2007/07/31

車の色

街で見かける車の色が国により異なる事に気が付いたのはかなり前である。日本とヨーロッパでは違うし、同じヨーロッパでも国により少しづつ異なったテーストがあるようだ。これとは別にナショナル カラーと言う色が存在する事も確かにそれらの嗜好に影響を与えているのかも知れない。

以前は車のレース等で製造国のナショナル カラーを決めていた。英国のブリティシュ レーシング グリーン(オリーブ グリーンに近い濃い緑色)やフランスのフレンチ ブルー、そしてイタリアの鮮やかなイタリアン レッド等は有名である。ドイツはシルバー メタリックで日本は白がナショナル カラーとして認知されているらしい。

この様に見てみると確かに日本では白い色の車が他の国に比べて圧倒的に多いことに気がつく。英国などでは白色は車の色としては少数派である。曇り空が多い英国では日本のように太陽の光が強くない。光の反射による白特有の輝くばかりの魅力が出ない事になる。そればかりではないと思うが雨の日が多ければ車が汚れる事も白ではよく目立ち必然的に白い車対する需要は少なくなるのではないか。

英国ばかりでなく北ヨーロッパの国ではメタリック車が多い。グレーやベージュのメタリック カラーは雨や埃で汚れた車体をうまく目立たなくさせる事をこれらの国の人達はよく知っている。そんな理由からメタリック カラーの車の数が多いように感じる。

先に挙げたナショナル カラーがレースに使われる車の色として定着したのには色々と理由があったのであろう。それらの詳しいいきさつは知らないが1960年代くらいまでのグランプリ レーサーがブリティシュ グリーンやフレンチ ブルー、イタリアン レッドとして使われたことは有名である。グランプリばかりではなく耐久レースのル マン等で活躍した車でもこれらのナショナル カラーは使われている。

ブリティシュ グリーンのベントレーやアストン マーティン、フレンチブルーのブガッティからルノーそしてイタリアン レッドのアルファやフェラーリ、シルバーに塗られたメルセデスやBMWなどが活躍していた。では日本の白はどこから来たのであろうか?

60年代に生沢徹がヨーロッパで使ったホンダS800や、ホンダのグランプリカーの車に白が使われ、ヘルメットも白で車体と同様に赤い日の丸が入れられたと真実かどうかは不明だが聞いたことがある。そう云えばホンダのグランプリ カーで初めて優勝したリッチー ギンザーの65年メキシコ グランプリの車も白色にライジング サン(日の丸)であった。

最近ではナショナル カラーよりもスポンサーが重要になりどのティームもこだわってはいないが、今年のGPカーでもマクラーレン メルセデス、パナソニック トヨタ、マルボーロ フェラーリ、スーパー アグリの4ティームは何らかのナショナル カラーを残しているように見える。

国民に支持される色も確かにある。その全てが国旗からきている訳ではない。それが取り入れられた経緯は別として、数多くの人達からイメージされるその国(車)のシンボル カラー メルセデスやNSUのシルバーメタリック、フェラーリやアルファロメオのイタリアン レッド等など環境や歴史から作り出されたこれら車の色にもなにかしらのメッセージがこめられているように思う。

今年のグランプリ カーで日本のホンダが採用した宇宙から見た地球をデザインしたカラーには正直驚いた。残念ながら成績はこれまでのところ良い結果は出ていないが、人々に与えるメッセージとしてはこの様な環境破壊の象徴的なグランプリ カーにも『地球環境を考えていますよ』と言うメッセージになるならば一つの目的は果たしたかもしれない。

2007/07/28

環境と景観

日本の道路を車で走るたびに思う事がある。それは「景観の悪さ」で都心はともかく郊外の国道や県道は世界でも類を見ないほどひどい。

10年以上前になるが弟子の英国人拳士と車で旅をした。関西の国道を走っていた時に、弟子の拳士が『この辺りの道路は随分ひどい景観ですね』と言った。それまで日本の事を批判した事の無い拳士の言葉に小生が『何が?』と聞くと、国道沿いの立て看板や車のディーラー前に何本も立てられている原色のノボリ(宣伝の旗)、そしてあらゆる色のビルや統一性の全く無い建物や看板等の事だという。小生にもそれまで気にも留めなかった景観が突然異様な景色として目に入ってきた。

確かにどこの国でも看板や広告を見ることはある。しかしこの時拳士から指摘されて初めてその異様さに気がついた。日本の街の特徴は統一性の無さである。ネオン等はどこでも見られるし道路脇には電柱が有り、そこにも所狭しと広告や立て看板がある。総じてヨーロッパの国はネオン等も規制があり町の一部でしか許可されていない。電柱も街中ではほとんど見掛けない。

日本の国道を走っていると田んぼの中にも大きな広告を見かけることがある。電車や汽車に乗っている時でもこの様な光景は一般的でそれ程不思議に感じたことも無かったのだが、弟子の指摘がきっかけで街の環境(景観が特に)気になるようになった。注意して見ると確かにヨーロッパでは見かけない風景である。

ふと随分前に旅行したアメリカを思い出して、その時見かけた街や道路からの景観が日本と良く似ている事に気が付いた。現在のアメリカはどうか分からないが当時80年代前半のアメリカではこの様な光景はどこの町でも見ることが出来た。つまり日本の街や道路で見かける広告やネオンサインの不統一な光景の原型はアメリカから輸入されたのではないかと推測する。

ただ彼の国と日本ではスケールが全く異なる。アメリカで異様に感じなかった理由はおそらく非常に大きな空間(スペース)に広告を出しても周りの景色と一体となり余り目立たないと言う事ではなかろうか。しかしながら同じサイズの広告を日本の道路やビルの屋上、道路脇の田畑の中に所狭しと据えれば否応も無く目立つ事になってしまう。同じ様に不統一なビルや広告でもスペースが異なると印象は一変する。広告は人目について初めて価値があるものだが、その様な目的で立てられた看板やネオンサインが、他の広告やネオンよりもより目立つようにデザインされる事は当たり前であろう。

その事事態に文句を言うつもりは全く無い。問題は規制やルールが無いことではないか。ルールが確立されていればほとんどの日本人は決められた事を守る人達ではないだろうか。そしておそらく自分がそうであった様にほとんどの日本人はこの問題(道路環境、景観)に気が付いていないと想像される。

もしヨーロッパの町を旅行する機会が有ったらその事を自分の目やカメラに焼き付けて記憶して、帰国した後に日本の街を見て欲しいと思う。街で見かけるゴミなどはヨーロッパの方が多い事もあるかもしれない。この様な事は大なり小なりどこの国にもあることでそれ程問題ではない。小生が気になる事は景観である。電信柱は日本の街中でいまだ多く見られる。こららを地中に埋めるには大きなコストが掛かる事も承知しているが、街や村、道路の景観は国や地方自治体にとっても大切な資源である。その大切な資源価値が多くの人が気が付かぬ内にどんどん下がって行くとすれば、そこに住む人達はどう思うであろう。

『そんなもんどうでもいいじゃないか』と言う人が居るかもしれない。もしその様な人が居るとしたら是非一度自分の目で一度確かめて欲しいと思う。確かに経済的に貧しい途上国では日本よりはるかに酷い環境も見ている。しかし日本はそれらの国と同等の途上国ではない。世界の中では経済大国と呼ばれるG7のメンバー国の一つである。その様な経済大国を自任する日本であればこそ自国のインフラを含めた街の景観にもそろそろ気を配る余裕が欲しいと思うがいかがであろう。

毎年何百万人もの日本人がヨーロッパにやって来る。観光やビジネス等どの様な機会でも参考になる事があると思う。こればかりは一人や二人の力ではどうにもならない事は確かである。であるからよけいその様な機会を利用して街や村の景観デザインを見て欲しいと思うのだ。

何もヨーロッパのデザインをコピーしろと言っているのでは無い。日本には日本の家屋や山野の風景があり非常に素晴らしい財産がある。それにも関わらず現存する無計画なデザインのビルや目立つだけの広告塔を何とか工夫できないものかと言う事である。せっかく日本を訪れた外国人の旅行者が美しい日本の伝統的な風景に気が付く前に、ドギツイ原色のビルや道路脇でひらめく旗や立て看板に失望して帰るとしたら残念に思うのは小生だけではないと思う。

新幹線の窓から眺める富士山、天気の良い日には感動を味わうのは日本人ばかりではないと思う。その富士山の前に現れる立て看板何とかなりませんかネー?これなどは広告主が期待する宣伝効果よりも余程マイナス効果の方が大きいと自分は思ってしまうが、一般的な日本人にはそうは思わないのかな。

2007/07/23

与えられた民主主義

日本における第二次世界大戦後の民主主義は残念ながら日本国民自らが勝ち取ったものではない。いま改正が話題になっている憲法と同じ様に占領下にGHQ(連合国)から与えられたものである。このところ日本国憲法の改正が政府の重要な課題法案として出ているが、時々この民主主義や憲法が日本国民自らが勝ち取ったものではないために起こるおかしな現象を見聞きする。ここでは民主主義についてヨーロッパと日本の違いを比べて見たい。
 
日本の大都市ではバブル崩壊後より一段と多くの人達がホームレスとなり、色々なところでダンボールやビニールテントを見かける様になった。ホームレスそのものは世界中の先進国の都市ではそれほど珍しいものではない。行政や宗教団体、そしてボランティアに至るまでそれらの人たちを支援して社会復帰させるように努力しているところも有る。日本でも地方自治体が支援策の一つとして無償のホームを作りこれらの人達を社会復帰する手助けをしているところも有ると聞く。 

しかし、自分が感じた違和感は法治国家であるはずの日本におけるこれらホームレスの人達の無法振りである。何が無法かと言えば、彼等がダンボールやビニールテントを張って仮の住処としている場所の事である。

ロンドンでもこれらホームレスの人達は数多く居るが、彼等は一応寝泊りする場所を取り締まりの等の対象とならない所でしている。しかしながら日本のこれらの人達にはこの様なルールは無いものと想像する。時々公園等でブルーのテントを張って生活しているホームレスを見るが、何年か前には名古屋城の前のお堀端で堂々とブルーのビニールテントを張って生活している人を見た事がある。この様に公園や駅の構内等、公共施設であるにも関わらず、彼等にとっての便利さが優先されているように感じた。

もし同じ事をロンドンのハイドパークやケンジントンガーデン等の公園でやったら直ぐに公園を管理するポリスの厄介になる。ロンドンに限った事ではない、パリでもどこのヨーロッパの都市でも公共施設を私設の住処とする事は不可能である。スイスなどは駅のベンチで寝る事も許されない。警官から直ぐに事情を聞かれ場合によっては罰金を科せられる。

公共施設とは本来この様なものではないか。個人が勝手に住み始めても文句を言われない公園は先進国では日本くらいのものだろう。この辺に日本の「与えられた民主主義」と、欧米の「勝ち取った民主主義」の違いが現れているように思う。

公園や駅等でみる段ボール箱で囲いあたかも自分の所有地のような態度で住み続ける行為が許される国は日本だけではないか?それを官憲が排除しようとすると支援者と称する人達が『人権』を振りかざし抗議する姿も不思議である。はっきり云って公共施設を無断で占領したりする事が人権問題で許されるとすれば日本中の公共施設は無くなってしまう事になる。

ロンドンでも冬の寒い夜は時々地下鉄の駅が開放される事はある。しかるにその開放がずっと続く事は無く、一時的な救済策であり誰もその事に感謝しても文句を言うことは無い。暖かい食事の振る舞いも協会やボランティアによって行われる。しかしこれはあくまでも善意の施しであり強制されてやっている訳ではない。そしてその様なボランティアをしている人達がホームレスの自立支援をする事はあっても、公園や駅等の公共施設に入り込んだホームレスの人々を擁護したり、又排除しようとする警察官に文句を言うことは無い。

公共が無視されると言う事は大多数の人達の利益(人権)が少数者によって犯される事である。成田空港の反対運動も異常である。日本以外の先進国であのような事がまかり通る事は先ず考えられない。

当初の農家の人達による反対運動はある程度理解できる。
しかし、その後政治問題にすり替え人権闘争にしてしまった事がどう考えても理解できない。国の政治判断が一人でも反対者が居たらどうにもならないとは、いったい日本の民主主義とはどんな価値観において誰の為の民主主義なのであろうか。100人の人権よりも1人の人権の方が尊重される民主主義なぞ聞いたことが無い。英国やフランスで成田空港のような騒動は決して起きないだろう。

国の権力とはそれ程強いものである。国がマイノリティー(少数者)の意見に耳を傾ける事は悪い事ではないが、しかし民主主義とは最終的には意見の対立が解けないときには多数決を持って決める事が大前提では無かったのか?100人の意見の方が50人の意見より強いのが民主主義のルールではないのか。

民主主義が唯一最高の法則とは自分も思わない。場合によっては1人の優れたアイデアの方が100人の愚かなアイデアよりも良い事も考えられる。しかしこと民主主義を標榜している以上は100人の愚かなアイデアを採択する事が当然の帰結である。そうでなければ民主主義など成り立たなくなってしまう事になる。

小生が憲法を含む日本の政治体制が上(戦勝国)から与えられたと感じるのは、その最も基本的なルールであるマジョリティー(多数)よりも、権利や制度を逆手にとった個人的な感情やイデオロギーが疑問も無く優先されてしまう事である。成田闘争はどこから見ても民主主義を完全に無視した単なるテロ行為である。

こんな民主主義を取り巻く状況にも日本の常識が世界では非常識と云われる所以ではないかと感じている。

2007/07/16

拳士は日本の応援団

長年海外で少林寺拳法を指導していると拳士の日本に対する感情を直に感じることがある。何のスポーツでもそうだと思うが自分が一生懸命取り組んでいるものが生まれた国の影響は大きい。

例えば野球が好きな者にとってアメリカはある意味で特別な国であろう。例え自分がメジャーリーガーになれなくても自分の好きなベースボールが生まれた国であるから、他の国よりはある意味で特別な感情を抱いても不思議ではない。ゴルフの好きな人が一度はスコットランドのセントアンドリュースでプレイを夢見る気持ちと同じではないか。

フットボール(サッカー)のようにあまりメジャーになりすぎるとどこの国で生まれたか分からないかもしれないが、プロフェショナルのフットボール選手ならイギリスのプレミア リーグでプレーする事も一つの理想かもしれない。

フットボールで思い出したがワールドカップではそれぞれの国が地域予選から勝ち残ってくるわけだが、英国はこのゲームが生まれた国と言う理由で非常に不思議な特例が認められている。なんとイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドがそれぞれ別の国として参加できると言う事だ。

つまり簡単に言えば4倍ワールドカップに出られるチャンスが多いことになる。日本で言えば、本州と北海道それに四国、九州がそれぞれの国として別々にワールドカップ出場を掛けて戦うようなものなのだ。そうは言っても、イングランドが出場するのをスコティッシュ(スコットランド人)が我がことのように喜ぶとは思えない。日本でいう夏の高校野球における県民感情のようなものと言えば伝わるだろうか。

オリンピックでは勿論その様な特例は無く「グレートブリテン」としてしか参加できないと言うのに、FIFA主催の大会では大英帝国を特別扱いしている事になるが、特に問題にはなっていない。 (現在、2012年のロンドンオリンピックでの「開催国枠」を得ているので、「開催国枠を辞退するか? それとも予選を戦う必要がないので4ヶ国合同のチームを結成してはどうか?」との声が上がっている。)

『まあ、フットボールが生まれた国だから仕方ないか?』と言うのがこの様な不公平を知りつつ世界中で容認している理由かもしれない。別の見方をすればこれもフットボールが生まれた国に対する敬意と言い換えることが出来るかもしれない。

この様に見ると少林寺拳士が何故日本に親近感を持つのかも少しは理解できるのではないか。何も少林寺拳法に限った事では無い、柔道、空手、合気道そして剣道を愛好している人達にとっても多かれ少なかれ日本に良い感情を持っているような気がする。

その理由の一つにはフットボールと同じ様に、そのスポーツや音楽が好きであればあるほどそのスポーツや音楽が生まれた国に良い感情を抱くのではないか。ビートルズが出た頃夢中になった我々の世代には今もイングランドやリバプールと言った街に好感を持っている人は少なくない。言い換えればそれらの国や街、又人が居なければその様なスポーツや音楽も生まれなかったかもしれない。その様な要素がそれらを愛好する人達に特別な感情を持たせてもなんら不思議ではないと思う。

たまたま自分は少林寺拳法の指導員をしている為、どこの国へ行っても拳士の感情や趣向が見えるように思う。拳士が乗る車には英国が右ハンドルと言う理由ばかりでなくスウェーデンでもフィンランドでも、一般のその国の平均よりはるかに高い確率で日本車を愛車としている拳士をよく見る。

他の工業製品でも同じ様な性能であれば日本のメーカーを選ぶ拳士は多い。この様に観察すると少林寺拳法をやっている拳士はただ単に少林寺拳法と言う武道を楽しんでいるのではなく、少林寺を入り口に日本に対する親近感や身内のような感情を無意識のうちに持っているのではないかと思うのである。

これはなかなか現実を見たものでないと理解できないかもしれない。又日本製品を何気なく使っている拳士にその様な意識があるかどうかも分からないが、現実にその様な例は多い。

文化やスポーツの国際交流が盛んになることは非常に好ましい事である。ベースボールやテニス、フットボール、バスケットボール、ゴルフ等のスポーツは言うに及ばずクラッシックやジャズそしてポップスの音楽等、それぞれの分野で日本の選手やミュージシャンが活躍する事も多いであろう。

一流のスタープレーヤーが人々を引きつけ魅了する事も確かにある。そしてそのスタープレーヤーが日本人であったとしても、そのスーパースターに対する人気や高感度は上がってもそれが直ぐに日本に結びつくとは限らない事も事実であろう。

イチローや松井、松坂がメジャーリーグで活躍しても彼等の個人的人気や高感度が日本に結びつく事は少ない。むしろ彼等の活躍はメジャーリーグやアメリカと言う国に我々日本人の関心を向かわせる事の方が多いのではないか。
 
そしてそれらのスポーツや音楽等の多くは外国から入ってきた文化であるのも事実だ。日本の伝統文化で海外において普及して認められているものはそれ程多いわけではない。確かに歌舞伎や能、邦楽といった日本独特の文化も紹介されそれなりの評価も得ているが、それらを勉強して自分達もその様になりたいと努力している海外の人はそれ程多くは無いと思う。それを考えた時、日本武道は世界中で数多くの国で紹介されそれに取り組む人達も多い文化である。

先進国は言うに及ばず途上国においても大きな支持を得ているのが武道である。確かに少林寺拳法は草の根レベルの交流かもしれないが、本来の交流とはこの様な市民レベルでの交流が本当の意味で重要ではないかと思う。政府が行うような大きな規模での交流は出来ないかもしれないが、一般市民一人ひとりが自分達の意思で好きなものを通して交流する事が結果的には大きな意味を持つと思う。そしてその架け橋に少林寺拳法や日本武道がなれるのではないかと思うのである。

2007/07/14

バン?いいえエステートです

車社会が発展した日本において未だ混同される存在の車がある。
それは エステートワゴン と バン である。

90年代初期に家内が日本の食料品店をやっていた事があるが、長年エステート カーに非常に強い興味があった小生は『仕事に役に立つ!』と理由を付けてメルセデスの300TEと言うエステートを買った。
 
実際にはその車で店の仕事を手伝う事はほとんどなかったが、あるとき日本人の拳士から『先生が"バン"に乗るのですか』と言われた事がある。小生は『バンではない。エステートだ!』と言ったが、その女性の拳士にとってはバンもエステートも同じにしか見えないようだった。

なおも小生が『エステートはその車種の中では最高のステータス(高価格車)であるが、バンは仕事用専門車で価格も安い』と言ったが、『同じ形ではないですか』とノタマウではないか。

『云っておきますが、英王室のプリンス チャールズが乗る車はエステートであってバンではありません。大工や電気屋のオヤジが乗る仕事車がバンだ!(大工さんや電気屋さんに偏見はありませんので悪しからず)』と述べても 『同じ形じゃないですか』と切り返されてしまう。

女性相手に車の講釈を並べたところで所詮車好きの気持ちなんぞ分かってもらえない。仕方が無いのでプリンス チャールズを持ち出したのだが、これも変な理由だなと思い返していた。

事実、英王室の公用車の中にはロールスやデイムラーのリムジンばかりでなくエステートがある。日本で皇太子殿下や皇族がエステート ワゴンを使われる事は無いのであろうが英国の王室はエステート カーやランドローバー(SUVのレンジローバーではない)等を使うプリンスやプリンセスをTVニュースでも見たことがある。さしずめこの様な場合に先ほどの女性拳士なら、『王女がジープを運転するなんて』と言うのであろうか?

車文化とはその車が持つ目的を上手に生かして使っているかと言う事ではないかと思う。形で判を押したように決められてしまっては車もかわいそうと言うものだ。確かにエステート カーは車に無関心な人にとってはバンに見えるかもしれないけれど。

車の好きな人には分かってもらえると思うが、バンのサスペンションはリーフスプリング(板バネ)が多い。強くて重い物も載せる事が必要だからであろう。しかし乗り心地や運動性能(車の取り回し)は良くない。

反対にエステートカーは似たような上物(車体の形)でもコイルや最近では電子制御のエアーサスペンションが使われる事も珍しくない。乗り心地はその車種のサルーン カーより良い事があっても何の不思議でもない。車の後半分が同じ様な形をしていても、バンとエステートでは一目で分かるではないか。第一バンには後半分に窓ガラスが無いでしョ?

自分が乗っていた300TEも後輪にはハイドロリック(油圧)のサスペンションが付いており、後部ドアはそっとドアを下ろしてもゆっくりジワーッと閉まる半ドア防止の装置なども、その当時の車種(Eクラス)では唯一スタンダードで付いていた。

しかしこんな事を言っても先の拳士は分かってくれないのだろう。何しろ後半分の車体でバンと決め付ける人だから。

エステートで良かった事はスーパー等へ女房の買い物に駆り出された時の便利さである。そのバン!型スタイルは後部ドアを開ければ広大なラゲージスペース(荷持室)が広がっている。サルーンのブーツ(トランク)とでは広さや荷物の出し入れの容易さに雲泥の差があることは言うまでも無い。

ヨーロッパの国々はディーゼル車(乗用車)の普及が50%を超えている国がほとんどだ。軽油が日本同様にガソリンよりも安い事もあるが、環境にはガソリン車よりも優しいと解釈されている。

日本やアメリカではディーゼル車に対するイメージが黒煙(NOx)や騒音の問題があっていま一つ良くない。特に東京都が石原都知事自らペットボトルに入った黒煙の粒子をこれ見よとばかりにメディアで取り上げさせアピールした事もディーゼル車のイメージを悪くした大きな一つの要因であろう。これにより一般の人達に刷り込まれたディーゼルエンジンに対するネガティブ イメージは大変大きなものとなってしまった。

しかし都知事が自慢するような事がプロパガンダ以外に本当に実現したと言えるのだろうか?
これは日本中にそのネットワークを持つ宅急便のロンドン事務所の幹部から聞いた実話であるが、あの通達(ディーゼルトラックの触媒規制)が出た事により『それまで使っていた貨物車が関東地区1都3県で使えなくなった為、それらの車を地方の県に移動した』と言う事だった。

何のことは無い。公害の地方都市への押し付け、拡散である。その前にやる事があったはずではないか。

硫黄分の少ない黒煙を出さないディーゼル フュールの販売(現在はやっと販売されるようになったらしい)や触媒の開発、エンジンそのものの技術革新等など、現在ヨーロッパの自動車メーカーが取り組んでいるディーゼルエンジン車の開発は環境問題にも一石を投じる事であろう。

確かに日本もハイブリッド技術があり、世界中のメーカーもその技術を認めてはいる。
しかし時代はハイブリッド車の一時的時間稼ぎのメリットは認めつつも、エタノールエンジン車(これも時間稼ぎ技術ではあるが)や、もっと歴史の長いディーゼルエンジン車の開発を推し進めている。次世代の燃料電池車やEV(電気自動車)には今しばらく時間が必要である事を知っているからこそディーゼルに注目するわけだ。

去年スイスで乗ったレンタカー、ルノーのラグーナは本当に良い印象だった。
昔のディーゼル車の様にうるさい訳でもなく、低速からトルクが掛かった気持ちの良い加速、マニュアルミッションの車ではあったが僅か1900ccの車(ディーゼルエンジン)とは思えないような俊足ぶりだった。条件(ドイツのアウトバーンのような)さえ許せば、時速200キロ巡航走行も現実的なエンジンだったと言えば車好きの人ならば理解できると思う。

何故ヨーロッパではディーゼルエンジンが環境に優しいと言われるのであろうか。
事実EUの加盟国(英国も含む)間ではディーゼル車の環境税はガソリンエンジン車よりも低い。英国では毎年徴収される道路税に含まれる環境税は排気量の小さい車やディーゼル車は環境負荷が低く見積もられて安くなっている。

勿論日本(トヨタやホンダ)御自慢のハイブリッド車も環境税が低い事は事実であるが、その最終処理まで含めた環境負荷がディーゼル車より低いとは小生には中々信じられない。なぜってハイブリッド技術で使われる大量の希少金属やそれ等から作られたハイテックバッテリー等の回収に掛かるコストや環境負荷はディーゼル車より高いと思うのだが?

ともあれラグーナ搭乗経験が前から興味が有ったディーゼルのスポーツエステートに目を向けさせる今日この頃だが、アルファ159スポーツワゴン でディーゼルエンジンはないかな? セレスピードか6速マニュアルに女房殿はどう答えるであろう。『買い物に便利!』は通じそうに無い。

2007/07/10

官僚主義(bureaucratism)

一般的に「官僚的」と言う言葉は否定的な意味の時に使われる方が多い。それはどの国でも官庁や市役所等が民間の企業と比べて効率が悪い事や、権威主義的な立場や存在がその様に言われる事が多いからであろう。勿論総ての国家機関や公務員が非効率や権威主義と云う訳ではないが、立場的に民間より強いことの方が多いことからその様に言われるのではないだろうか?

官僚主義の問題点は数多いが、意思の疎通の悪い事もその代表例の一つではないか。言い換えれば自分の所属する部署以外とのコミュニケーションが不得手と言うかうまく行かない事を指している。
 
そして今一つ官僚主義のいただけない所は、本来ならば国民や市民の為に働く事が目的であるはずの省官庁などが、いつの間にか市民の便宜や国民の利益(国益)よりも自分の所属する省庁などの利益を優先させている事を度々見聞きすることでは無いか。

省庁や地方自治体に働く公務員を“civil servant”と英語にするとより立場が明確になる。 civilとは一般市民、servantはそのまま訳せば家来, 従者, しもべとなる訳で、市民の為に奉仕する事を目的とした仕事が公務員の立場だったはずである。しかるになかなか市民のしもべとまでは言わないが、市民も公務員の方もその様な意識は気薄のような感じがする。

昔からの日本の習慣なのか、あるいは公の仕事に対して『お上の言う事には逆らわない』みたいな感覚が作用しているのかどうかは分からないが、面と向かって公務員に文句を言う人は少ない。そんな事をすると、いざ助けが必要になった時に便宜を図ってもらえない といった意識が一般市民の中にはあるのではないかと思う。

又公務員の間にも責任を取りたくないと言った自分勝手な無責任感覚が強く、特に初めての事案についてはなかなか事が進まない事がままある。すでに何らかの経験や過去の資料があり、それにそった事例や解決方法であれば問題ないが、こと個人の判断が必要であったり、又前例が無い場合の様な時には簡単な事でもなかなか前に進まない。 

その様な行動や判断が官僚主義と言われ一般から揶揄されるのではないか?反対に企業業績が優れた企業にあっては他社よりも少しでも早く開発したり無駄をなくす努力をしている。又そうでなければ厳しい競争社会で生き延びる事は叶わず、業績も優れた結果を残す事は出来ない。

デミング博士が提唱したクウォリティー コントロールは今では日本企業のお家芸、その最も最先端をトヨタなどの超優良企業が指し示している。枯れ雑巾を絞ると言われる企業文化はいかにもトヨタの情け容赦ない態度のように言われるが、実のところ系列企業をつぶしてしまう企業では世界で伸びてゆく事は不可能ではないか。

別にトヨタの肩を持つものではないが不況になれば簡単にredundancy(=余剰人員。日本における「リストラ」)と言って社員の首切りをしてきた欧米の自動車会社の方が余程ドライで官僚主義ではないかと思う。会社経営に失敗したCEOが何億もの退職金を貰ってやめるのと、組立作業ラインの従業員が不況で首になるのとでは全く状況が異なる。 

トヨタの成功からこのところ「カンバン方式」を学ぼうとする欧米の企業経営者も少しは居るが、彼等の報酬を見ればまだまだトヨタ並みの経営には程遠いと言うのが本当の姿であろう。トヨタや日本の有料企業の経営者がいくら給料を貰っているかは知らないが、一般従業員の100倍1000倍の給料を貰う社長や会長は居ないのではないかと想像する。

しかし欧米における業績優良企業にあっては100倍等別に驚くに足らない金額である。彼等のメンタリティーには『好業績が出たのは自分の経営判断が優れていたからだ!』と言う自負(?)がある。そのメンタリティーには従業員にも少しは還元して企業に対する忠誠心も高めようと言うような少林寺拳法で言う『半ばは人の~』と言う部分が完全に欠落している事を良く見る。 

この様に企業文化が異なる背景にはこれまで社会が築いてきた歴史や国の文化も大きく影響しているのであろう。例えば経営側のドライな首切りや労働条件を何とかしたいと言う理由から始まったスト権は、労働者にとっては非常に重要な権利である。

日本におけるストライキは組合側も適当なところで妥協し、自分たちの会社が立ち行かなくなるほど長く厳しいストは行わないのが一般的だ。ところが欧米企業では多くの経営者と労働者は敵対関係にあり、ストがかなり徹底的に行われる。やはりこれは歴史的に労働者をどの様に扱ってきたかの文化の違いであろうし、一般社会のストに対する理解も日本とは大きく異なっている。

日本企業には労働者であっても従業員を家族のように考える経営者は少なくない。一時期、終身雇用制度や年功序列はもはや古い経営だと云われた事があるが、企業文化の異なった欧米式の経営方法が日本企業に対しても同様に最高の方法とは言えないと思う。

国や社会が長い年月をかけ築いてきたシステムには同じ事を他国がそのまま取り入れても上手く機能しない事も沢山ある。日本には日本の経営文化があり、欧米にも彼等の歴史と企業文化があることを考えれば、そのどちらにもそれなりの理由が有るのが普通ではないか。 

官僚主義というタイトルからは文脈が少々離れてしまったかもしれないが、民間企業にしても各省庁の公務員であっても、暖かさの感じられるメンタリティーがいま強く求められているように感じるのは自分だけであろうか?もしそうであれば少林寺拳法の説く『半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを』と教えた開祖宗道臣の言葉の重みが理解されるのではないかと思っている。

2007/07/07

The Way of the Warrior

1982年ごろBBC(英国の公共放送)のプロデュウサーから武道シリーズのドキュメンタリーを撮りたいので協力願えないかと相談があった。

ブルース リーのブームも一息ついた当時BBCのプロデューサーから『武道のルーツをインドから中国そして日本での発展までをドキュメンタリーとしてシリーズで紹介したい。ついては少林寺拳法も撮りたいので協力を願えないか』との依頼であった。早速WSKO本部に紹介して取材の協力を取り付けた。

取材は2年以上にもおよび、少林寺拳法以外にもインドの"カラリパイト" 台湾の"武術(ウーシュウ) "韓国の"テコンドウ" そして沖縄の"剛柔流空手" 日本本土からは"居合い道" "合気道"もシリーズとして取り上げられた。

取材陣はとりわけ少林寺拳法に良い印象を持ったようで、ほぼ一年を掛けて本部から全国大会までを満遍なく収録してきた。プロデュサーはもとよりダイレクターも少林寺拳法が最高の印象だったと英国に帰国後わざわざ小生に連絡してきた。『武道の持つ技術と哲学の指導と言う集大成を少林寺が武道専門学校として理想的な形で行っており、それを最後のシリーズで放映したい』と言うほどの熱の入れようだった。

我々も彼等(BBCの関係者)の説明とその満足度から放映されるシリーズに大きな期待を抱いていた。しかし実際に始まったこの武道シリーズ"The Way of the Warrior"は我々の期待を大きく裏切るものとなった。

当初聞いていたこのシリーズの最終回に紹介されるはずの少林寺拳法が、未だ多くの視聴者が注目をする前の第一回シリーズに放映されたからである。内容もプロデューサーが話していた感激した内容と随分かけ離れた事が紹介され、部分的には少林寺拳法のイメージを結果的に悪くする様な内容も含まれていた。早速WSKO本部と英国連盟から正式なクレームが出された事は云うまでも無い。

何故この様な結果になってしまったか?
83年当時、小生の弟子で初段を取った拳士で別派に走った者が居た。困ったことに彼は当時の英国に於ける武道統括団体"マーシャル アーツ コミッション"で事務局長と云う立場にあった。

BBCも当然ここを通して我々に依頼してきた訳であるが、タイミング悪く別派問題のこの男が破門と言う状態のときに放映が始まることになってしまった。そしてBBCがマーシャール アーツ コミッションに少林寺拳法の解説を求めたところ、その事務局長だったこの男が引き受けてしまった。

もちろん編集の段階で何度もプロデューサーに最終段階のものを放映前に見せてくれるように依頼していたが、何だかんだと理由をつけて実現しなかった。破門になった元拳士のコメントを引用したナレーションが少林寺拳法に好意的なコメントをするはずが無い。拳法シリーズを一変させたことは明らかである。最終回で紹介されると聞かされていた少林寺拳法が最初に出てくるのだから驚いたが、その内容にはもっと驚く結果となった。

それでも内容として、今は亡き板東先生の活法が出てきた。
放送後、見事に一撃で気絶させてしまう技を見た空手家の指導者から『すごい技を見せる師範がいるねェ。少林寺はすごい!』と電話を貰った。あのシーンだけはおそらくどの武道をやっている者でも驚いた事だろう。板東先生の技は絞め技もあり、わずか数秒で羽交い絞めで落して(気絶)しまうところも出てきた。

その後の映像に出てきた活法は小生も指導頂いた事があるが、完全にのびて(気絶)しまった人間を生き返らせる活法は少林寺拳法を修練する拳士にとって真剣に習得しなければならない技術であろう。この技を勉強しなくて不殺活人(勿論気絶した人間を起こす事のみに使う言葉で無いが)は成り立たない。

素晴らしい技が習えるのに突や蹴、そして柔法の技のみに目が行っているとすれば随分もったいない気がする。

2007/07/03

禁煙運動の高まり

このところ喫煙者には年々厳しさが増している。少し前に名古屋市内のタクシーが全面禁煙になったとニュースで見た。名古屋以外にも大分県や各地方自治体での規制が増えてきている。自分はタバコを吸わないので問題は無いが喫煙者には厳しい時代になってきたようだ。

ヨーロッパでは以前からかなり厳しい状態が始まっている。アイルランドは数年前からパブやレストランでの喫煙が出来なくなった。イギリスでもスコットランド、北アイルランド、ウェールズでは公共の場での喫煙が禁止されている。そしてこの7月からイングランドでも禁煙法が施行された。

非喫煙者を間接喫煙の被害から守ることを目的として法律で、禁煙の対象はパブやレストラン、映画館、オフィス、ショッピング・センターなどのほか、仕事に使う車も含まれると言ったかなり厳しいものだ。なにせ自宅以外で屋根のある場所はみな禁煙である。

先進国でタバコに対する規制が一番緩いのが日本だそうだ。WHO(世界保健機構)は日本政府の禁煙に対する取り組みが充分ではないと報告している。

どこの国でも税収確保は重要な課題である。タバコ税はその中でも税率が高く酒税やガソリン税よりも率で云えばはるかに高税率が掛けられて居る事になる。

欧米におけるタバコ税は日本とは比べ物にならないほど高い。この様な高税率になった背景にはタバコを規制して無くそうと言う政策が働いている。

タバコが原因で引き起こされる色々な健康被害が報告され、アメリカではタバコ会社に矛先が向けられ高額な賠償の訴訟裁判が起こされている。そして判決ではタバコを吸わない自分にも理解に苦しむ程の賠償金額が認められるなど喫煙に対しては厳しい目が向けられている。

吸わない自分が何故理解に苦しむのかと言えば、訴訟を起こした人達のほとんどはタバコが健康に与える危険さを承知で吸っているはずだと考えるからだ。ところが自身が何らかの病気になった途端に被害者としてタバコ会社を相手に裁判を起こすと言うこの感覚である。その上、裁判でタバコの危険を納得して吸っていたはずの人が勝ち、高額な賠償金を受け取ってしまうと言う事など日本やヨーロッパの国では先ず考えられない。

アメリカと言う国はある意味で裁判天国なのかも知れない。優れた弁護士を雇える裕福な人間であれば殺人罪を犯しても無罪を勝ち取れる事を幾つかの例で証明している。刑事判決で無罪となった同じ被告が民事裁判では賠償金を取られると言う矛盾も現実に起きている。

現在の欧米で売られるタバコにはどれもかなり大きなスペースで喫煙が健康に与える危険度を表示する事が義務付けられている。そしてタバコの値段も日本のそれの何倍もの高額な値段が付いている。ロンドンで売られているタバコの正確な値段は自分が吸わないので確かではないが、20本入りの場合£5(1,200円)はする。これでも北欧の国から比べれば半額以下と聞いた。 

これらの国でどれほどタバコの税収が減ったかは不明であるが、例えタバコの販売数が減ったとしても税収はそれに正比例して減るわけではない。なぜならば減った数よりも1本あたりで増えた課税額がかなりの割合で相殺できるからである。北欧のように高福祉国家であれば医療費に対する国家負担も無視できない。タバコが原因による健康被害者が減る事により医療費の国家負担を軽くできるわけである。

自分はモーターレースが好きでグランプリやWRC(世界ラりー選手権)もTVでよく見るが、これまで最大のスポンサーであったタバコ会社による広告が競技車両のF1やラりーカーの車体に出せない事が決まり、車体の色も今年から大きく変わってしまった。

昨年まではEU圏内やアメリカに於けるグランプリやラりーではスポンサーの名前を消した車両が走っていたが、日本や中国等規制が緩やかな国では相変わらず重要なマーケットであることから堂々と文字やロゴを車体に表示しているのを見かけた。

この様な姿勢がWHOをして日本がタバコ規制のゆるさを指摘されている所以であろう、先日のニュースで日本人男性の喫煙者が40%を下回ったと発表していたが、これなども小生にとっては未だそんなに吸う人が居るのかと驚きの方が印象として強かった。

日本のホテルで驚く事は禁煙室の無いホテルが地方には未だ有るという事だ。自分の経験で驚いた事は禁煙室として通された部屋に灰皿とマッチがテーブルの上に置かれていたことだ。当然レセプションに苦情を言ったが小生の入室前に消臭作業を確かにしたと言うだけの返事だった。

タバコを吸わない人間の状況を全く分かっていないか、または完全に無視しているのかは判断できないが世界広しと云えども灰皿とマッチを備えた部屋に「禁煙室です」といってゲストを通す国は日本くらいのものではないか!この件に関して日本の現状は途上国以下の状態にあることは残念ながら認めなければならない。勿論日本も大都市においてはこの様な事は無いのであろうが。

あるとき日本国内で禁煙の高速バスに乗った。バスの最後尾に乗っていたが明らかにタバコの臭いがするのでよく見ると前方でタバコの煙が見えるではないか。運転手も他の乗客も何も云わないので小生が『タバコやめろ』と言うと慌てて消した。

バスが終着駅に着くと先程のタバコを吸っていた、いかにもヤクザ風の男が『文句を言った奴は誰だ』と後を見回しているので、自分が『オイ、俺だ俺だ!何か文句があるか』と言うと何も言わずに下りていった。下りる時に小生がバスの運転手に『貴方が注意するべき事でしょう』と言ったが運転手は『すみません』と言うだけだった。 

日本の社会が持っている『事を荒げたくない』と言う一つの特徴かも知れない。どこの国でも争いは嫌なはずである。しかし欧米は同時に権利意識も強く自分の不快や被害には声高に権利を主張をする事も事実である。この事がタバコ離れに拍車を掛けている事も要因の一つではないかと思う。いずれにしても喫煙者には住み辛い社会になっていく事はこの先避けられそうも無い。

喫煙者の方には同情するがこの様な事態が進行している現在、思い切ってタバコをやめるという決断も考えられませんか?