2008/07/18

完全公平なスポーツ等は無い

北京オリンピックが直ぐそこに迫っている。
何でも今回のオリンピック競技を最後に日本の得意種目である野球とソフトボールが公式種目から外れるようである。なぜこの2競技がオリンピック種目から無くなるのであろうか?

答えは簡単だ。
次の開催地であるロンドンが多くなり過ぎた種目の整理!と言う理由を前面に立てて、自分達の余り得意ではない種目を減らしメダルが狙えそうな競技に置き換えたいだけである。この様な例は他にもいくつも数えられる。日本でも東京オリンピックの1964年をきっかけに柔道を競技にねじ込んだ事は当時を知る自分には良く分かる。確かにその次の1968年メキシコのオリンピックでは柔道は消えてしまったがその後のオリンピックで復活を果たしている。


英国でも野球をする人は存在するが非常にその数は少ない。又英国人がアメリカで生まれた野球を今一つ軽く見ている様なところがある。何故ならばアメリカで生まれたベースボールの原型が英国の子供たちがするラウンダーズと云うゲームから来ている事にもあるのかもしれない。英国の人達がフェアなスポーツと自慢するクリケット(事実クリケットは競技意外にもフェアーと云う意味も有る)は英国の国技ではあるが、公式の試合に3日間も要する競技はマスメデイアが発展した今日では、時間的にも現代スポーツには向いていないようだ。かつて英国を宗主国としていた国以外では余りポピュラーなスポーツではない。

オリンピックが代表する近代スポーツの特徴としてあげられるのはどの競技のルールにおいてもフェアーネス(公平性)が最も重視されることではないだろうか。これはスポーツの持つ健全性は公平なルールが有ってこそ意味をなすと考えられているからであろう。

しかしながらよく考えて見れば分かるようにスポーツ競技における完全なる公平性なるものはありえない。人の顔かたちや体格が違うように人種における特徴も大きく異なることを考えれば、ある程度は想像できるのではないか。

例えばバスケットボールやバレーボールなどの競技は背の高い人達が圧倒的に有利な事は云うまでもない。この様な競技にはバスケットやネットの高さは変わらない事から身長の高い選手をより多くそろえたチームが有利な事は明らかであろう。例えばテニスにしても背の低いプレーヤーがウインブルドン等メジャーなコンテストで優勝した例は数少ないであろう。同じ条件のネットの高さであれば身長差が30cmも有ればサービスの瞬間から大きな差が出てしまう。何事もに例外は存在するが多くの場合人種的な特徴も無視できない。

前にも書いた事があるが水泳競技等はアフリカ系民族には骨格的(骨太で重い)なハンデイを持つ。逆にこの特徴は陸上競技や格闘技等の世界では大きなアドバンテージになる事も数多くの事例が証明している。 

近代スポーツの公平性を測る上で欧米の考え方は体重である。彼らの思考回路では体重=体力と捉えている。確かに一般的には体重の重い者の方が体力にも勝ると云えるのかも知れないが、これだけで公平性が解決すると考えるところに彼らの価値観の横暴さが感じられてしまう。 

日本でも有力選手が国体の開催県を渡り歩くジプシー選手が居る事は公然の事実だが、オリンピックやワールドカップ等の為に国籍を変えて有力なアスリートを抱え込む国が多い事もフェアネスと云う観点からはおかしな現象ではないか。近代オリンピックと云う割には競技での審判でビデオ等のより正確な技術が使われる事もほとんど無い。タイムを計測する陸上や水泳競技での電子時計は別にして柔道やレスリング、野球等の球技の判定に明らかな審判ミスがあった場合でもジャッジがビデオで確認された後ひるがえされる事はあまり例が無い。

この様に考えると完全なる公平性等と云うものは全くの妄想に過ぎないと云う事であろう。言い換えればいかに言い訳(理由付け)が出来るように考えられたのが近代スポーツの特徴なのかもしれない。