ結果であることを理解していない事と同じだ。一般的に英国やアメリカでは捕鯨に否定的な人でも、グリンピースやシーシェパードと皆同じ意見と言う訳ではない。論理的に話せば日本の調査捕鯨に理解を示す人も居る。しかし捕鯨カルトに洗脳された人達にはこの論理は通用しない事を理解しないと永久的に無駄な努力をする事になる。

国際裁判所にオーストラリア政府が提訴するというのなら日本政府も受けてたつのも一つの選択だ。その場において日本の主張をぶつける事もアピールにはなる。欧米のメディアはその多くが半捕鯨の立場が強い事も知っておかねばならないが、それでも科学的そして論理的裏づけのある裁判でのディベートは捕鯨に対する認識を改めさせる可能性はある。グリンピースやシーシェパードのスポンサーと成り下がったオーストラリア新政権に媚を売ってあいまいにするよりも余程意義があるように思う。

2008/04/04

F1GPは時代のニーズか逆行か?

昨今グランプリ サーカス(F1 GP)では話題も色々と賑やかである。シンガポールがグランプリの夜間レースを招致するとか、メルボルン市が夜間グランプリ拒否で2010年以後のオーストラリアGPが無くなるとかが紙面をにぎわしている。この環境問題が取り立たされて居る時にF1のレースはある意味において非常に時代錯誤の部分もあるが、そんな極端とも言える条件下で生み出される新たなテクノロジーは将来の車社会を救う事が出来るのかもしれない。

燃費や使われる資材、開発エンジニアーやドライバーに支払われるコストなど、どれ一つを取っても尋常なレベルではない。そして今度は昼間のレースでは飽き足らず、電気代も桁外れのコストが必要になる夜間レースときたもんだ。いったい彼ら興行者のメンタリティーは興味さえ引ければ何をしても良いと考えて居るのであろうか?GPレースが好きな自分でも夜間レースが新技術開発に寄与するとは考えられないが。

又同時に市街地で行われるレースにも今一つ納得がいかない。確かに一般道を使った方が実際の市販車により近い技術が開発されるのかも知れないが、これも夜間レースと同じ理由で技術開発よりも観客の興味が対象であることは明らかだ。100キロ以上のスピードでぶつかってもF1カーに施された諸々のセーフティ デバイスがドライバーを守ってくれるのは確かに素晴らしい技術ではある。しかしながら今日のF1カーに使われているテクノロジーが将来一般の市販車に使われる事があるのだろうか?と素朴な疑問がわいてくる。

カーボン コンポジットで作られたシャシーだけでも数十億円も掛かるコストは、市販車には縁の無い素材と技術(衝撃吸収のクラッシャブル構造)や、これまた桁違いのカーボン素材で作られたブレーキ(F1専用)等。ちょっと考えてみればすぐ分かる事だが一般車両で車両重量が600キロの車で、エンジンパワーが1000馬力を超える様な車等ありえないことである。日産マーチですら車体重量は800キロも有り、エンジンパワーは58馬力〜79馬力と言う事を考えてみれば、如何に浮世離れした現実味の無いコストを掛けているかが分かるはずである。

ホンダの創始者本田宗一郎氏は『F1は走る実験室だ』と言う有名な言葉を残した。確かにこれまでのガソリン エンジン車の発展においては市販車も含めてかなりのテクノロジーをF1から得ている事は認めよう。しかしながら今日の環境問題が問われる時代に過去と同じ様に内燃機関を中心とした車が生き残っていけるのであろうか?そこの定義も無く膨大な資源の消費と開発コストを掛け続ける事に少なからぬ疑問を押さえる事が出来ない。願わくば好きなGPサーカスが次世代の車社会に対する提言と方向性を示してくれる事を期待したい。

2008/03/24

少林寺拳法はどの様に海外に発展させるべきか

海外において少林寺拳法の普及度は正直なところまだまだ初期段階ではないか。日本文化の一つである武道などは比較的早い時期から海外に紹介されている。柔道に至っては英国に伝えられたのは第二次世界大戦以前の話だ。近年では空手や合気道といった武道も英国中のいたるところで道場を見かける。この様に海外における日本文化の発展にはその国と日本がどれくらい結び付きが強いのか!という事とも無縁ではない。

ほとんどの場合は経済的な結び付きが最初であろう。日本経済の発展と共にその優れた工業製品が世界中で売られる事と相まって人の交流も当然出来てくる。そんな中から色々な文化的交流事業も出てくるのだと思う。

自分はヨーロッパ以外にも少林寺拳法指導のため途上国も訪れた事があるが、その様な国の場合にはどうしても文化的交流は経済同様、先進国に比べて日本との関係も薄くなるのは確かである。日本からするとアフリカ諸国はやはり地理上の距離以上に遠い存在である。 

しかしながらその様な国の国民が少林寺拳法に興味が無いのか?と言えばそんなことは無い。アフリカの国からは今でも指導者を送って欲しいという要請がWSKO本部ばかりでなく自分のもとにも何度も寄せられる。指導者としては甚だ心苦しい事ではあるが多くの場合これらの要請にはこたえられない。先ず初めに問題になる事はこれら途上国に行こうとする指導者が居ない事である。

主な理由は色々有るが経済的な自立が難しい事に加え、環境、衛生、政治といった少林寺拳法指導以前のこれらの問題をどう乗り越えられるかという事である。これらの問題は個人のレベルでは限界がある為なかなか根本的な問題解決とはならないのが現実である。

何もアフリカやアジアの途上国ばかりでなくヨーロッパの国からもこの様な要請は多い。これまで旧共産圏であった国々からの問い合わせや、それらの国がEUに加盟するようになりより現実的な要請が来るようになった。

ここでも問題は一筋縄では解決しない。先ず指導者の数がヨーロッパにおいても決定的に少ない。そしてそれら旧共産圏の国々は英国といえども結びつきは日本や他のヨーロッパ諸国とは比べ物にならないくらい小さいからである。

そんな中、現在小生のメイフェアー支部に定期的に練習に来るチェコ人の拳士が居る。初めメールを貰った時は又いつものように『指導に来てくれ』という要請かと思い事情を説明しWSKO本部を紹介した。本部事務局からは『現在指導員を送る事が出来ないので近隣の国の支部に登録して練習しなさい』という説明がなされた。しかしその後再度小生に連絡が入り、『その様な事情でロンドンに通わせて欲しい』と言う。

通わせて欲しいといわれても『チェコとロンドンは遠いので隣国のドイツかフィンランドの方がより近いのではないか』と説明したが『どうしてもロンドンに通いたい』と言うではないか。まあそうは言っても何処まで続けられるかと半信半疑ではあったがともかく入門を許可した。その後3ヶ月に一度の割合で3日間続けて通うようになり、時には期間が半年位開く場合も有るがおおむねこのペースで1年半以上続いている。 

現在の恵まれた日本の環境からすれば『なぜそこまでして少林寺拳法を?』と疑問を持たれるかも知れない。このチェコの拳士に限って言えば本人は警察官で別に生活に困っているわけではない。随分古い英文の『少林寺拳法その思想と技法』をコピーしたものを大切に持っている。彼の言葉を借りれば『素晴らしい教えと技術を是非チェコで広めたい』という事らしい。そんな熱い思いに打たれて練習を許可したわけであるが、少しでも早く上達させてやりたいと思うと同時に、言葉の壁が高いこの拳士に如何に少林寺拳法の本質を伝えられるかと頭を悩ませている。

熱心なだけではなく、以前空手をやっていたらしく技術の習得も飲み込みが非常に早い。普通の拳士が何ヶ月も掛かる技を来る都度に上達しているのを見ると、飛行機で遠くから通ってくる熱意はこんなところにも差が出るものかなと感じさせられる。 本人がいくら才能が有っても少林寺拳法の指導者にそれ程簡単になれるわけではない。こんな時願わくば誰か情熱のある日本の指導者がこのような国に出向いて指導してくれないものかと思ってしまう。

世界はまだまだ広い。日本の若い有段者の人達には海外に目を向けて世界に飛び出して欲しい。そんな中で日本の素晴らしさも、そして又変えなければいけない事も見えてくると思うのだが。

2008/03/15

中国の態度、国際基準では普通です

中国産の毒ギョウザ事件は中国の公安当局の『中国国内での混入の可能性は極めて低い』と言う一言で片付けられそうである。この様な態度に日本国内は100%の人達(想像だが)が大いに怒っていることだろう。

以前に投稿頂いた中にも中々進展しない毒ギョウザ事件に言及されていたが、日本人にしてみればどうして中国当局は正直に認めて早く謝罪しないのか? 『中国側が素直に認めて謝罪すれば、日本はこれ以上問題をこじらせないのに』と多くの日本人が思っていることではないかと勝手に想像している。 確かに被害者を出した日本が憤慨する気持ちは十分に分かる。しかし一方で中国にとってはこの問題の解決方法を間違えると、日本一国では済まない事が起こりうる重大事件でもある。

過去にもアメリカやカナダで中国製ペットフードで犬や猫が死んだ事件があった。又子供用のおもちゃにも基準を超える鉛が検出され、輸入が中止された事件も起きている。今回は死亡事故ではないが人の食べ物による毒物混入事件である。なおさら中国当局としては神経質にならざるを得ない。

そして中国は夏にオリンピックを控えている。その直前になった今、中国の食に対する安全が揺らぎ始めるとオリンピックそのものにも影響が出ると言う事だろう。そうなれば国家の威信を掛けて取り組んできたオリンピック事業が失敗になり、国としての面子も落とす事になりかねない。幸いと言うべきか、不幸にと言うべきかは分からないが、中国は共産党による一党独裁体制でこの様な事件が起きた場合でも政府は容易にマスコミをコントロールできる。これは日本やアメリカ等の西側先進国とは大きく事情が異なっている。

そんな中で日本国内は蜂の巣を突いた様な報道ぶりである。勿論一般の中国国民がこの様な日本の報道を見る事は極めて少ないが中国政府にとっては迷惑な話だろう。この様な情報は日本から世界中に発信されてしまう事を中国政府は良く知っているからだ。

そんな訳で中国公安当局が発表した結果は、日本とは180度異なった見解となった。この一例を上げ中国当局の行動を非難する事は簡単である。しかしその事により問題解決が近くなるとは思われない。ここは感情をひとまず抑え冷静に、又科学的に一つ一つ検証していくべきだと思う。

話が少しずれるが、中国以外の国でもこの様な例はいくらでもある。日本人の文化では自分が間違いを犯したら正直に認め先ず謝罪する事が大事な条件だろうと思う。しかしながら外国の文化は日本のそれと同じ国ばかりではない。むしろ異なった文化(習慣)の国の方が多いくらいであろう。現実に間違いを犯したことを認識していても色々と言い訳をしたり、立場が強い場合には決して認めない事もある。この様な態度は日本人には中々馴染めない事ではあるが、現実の世界ではむしろ日本の立場の方が少数派ではないかと思う。

話をギョウザ事件に戻して、では日本はうやむやにして中国の言い分を認めるべきか?それが出来ない事は明白である。問題は決定的な客観的、科学的事実を追求して証明する以外に解決の道は無い。中国が日本に原因を押し付けてきても冷静に対応し、決定的な証拠が挙がればそれを中国当局に示し説明を求めるべきであろう。又同時に世界にもその結果を公表する事も大事な後始末であろう。日本と中国に対する世界の国々の信用度は、現段階では日本の方が遥かに高い事も事実である。何処へ出しても文句が付けようのない客観的証拠が示されれば中国当局も認めざるを得ない。もし万が一に中国が認めなくともそれ以外の国々は日本の言い分を支持すると思うからだ。

ここで厄介な事は、中国が政府によるマスコミのコントロールが容易な事とは逆に、日本のメディアは諸刃の刀である。問題の解決を科学的に立証しようとする時に新聞、週刊誌は言うに及ばずTVニュースやワイドショウ番組まで国民意識を扇動する様な事が日常起きている。英国に長年住んでいても日本のワイドショウ等の様な番組は見た事がない。(知らないだけかも?)アメリカ等ではあることは知っているが、結論をマスメディアが世論を扇動して導き出す事も、逆の意味で中国と同じ様に危険である。感情が先にくると問題解決に繋がらないばかりか、ヒステリックなナショナリズムを引き起こす。これはギョウザ事件以上に日本と中国との関係を悪くさせる事になるはずである。もしこの様な目的で犯人が毒ギョウザを作ったとしたら日本も中国もまんまと犯人に乗せられた事になるのではないか。

2008/03/06

最近の車の乗り心地

車のサスペンションと言うものはそれ自体が非常に乗り心地に大きく作用する事は誰でも知っている。

しかしながら昨今のモータースポーツ、とりわけフォーミュラー カーでのサスペンション開発は乗り心地以外にも重要な要素があるようだ。アクティブ サスペンションやリアクティブ サスペンション等と聞くとF1のサスペンションを想像するが、スプリングの代わりに油圧を使ったこれらのサスペンションは90年代にはいくつかのティームが採用し良い成績を収めたが、93年にはレギュレーションが変更され使えなくなってしまった。

油圧によるサスペンションはフランスのシトロエンが有名である。シトロエンが初めて油圧(ハイドロ ニューマティク)と呼ばれる窒素ガスと油圧による革新的なサスペンションをDSというシリーズで出した事を記憶しているが、実際にDSにはパリでタクシーに乗った事が1回だけある。そのときの印象は車と言うより舟に乗ったときの様な、路面からの突起に対する反応が実に柔らかだった事を覚えている。その後2度程CXというシトロエンにも乗ったがDSの時程の感激は感じなかった。

CXの後継車XMや一回り小型のGS、最新のC5など益々進歩したシトロエンのハイドロシステムではあるが、いつの間にやら優れたスチール製のスプリングを使ったサスペンションとの違いが気薄になってきたように感じるのは自分だけだろうか? 

最近では良くできた電子制御のエアー サスペンションが、いつの間にやらハイドロのサスペンションより乗り心地やハンドリングを含めて評判も良いようである。しかしながら1950年代中ごろにハイドロリックの優れた乗り心地をより簡素なシステムで実現したシトロエンの実績は少しも価値が下がるものではない。

確かにサーキット走行には柔らか過ぎる乗り心地であろうが、その作られた目的とするところが快適さの追求であれば現在でも充分に通用する技術であると思う。

20代くらいまではとんがった(硬い)サスペンションの車を良しとした時代もあったが、50代も後半に達する頃には価値観が大きく変わってくる。何より体が正直で速く走る車も確かに魅力ではあるが、長時間運転しても疲労感の少ない車が欲しくなる。

それにしても昔からフランスの車は大衆車にも関わらずシートやサスペンションに随分と優れたデザインを取り入れたものが多かった。ルノー サンク(5)やシトロエン2CVなど大衆車の先端にあるモデルでもなぜこんなに乗り心地が良いのか?と不思議だった。別に凝ったサスでもなかったのに。

そこへゆくと同年代の日本車の大衆車ときたら乗り心地は随分とひどかった。近年こそこれら欧州の大衆車と変わらぬまでになってはきたが、エンジンがハイブリッドや燃料電池に置き換えられる時代に車の持つ快適な移動手段としてのツールとは?という問いかけも重要な意味があると思う。静かでエアコンも有りステレオやカーナビだけが快適な移動手段のツールでは少々寂しくは無いか。

2008/02/26

サービス残業でも先進国か?

G7各国は一応経済先進国と言うことになっている。最近ではそれにロシアも加わりG8と呼ばれるようになり、名称も国際社会における主要国と言う位置づけらしい。ロシアはそういう意味では未だ経済の先進国には仲間入りできないと言う事なのかもしれない。

しかしながら早くからアジアで唯一G7のメンバーになっていた日本は、国際的な位置付けはGNPやGDP等の数値からすれば先進国かも知れないが、毎年裁判等で争われる自殺者の残業時間を見ていると、とても先進国の常識では考えられないような実情が報告されている。

その最たるものがサービス残業である。つい最近マクドナルド チェーンが店長と言う役職を与え、いくら残業をしても管理職なので残業代を支払わないという事に対して裁判で敗訴している。この様な大手の場合は名前も出るが、中小の企業で働く人達のサービス残業は余り取り上げられた例が無い。自殺者が出るような事態になり、はっきりした物的証拠や記録などがある場合には裁判で争われることもあるが、現実には中々難しいのが実情であろう。

この様な実態はILO(国際労働機関)でも掌握しており、過去にも日本政府に是正を促した事はあったが、これまでのところ中々実態の変化は無い。英国やEU諸国ではこの様なサービス残業は先ず考えられない。個々の人権に対する意識だけではなく、権利意識が強い近代社会においてはサービス残業そのものが成り立たない。サービス残業のみならず働く者の権利は休暇の日数や休日出勤に対する保障制度など、かなり厳しく規定されている。そのお陰かどうかは不明だが日本の様にサービス残業で心身共に疲れ果てて自殺する人は聞いた事がない。

では、英国人は働かないのか?と聞かれると、そんなことは無い。中でも日本のオフィス労働者より労働時間が長い人達も居る。役職にある人や経営側にある人達は実働時間も日本と変わらないか長いほどである。しかしながら問題にならないのは休む時間はしっかり確保されているし、労働時間に見合った手当も充分に支給されるからだ。

21世紀に入って、しかも経済先進国と言われる国でサービス残業など恥ずかしい限りではないか。最近でこそ女性の管理職も増えてきたとは言え、まだまだ政治の分野と同じく女性管理職や経営者の数は驚くほど少ない。人類の半分が女性と言う現実を見るならば、この半分が数の上で反映されない社会と言うものは、どこかでいびつな現象を引き起こす。最近学校関係者の間で言われるモンスター ペアレンツ等もその様ないびつ現象の一つではないか。女性が一般社会で男性と同等の立場(チャンス)を与えられ、社会の中で学ぶ(経験する)事により一般的な常識と言うものが身に付けられれば、男も女もより成熟したバランス感覚が養われ、モンスター ペアレンツ等という人達もいくらかは減るのではないだろうか。

2008/02/22

演武と乱捕り

武道としての少林寺拳法を表現するのに一番手っ取り早くて説得力のある方法は演武かもしれない。一般に武道と何の接点も無い人には言葉で少林寺拳法を説明する事には限界があるが、演武はその少林寺拳法が持つ技術的特徴を短時間で表現出来る大きな手段なのではあるまいか。当然のことながら、見る人を魅了する迫力ある演武を身に着けるにはかなりの時間と努力が必要な事は言うまでも無い。

近年道場における練習で乱捕りのしめる時間は随分少なくなった。自分が入門した1960年代前半はまだまだ少林寺拳法の道場そのものが少ない時代であった。道場は柔道場と剣道場が半々の場所を大人ばかり(年少部が無かった)100名以上もの拳士が所狭しと練習しているような状態だった。

当時、高校生だった自分は土曜日の学校が終わると随分早くから道場にでかけた。同じ学年の高校生達が道場の始まる1時間以上も前に集まってくる。練習等とは名ばかりの軽いストレッチングの後は、いきなり乱捕りだ!剣道の胴のようなプロテクターを身にまとい12オンスのグローブを着けて先輩たちの見よう見まねで殴り合いである。脛や腕のあざ等は日常茶飯事、上達はともかく、しっかり汗をかいて『練習した!』という充実感だけは毎回あった。

少林寺拳法が開祖によって四国に産声を上げてからまだ20年にもならない時代である。毎月の入門者が10名以上の時代、自分が入門した月には20名以上の新人が同時に入門式を受けた記憶がある。その入門式の最後に披露されるのが演武だった。

2組くらいの演武が新入門者の前で行われるのだが、この頃の道場は入門者も先輩達の拳士も一体になって楽しんで居た。拳法を始めて何年かは先輩拳士の演武に圧倒され、自分もいつかはあんな演武が出来るようになりたいと興奮して見ていた事を思い出す。

大学を卒業して何年か経った70年代中頃に乱捕りにおける死亡事故が起きた。大学拳法部の新人戦だったと聞く。

それ以外にも乱捕りの練習中におきた死亡事故は数件ある。まことに残念と言わなければならない事故であったが、それ以後乱捕りに対する判断が大きく二分されたように思う。先ず開祖自らが大学拳法部の乱捕りの大会を見直すよう指導された。

当時の学生大会は『選手権大会』となっており、今から考えれば勝利至上主義であったことは否めない。そしてその後の経緯はご存知かと思われるが、学生大会における自由乱捕りの試合が無くなった事である。確かに死亡事故はなくさなければいけないが、乱捕り練習まで無くしてしまった道院や大学拳法部は、今少し冷静に少林寺拳法の武としての要諦を見直してみる必要があるのではないか?

開祖が示唆されたのは乱捕りの有り方であり、『勝利至上主義を見直してより良い乱捕り修練のあり方を考えろ!』と言う事では無かったのかと自分は解釈している。もし本当に『乱捕りなんぞしなくても良い』と考えている指導者が居たとしたら残念である。少林寺拳法の魅力は確かに演武にも有るが、その大きな目的でもある自己に対する自信をどの様に習得するか?ではないだろうか。

自己確立とは恐れ多いが、少なくとも武道を志す拳士が己の身を守る最低限(最小限)の心構えが無くて本当に胸を張って『自己確立の手段です』と言えるであろうか。もしそんなもの(乱捕り)しなくても『自信は持てる』と言うのであれば、その方法を示すのがリーダーであろう。

口先ばかりの説教では本当に人心はつかめない!と言う事を体験されたからこそ開祖は少林寺拳法を創始されたのではないのか。その中でも重要な修練体系の一つである乱捕り練習を否定する指導者があるとすれば、ではどの様な方法が乱捕りなどしなくても同様な効果が得られるのか、が示されなくては少林寺拳法を学ぶ拳士にとっては切実な課題である。

数年前に日本から来ていた大学の女子留学生拳士がいた。二段で高校生の時には単演で優勝経験もあるらしい。演武を見ると確かに上手い!腰の落とし方、天性の柔軟性のある蹴り等非凡な面も確かに持っていたが、あるとき『君は空手の二段くらいの女子と乱捕りしたら勝つ自信は有るか?』と質問したら、彼女の答えは『怖くて駄目です』と言うものだった。

確かに大人気ない質問かもしれないが、正直に『怖い』と言うことの出来る素直さは見方を変えれば対等に勝負できる可能性を秘めているとも言えるわけだ。もし空手家の実力(と言っても一人ひとり皆違うが)を見切る能力が無ければ別の答えが返ってきた可能性がある。そのとき感じた事は、この女子学生は鍛えればかなり強くなれる!と瞬時に分かった。残念ながら1年余りで帰国してしまったが日本で上手に育て上げられる指導者に出会って欲しいと切に願ったものである。

勿論どの様な練習でも強制してやらせるべきではない。当然それらの練習が苦手な人も居るであろう。又翌日の仕事に差し支えるような練習も一般の社会人には長続きしないであろう。要はバランスの問題ではないか、危険が伴う練習であれば如何にそのリスクを減らすか。又楽しく練習出来る方法を提示してやれるかが指導者としての責任で有るように思う。

本部の苦労も分かるが『運用法』等と名前を変えても乱捕りの方法論に過ぎない。今一つ盛り上がりに欠ける運用法は本当に説得力を持った練習方法なのだろうか?それにしては多くの拳士が共鳴して喜んで練習しているところまでは至って居ないのが現状である。そんな目先の呼び方を変える方法ではなく、本質的な乱捕り修練法に対する熱いディベートが必要な時期に来ていると思う。

2008/02/12

アメリカン ポリテックスが面白い

今年はアメリカの大統領選挙の年であるが、その予備選挙が全米ばかりでなく世界中から注目されている。そのメイン アクター(主役)の一人が間違いなくバラク オバマであることは言うまでもない。知名度においてヒラリー クリントンには当初大きな差が有った事は確かである。しかし多くの予想(自分もその一人だが)を覆して、民主党の大統領候補に一番近いとも言われはじめている。

英国に住んで34年間、日本と英国そしてヨーロッパ諸国やアメリカを同時に見てきたが、正直言ってまさか今年のアメリカ大統領選挙の有力候補にバラク オバマ氏が選ばれるとは想像も出来なかった。いくら国やEU法の中に人種に対する差別には罰則があるものの現実には諸々の人種的差別は実在する。それを渡英以来見てきたのでよけいに信じられない気持ちの方が強かったわけだ。

白人社会に限らず日本社会の中にも差別や偏見は大なり小なり存在する。人間の営む社会であれば異人種や異文化に対する拒絶反応は何割かの割合であるのが普通である。そんな事絶対に無い!などとナイーブな事を言う人は現実の社会を見ていないか、いびつな部分から目を背けているだけに過ぎない。


英国は80年代初頭に女性の宰相を輩出しているので、政治家としての能力さえあれば一国の総理大臣にまでなれる事をすでに証明した事になる。 アメリカにはこれまで女性の大統領は無かったのでヒラリー クリントン氏が選ばれれば初の女性大統領である。これまでのところ黒人初のバラク オバマ氏との非常に接戦が続いているが、ある識者によればすでにバラク オバマ氏に次期大統領は決まっている!と言い切る人も居る。

アメリカ国内の予備選は単にお祭り好きな国民の、大統領選挙を盛り上げる為の茶番であるとまで言い切るのである。もし本当にオバマ氏が大統領になったら面白いなと小生等は思うが、内心無理じゃないかなと今でも怪訝なのだがはたして11月には誰が次期大統領に選ばれて居るであろうか?

バラク オバマがもし本当にアメリカの次期大統領に選ばれるようであれば、アメリカと言う国は少なくとも日本より政治の上では遥かに先進的である。 ヒラリー クリントンにしても日本よりは先進的であろう。日本では未だに女性の宰相候補すら出ていない!ましてや外国人が困難な日本国籍を取得し総理大臣候補になる事など想像も出来ない。戦後の政局もそのほとんどの期間を自民党が独占してきた事を考えると日本での女性総理や外国出身の総理大臣は出る予想すらつかないのが実情ではないか。

アメリカのみならず英国も子供から大人まで政治の話を良くする。自分の記憶では子供の頃その様な、政治の話題に口を挟む事は親や周りの大人も喜ばなかった。そればかりか大学当時の学生運動にさえ随分と社会の風当たりは冷たく、当時の学生達がノンポリ(ノンポリテクス)と称して政治に関わりを持たない事が就職時に大きく影響した事を記憶している世代である。 今日の子供たちはどうか分からないが、日本の小学校や中学校で政治に対するディヴェートが行われる事など想像が付かないが?現実はどうであろう。

子供に政治に関わりを持たせない社会と、子供から政治に関心を持たせる社会?こんな違いからも民主主義の土壌は鍛えられるのかも知れない。人種差別が叫ばれた1960年代までのアメリカ、わずか240年にも満たない歴史しか持たない移民で構成されたアメリカが、その本領を発揮するかのように公民権運動から黒人大統領まで誕生させるとしたら、その国の先進性は未だ女性の宰相すら出した事のない日本とは歴史以上の開きが政治の上で出来てしまった事になるのではないか。

その様な事を考えていると、はたして日本は彼の国と対等に付き合っていけるのだろうか。あまつさえアメリカの属国であるとか、50何番目の州と言われているのに。

先進国のみならずアフリカにも女性大統領は存在している。西アフリカのリベリアで誕生したジョンソンサーリーフ大統領その人である。内戦で疲弊したリベリアを立て直すべく奮闘しているが、ヨーロッパやアメリカ等の経済先進国に媚を売ってきたこれまでの大統領と違って、はっきりものが言える大統領である。すぐに先進国に取り込まれてしまい、賄賂と特権意識ばかりで内戦を収められなかった「男の大統領」より、余程優れた大統領と言わねばならない。

この様に見ると国の政治に対する先進性は、その国民が「如何に柔軟に政治をとらえ、又国を変えていこうとしているのか」が選ばれる人達の多様性と言う形で表れてくるようにも考えられると思うが。とにかく11月が楽しみである。

2008/02/05

ナンバー プレート カバー

最近見た日本からのニュースでナンバー プレート カバーの是非をめぐって国土交通省が色付きのカバーを規制すると言うものを読んだ。 『エ!』というのが最初の印象で、そんな物付けているドライバーが居るのか?と言うのが偽らざる感想だった。考えてみれば以前にも自分の車に彼女を乗せるときにも土足厳禁でスリッパを履かせるドライバーが居ると聞いた時には、『まさか』というのを通り越して一体日本人にとって車とは何だろう?という疑問がわいてきた。

国交省にしたところでナンバー プレートの目的とするところを押さえていれば、カバー等と言う物を初めから許可するほうがおかしいのだが。車文化が今一つおかしな方向に行っているのが日本かもしれない。車に乗るのに泥まみれの靴なら理由も理解できるが普通のきれいな靴でも脱がせる事など日本以外の国では理解できない事であろう。

以前ナンバー プレートでオートバイなどは半分から先をウイングのように上に折り曲げた状態の物や、走行中にプレートその物が動いて見え辛くするものなどナンバー プレートとは一体何の目的で付けているんだろうと思ったりした。

又スピード違反の取締りカメラのフラッシュに連動して逆光を起こし、ナンバー プレートを読めなくする装置などよく考え付いたものだと感心したが、官憲は一体どうして手をこまねいているのだろうと不思議な気もする。


スピード違反の取締りで英国は一番多いのがカメラである。そのカメラも走行中のドライバーの顔を写すことは無い!

日本では正面から撮られると聞いたが、人権問題にうるさいヨーロッパでは後ろからナンバー プレートを撮る。自分は運転していなかったと言っても通用しない。現実に運転していた人が自分であると証言しない限り車の所有者に罰金の請求が来る。ここら辺りが人権問題にうるさいヨーロッパの配慮といえばそうかもしれない。日本のように正面から顔写真を撮られたのでは失業や場合によっては家庭崩壊もあり得るからであろう。罰金さえ払えばそれ以外の個人的事情までは踏み込まないのが彼等流の人権保護かも知れない。

車で走行中の携帯電話は英国でも罰金が科せられるが、走行中の車でテレビを見ていれば事故につながる事は携帯電話以上に危険な事は言うまでもない。自分の車にもTVは付いているが走り出せば自動的に画面は消える。しかしながら日本の車アクセサリー専門店では走行中にもTVも見る事が出来るように、切り替え可能な装置を堂々と宣伝している光景には唖然とした。違法な事を承知で宣伝してもなんとも無いのかね?

GPS(カーナビ)がいち早く普及したのも日本が最初だった。日本の車文化がいびつだなと感じる事は、車そのものの走行性能よりも豪華なカーステレオやエアコン、そしてGPS等の確かに有れば便利な装置ではあるが車本来の目的(速く安全に目的地に着く)という事よりも車が家の延長線のような錯覚をするのは自分だけだろうか。

リバース(車庫入れ)の自動装置や運転中居眠りしても車が知らせたり、走行車線を外れないように前車との車間距離を保ちつつ自動調整するクルーズ コントロール等など数え上げたらきりが無い。そんなにくつろいで移動したいのなら電車やバスに乗ったほうがよほど安全だと思うが。

日本の道路事情を考えればノロノロ運転の道が多く、その移動中を快適に過ごすことも重要かも知れない。その様な観点からステレオ、エアコン、GPS等が他の先進国より早く普及した事は理解できる。家でリラックスした環境に近い状態で車の中での運転をとらえているとすればこれも随分危険な状態ではないか。その様なところが運転中はある程度の緊張(集中)を要求される欧州車と違うのかもしれない。

しかしながら日本車の成功体験が及ぼした影響は大きく、遅ればせながらヨーロッパの自動車メーカーもエアコンを装備したりカーステレオのアップグレードやGPSの導入(未だ少ないが)等日本の自動車文化の影響がじわりじわりと迫ってきている。

運転中のある程度の緊張と書いたがヨーロッパを走る車の80%以上はマニュアル車であることは、車自体の持つ楽しみと目的を最小限維持しようとしているのではないか?と最近は考えるようになった。

2008/01/31

これまでに会ったグレイト ミュージシャン(その2)

本当に数多くのミュージシャンのautographを貰ったが印象に一番強く残っているのがアート ペッパーとビル エヴァンスの二人である。ビルは長年の自分にとってはアイドルだったが、日本で73年に始めて名古屋のコンサートホールで聞いて以来何度もチャンスはあったがほんの少しの事で聞き逃していた。

1980年8月にロンドンのロニースコット クラブにおいてビル エヴァンス トリオのギグがあった。満員のクラブにこれまでのLPを持って出かけた自分は初めのステージが終わり、控えのミュージシャン(なんとイギリス クラッシック ギター界の第一人者ジョン ウイリアムス!!くどいけど控えの奏者が)が弾き始めた時に楽屋を訪ねた。例によりクラブの席係りが声を掛けてくれたが中々顔を出さない。

しばらく楽屋裏からジョン ウイリアムスの演奏を聞いていたがそれでも何の変化も無かったので、ベースのマーク ジョンソンと話をしていた。『いつからビルとやってるの?』などと聞いていたが、そのうちにマークが楽屋の中に向って何か言っていると中からビル エヴァンスが顔を見せた。楽屋内に招かれたので持参した10枚以上もある重たいLPレコードを見せ、そしてポップスターに群がる少女ではないが(まあ同じようなものであろうけど)『あなたのautographが欲しい』と言うとOKと答え一枚一枚のレコードに(録音したとき)の思い出を語りながらサインしてくれた。

お礼を言って握手をすると『来月日本のコンサートで会いましょう』と言うので、必ず行くと約束して楽屋を後にした。その後の顛末は以前にも書いたとおりである。ニューヨークへ戻ったビルはファット チュズデーで演奏中に倒れ帰らぬ人となった。

これ以外にもロニースコット クラブの会員だった事もあり70年代80年代当時は頻繁に出かけた。そんな中にはオスカー ピーターソンのようにビルとは異なったピアノの巨匠もいる。そしてハービー ハンコックやキース ジャレットの様にマイルス スクールのピアニストやローランド ハナ、マッコイ タイナーと言ったピアニストも良かった。 タイナーはその後もジャズカフェ等でも3度程聞いた事がある。

他にも自分が好きなミュージシャンを中心にフレディ ハバード、同じくトランペット奏者のウィントン マルサーリス、アート ファーマー、毛色が異なったアルトロ サンドヴォールとロンドンに来る名だたるトランペット奏者は他にも色々聞きまくった。残念ながら長年最も好きだったマイルス デイヴィスはロニースコット クラブでのギグの期間中連日超満員で聞く事も無かった、1970年代に入ってからどんどん変ってしまったマイルスというミュージシャンに自分の中でそれ程強烈な聞きたいと言う願望が薄れた事も原因かもしれない。

ドラマーもジョン コルトレーン時代から好きなエルビン ジョーンズ、マイルス門下のトニー ウイリアムス、バディ リッチのビッグバンド、ジャック デジョネットなどなど。テナー サックスではデックスター ゴードン、バド シャンク、ソニー ロリンズは日本で1度とロンドンで2度聞いた。スタン ゲッツは良い時とそうでない時の両方、その差が大きかった事もゲッツと言うミュージシャンの繊細さが現れた事が要因なのかもしれない。

その他にも数えきれないくらいの数のミュージシャンに会った。彼らもまた人間である、調子の良いときや悪いときもある。そんな悪い時にたまたま当ってしまうとがっかりするが、それでも生のミュージシャンが発する魂のこもった音は時としてハッとするほど新鮮な驚きがある。こんな音が自分のスピーカーから出せないものかとケーブルを変えたりスピーカーの位置を動かしたりとまたまた悩みは尽きない。

2008/01/28

これまでに会ったグレイト ミュージシャン(その1)

これまでに何人もの偉大なミュージシャンに会った。自分の場合は主にジャズのミュージシャンが多いが、あえてここではミュージシャンと呼ぶ。人によってはアーティストと言う人も居るが確かに音楽を生業とする人達は芸術家かもしれないが、小生はミュージシャンの方がより親しみを持てるように感じる。

「アーティスト」 今一つピンと来ない呼び方だと思いませんか?

もし自分がミュージシャンだったらおこがましくて芸術家などととてもそんな風に呼んでもらいたくはない。時々これがアーティストか?と思うようなチャンチャラおかしいのをそう呼んでいるのを聞くと天の邪鬼の自分は余計にそんな輩と自分が愛するミュージシャンを同一的には呼びたくは無い。

かなり古い話だがまだ日本に住んでいた頃、フランク ロッソリーノと言うトロンボーン奏者に演奏会の直後、名古屋市内のジャズ喫茶で会った事がある。たしかカウント ベイシー楽団の一員として来日し名古屋でも演奏したのだが、彼が公会堂の舞台のあと自分が行き付けのジャズ喫茶に後援者と共に現れたのだ。

残念ながら当時は英語が全く喋れない時だった。隣の椅子に腰掛けているフランクに『演奏会は素晴らしかったねェ』と話し掛けたいが言葉が出ない。そのうちに何人か地元のミュージシャン達が店に集まって来た。小さな店だったがフランク ロッソリーノと言うトロンボーンの大御所と、名古屋在住のジャズ ミュージシャン達がお酒を酌み交わしながら始めたジャム セッションは非常に盛り上がった。

往々にしてジャズ ミュージシャンの場合、大きなコンサートホールよりもそのメイン イベントがはねた後のこの様な小さな酒場の方が盛り上がりやすい事を何度か見ている。当時の有名なジャズクラブはその多くがそれ程大きなステージやホールは無い。自分が見た80年代当初のヴィレッジ ヴァンガードは連日ジャズ ジャイアンツがプレーしていたがそれでも観客が100名も入れば一杯と言う感じだった。当時開店したばかりのおしゃれなジャズスポット ファット チュズデーにも行ってみたが店は大きくきれいだったがステージは結構狭かった。ある意味ジャズのミュージシャンは観客との距離感を大切にするのかも知れない。

マイクを通した音を大きなコンサートホールで聞かせるより自分の得意とするmusical instrument(楽器)の生の音を観客にぶつけているのだと思う。それによる観客とのコミュニケーションがジャズの持つ醍醐味だと言う事を一番良く知っているからこそ、ミュージシャンもジャズ好きなファンもコンサート会場での演奏会が終わるやいなや近くの小さくても名の知れた店に移動すると言う訳だ。そこでは好き者同士の第二幕(これが彼らにとっては本番かもしれないが)が始まり飛び入りがあったり、喝采や手拍子など大いに盛り上がる事を双方(ミュージシャンとファン)が知っている。お金を貰って演奏しているコンサート ホールよりも遥かに楽しそうな光景には、これが本心から音楽を楽しんでいるplayer演奏者とaudience観客が一体となった最高の環境なのであろう。

そんな中の一人がアート ペッパーと言うアルトの名手だ、彼にはロンドンのロニースコットクラブでの演奏会で会った。日本から持ってきた物を含め7枚くらいの彼のLPを持参した。最初のステージが終わり控えのバンド演奏が始った時に楽屋を訪ねた。この場合クラブの席係りにティプを渡しておいたので気軽に案内して紹介してくれた。まだロンドンに住み始めてそんなに長くない当時で英語も片言だったが『素晴らしい演奏だったヨ』と言うと彼の方から嬉しそうに握手してくれた。持参したLPにAutograph(サイン)を依頼すると一枚一枚に小生の名前とペッパーのサインをしてくれた。(その2に続く

2008/01/22

経済支援より教育支援

よく言われる世界情勢の一つに南北問題(経済格差)がある。この問題は何も昨日今日始った事ではない。

日本も政府や民間のNGOなどが色々と取り組んでいて成果も上がっている部分もあるが、色々と難問も抱えている事も事実であろう。

先日家内の親友から電話があり丁度、中米のグアテマラから帰国したばかりとの事であった。以前コーヒーの折に触れたがジャマイカにも2年JICA(国際協力機構)から派遣されヴォランテイアで活躍していた女性である。

今回はその実績が認められ短期間ではあるが専門家としての派遣だったようだ。ご本人は元々服飾デザイナーだが、ジャマイカやグアテマラでは生地の生産からデザインそして販売に至るまでの、仕事の仕方を指導する目的で派遣されたようである。

小生は1980年代中ごろからこれまでにアフリカを何度も訪れているが、これらの国々では先進国が如何に地元の人達に仕事を作り出してやれるかが大きな課題としてあった。ヨーロッパの植民地として長年その支配下にあったアフリカの国々では、自分達で仕事を作り出す必要は無かった。又宗主国側である先進国ヨーロッパも自分達の生産に必要なもの(資源)を労働力も含めて安価に調達し、本国で生産したものを一方的に売るだけでよかったために、これらの国では生産から販売までの工程がほとんど失われているのが現状である。

さらに悪い事にはその様な国のメンタリティー(思考)だ。先進国(経済大国)からの援助慣れが一般化しており、政府のみならず一般国民も豊かな国からお金や物資をもらうことが当然のようになっている国も見られた。

日本政府も過去においてアフリカのみならずアジアや世界中の途上国に経済援助やJICAを通じて人材を派遣しているが、なかなか成果を上げられていない。国を変えるというのは多くの時間と労力が掛かる。又円借款などの資金協力もヨーロッパの国々よりもより多額の拠出しているのだが、アフリカ諸国に点数を稼ぎたい(良い顔をしたい)G7の国々から、返済免除などと難題を吹っかけられるなど煮え湯を飲まされてきた事も事実である。

クリスチャン文化を背景に持つ欧米の国々よりこれらの経済援助や技術供与のプレゼンテイション(提示方法)が上手ではない事も確かにあるが、日本の貢献は他の先進国に比べて決して低いわけではないにも関わらず今一つ評価が芳しくない。

小生が過去に見た日本の援助の実態を紹介してみたい。
1986年に初めてアフリカの地を踏んだが前年にエチオピアやソマリアでは食料危機が起きて数多くの難民がでた。世界中のマスコミがこぞってニュースでそれらの映像を流した事がきっかけとなりエイド物資が国連を通して送られた。そのくだりは『人、人、人 すべては人の質にある』の項で触れたが、そのとき初めて知ったのが援助の難しさであった。

アメリカや英国からは民間NGOのリリーフワーカー(ボランティアで働く人達)が結構な規模で現地で活躍していたが、日本はといえば確かにアフリカという存在がヨーロッパの宗主国だった国に比べれば関係が薄い分だけ現状に対する掌握も低かった事は確かである。

そのときヨーロッパのNGOが推進した援助は飲み水の確保である。何千個もの手押しポンプを現地に送り、リリーフワーカーが先導してそれらの設置に当っていた。日本政府は確かにより高価な電動ポンプを設置し、単体の手押しポンプとは比べ物にならない程の飲み水は供給できたが、電気の通っていない(インフラ整備の行き届いていない)村には無用の長物でしかなかった。

又故障になった場合手押しポンプ程度なら現地の人達にも簡単に直せるが、より高度な部品や修理の為の工具が必要な電動ポンプは故障すれば現地人の手に負えないものであった。

日本政府が送ったトラクターや輸送用のトラックも同じで、新しいこれらの機材が使われずに野ざらし状態で放置されているのを見た時には、現地の実情を無視した(知らない)お役人(と無駄に高価な機材を売ろうとした商社)の決断がどれほど無駄になっているのか残念な気持ちになった事を記憶している。

そのとき感じた援助事業の難しさとは国としてやるべき仕事と、民間のNGOなどに任せた方が結果として良い(現地の人にもそして日本の貢献に対するイメージにも)という事を知った事である。

確かに道路や通信などのインフラ整備等大きな事業は国が援助しなければ出来ない事もある。しかし現地の人達のニーズにあった援助には民間のNGOに任せたほうがより効率的で低コストな事も事実であろう。

又長期的な観点から家内の友人がJICAから派遣されたような、現地の人々の暮らしに直接役に立つ教育や技術支援などはアフリカ、中東や中南米に過去のしがらみの無い(植民地政策をしてこなかった)日本にこそ、国際的評価を得る上でも重要な国としての支援のあり方が問われているように感じている。

2008/01/14

新しいCDデッキとオーディオの不思議(その2)

ハイエンド オーディオの機材はアンプにしろレコードデッキにしろ重量がある。そのソニー製SACDデッキは25キロもあった。

パワーアンプなどは50キロを越える物など珍しくない。一人でセッティングなどしているとそれらの機材の移動だけで腰を悪くしかねない。

SACDは確かに良い音ではあったが問題が無いわけではない!第一にソフトの数が少ない。日本ではある程度手に入るソフトがロンドンでは通販を除いてほとんど無理である。HMV等の大きな店でもSACDの売り場などは無い。これは日本も同じ様な状態であるが。それでも自分は日本に行った時にはせっせとSACDのソフトを買って来て聞いていた。

今度のデッキはマランツと言うメーカーだ。学生時代ヤマハビルで見たマッキントッシュやマランツと言う高級アンプに日本製とはどこか違ったデザインの高価な機器になんとも言えない想像をかきたてられたものだ。

これら外国製のアンプを何時か自分でも聞いて見たいと思っていたが、当時の小生にはとても手の届くような値段ではなかった。

何十年も過ぎて知った事はSACDの共同推進者はマランツらしいと言う事だ。マランツは今や日本法人でもある。このメーカーが作ったSACDデッキは英国でも評価は良い。ソニー製の以前のデッキとどの様な違いがあるか興味は尽きなかったが、いざ届いて箱を開けると期待にたがわぬソリッドなデッキが現れた。

最初にリモコンを手に取ったがずっしりと質量感がありデザインも良い、音を聞く前にこの様な感触は嬉しいものである。

今回のデッキは決してハイエンドではないがデザインとしては十分にそれに近い貫禄を持っている。はたして音は?

まず初めにソニーとの比較から普通のCDをかけてみた。澄んだ人工的な色付けのない良い音がした、次はSACDをかけてみた。

マイルスの聞きなれたKind of blueを最初に選んだ。ベースのピチカットの音も切れがいい。マイルスの抜けるようなトランペットとコルトレーンの力強いテナーのコラボレーションが実に見事に表現され息を呑む思いだった。

歴史の浅いSACDではプレーヤーの進歩も発展段階、その進歩は日進月歩10年前のソニーデッキの半額程度の価格帯の物が当時のハイエンド以上の音を出すのだから嬉しくないわけがない。

こうなるともういけない、ヴォーカルはどうかな?とダイアナ クラールのThe look of love声の肉質も良い。次は弓物を聞いてみようとヨーヨーマのKodalyをかけた。チェロなどそうそう聞く事はないが新しい機器が入るとついこの様に得手、不得手を調べるような事をしてしまう。ウーン今度のマランツは良いな!というのが夜明けまでついつい聞き続けた結論だった。

空が明るくなる時間に満足してベッドに潜り込んだが、早くも次の日に又何を聞いてやろうという事を考えているうちに寝てしまった。

考えてみればオーディオ ファイルの単純さはこの様に好きなものに向ったときには他の事が目に入らない。デッキの外観に目をやり中々良い選択だったと自己満足したり、興味の無い者からすれば実に単細胞極まり無い現象であろう。

アンプの時も同じようなものであった。それまでのアンプは日本製のDenonのハイエンド モデルだったのだが、ある時自分の家で真空管のアンプを聞く事になった。

それまでの印象では『たぶん懐古趣味の人が聞くアンプだろうなァ』くらいに考えていたが、自分のスピーカーから出てきた音を聞いて驚いた。それまでのソリッドステートのアンプの半分しか出力の無いアンプが分厚い底力のある音を出したときには耳を疑った。

それからどのアンプが良いか色々聞き比べてみたが結果的にイギリスのEARというアンプに決めた。たった35Wしか出力の出ないシングルエンドのアンプが腰が抜けるのではないかと思うほど重い。ウーハー(低域専用スピーカー)には同じEARの50Wをマルチドライブで使う事にした。

このEARというメーカーは小規模だが会社のオーナーは世界的に有名なアンプ デザイナー Paravicini氏、奥さんは日本人で古くからの小生の知り合いである。

そんな訳でアンプの真空管に掛かるカバーも特別にブリティシュ グリーンにしてもらった。初め懐古趣味的な音と決め付けていた真空管アンプと、最新技術を駆使して作られたスーパー オーディオCDデッキとのコラボレーションが織り成す音は正にオーディオの持つ不思議さを表しているように感じられてならない。

2008/01/10

新しいCDデッキとオーディオの不思議(その1)

先日新しいCDプレーヤーが届いた。これまで色々とCDプレーヤーを変えてきたが今度は初めてのメーカーだったので少し不安だったが、色々と写真を見たりこれまでの製品に対するリヴューを見ていると中々魅力的に思えた。

自分はSACD(スーパー オーディオCD)のソフトを結構持っているのでどうしてもそれらが再生できる機能を持ったデッキが必要になる。SACDは日本のソニーとオランダのフィリップスによって提案された新しいフォーマットのCDソフトで従来のCDデッキでは対応できない。

オーディオ ファイルとは厄介なものだ、新しい製品が出たりすると是非聞いてみたくなる。
CDがレコードに変わった当初自分はロンドンに住んでいた為LPしか聞いたことが無かった。1982年頃から発売されたCDの音を初めて聞いたのは80年代終り頃だったように思う。初めて手にしたCDソフト(人の物だったが)をどうしてかけるのかも分らなかったことを記憶している。初めは小さなラジカセのようなラジオもCDも聞ける機械だったが、なるほどLPレコードに比べれば便利なソフトだなと感心した。

当初聞いた情報ではCD はデジタル録音なのでレコードのような再生機材による音の違いは無い!というものだった。 そんなものかと思うくらいで、では高額なステレオ装置でなくても良い音で聞こえるのかな?と半ばどこかで信じられない気持ちだった。

やがて90年代に入りさすがにロンドンでもLPレコードの新しいソフトの数が目に見えて減ってきたので、自分でもCDプレーヤーを買ってそれまでの自分のステレオ装置で聞いてみた。 何だ?これは、変な音だな!と言うのが最初の印象だった。

初めて聞いたラジカセの時には感じられなかった不思議な音がした。レコードのほうが良い!とすぐさま思った。

初めに聞いた『CDは機材による音の差が無い!』と言う事を信じこんでいたので、これならLPレコードの方が随分音に関しては良いではないかと言う感じを持った。

後になって分った(知った)事であるが、当然CDでも機材による差は出てくる。初めのCDデッキは日本のメーカーの中級機だったが普通に音楽を聴くだけならそんなに不満は無かったが、集中して聞こうとするとどうも不自然さが出てくるのである。

シンバル等の楽器はそれ程問題という訳でもないが、ピアノはアクーステックなグランド ピアノがエレクトリック グランドに聞こえたりする(実際にはそれ程酷い物ではないが聞き方によっては)、又人の拍手などに表れる音はいかにも金属的で違和感があった。

そんな不満を抱いていたときCDウォークマンを聞いた。ヘッドフォンを耳に入れて聞くわけだから今のIpodと同じような物だが、その時メーカーの異なる2つの機材を聞き比べ『オヤ?ぜんぜん違う音じゃないか!』こんな小さいウォークマンタイプのCDプレーヤーがこんなに音が違うと言う事は、専用デッキにおいては特にハイエンドの機材では全く違った音が出るんじゃないか? とこれまでの疑問が氷解する感じだった。

当時90年代初めのロンドンではハイエンドと言えるオーディオは日本に比べれば無いに等しい状態だったので、日本に行った折には秋葉原や大阪の日本橋界隈のハイエンド オーディオが置いてある店に飛び込み聞いて回った記憶がある。

そして90年代も終り頃に今度はスーパー オーディオCDと言うこれまでのCDフォーマットとは異なるソフトが出ると言う情報が聞かれるようになった。それまで自分でLPとCDを自分の装置で聞き比べるとどうしてもLPの方が良い音がしていたのでスーパー オーディオCDには非常に興味を持っていた。

やがて98年ごろソニーからSACDのデッキが発売された。初めのモデルは当然ハイエンド機で50万円以上もした。少し後に同じ構造のハイエンドの姉妹モデルが発売になったので期待していたがロンドンでは全くその様な情報は聞かれなかった。

1年ほど後にやっとロンドンでも発売され始めたが姉妹機でも70万円近くのプライスタグが付いていた。 その後手に入れたソニーのデッキは確かに普通のCDを聞いてもそれまでのデッキとは全くレベルの違う良い音を聞く事が出来た。(その2に続く

2008/01/03

新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

このブログを昨年2月に書き始め早くも1年近くが過ぎた事になります。月により掲載にかなりばらつきがありますが、今年も宜しくお付き合いの程お願い申し上げます。

今年一年も感じた事を率直に書いていきたいと思っておりますが、ブログ立ち上げの折にも書きましたように、これはあくまでも自分の感じた事を独断と偏見も交えて書いておりますので、個々の件に付きましては読まれます方との見解の相違が生じることも充分に承知しております。その様な折にはどうか忌憚のないご意見やご批判もお書き下さい。

まずは年初めのご挨拶まで

結手