2014/11/07

己こそ己の寄るべ

沢山の人達が投稿してくれています、有難うございました、心から感謝したいと思います。

しかしこれで終わりではありません、ここからが本当の戦いが始まるのだと思います。 戦うと言う事は人を傷つける事も覚悟しなければなりません。 肉体的に怪我をさせると言う意味ではなく、親しい仲間や先輩、後輩とも時には意見の異なる場合が出てきます。その様な時でも怯む事無く自分の信念を貫く事が出来るのか?と言う事です。

ここで一つ明確にしておかなければならない事があると思います。色々な意見を述べている人達は少なからず少林寺拳法そのものに愛着や良い感情を持って居ると言う事です。無関心であれば意見など述べる必要もなく、組織がどうなろうと知った事ではないはずです。この前提を認識した上で、ある時には戦わなくてはならない場合が出てくる事も、充分考えられる事ではないでしょうか。

投稿の折りにも例を挙げて説明したマイケル・シャーマー(博士)の指摘するカルト理論に付いて書いてみたいと思います。

1. 指導者に対する崇拝聖人、あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。
2. 指導者の無謬(むびゅう)性、指導者は絶対に間違いを犯さないという確信。
3. 指導者の知識の広さ、哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者は広い知識がある。
4. 説得のテクニック、新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。
5. 秘密の計画、信仰の真の目的と計画が曖昧としている、あるいは新規入信者や一般大衆には、それらが明確に提示されていない。
6. 欺瞞入信者や信徒は、その頂点に立つ指導者や、集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。
7. 金融面および性的な利用入信者や信徒は、その金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得され、指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。
8. 知識絶対的な真理、さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極なものに対する盲信。
9. 絶対的な道徳観指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。
10. その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。

シャーマーは Skeptics Society(懐疑協会)を創設して科学、心理学、社会問題、宗教、カルト理論などをテーマとした講演を行っています。

上記の10項目の中で『日本の少林寺拳法』はいくつ当てはまるのでしょう? 1、2、3、5、6、8、9、10と私の個人的な見解ではこれらの8項目が該当するように感じます。 具体例をそれぞれの項目ごとに書き出して見る事にします。

1.は少林寺拳法の創始者(宗道臣)に対する組織の扱い。
2.に関しては宗教組織の代表が表現したと言われる最高解釈権者(=師家)に対する説明が一例として上げられると思います。
3.は現在の指導者ではなく、創始者に向けられた思いだと考えます。
4.に付いては拳士や指導者に向けた方法として寛大なものから威圧的なものまでさまざまな方法を見ていますが、意見の分かれる所も有ると思います。
5.は組織に不都合なものは隠蔽し、新入門者には宗教色を余り意識させない様な方法が見られる。
6.組織トップが目指す計画や方向性が明らかにされておらず、一般会員には真実は知らされない事が度々ある。
8.創始者に対する検証が許されない。
9.これも創始者が確立した価値観が、組織の内外共に普遍性があるとの盲信が見られる。
10.現在の組織そのものである。

以上の見解には異論もあると思われますが、あくまでも私の個人的見解である事お断わりして表記したものです。

人がどの様に見るのかではなく、一拳士、一指導者として『少林寺拳法』をどう考えるかが問われているのです。最後に問われるのは『自己確立』がどれくらいできているのか? そこにこそ『己こそ己の寄る辺、己をおきて誰に寄るベぞ』、今こそ明確に自身の判断を下す時にきて居ませんか?