2008/06/23

人権問題とは

ミャンマーの軍事政権の非道振りが世界中の注目を浴びている。軍事政権が長年抑圧し続けた民主化勢力との話し合いは実現するどころか全くの独裁政策がより進んでいると言っても過言ではない。

今度の仏教僧の抗議デモを軍隊を動員して封じ込めた事に世界中から非難の声が上がっている。とりわけ欧米のマスコミはこの様な人権抑圧に厳しい論調を取るが、よく観察してみると中々簡単ではなさそうな問題も含まれている。

国連安保理のミャンマー非難決議は中国などの反対ですんなりいきそうには無いが、ここに来て北京五輪を控え中国も欧米の論調を無視できなくなっている。日本人記者長井さんの射殺が引きがねとなって、欧米の人権団体の動きがより激しくなってきているが、肝心の日本国内では今一つ同胞が殺されているにも関わらず反応が鈍い事が気になる。

人権問題は欧米諸国が自慢するほどの事ではないのだが、今回ばかりは日本人の記者が射殺される瞬間映像が世界中に流され大きな衝撃を世界中に与えているにも関わらず日本国内からの非難は関係者と政府筋の一部からしか聞こえてこない。

人権問題は欧米の主張するような単純な問題ではない。例えば今回のミャンマーは確かに軍事政権が民主化を武力で封じ込め、民主化のリーダーであるアウンサン スーチーさんを自宅軟禁状態にして何年も独裁政治を続けている事を欧米のメディアは取り上げ、国連でも改善を要求しているが一向に解決の糸口すら見えていないのが実情である。

しかしこの様な軍事政権の国や独裁者の支配する国は他にも幾つかある。例えば同じ様な軍事政権をとっている国はミャンマー以外にも北朝鮮、リビア、フィジー、タイ、パキスタン、スーダン等がある。アフリカや中南米諸国を加えれば何十カ国も同じような状況の国が存在する。

なぜ自分が欧米諸国の人権擁護が彼らが自負するほどのものではないかと思うのは、往々にして自分達の利害が絡んだ場合においては、利害が優先するというダブル スタンダードな面をいやというほど目にするからである。

例えば同じようなアジアの軍事政権のパキスタンでは、ムシャラフ大統領はクーデターで政権を乗っ取ったにもかかわらずミャンマーに対するのと同じような圧力を欧米から掛けられてはいない。これはムシャラフ氏がイスラム原理主義の封じ込めにアメリカに同調してアフガニスタンにおけるテロや首謀者のビンラディンを追及しているからに他ならない。

過去にもアメリカはイランを支配していたシャー国王がホメイニ氏の帰国とイスラム原理主義運動により国外に追放されると、それまで敵対していたイラクのサダム フセインに武器援助までした事実がある。サダム フセインがアメリカの言う事を聞いてイランと戦争をしている間、欧米は問題にもしなかった。フランスがイラク戦争においてアメリカに加担しなかった事も人権が主な理由ではなく、それまでの石油利権をアメリカに取られる事を嫌った事が主な理由である事から決してほめられたものではない。

タイにおいても軍事政権のクーデターにより現在の政府は出来ている。もし人権問題を言うのであれば天安門広場で自国民に銃を向け何万人もの市民の人権を蹂躙した中国も当然攻められなければならない。しかし安保理の常任理事国である中国には事件当初の抗議運動はあったものの現在では全く遠い歴史のような欧米諸国の態度ではないか。小生が彼らの人権問題を自分達の都合が優先するダブル スタンダード(二重基準)だと言うのはこの様な背景を垣間見るからである。

確かに人権問題はミャンマーの民主化勢力封じ込めや、パキスタン、タイの軍事政権、スーダンのダルフール紛争等どれをとっても一筋縄では解決できない問題であろう。しかし人権問題を声高に掲げるアメリカやヨーロッパのダブル スタンダードを正さぬまま敵対した勢力(国)にのみ軍事的圧力や戦争にまでエスカレートさせる姿勢には当然のことながらNo!と言わねばならないのではないか。

(*注:タイ、パキスタンは2007年末から民主化手続き開始.またこの記事は2007年10月に投稿されました)

2008/06/08

子供の行動は誰の責任か

学校やその他の場所で子供のいじめが深刻な時代を迎えている。中学生や高校生がいじめで自殺したりすると、先ず学校長がそれらのいじめを掌握していなかったと言う言葉を何度も聴いてきたように思う。もし本当に生徒が死に至るまで担任の先生が何も知らなかったとすれば、それだけで充分に担任としての職責を果たしていなかった事を証明したようなものであろう。

子供社会のいじめは今に始った事ではないが、先進国は何処の国でも同様の問題はあるようだ。そしてそれらのいじめに非常に厳しく対処するばかりでなく、学校教育の場で色々なイジメ防止策や発見の為のメカニズムを構築している。

では、先進国以外の国でイジメは無いのか?と聞かれれば答えに困るが、自分達(団塊世代)の例が参考になるかどうかは別として自分達が子供の頃発展途上国だった日本でもイジメそのものは確かに存在したと思う。しかし現在のような一人の子供をクラスの全員がイジメに関わり自殺にまで発展する様な陰湿な状態は思い当たらない。個人的な喧嘩や下級生に対するイジメ(個人的なもの)は当時も有った事は言うまでもないが、インターネットや携帯電話も無い時代はイジメ自体も現在ほど複雑な構造ではなかったように思う。


発展途上国での一般の国民はその日その日を生活する事が最重要課題であり、又独裁者が支配する様な国(フセイン統治下のイラクやキム ジョンイル体制の北朝鮮)では国や支配者がイジメの側にあり、一般国民は権力者の前には非力である為にお互いが協力する事のほうが自身の身を守る為にも必要となり、子供たちのいじめ等は問題にならないのだと思う。

それでは先進国はどうかと言えば、最近良く言われるセクハラ(セクシュアル ハラスメント)やパワハラ(パワーのある者の弱者虐め)の様に日本以外の国でも結構あるようだ。これらのハラスメントは最近では日本においても重大な問題と捉えられるようになって来たが、それでも欧米先進国に比べると現実の社会ではまだまだ加害者に甘いことも事実である。ではこの様な場合イギリスはどの様に対処するのであろうか?もし職場でのパワハラが問題になったとすると、被害を受けた側の人間は上司ではなく司法の判断を仰ぐ。

もちろん個人的に信頼できる上司が居る場合にはその人物に相談する事も充分に考えられるが、会社に組合があればそこに被害を受けた問題を持っていく事も普通にある。ユニオン(組合)が無い場合には先程のように直接司法に訴えることも珍しくない。それにより人権は保護される訳でその事が司法の場で解決を見た場合には、それ以後の職場で不利益をこうむることは無いというわけだ。

もし、それでもセクハラやパワハラが続けば警察の仕事になるからである。つまりそこまでしないと労働者の権利や人権は守れないことを先進国というストレス社会としての歴史の長い英国はこれまでの時間の中で学んできたわけである。

では日本社会はといえば、先進国(ストレス社会)としての歴史は欧米諸国に比べると時間的には少し短い。又文化的背景も例えばイギリスやフランスのように世界中に植民地を持っていなかったので、そこから受ける(学ぶ)文化摩擦も少なかったはずである。確かに第二次世界大戦以前は日本も韓国や中国の一部を植民地として統治した歴史はあるが、そのいずれの国もアジアの近隣諸国であり日本との繋がりは歴史的にも非常に長く、日本自体が歴史上それらの国から影響を受けてきた経緯がある。イギリスやフランス等ヨーロッパの国々がアフリカやオーストラリア、アジア、アメリカ大陸等に植民地を持っていた事と比べると文化的摩擦は比較的小さかったと思われる。

文化の違いは大きければ大きいほど摩擦も大きくなる。人種差別や性差別等の問題が深刻に存在した為に、それらの問題に対する改革(人権運動やウーマンリブ)が大きく取り上げられる様になった理由は、欧米社会においてそれらの問題が日本よりもはるかに深刻だった事がその背景にある。

自分が渡英してからこれまでの34年間の間にも、人々の人種差別や性差別に対する意識が随分変わってきた事を実感として感じ取ることが出来る。イギリスやフランスほど文化摩擦が大きくなかった事が逆に日本人社会がそれらの意識(人権や差別)に対する問題点を気薄にしてきたのかも知れない。その事が現在でも職場やいろいろな場所で弱者に対するハラスメントが無くならない一つの原因ではないかと思う。

その様な職場(大人社会)におけるハラスメントは確実に子供の社会にも影響を及ぼす事は言うまでもない。子供社会(学校)の虐めを大人のそれとは切り離して考えていては何時までたっても問題の本質的解決にはならないのではないか。言い換えれば子供の行動は大人社会のそれ(行動)と表裏一体と考えた方が自然だと思う。

子供たちの陰湿な虐めを無くそうとするのであれば先ず大人達がその手本を示すべきであろう。法律の整備を含め社会的弱者に対する差別や虐めを解決しようと真剣に取り組まなければ、子供達だけに虐めをやめさせようとしても問題の根本的解決は難しいのではないか?そんな疑問を拭い去ることが出来ない。