2010/06/22

世界基準が試される日本社会

工業製品を世界中で販売する為には、個々の製品に付き販売される国の規則や基準を満たしている事が重要な課題である事は言うまでもない。

一般の人が使う工業製品ばかりではなく、最近では国家的プロジェクトにまで国際規格が基準として前提となる事を、新幹線や送電等のインフラ設備でも必然である事を知った。

日本が誇る新幹線技術を世界中の国に売り込む際にも、国際基準が適用されると言う事らしい。
これとは別に車や電気製品などは、当然の事ながら売り込む国の規格や法的基準に達して居なければ製品の販売さえ行なえないことになる。

2010/05/27

マグロと鯨

3月18日カタールはドーハにおいて、ワシントン条約締結国会議が行なわれた。

今回の議題は大西洋のクロマグロを絶滅危惧種に指定して、国際商業取引を禁止させる事が、モナコの提案であった。それに対してEUとアメリカが賛成に回り、クロマグロの最大の消費国日本が反対すると言う、日本を取り巻く環境が捕鯨問題と同じ様な雲行きになってきた事である。
鯨は原則として商業捕鯨が認められてはいない。鯨資源の有効利用を取り決めるはずのIWCが、グリンピース等の環境保護団体に乗っ取られてしまい、これまでにアイスランドやノルウェー等の捕鯨国は脱退してしまった事は以前にも書いた。

唯一捕鯨国では日本がメンバーとして加盟しているが、反捕鯨国の政治力に押され、日本が中々商業捕鯨再開に漕ぎ付けるまでには程遠い状態である。

2010/05/03

拳士のオリンピックに対する否定的感情はなぜ?

少林寺拳法の拳士に『少林寺拳法はオリンピック参加をどう捉えているか』を聞くと、その殆んどが否定的意見である。

いわく、オリンピックは勝利至上主義に陥りやすく、我々の教えと馴染まない。
オリンピックでのドーピングを例に取り、どんな事をしても勝てばよいと言う様な人格を育ててしまう、等など否定的な意見がその主流である。

これは何も日本人の拳士に限った事ではない、ヨーロッパの拳士に聞いた時も多くの支部長が同じ様な見解を示した。勿論、中には賛成する意見も聞かれたが、どちらかと言えば少数派であった。

確かに開祖も生前オリンピックを例に取り、我々が目指す人造りには勝利至上主義に陥りやすい事や、仲間ですら選ばれる為には敵になる事、などを指摘されて『目的(勝つ)の為には手段を選ばないと言うような選手を育てる事が我々の指導とは相容れない』と指摘された事は今も記憶にある。

しかしながら開祖が言いたかった事は、オリンピックが勝利至上主義や、その為には手段を選ばないような人格を作ってしまう事が多々あるので、我々少林寺拳士や指導者は如何にそうならない為の指導や修行をする事が重要か?と言う問い掛けで有ったのではないかと思う。

2010/04/12

トヨタ バッシングとは

アメリカにおいてトヨタ車の暴走が問題となり、米政府公聴会にトヨタの社長を呼んで政治ショー(国がスポンサーのワイドショー)を公開の場でやった事は前代未聞の珍事と言わなければならない。

常識的に考えても、いくら経営者に責任が有るとは言えトヨタの社長が技術者よりも車の技術的要素に詳しいとは考えられない。

本来の技術的欠陥を証言させることが目的であるならば、当然経営者よりも問題となった車両を設計した技術者を呼ばなければならないはずである。

問題となる部品や設計上の欠陥があるとすれば、それを証明できるのは事務方のトップ(社長)ではなく、技術畑の責任者ではないか。 

その様な場所に技術的な説明が出来ない社長自身を呼びつけ、公聴会と言う政治ショーをやった事にアメリカ政府の隠された本当の目的があったように感じられる。

2010/04/02

007を地で行く世界の諜報組織

今年1月ドバイにおいて、パレスチナの政治組織ハマスの幹部、マブフーフ氏が暗殺されると云うニュースがあった。

このところこれに関連したBBCで流されるニュースは、英国政府がイスラエル政府に対して外交関係を絶つべきではないか、と言う論調が目立っている。

理由の最大の根拠とされるものは、ドバイ警察が発表した事件関係者の映像写真(ビデオ)である。繰り返し流されるこれらの映像で犯行に関わったとされる人物が特定され、その中に英国の偽造パスポートを持った人物が6人も居たと発表された事である。他にはフランスやドイツ、アイルランド国籍のパスポート偽造もあったと公表された。

この事件が英国とイスラエルとの外交関係にまで発展して、イスラエルの外交官を退去させるかどうかの議論が沸騰していると言う訳である。

2010/03/25

朝青龍時代の終焉

今場所から横綱朝青龍が居なくなった。

これまで色々な批判を浴びながら、それでも大相撲界を大いに盛り上げてきた事は確かである。残念ながら昨年末の暴力事件が公表されるに至り、ついに引退に追い込まれてしまった。

自分は朝青龍のスピード感あふれる、闘志むき出しの相撲が好きだった。人によっては彼の見せる闘志を前面に出した、強面の表情に『横綱としての品が無い』等と言い嫌う人も確かに多かった。又、優勝した時に両手を挙げてガッツポーズをした事が、横綱の品位を汚す等と批判を浴びた事も多々あった力士でもある。

2010/03/07

日本国民の知る権利さえ遠ざけるように見えるマスコミのスタンス

今は世界の多くの国が不況で喘いでいる。
日本ばかりでなくアメリカもヨーロッパの国々も状況は同じだ。つい先ごろは欧州共同通貨ユーロの下落が目立っている。これの原因は前のギリシャ政府が財政状況を意図的に良く見せて発表してきた事が原因であった。

昨年のドバイショックも覚めやらぬ中、スペインやポルトガルの財政不安が持ち上がり、ギリシャ政府の介入が発覚した後は、ユーロ安が進んだと言う訳である。ここに来てドイツとフランスから資金援助が表明されるに至り、少し状況は落ち着きを見せている。

ギリシャのGDPは日本の10分の一以下である、日本や中国などに比べれば少ない事は言うまでもないが、大騒ぎしているドイツ政府やフランス政府の打ち出した救援策を見て驚いた。両国(ドイツとフランス)が打ち出したギリシャ国債を購入する金額が300億ユーロ、約3兆6000億円。翻って、日本政府が保有するアメリカ国債の残高は、7657億ドル(約70兆円)。日本一国がですよ!。中国がこれより少し多く、8948億ドル(76,5兆円)それ以外の国を合わせると、途方も無い国債を外国に買わせている国はアメリカ以外には無い。

ドイツとフランスの3兆6千億等、日本や中国の米国債の買取に比べればかわいいものではないか。3兆6千億で大騒ぎしていたら、日本の米国債70兆円はどんな表現をすれば良いのであろうか?

2010/02/28

聴力のおとろえ

人は加齢により様々なものに変化が生ずる。体力の変化や視力の低下は勿論のこと聴力にも衰えは確実にやってくる。 勿論これは人間ばかりではなく、全ての生あるものに共通の変化である。仏教的に言えば生あるものに限らず、形あるものは全て変化する(色即是空)と言う事なのであろう。

年齢が若いときには聞こえた高音域の音が、年を取るにしたがって聞こえにくくなる事は、オーディオ ファイルの世界ではよく知られている。しかしながら観念的にその様な事を理解していても、普段聞いているスピーカーからの音が、ある日突然に高域が聞こえなくなる訳ではないので自身では中々気が付きにくい事も確かである。

以前この欄でiPodを良い音だと聞いている若い人達に、『良い音を聞いて、耳も鍛えた方が良い!』等と不遜なことを言った事を記憶しているが、それは今でもそうだと信じている。良い音とそうでない音の区別が付かない様な聞き方では、耳を鍛える事は出来ないと思うからである。

自分達が学生だった頃には街中にジャズ喫茶や、クラッシック音楽だけを聞かせる喫茶店が結構あった。その様な店では普段中々一般の人が買えない高価格のステレオ装置(ハイエンド機)で音楽を聴くことが出来た。 

ジャズばかり聴いていた自分は数多くの有名店と言われるジャズ喫茶に出かけ聞き回った事がある。その様な経験が同じミュージシャンの音でも随分異なった印象を受けた記憶が有る。 どこの喫茶店のマスターも自分の処の音が最高だ(傍目にはそう見えた)と信じてお客に聞かせている訳であるから、一般の家で聞く音とは一味も二味も違った音を聞かせてくれた。

ひるがえって最近ではこの様な喫茶店はビジネスの対象とはなりにくいのであろうか、多くのジャズ喫茶等は姿を消してしまった。その影響もあってか若者が音を純粋に聞きかじり、比較できる環境が減ってきてしまった事は非常に残念だと思う。 

iPod等と言う便利で比較的音質も良い機材が発売され、若者は元より小生のように還暦を過ぎたオヤジ層までが、その便利さから買い求める時代であるから、でかくて持ち運びの出来ない大きなステレオ装置など殆んどの人からは忘れ去られた遺物の様な存在になってしまった。

しかしながらその昔聞き比べたジャズ喫茶の音を思い起こしながら、少しでも生の音に近い音を出したいとスピーカーやアンプ、CDデッキ等をとっかえひっかえしたり、はたまたスピーカー コードからアンプの接続ケーブルに至るまで、良い音が出ないか?と挑戦する事などiPodだけを音源とする人には理解できない事なのかも知れない。

音の中でも特に低音域の再生には直径の大きなスピーカー(ウーファー)が必要になる。そしてその様なウーファーを入れるエンクロージャー(箱)も当然の事ながら大きくなる事は避けられない。小さいスピーカーでも良い音がするスピーカーも確かにある。しかしそもそも良い音等というものは怪しいものである事も事実であろう。何故ならば本来出せるはずの無い(物理的に)低域の音を、それらしく聞かせられると言う事は、いかにも現代のニーズに合っているとも言える訳だ。

iPodから出る音をイヤフォンを耳に突っ込み聞いている音に比べれば、小さなスピーカーの音でも結構新鮮に良く聞こえたりするものである。その音が現実の生の音と比較すると、とても聞けないような代物であっても、中々聞き分ける事は難しい。

最近ではデジタル放送が始まって、TVもプラズマやLCD(液晶)が大画面で高画質(HDハイデフニション)が一般的になってきた。それと平行してサラウンドシステムと言い5.1cなどと呼ばれる小型スピーカーをTVの両端や部屋の周りに置き、TVの後ろにサブウーファーを置いて臨場感を出せるようにしたシステムがある。初め電気の量販店でそのデモ(音)を聞いた時、酷い音だなと感じた。しかし不思議なもので映像と同時に聞くと迫力のある音に聞こえるし、臨場感は確かに普通のTVに内蔵されたスピーカーとは比較にならないくらい迫力がある。

これが音楽番組になるとトテモ気持ちが悪い音になってしまう。サブウーファーの音には誇張された違和感を覚えるし、小さなスピーカーから出る高域も金属的なデジタル音が強すぎてライブの音とは開きがある。映像を同時に見ると違和感は映像に、目(集中)を奪われそれ程酷く感じないものの、目を閉じると途端に違和感を感じる事からも、人の感覚のいい加減さが分かると言うものではないか。

スピーカーから出る低音域は実に難しく、それがスピーカー メーカーの技の見せどころなのであろう。いくらすごい技術を持っていても物理特性だけはどうにもならない。サラウンドの小さなスピーカーからは、どれ程お金を掛けても38cmウーファーの低域は出すことが出来ないのは明白である。サブウーファーも所詮それらしく音作りをしてはあるが、コストなどの制限もあり自然な音が出た物に出会った事が無い。

低域は年をとっても比較的聞こえるが、問題は高域である。先日音域特性を測るCDを手に入れたので実験してみた。人間の耳で聞こえる高域の限界が2万ヘルツであるらしい。よって普通のCD録音では高域が2万までしか入っていないらしい。SACD(スーパーオーディオCD)にはそれ以上まで入っているとの事だが、それを聞き分けられる人がそれ程いるとも思えない。
確かに人は耳ばかりでなく身体全体を使って、骨等でも音を聞いている事は知っているが、それでも実際には耳の役割が主なことは事実であろう。

自分の場合には13000khあたりから聞こえなくなった。何のことは無い2万もとても行かないではないか。若い人こそ高域は聞こえると聞いたので20代の息子に実験してみた。結果27歳の息子は18000ヘルツ辺りまで聞こえるらしい、悔しいが現実を受け止めるしかない。

加齢による聴力の衰えは誰にでも来るものだとあきらめて、出来るだけ自分が楽しめる音楽を最良の音で楽しむことにしよう。若者に耳を鍛えた方が良いのでは、と言うアドバイスは今でも信じてはいるが。

今度はもっと若い孫で実験してみようと考えている、10歳以下の子供ではどこまで聞こえるのか興味がある。しかしその様な子供では感じ取れない音楽の面白さ(音域だけではない深さ等)がオーディオ ファイルの楽しみの一つかも知れない、どうかな?

2010/01/20

何か変だなと一般国民が感じない今の日本での報道

このところ政界がまたまた政治資金やら、不正献金の問題で騒がしい。
以前から感じていた事ではあるが、日本の司法当局は、マスメディアに対して、どんな対応をしているのだろうと、不思議に感じた事が何度もある。
これは何も民放ばかりではなく、公共放送といわれるNHKまでもが良く使うフレーズがある。『関係者からの証言によれば』等と表現され、いかにも情報源が真実であるような言い方を良く見かける。

この“関係者”とはいった誰の事を言うのであろうか?
今回もその事が使われた背景は、事情聴取を受けていた国会議員が逮捕され、その事件について伝えるニュースでも出てきた。まさか逮捕された本人が直接メディアに話したとは考えられない。それ以外の関係者と言えば逮捕に踏み切った特捜部か、検察の誰かと言う事になる。少し慎重に考えればこの様な状態がおかしい事は直ぐ分かるのに、中々それ自体が問題として論じられた事を余り聞いた事がない。

何がおかしいのか?
本来、仮に容疑の掛かった人物を逮捕したとしても、その時点で容疑者が有罪と決まったわけではない事は明白である。 個人の人権にとっても容疑者の個人的情報は、裁判以外の場では保護されなければならない。そうであるにもかかわらず、関係者と呼ばれる人達から、その人物や関係部署の名前を出す事も無く、又真実かどうかも確認できた訳でもないのに、いかにもと言うような情報がぞろぞろと紹介される事に違和感を感じるのは、小生だけであろうか?
足利事件での冤罪が昨年あれほど脚光を浴びたのに、警察や検察ばかりでなく一方の責任を問われるべきマスメディアは、今回もその反省のかけらも見られない。客観的事実だけを伝えなければならないはずの、メディアが面白おかしくテレビのニュースから、ワイドショーまでくり返し放送し、又新聞、週刊誌は同じ情報のソースを何の検証もしないまま垂れ流す事に、一般の日本国民は何の不思議も感じなくなってしまったのであろうか。

大きな問題は裁判での結果が出る前に、多くの国民がメディアに洗脳されてしまい、その事により国論までが左右される事態が現実に出てきていることである。
ニュースや新聞での内閣や政府の支持率や、容疑を公表された政治家に対して使われる、『説明責任がなされていない』と言う言葉ほど、自分達の責任を放り出して都合の良い言い訳にしているとしか思えない。本来のメディアの誠実な立場から言えば、その情報の根拠こそ自ら説明しなければならないはずではないか。それをいかにも政治家や容疑者本人から説明されないからと言って、それを持って黒のレッテルを(イメージ的に)貼って、その事による国民の真実を知る権利どころか、見方を変えれば情報操作と言われても仕方が無いところまで来ているのではないか。

又単純に考えても、テレビ画面に映し出された時間内で、果たしてどの様に説明すれば国民は説明責任を受け入れるのであろうか?預金通帳を見せたり、関係するドキュメントをメディアの前で公表すれば理解されるのであろうか?おそらくどんな説明も何の助けにもならない事は明白である。なぜならばそれを伝えるメディアそのものが、すでに答え『有罪ありき』を導き出しているようにも見えてしまうからである。このメディアの姿勢こそ本来批判されなければならないはずであるのに、この様な論調は何所にも見られない。

国会での記者クラブが海外のメディアから批判される事は度々起きている。なぜならば記者クラブを構成しているメディアは、極論を言えば何の努力もしないで、政府や閣僚、官僚からの情報をいちはやく入手できるからである。これは言い換えれば、どこのメディアも特出は許されず、同じ情報源を、多少のフレーズを変えて大衆にばら撒いていることになる。本来であれば、多様な情報源からそれぞれの信頼にたる客観的な裏付けをとり、それを元にメディアで紹介するのが良質な情報活動であると思う。

世界の先進国と呼ばれる国の中で、マスメディアの一元的な法人が許されているのは日本だけではないか。日本国内のこの状態を海外から見れば、その異常さに気が付くと思う。テレビ放送をする会社が、新聞から雑誌まで、幅広く情報を流す(コントロールできる)事は欧米の社会では禁じられている。情報の均一化は国民の知る権利どころか、国民の思考方法まで左右させる事が出来る力を持っている事を知っているからだ。

マスメディアが導き出した結論、『有罪』が本当の結論では断じてない事は言うまでもないが、そこで導き出された洗脳(言葉は極端ではあるが)は、価値観が均一的(欧米諸国と比べ)な日本と云う国民体質を考えると恐ろしい事ではないだろうか。

『誰も戦争など肯定する国民は居ない』と言う事は簡単であるし、その事事態が間違っているとは思わない、しかし何度も言うように、特別な情報源を明かさないまま、垂れ流される一方的な情報を、何の疑いも無く受け入れる国民的な体質と、その事を良く知っている人達が一部に居る事も事実である。

開祖宗道臣の残した遺訓、『拳士一人ひとりが賢くなって、物事の真実を見抜ける力を持たなければならない』、と講習会で多くの指導者を前に話していた事がつい先日の様に思い出される。その言葉の意味するところが『眼光紙背に徹す』だろうと想像している。