2008/04/27

識字率5%の意味するもの

日本の識字率は世界でも最高と言われる。事実かどうかは別としても確かにヨーロッパの先進国に比べても日本の方に分があるように感じている。英国における文盲率は30%と聞いた事がある。なぜならば英国に流入する外国人は日本に比べてはるかに多いからだ。

最近では日本も一頃より文盲率は上がって来ていると思われる。なぜならば経済大国であることが世界中に知れ渡る事により海外から日本を目指す外国人が増えているからである。識字率とはこのような在留外国人も含めて数えるためどうしても外国人比率の多い国は文盲率も高くなるという訳である。

日本は昔から読み、書き、算盤といって一部の社会層の人ばかりでなく一般教養としてこれらの学習を重んじてきた。その結果、世界でもまれに見る識字率の高さと、数学とまで行かなくとも計算能力の高さを有した国民であった。その事が江戸期から明治に時代が変わるやヨーロッパ先進国の技術やあらゆる文化の導入を短時間でなし得た原動力であったことは言うまでもない。

しかし今日取り上げたのは日本人の識字率である。ある人に言わせると日本人の識字率は5%であるらしい。これを直接読んで憤慨される人達は多いと思うが、ここで言う識字率5%と言うのは文盲率95%という訳ではない。5%くらいの人が新聞やニュース等から本質を見抜く力(眼力)を持っていると言いたいのだと思う。確かに昨今の日本国内の報道を見ると表面しか追っかけていないものをよく目にする。特に週刊誌やゴシップ中心のワイドショーに踊る文字を見ていると、前にも書いた『眼光紙背に徹す』は今の日本社会では不可能かな?と考えてしまう。

つまりここで言う識字率5%とはそれらマスコミの軽薄な論調に惑わされず、真実を行間から読み取れる人の事を言っているわけだ。

しかしながらこのようなマスメディアが発達した日本においては、表現の自由と言う事もあってTVニュースに流される映像や付随するコメント、そして新聞や週刊誌の果たす洗脳効果は想像するだけで気味が悪くなる。当然中には意図の感じられる見出しや映像などが一般の視聴者や読者を一方的な方向へ向けさせる役割を果たすことも度々目にする事がある。

これらマスコミの果たす役割は想像以上に大きく司法が裁く前に世論が形成されてしまい、国民の目はマスコミの描いたストーリーにいつの間にか流されてしまう。司法の判決以前に犯人を特定してしまう事も出かねない情勢であると言っても過言ではないであろう。オウムの松本サリン事件はまだ記憶に新しいが被害者にさえもマスコミが煽った論調で、犯人にされそうになった被害者が訴えている姿は事の重大さを認識する上で大きな教訓とはならなかった。

それにつけても、マスコミによる昨今の現象は異状を通り越して陳腐でさえある。ところかまわず電車や地下鉄の車両内はもとより週刊誌やゴシップ取材にしのぎを削るTVのバラエティー番組など、国民の知る権利とは名ばかりの興味本位の煽り方で、これでは本質などほとんど見抜けないのが良くわかる。視聴率を上げる為に番組制作をしなければならない民法ならともかく、国民から受信料をとって番組制作をしている天下のNHKでさえも、随分政府のご機嫌取りをしているような番組を時々見かける。これでは同じ公共放送と言ってもイギリスのBBC放送等とは政権との関わりではスタンスにおいて随分と差がある。

民族的なテーストの差も当然文面や映像に反映される事であろう。直接的な惨たらしい戦争地から送られる映像を流せば一部の日本の視聴者からはクレームが付くのかもしれない。しかしながら戦争の本質的な残虐さが伝えられてこそマスメディアが果たす真の価値が有るのではないか?単に綺麗な映像ばかりを視聴者に流し続ける事がメディアに関わる者の本来求められる姿勢ではないように思う。

2008/04/20

本当の豊かな社会とは

現在日本のおかれている豊かさは国連開発計画(UNDP)による06年度の報告では世界で7番目というランキングらしい。
その報告書によれば、日本は米国、スイス、オランダより順位は上でフランス16位、イタリア17位、英国18位、ドイツ21位よりはるかに豊かな国と位置付けられている事になる。

しかしこの報告書は今一つシックリこない。現実の経済状態を見ても確かに『失われた10年』と呼ばれた一時期の経済状態からは抜け出したのかも知れないが、自分が感じる豊かさの実態がその様な事を言われても『うんそうか』とはうなずけないのだ。

ではなぜシックリ来ないのかといえば、長年見てきたヨーロッパ諸国の人々の生活ぶりである。カルチャーが違うので一概に比較は出来ないのかもしれないが、例えば昨年の少林寺拳法創始60周年記念大会に英国連盟からは26名の拳士が参加した。

そしてそのほとんどの拳士は2週間くらいの日本滞在時間を取り、少林寺拳法のスケジュール以外にも観光等を楽しむ計画をタップリ取っているのである。

ヨーロッパに住んで思うことは彼らのライフスタイルが実に自由気ままに、何処へでも出掛けて行ける時間的余裕を持っている事である。確かに日本の平均年収などと比べると額面では遥かに分が悪いと思う。しかしながら一方で少ない収入イコール惨めな人生では無いと考えるようになった。日本という国のGDPは確かに世界でも屈指の高さである事は間違いない。しかしその豊かさはもしかすると国民生活の犠牲においてのみ成り立った数値ではないかと考えてしまう。

年収の額面も確かに豊かさを図る一つの指針にはなるであろう。しかしながらである、例えば年収が1000万を超える人でもその収入をどの様に使うかも豊かさを見る上では指針になるのではないだろうか?何千万円もの高収入がある人でもそのお金を使えない(使う時間が取れない)とか、その代わりに豪邸を建てたり高級車を買ったり、資産を残したりだけでは本当に豊かな生活をしていると言い切れるであろうか?

ステータスのシンボルとしての豪邸や高級車では豊かな生活とは呼べないのではないか。その日の食べるものにも困るようではとても豊かな生活とは言えないが、豪邸や高級車は無くとも(持てなくても)好きなときに好きなところへ出掛け、自由に楽しむ為の時間を持つ人間のほうが豊かではないかと考えるようになった。

これも英国に住んで長年イギリス人やフランス人、イタリア人等のヨーロッパ人達の生き方を見て来たからかも知れない。彼らのライフスタイルは至ってシンプルな人が多い。勿論物に執着する人も居る事は否定しない(ある意味では日本人より多いかもしれないが)が、自分の生き方をある程度もったヨーロピアンは物よりも時間の使い方を大切にしているのではないかと思う。

なぜそう感じるかと言えば、先にも書いたが少林寺拳法という一つの楽しみの為に日本へ出掛ける拳士を何人も知っている。

彼らは勿論拳法の練習や、そこで出会う仲間達との交流も楽しみにしている。又観光もその楽しみの重要な要素ではあるとは思うが、観光だけが目的なら毎年異なった文化の国へ行った方が楽しいはずである。そこには少林寺拳法や友人、そこに暮らす人達の文化に対する共鳴等、拳士である彼ら彼女らが好きなものに時間とコストを惜しみなく掛けられる時間的、精神的な余裕のようなものを感じるのである。

そんな事を想うとき本当の豊かさとは、自分の好きな生き方が出来る人達が本当に豊かな人達ではないかと思うようになった。

経済的な指標も一つの目安かもしれない、確かにアフリカやアジアの途上国に比べれば日本は充分に豊かな国である事には疑問の余地は無い。しかし人はこの世に生を受けて死するまでの時間には限りもある事を考えると、生きている時間の中でどれくらい自分の満足できる時間を過ごしたか?が最終的な豊かさの基準ではないかとも思ったりしている。

2008/04/09

調査捕鯨は日本人が考える以上に複雑だ

このところオーストラリア政府は政権が変わってから日本の調査捕鯨に厳しい態度を示している。日本政府のこの問題に対する反応は余りにも楽観的といわねばならない。先ず何が楽観的かと言えば、来日した外務大臣との会談では『この問題(調査捕鯨)が両国の他分野に対する影響は極力排除しなければならない事で合意した』?この様な意味不明の言い回しは外務官僚お得意の落としどころかも知れない。

その外務大臣閣下が日本に居るうちに、本国では環境大臣が『調査捕鯨は違法だ!』と決め付けて、『国際裁判所に提訴する』とのたまわって居るではないか。何のことはない日本の外交力の無さ(脆弱さ)を見せ付けられたようで、がっかりしたのは今回が初めてではない。

高村外務大臣閣下は我が少林寺拳法連盟の議員連盟会長であらせられるので文句を言うつもりは無い。しかしながら外務官僚が当然掌握していなければならないオーストラリア政府労働党の新キャビネットの閣僚発言が、どの様な外交問題を引き起こす可能性があるかと言う時に、玉虫色の落としどころと言う手法を相変わらず使っている事である。

南氷洋上でおきているグリンピースやシーシェパードの行動を見れば、その様な悠長な事を言ってお茶を濁していられない時に来ている事は誰が見ても分かる。アメリカのCIAリストによれば、シーシェパードは『環境テロリスト』のカテゴリーに含まれているし、グリンピースなる団体は国際環境保護団体を名乗ってはいるが、その中に居る人達は本当の意味で環境保護を訴えている人ばかりではない。政治活動の一環として環境は今や票に繋がる重要なマニフェストである。 

環境保護者の多くは善意によるところは多いが、残念ながらその純粋さが逆にカルト主義者に完全に洗脳されている事に、気が付いていない人達がほとんどである。この様な場合オウム事件を検証してみれば分かるように、傍がいくら正論を言っても麻原彰晃に洗脳された信者には全く通じないのと同じである。では何が洗脳されているかといえば『鯨は賢い!』『鯨は可愛い!』『鯨は絶滅の危機にある!』と言うことの3点を無条件で信じている。信じることは自由だがそれらの3条件を信じる!信じない!の自由は個人にあることを認めようとしない事が問題を大きくしている。 

問題はグリンピースのメンバーも、それ以外の人達もその事態を認識していない事である。そこから生じる考え方の違いは理論でどのように説明されようが、麻原に帰依したオウムのメンバーに正論をぶつけるのと同じ結果であることを理解していない事と同じだ。一般的に英国やアメリカでは捕鯨に否定的な人でも、グリンピースやシーシェパードと皆同じ意見と言う訳ではない。論理的に話せば日本の調査捕鯨に理解を示す人も居る。しかし捕鯨カルトに洗脳された人達にはこの論理は通用しない事を理解しないと永久的に無駄な努力をする事になる。

国際裁判所にオーストラリア政府が提訴するというのなら日本政府も受けてたつのも一つの選択だ。その場において日本の主張をぶつける事もアピールにはなる。欧米のメディアはその多くが半捕鯨の立場が強い事も知っておかねばならないが、それでも科学的そして論理的裏づけのある裁判でのディベートは捕鯨に対する認識を改めさせる可能性はある。グリンピースやシーシェパードのスポンサーと成り下がったオーストラリア新政権に媚を売ってあいまいにするよりも余程意義があるように思う。

2008/04/04

F1GPは時代のニーズか逆行か?

昨今グランプリ サーカス(F1 GP)では話題も色々と賑やかである。シンガポールがグランプリの夜間レースを招致するとか、メルボルン市が夜間グランプリ拒否で2010年以後のオーストラリアGPが無くなるとかが紙面をにぎわしている。この環境問題が取り立たされて居る時にF1のレースはある意味において非常に時代錯誤の部分もあるが、そんな極端とも言える条件下で生み出される新たなテクノロジーは将来の車社会を救う事が出来るのかもしれない。

燃費や使われる資材、開発エンジニアーやドライバーに支払われるコストなど、どれ一つを取っても尋常なレベルではない。そして今度は昼間のレースでは飽き足らず、電気代も桁外れのコストが必要になる夜間レースときたもんだ。いったい彼ら興行者のメンタリティーは興味さえ引ければ何をしても良いと考えて居るのであろうか?GPレースが好きな自分でも夜間レースが新技術開発に寄与するとは考えられないが。

又同時に市街地で行われるレースにも今一つ納得がいかない。確かに一般道を使った方が実際の市販車により近い技術が開発されるのかも知れないが、これも夜間レースと同じ理由で技術開発よりも観客の興味が対象であることは明らかだ。100キロ以上のスピードでぶつかってもF1カーに施された諸々のセーフティ デバイスがドライバーを守ってくれるのは確かに素晴らしい技術ではある。しかしながら今日のF1カーに使われているテクノロジーが将来一般の市販車に使われる事があるのだろうか?と素朴な疑問がわいてくる。

カーボン コンポジットで作られたシャシーだけでも数十億円も掛かるコストは、市販車には縁の無い素材と技術(衝撃吸収のクラッシャブル構造)や、これまた桁違いのカーボン素材で作られたブレーキ(F1専用)等。ちょっと考えてみればすぐ分かる事だが一般車両で車両重量が600キロの車で、エンジンパワーが1000馬力を超える様な車等ありえないことである。日産マーチですら車体重量は800キロも有り、エンジンパワーは58馬力〜79馬力と言う事を考えてみれば、如何に浮世離れした現実味の無いコストを掛けているかが分かるはずである。

ホンダの創始者本田宗一郎氏は『F1は走る実験室だ』と言う有名な言葉を残した。確かにこれまでのガソリン エンジン車の発展においては市販車も含めてかなりのテクノロジーをF1から得ている事は認めよう。しかしながら今日の環境問題が問われる時代に過去と同じ様に内燃機関を中心とした車が生き残っていけるのであろうか?そこの定義も無く膨大な資源の消費と開発コストを掛け続ける事に少なからぬ疑問を押さえる事が出来ない。願わくば好きなGPサーカスが次世代の車社会に対する提言と方向性を示してくれる事を期待したい。