2008/03/24

少林寺拳法はどの様に海外に発展させるべきか

海外において少林寺拳法の普及度は正直なところまだまだ初期段階ではないか。日本文化の一つである武道などは比較的早い時期から海外に紹介されている。柔道に至っては英国に伝えられたのは第二次世界大戦以前の話だ。近年では空手や合気道といった武道も英国中のいたるところで道場を見かける。この様に海外における日本文化の発展にはその国と日本がどれくらい結び付きが強いのか!という事とも無縁ではない。

ほとんどの場合は経済的な結び付きが最初であろう。日本経済の発展と共にその優れた工業製品が世界中で売られる事と相まって人の交流も当然出来てくる。そんな中から色々な文化的交流事業も出てくるのだと思う。

自分はヨーロッパ以外にも少林寺拳法指導のため途上国も訪れた事があるが、その様な国の場合にはどうしても文化的交流は経済同様、先進国に比べて日本との関係も薄くなるのは確かである。日本からするとアフリカ諸国はやはり地理上の距離以上に遠い存在である。 

しかしながらその様な国の国民が少林寺拳法に興味が無いのか?と言えばそんなことは無い。アフリカの国からは今でも指導者を送って欲しいという要請がWSKO本部ばかりでなく自分のもとにも何度も寄せられる。指導者としては甚だ心苦しい事ではあるが多くの場合これらの要請にはこたえられない。先ず初めに問題になる事はこれら途上国に行こうとする指導者が居ない事である。

主な理由は色々有るが経済的な自立が難しい事に加え、環境、衛生、政治といった少林寺拳法指導以前のこれらの問題をどう乗り越えられるかという事である。これらの問題は個人のレベルでは限界がある為なかなか根本的な問題解決とはならないのが現実である。

何もアフリカやアジアの途上国ばかりでなくヨーロッパの国からもこの様な要請は多い。これまで旧共産圏であった国々からの問い合わせや、それらの国がEUに加盟するようになりより現実的な要請が来るようになった。

ここでも問題は一筋縄では解決しない。先ず指導者の数がヨーロッパにおいても決定的に少ない。そしてそれら旧共産圏の国々は英国といえども結びつきは日本や他のヨーロッパ諸国とは比べ物にならないくらい小さいからである。

そんな中、現在小生のメイフェアー支部に定期的に練習に来るチェコ人の拳士が居る。初めメールを貰った時は又いつものように『指導に来てくれ』という要請かと思い事情を説明しWSKO本部を紹介した。本部事務局からは『現在指導員を送る事が出来ないので近隣の国の支部に登録して練習しなさい』という説明がなされた。しかしその後再度小生に連絡が入り、『その様な事情でロンドンに通わせて欲しい』と言う。

通わせて欲しいといわれても『チェコとロンドンは遠いので隣国のドイツかフィンランドの方がより近いのではないか』と説明したが『どうしてもロンドンに通いたい』と言うではないか。まあそうは言っても何処まで続けられるかと半信半疑ではあったがともかく入門を許可した。その後3ヶ月に一度の割合で3日間続けて通うようになり、時には期間が半年位開く場合も有るがおおむねこのペースで1年半以上続いている。 

現在の恵まれた日本の環境からすれば『なぜそこまでして少林寺拳法を?』と疑問を持たれるかも知れない。このチェコの拳士に限って言えば本人は警察官で別に生活に困っているわけではない。随分古い英文の『少林寺拳法その思想と技法』をコピーしたものを大切に持っている。彼の言葉を借りれば『素晴らしい教えと技術を是非チェコで広めたい』という事らしい。そんな熱い思いに打たれて練習を許可したわけであるが、少しでも早く上達させてやりたいと思うと同時に、言葉の壁が高いこの拳士に如何に少林寺拳法の本質を伝えられるかと頭を悩ませている。

熱心なだけではなく、以前空手をやっていたらしく技術の習得も飲み込みが非常に早い。普通の拳士が何ヶ月も掛かる技を来る都度に上達しているのを見ると、飛行機で遠くから通ってくる熱意はこんなところにも差が出るものかなと感じさせられる。 本人がいくら才能が有っても少林寺拳法の指導者にそれ程簡単になれるわけではない。こんな時願わくば誰か情熱のある日本の指導者がこのような国に出向いて指導してくれないものかと思ってしまう。

世界はまだまだ広い。日本の若い有段者の人達には海外に目を向けて世界に飛び出して欲しい。そんな中で日本の素晴らしさも、そして又変えなければいけない事も見えてくると思うのだが。

2008/03/15

中国の態度、国際基準では普通です

中国産の毒ギョウザ事件は中国の公安当局の『中国国内での混入の可能性は極めて低い』と言う一言で片付けられそうである。この様な態度に日本国内は100%の人達(想像だが)が大いに怒っていることだろう。

以前に投稿頂いた中にも中々進展しない毒ギョウザ事件に言及されていたが、日本人にしてみればどうして中国当局は正直に認めて早く謝罪しないのか? 『中国側が素直に認めて謝罪すれば、日本はこれ以上問題をこじらせないのに』と多くの日本人が思っていることではないかと勝手に想像している。 確かに被害者を出した日本が憤慨する気持ちは十分に分かる。しかし一方で中国にとってはこの問題の解決方法を間違えると、日本一国では済まない事が起こりうる重大事件でもある。

過去にもアメリカやカナダで中国製ペットフードで犬や猫が死んだ事件があった。又子供用のおもちゃにも基準を超える鉛が検出され、輸入が中止された事件も起きている。今回は死亡事故ではないが人の食べ物による毒物混入事件である。なおさら中国当局としては神経質にならざるを得ない。

そして中国は夏にオリンピックを控えている。その直前になった今、中国の食に対する安全が揺らぎ始めるとオリンピックそのものにも影響が出ると言う事だろう。そうなれば国家の威信を掛けて取り組んできたオリンピック事業が失敗になり、国としての面子も落とす事になりかねない。幸いと言うべきか、不幸にと言うべきかは分からないが、中国は共産党による一党独裁体制でこの様な事件が起きた場合でも政府は容易にマスコミをコントロールできる。これは日本やアメリカ等の西側先進国とは大きく事情が異なっている。

そんな中で日本国内は蜂の巣を突いた様な報道ぶりである。勿論一般の中国国民がこの様な日本の報道を見る事は極めて少ないが中国政府にとっては迷惑な話だろう。この様な情報は日本から世界中に発信されてしまう事を中国政府は良く知っているからだ。

そんな訳で中国公安当局が発表した結果は、日本とは180度異なった見解となった。この一例を上げ中国当局の行動を非難する事は簡単である。しかしその事により問題解決が近くなるとは思われない。ここは感情をひとまず抑え冷静に、又科学的に一つ一つ検証していくべきだと思う。

話が少しずれるが、中国以外の国でもこの様な例はいくらでもある。日本人の文化では自分が間違いを犯したら正直に認め先ず謝罪する事が大事な条件だろうと思う。しかしながら外国の文化は日本のそれと同じ国ばかりではない。むしろ異なった文化(習慣)の国の方が多いくらいであろう。現実に間違いを犯したことを認識していても色々と言い訳をしたり、立場が強い場合には決して認めない事もある。この様な態度は日本人には中々馴染めない事ではあるが、現実の世界ではむしろ日本の立場の方が少数派ではないかと思う。

話をギョウザ事件に戻して、では日本はうやむやにして中国の言い分を認めるべきか?それが出来ない事は明白である。問題は決定的な客観的、科学的事実を追求して証明する以外に解決の道は無い。中国が日本に原因を押し付けてきても冷静に対応し、決定的な証拠が挙がればそれを中国当局に示し説明を求めるべきであろう。又同時に世界にもその結果を公表する事も大事な後始末であろう。日本と中国に対する世界の国々の信用度は、現段階では日本の方が遥かに高い事も事実である。何処へ出しても文句が付けようのない客観的証拠が示されれば中国当局も認めざるを得ない。もし万が一に中国が認めなくともそれ以外の国々は日本の言い分を支持すると思うからだ。

ここで厄介な事は、中国が政府によるマスコミのコントロールが容易な事とは逆に、日本のメディアは諸刃の刀である。問題の解決を科学的に立証しようとする時に新聞、週刊誌は言うに及ばずTVニュースやワイドショウ番組まで国民意識を扇動する様な事が日常起きている。英国に長年住んでいても日本のワイドショウ等の様な番組は見た事がない。(知らないだけかも?)アメリカ等ではあることは知っているが、結論をマスメディアが世論を扇動して導き出す事も、逆の意味で中国と同じ様に危険である。感情が先にくると問題解決に繋がらないばかりか、ヒステリックなナショナリズムを引き起こす。これはギョウザ事件以上に日本と中国との関係を悪くさせる事になるはずである。もしこの様な目的で犯人が毒ギョウザを作ったとしたら日本も中国もまんまと犯人に乗せられた事になるのではないか。

2008/03/06

最近の車の乗り心地

車のサスペンションと言うものはそれ自体が非常に乗り心地に大きく作用する事は誰でも知っている。

しかしながら昨今のモータースポーツ、とりわけフォーミュラー カーでのサスペンション開発は乗り心地以外にも重要な要素があるようだ。アクティブ サスペンションやリアクティブ サスペンション等と聞くとF1のサスペンションを想像するが、スプリングの代わりに油圧を使ったこれらのサスペンションは90年代にはいくつかのティームが採用し良い成績を収めたが、93年にはレギュレーションが変更され使えなくなってしまった。

油圧によるサスペンションはフランスのシトロエンが有名である。シトロエンが初めて油圧(ハイドロ ニューマティク)と呼ばれる窒素ガスと油圧による革新的なサスペンションをDSというシリーズで出した事を記憶しているが、実際にDSにはパリでタクシーに乗った事が1回だけある。そのときの印象は車と言うより舟に乗ったときの様な、路面からの突起に対する反応が実に柔らかだった事を覚えている。その後2度程CXというシトロエンにも乗ったがDSの時程の感激は感じなかった。

CXの後継車XMや一回り小型のGS、最新のC5など益々進歩したシトロエンのハイドロシステムではあるが、いつの間にやら優れたスチール製のスプリングを使ったサスペンションとの違いが気薄になってきたように感じるのは自分だけだろうか? 

最近では良くできた電子制御のエアー サスペンションが、いつの間にやらハイドロのサスペンションより乗り心地やハンドリングを含めて評判も良いようである。しかしながら1950年代中ごろにハイドロリックの優れた乗り心地をより簡素なシステムで実現したシトロエンの実績は少しも価値が下がるものではない。

確かにサーキット走行には柔らか過ぎる乗り心地であろうが、その作られた目的とするところが快適さの追求であれば現在でも充分に通用する技術であると思う。

20代くらいまではとんがった(硬い)サスペンションの車を良しとした時代もあったが、50代も後半に達する頃には価値観が大きく変わってくる。何より体が正直で速く走る車も確かに魅力ではあるが、長時間運転しても疲労感の少ない車が欲しくなる。

それにしても昔からフランスの車は大衆車にも関わらずシートやサスペンションに随分と優れたデザインを取り入れたものが多かった。ルノー サンク(5)やシトロエン2CVなど大衆車の先端にあるモデルでもなぜこんなに乗り心地が良いのか?と不思議だった。別に凝ったサスでもなかったのに。

そこへゆくと同年代の日本車の大衆車ときたら乗り心地は随分とひどかった。近年こそこれら欧州の大衆車と変わらぬまでになってはきたが、エンジンがハイブリッドや燃料電池に置き換えられる時代に車の持つ快適な移動手段としてのツールとは?という問いかけも重要な意味があると思う。静かでエアコンも有りステレオやカーナビだけが快適な移動手段のツールでは少々寂しくは無いか。