2007/06/28

大きな成果を収めたヨーロッパ大会

先週末の23日〜25日、3日間に渡ってイタリアのノルチャで催された2007年度のヨーロッパ大会と講習会に行って来た。

ヨーロッパ大会は青坂先生と小生が80年代から始めた大会で、ヨーロッパで少林寺拳法を修練する拳士を対象にした4年に一度催される大会である。

初めのうちはフランスやイギリスの10周年とか15周年記念にあわせてやっていたが、定期的にヨーロッパの拳士達を対象にした大会も必要ということで青坂先生と相談の結果、国際大会の2年後に行うようになった。

又国際講習会も同時に催されるようになり、普段顔を合わせることの無いヨーロッパの拳士達が回が増す毎に参加者が増えてきた事はこの道を普及しようとする我々にとっては大変喜ばしい現象である。

イタリアがホスト国となったヨーロッパ大会は今回が初めてである。これまでにもヨーロッパ講習会などを催した経験は有ったが大会は今年が初めてであった。大会会場となったノルチャという町は古い街で、首都ローマから北東に位置し、バスで移動した我々は3時間くらい掛かった。

小生は講習会でこの町を訪れた事が過去に2度ほどあるが山の中にある街であるため大きな市では無い。この街はイタリア人が観光で訪れる様で歴史的な街の雰囲気を至る所で見かける。丁度英国に於けるコッツ ウォールズの村や街の様な存在の場所なのかもしれない。



イタリアは何時訪れても楽しい国である。先ず食べ物が美味い。『イギリスから出かければどこでも美味いだろう』と云われるかも知れないが、街で見かける小さなピッツリアのピザでも美味い。

始めの2日ほどはそれが良かったのだが、さすがに3日目くらいになると日本人はご飯が恋しくなる。青坂先生などは『お茶付けが食いたい!』と食事の度に零していたが、それは何も青坂先生に限った事ではなく自分もさすがにその頃には肉中心の食事には飽きて来た。

アンチパスタ(前菜)から始まる食事はパスタ、メイン(肉料理)と続きデザートとエスプレッソが出る頃には苦しいくらい満腹状態である。しかし毎日肉料理は本当に辛い、野菜料理は見事に出なかった。

アンチ パスタもプロシュート(生ハム)やサラミ等の肉料理だし、パスタはペンネやスパゲティー等の麺類でトマト味がベースで美味いけど辛い状態になる。海から遠いノルチャの街の事情も大きく影響している事は確かである。しかし野菜くらいはふんだんに出して欲しいものだ。最終日には何とかサラダも出てきたが、ともかく『お茶付け』と叫びたい気持ちは痛いほど共有できた。

ローマに移った最後のディナーは海老やイカ、魚の料理が専門のレストランに行ったが肉料理に辟易していた我々日本人には最高の料理だった。

大会は開催都市のノルチャが後援して大きく盛り上がった。600名を超える拳士の参加はヨーロッパでの大会や講習会に於ける参加人数としてはこれまでの最高を記録した。

22日ノルチャに到着した我々は市庁舎の前にある広場で参加国の拳士達が国旗を先頭に、異なった色のTシャツを着て行進し、見ていた市長をはじめ観光客も大いに喜んでいた。

ノルチャと言う小さな町にヨーロッパは元より日本、ロシアそしてアルゼンチンと言った国から参加した拳士達によって繰り広げられる踊りや音楽がそれらを盛り上げるのに大いに役立ったことは云うまでも無い。市庁舎のバルコニーから挨拶に立った宗由貴WSKO会長にも沢山の拍手が送られていた。

このような催しをさせるとイタリア人は天才的だ。盛り上げる事が実に上手い。ヨーロッパ大会も非常に成功だった。パソコンをリンクして集計から順位決めまで実に効率良く大会を進めて行く。これはヨーロッパの国では最初に全国大会を開いた英国より現在でははるかに運営が上手だと認めなければならない。

英国連盟も昨年から年間行事として大会を復活させているが、一度中断していた大会の運営と言うものが時間の変化と同じで現在ではなかなか効率的な運営と言うものが難しい。そこへいくと92年から毎年全国大会を運営しているイタリア連盟は今では参加拳士も多くなりヨーロッパでは最も大会運営が上手な国になったと思う。

        

大会の会場は日本やインドネシアと異なり、柔法マットの様な物を演武をする全てのコートに敷いて居る。その為どうしても派手な投げ技が多くなる傾向は否めない。主審をして気付いたが、級の女子拳士でも有段者の拳士の真似をし派手に飛んでいるのだが、膝から着地している様な場面に何度か出くわした。これは世界大会では出来ない演武だなと思ったが、他のヨーロッパの審判達には受けが良かったようだ。

フランスでの大会もマットを敷いていたがラテン系の拳士達にはこの方が好まれるのかも知れない、英国は初めから日本と同じコートと言う理由でマットを敷くことは無いが、これに慣れた拳士達にとっては早い動きの突や蹴からの柔法が難しい(足場が不安定に感じ)と言う不満も英国や北欧の拳士から聞いた。国際的なルール改定が進む中では重要な案件になる事も充分予想される。

少林寺拳法創始60周年を記念する今年、ヨーロッパ大会を成功に導いたイタリア連盟は今後益々自信を深めて行く事であろう。我々も負けては居られない。英国連盟拳士が一丸となって発展させて行かなければならない事を今回のヨーロッパ大会は指し示してくれた。

今一度大会の運営に裏方として大きく貢献したイタリア連盟の拳士達に『大会の成功おめでとう!』と同時に『有難う』とお礼を言いたい。



2007/06/25

刺青とタトゥ

日本社会で刺青をしていると一般社会ではなかなか受け入れられない。
就職なども一般的に難しい事であろうし、サウナや公衆浴場のように公共な場所では入場できない処がほとんどである。

ロンドンに住んでいると実にさまざまな人達が刺青をしている。
これはタトゥと呼ばれて若い女性でも平気で入れている。初めはオヤッと思ったがあまりにいろいろな人達が入れているのでそのうちに何も感じなくなった。

聞くところによると英王室は伝統的に軍隊に行かなければならないが、そこでの兵士に対する指揮官の勲章のような感覚で王室の中でもタトゥを入れている人が居ると聞いた事がある。

しかし一般的に見かける若者たちのタトゥは、日本のヤクザが入れる刺青とは全く違う安っぽい彫物である。

漫画のようなデザインがあったり、日本語の漢字が彫られていたりで、あるときイタリア人の拳士が"少林寺拳法"と漢字でタトゥを入れていたのを見て唖然とした事がある。

ガールフレンドかボーイフレンド等の恋人の名前をタトゥに入れている者もいるが、我々日本人の感覚からすると先ず第一印象が安っぽい。デザインもさることながら内容や漫画等とても刺青と呼べるような代物ではない。

しかし刺青は刺青である。タトゥはファッション感覚で気軽に入れるのであろうが、時代が変わって若いときに入れたタトゥが嫌になる事は無いのだろうか?この感覚だけは未だに小生には理解出来ない。

又彼等が日本に行って温泉やサウナ等に行った時、入場は拒否されるのであろうか?もし拒否されないならば刺青を入れたヤクザも入場を許されてしかるべきではないか。 

自分が子供の頃親から『決して大人になっても刺青など入れてはいけない』と強く諭された記憶がある。

それ事態がすでに古い考え方なのであろうか? 現在の若者がファッション感覚でタトゥを入れて楽しんでいる事をとやかく言うつもりは無い。しかしどう考えても一度刺青として入れてしまえば、それが死ぬまで消えない(手術で消せるとも聞いたが)事を考えるとそんなに簡単に自分の体を落書き帳にしたいとは思わない。

落書き帳とは言い過ぎに聞えるかも知れないが、漫画や自身で読めない漢字等、それも子供が書いたような字や絵であればなおの事そう思えてならない。

その点日本のヤクザがする刺青には一応ポリシーらしきものがあるように思う。彼等が入れる刺青はそのほとんどがプロの刺青師によって手で入れられたものである。若者が機械で簡単に入れるタトゥとは同じ刺青でも全く異なる。

芸術性も重要であろう、見るからに安っぽい図柄(漫画等)は先ず対象になる事は無いであろうし。見た人が『この人は一般の世界の人では無い』と一目で分かる事も、彼等の刺青が持つ意味としては重要な要素であろう。

若者のタトゥに対する認識は彼等、彼女等のヒーローやアイドルの存在も大きな要素であろう。アイドル達と同じ様なファッション感覚で簡単に刺青をしているとしたら、あまりにも短絡的と言わねばならない。 

タトゥはイヤリングやネックレスの様に簡単に取り外しや変更が利かないことを認識しなければ、入れた後で後悔する事になると思うが。

2007/06/19

LとRは難しい

LとRの発音は難しいと言うと「日本人の英語の発音の事か?」と言われそうだが、そうではない。英国人の彼等が難しいと言う話だ。エッと言う声が出そうだが、本当の話です。

昔から日本人の英語発音でLとRが難しい事は良く指摘される事だ。そんな事は分かっている。しかし日本人が難しいならイギリス人だって難しいと思うよ日本語のRで表す単語の発音は!

例えば我々が簡単に発音する『廻蹴』『流水蹴』『連反攻』を英文字で書くと"Mawashi-Geri" "Ryusui-Geri" "Ren-hanko"と書く事になるが、これを普通のイギリス人に読ませるととても日本人拳士が理解できる廻蹴や流水蹴と言う音は出てこない。それは我々日本人が苦労する英語独特のアクセント『LとR』で逆の現象が起こるからである。つまりイギリス人が日本語を発音する場合にも難しいと言うわけだ。

廻蹴の場合"Mawashi"までは普通に出てくる。しかし次の"Geri"はRが含まれているためGeに強いアクセントが来てしまう事になる。そして日本人の苦手な舌先を巻く"R"の発音が最後に強調される事で マワァシ ゲェィリィ と字にするとちょっと表現が難しいがこんな感じの音になるわけだ。単純に日本語で発音するところの蹴(Keri)や連反攻(Renhanko)のRの部分は英語での発音に関して言えば"L"で発音した方がより日本語の発音に近いと思う。

日本語に無い音Thをサと頑なに信じて新聞などでもF1レーサーの名前David Coulthardをデイヴィッド クルサードと書いて居るが実際にはクルタードである。クルサードでは誰か分からない。マイケルをミヒャエル、ロスバーグをロスベルグと書くのはドイツ語やフィンランド語発音をそのまま書いているのだろうと想像するが、はたしてドイツ人やフィンランド人がそのままのカタカナ読みで通じるかは不明である。

この様に見ると何も日本人だけが発音に苦労しているわけではない。単にその国(言語)の習慣や独特の発音や発声が、それらの音が無い国(日本におけるRやThやV等)の場合、イギリス人もついつい自分たちのクセをRの付いた日本語にそのまま使うので日本人には変な言葉(単語)に聞えてしまう事になる。

少林寺拳法用語は難しい。大車輪、足刀蹴、両手寄抜、等も発音が難しい名称だが、廻蹴三方受段蹴返などは日本人でも舌を噛みそうになるから外国人に発音させる事は至難の業である。

我々日本人にとって比較的発音が容易な国の言葉はイタリア語、スペイン語。両方とも親戚の様な言葉だがローマ字読みでかなり近い発音になる事もあり、イギリス人がそれらを発音する時より上手だと聞いた事がある。勿論これとて個人差はあるので一概に決め付けは出来ないが、ローマ字表記のものを読む場合にどうしても彼等は英語のクセが出るようだ。

日本人が中国語を読む場合と似ている、漢字で表される名前でも胡錦涛氏をコキントウと読んでフーチンタオとは中々読めないし北京でもペキンと読みベージンと読む人は少ないのと同じ現象ではなかろうか。

日本人だけが英語の発音が難しいと言うわけではない。と言う事を知っていれば少々問題があるアクセントでもそれ程気にする事は無いと思いますが、いかがでしょう。

2007/06/16

天才は居るか?

フォーミュラー 1(F1)グランプリが今年は面白い。その理由は新人ルイス ハミルトンだ。

黒人初のグランプリドライバーは何かと話題も大きい。今年のグランプリ シーズンを迎えるまでルイスの存在はそれ程騒がれると云うほどのものでは無かった。しかし開幕のオーストラリア グランプリで2位に入るやマレーシア、バーレン、スペイン、モナコと立て続けに2位を獲得した。これは驚くべき結果である。そして優勝も時間の問題と思われていた矢先、なんと先日のカナダ グランプリで見事優勝を飾ってしまった。

自分は車のレースやラりーが好きで日本に居た頃も鈴鹿サーキットまで見に出かけた事は前に触れたが、ロンドンに住むようになってからは余り行ってはいない。一度だけロンドンの郊外にあるブラウンズハッチというレース場にグランプリを観戦に行った事がある。

当時は未だセナやプロストが活躍する前の時代である。今ウイリアムズ トヨタにいるニコ ロスバーグのオヤジ ケケ ロスバーグやブラジルのネルソン ピケ、オーストリアのニキ ラウダと言う歴代のチャンピオン達が活躍して居る時だった。

彼等は皆非常に個性の強い人達だった。そしてそのドライビングスタイルも各ドライバーの個性同様に異なった特徴を持っていた事が自分にとってグランプリに非常に興味を持たせる事となった訳である。

現在のグランプリ ドライバーも結構個性は強い。自己主張も人一倍強くなければこの世界で伸してゆく事は難しいのだろう。しかし、同時に非常に繊細な面も持っていたのがアイルトン(セナ)だったように思う。彼は天才だと今でも思う。

マイケル(シューマッハ)に破られるまでP.P(ポール ポジション)の獲得数は圧倒的だった。事故で死ななければマイケルでもP.Pの数でアイルトンに勝つことは難しかった事だろう。P.Pのようにここ一番に掛けるアイルトンの勝負強さこそ天才と言うものではないかと思う。

87年〜88年に掛けて第二期ホンダ エンジンがグランプリに挑戦した時代があった。この時代ターボ チャージャーが付いたエンジンはわずか1500ccのエンジンで1000馬力を軽く超える出力のエンジンが普通であった。Q(予選)専用のエンジンにいたっては1500馬力とも云われる時代で、ホンダ エンジンが完全に他社を圧倒していた時期でもある。

87年のブリティシュ グランプリでは何とポデュム(表彰台)の3人では収まらず4位にも中島悟が入るという、ホンダ エンジンでなければ勝てない時代に突入していった。翌年は何と16戦中15勝、イタリア グランプリのアクシデントによるリタイア以外は全てがホンダ エンジン搭載車が勝つという日本人のグランプリ ファンにとっては痛快な年となった。

自分はアイルトンが天才だと思ったのは先に記したようにP.Pに於ける彼の圧倒的な強さだった。そして天才ドライバーはデビューの年にすでに何度かの優勝をしている。マイケルが出てきた時もそんな感じがした。

数多くのその他大勢のドライバー(彼らとて選ばれたドライバー達ではあるが)とはかけ離れた何かを持っているのが天才と呼ばれるゆえんであろう。残念ながらアイルトンとマイケルの対決は、マイケルがデビューした年にアイルトンの事故死によって決着がつかなかったが、もし彼が生きていればマイケルのP.P最多記録も変わっていた事も充分考えられる。

今年はマイケルも引退し、2年連続でチャンピオンに輝いたフェルナンド(アロンソ)がマクラーレンに移籍、そのティーム メイトがルイスである。その22歳のルイスが素晴らしい走りを見せている。

このところ自分も忙しくなかなかグランプリの中継も全てみる事が出来ないが、TVのハイライトで見たカナダ グランプリで見せたルイスの走りは紛れも無く次世代のチャンピオンを感じさせる何かを持っている。

ロバート(クビカ)の事故は衝撃的な映像だったが、こんな車の原形が分からない様な事故でも現代のグランプリカーはドライバーに軽い怪我しかさせない構造になっている。一昔前なら確実にドライバーはあの世行きだった事だろう。そして半数しか完走できなかった過酷なレースにおいてルイスが見せた走りは群を抜いていた。

聞くところによるとマクラーレン メルセデス ティームのボスであるロン デニスが12歳の時にカートをしていたルイスを見つけ経済的サポートもしたと言う事だ。当時からルイスは光るものを持った少年だった事になる。

元々がヨーロッパの貴族達によって楽しまれてきたグランプリ レースであるからメーカーにしてもホンダやトヨタはヨーロッパのメーカーに比べて何倍も努力している。その様な背景が分かるだけに個人的にはルイスを応援したくなる。

勿論タク(佐藤琢磨)を日本人として応援するのは当然だが、半分イギリス人(英国での人生の方が長いので)の自分としてはルイスも天才的要素を感じさせるだけに応援したいのだ。 

話は飛ぶが、日本で何かと批判の多い横綱朝青龍、自分は好きだ。彼の見せる勝負への執念、気迫、スピード溢れる技、そして優勝した時見せる涙、日の丸に面と向かって唄う君が代、プロ野球選手の外国人でそんなの見たこと無い。
 
横審とか云うわけの分からない年寄りがとるに足らない事に文句を言っているのを聞くと情けなくなる。 いったい貴方達はそれ程相撲に詳しいのかね。そして朝青龍と同じ年代の頃、何の欠点も無い人格者だったのかと聞きたくなる。

半分イギリス人だと言った自分でもユニオンジャックに向かって英国歌"ゴッド セーブ ザ クィーン"を唄った事は無い(唄えない、歌詞を知らない為)。君が代を唄える外国人は多くは無いであろう。自分が33年間もイギリスに住んでいるのに英国歌が歌えないことを考え合わせると、朝青龍の態度は立派だと思う。

何も日本の国歌を唄えるから立派だと言っている訳ではない。心が伴っていないと(その国に対し敬意や感謝する気持ち)ナショナル アンサム(国歌)などは簡単には唄えないものだ。 大衆の面前で堂々と日本の国歌を唄う朝青龍はそれ以前の横綱、曙や武蔵丸(彼らが悪い訳では決してないが)とは一味も二味も違う横綱だと思うが、皆さんの見方はいかがであろう。

新しい横綱も誕生し来場所からの大相撲は盛り上がりも期待できると思う。残念ながら二人とも日本人横綱ではないが、数多く居るその他大勢(良い例えではないが)の力士に比べ出世のスピードから見れば朝青龍も天才なのかもしれない。

グランプリ レースも大相撲も天才は見ていて楽しい!願わくば両方の世界で日本人の天才が現れて欲しいものである。

2007/06/12

海外生活でのストレス

今年でロンドンに住んでから33年目である。その間に沢山の日本人拳士も支部での練習に参加している。沢山といっても33年間に渡っての数であるから、一つの道場に5人も10人も居る訳ではない。

海外で生活すると言う事は色々な面で日本国内とは異なったストレスに出会う。最近では少なくなったが自分が渡英した当時は随分と人種差別もひどかった。現在ほど人種差別に対する教育が徹底されておらず、多かれ少なかれ有色人種に対する偏見や差別は存在した。

たまたま自分の場合は少林寺拳法と言う武道をやっていた事もあり暴力等の直接的な被害は無かったが、逆に加害者にならないように注意しなければ大変な事になる。相手が悪くてもこちらが訴えられてしまえば著しく不利になるのは当然である。

ごく初期の日本人の弟子で非常に誠実でまじめな拳士が居た。
道場には常に一番に来て他の拳士が着替える頃には床を掃いたり、作務も積極的にする模範的な拳士であった。日本から働く為の労働許可証も渡英前に取得し、働いていたホテルではその勤務態度が認められ、早い段階でセクションのマネージャーに抜擢されるような拳士であった。

あるとき日本に行った時にお土産として友人から貰った酒をいつも助けてくれている助教の日本人拳士2人を招いて一緒に飲んだ。

宴もそろそろ終る頃、そのホテル マネージャーの拳士がいつには無く真剣な表情で『先生、ロンドンの生活は辛い事が多いですね』と涙を流しながら言うのである。『どうしたの?』と小生ともう一人の助教の拳士が聞くと、仕事場でのトラブルで、彼の指示に従わない黒人の部下がいて、責任感の強い彼はその黒人の仕事も自分がやってしまっていると言うことであった。

その時は、おそらく日本人同士で呑んだ為に気が緩み愚痴が出たのだろうと深刻には受け止めなかった。

『では又今度の練習で』といって見送った後で、「彼はまじめだからなァ。いい加減な野郎とは人間関係がなかなかうまくやって行けないのだろうな。」と想像するくらいであった。

次の練習日にその拳士は連絡も無く参加しなかった。
急に仕事が入ったのかなとその時は気にも留めなかったが、その次の練習にも来なかったので、少し気になりもう一人の助教の日本人拳士に彼の仕事場まで訪ねてもらった。

それから1週間経って、助教の拳士から驚くべき事実が報告された。

我々が一緒に酒を飲んだ数日後『辛い』と涙を流した拳士は裸に近い状態で地下鉄のヴィクトリア駅に現れ、地下鉄のホームから飛び降りたそうである。

幸い電車が来る前に誰かに助け出され、命に別状は無かったが、その事を不振に思った警察が調べて行くうちに精神的な病では無いかと言うことになり、現在はロンドン郊外の精神病院に収容されていると言う情報であった。 

いったい彼に何があったのだろうと心配したが、ともあれ実情を調べなければならない。助教の拳士と共に収容先の病院を訪ねた。

精神病院を訪れるのは初めての経験であったが、中に入ると何処と無く異なった雰囲気である。彼の名前を告げ病棟を訪ねると名札のあるベッドに彼の姿は無かった。見回すうちにソファーの横にうずくまっている拳士に気付き声を掛けた。

小生を見返した拳士が『先生!』と呼ぶので、「これはそんなに深刻ではないな」と一瞬安堵した。しかし、次に彼の口から発せられた『今日、日本人が5,000万人殺されたと言うニュースが流れたが、知っていますか?』という言葉を聞いたときには、『え!』と思わず息を呑む思いだった。

その後色々と話し始めた彼が、黒人恐怖症のように一切黒人を信用しない言葉を次々に発するのを聞き、余程黒人に対して悪い印象を持っているなと分かった。仕事場での部下であったはずの黒人従業員との軋轢が生んだ悲劇であろう。

具合の悪い事は重なるものでそこに働く医者はほとんどが黒人であった。給仕をするスタッフも黒人であった事から彼は病院で出される食事には一切手を付けない状態が続いた。

もともと小柄な拳士であったが何日も食事を取らなかった事で彼の体は益々やせてしまい非常に危険な状態であった。毎日彼の為に家から食事を運ぶ事にも限界があった。

ある時『病院で出される食事を何故食べないか?』と聞くと、『先生、ここの食事には毒が入っているので自分は決して食べない』と答えた。

そこで小生が『何を馬鹿なことを言う。俺が目の前で食べるから見ていろ』と言って出されたパンと何かを口に運んだ。『やめてくれ!』と嘆願する彼の目の前で、食べ物を飲み込んで見せた。小生がてっきり死ぬものだと思っていた彼は、目の前の自分がいつまで経っても死なない事で出される食事が安全だと悟ったようであった。それから堰を切ったように食べ始めた。

2日後に訪れると食べている。安心した我々は次に少し様子を見るために時間を空け2週間後に再び病院に出かけた、今度は別の驚きが待っていた。

病院で出される食事が安全と分かった彼は、今度は逆に毎日食べ続け、運動不足も手伝ってわずか2週間前にやせ細っていた体が今度は太り始めたではないか。

その間小生は日本の彼の実家に手紙を書いて説明した。先ず自分の身分照会を本部で出来る事、そして現在の拳士の置かれた状態を説明する内容を書いた。早速返事が来て、兄弟が連れて帰る為にロンドンに来ると連絡があった。

ロンドンにやって来たお兄さんから聞いた話であるが、丁度同じ頃外務省からも電話が入り『息子さんが病院に収容されているから渡航の準備をするように、経費として100万円くらい必要だから』と名前も告げずに切れたと言う。初めに電話に出た家族はいたずら電話か?と思ったそうである。名前も告げずに『経費が100万円必要だ』と言われればそう考えても無理は無い。 

当初は『自分の顔を見れば元に戻る』と自信を見せていた兄も、病院に行き本人に会ってみて現実の重大さを悟ったようだった。

航空会社はこの様な場合本人と家族だけでは乗せてはくれない。本人以外に専任のドクターが同行する場合に限り乗せてくれる。その様な理由から兄は一先ず日本に引き返し、関係する諸経費(航空運賃等)を用意して2週間後に再びロンドンにやって来た。

思いもよらぬ展開ではあったが海外で暮らすと言う事は、日本国内で普通に生活する事よりも何倍も目に見えない数多くのストレスを受ける事は事実である。ロンドンで生活する日本人駐在員や家族の中にも精神の病にかかる人は少なからず居る。

現代社会は何処で暮らしてもそれ相応のストレスはつきものだが、外国と言う言葉が示すように日本と同じと考えると安易すぎるように思う。

これまでの33年間に拳士として接した日本人の中には、今一人危うく最初の拳士と同じ状態になる直前の兆候を示した拳士が居る。幸いと言ったら最初に病にかかった拳士や家族の方々には不謹慎であるが、この経験が小生に有ったから早い段階で帰国させ、同じ様な大事に至らなかったケースである。

この拳士はロンドンで入門した拳士であったが、ロンドンに来る前にフランス語が出来た為、アルジェリアで2年程アルバイトを日本の企業でやったそうである。その時に貯めたお金でロンドンにしばらく住んで英語を勉強して帰国する予定だった。

この拳士は不真面目と言うわけではないが、道場に来たり来なかったりと不規則な状態であった為、しばらく来ない事があってもそれ程気に留めていなかった。あるとき久しぶりに道場にやって来た彼の表情が異なった。話すうちにこれは何かおかしいな。と直感するものがあった。なにしろ話が矛盾していて辻褄が合わない。

彼は『自分のフラットの隣に住むアラブ人がマフィアで、部屋に置いてあったお金を獲られた。道場まで来る間も後をつけられていたが何とか巻いて逃げてきた』と言うではないか。『警察に行ったか?』と訪ねると『奴等もグルだから警察に届けたが相手にしてくれない』と答えた。

おかしいなと思ったが念の為に、『それでは俺が一緒に付いて行ってやるから帰りに警察に行ってみよう』と言うことになり、道場が終ってから本人と別の日本人拳士を伴って警察に行った。本人が住んでいる近くの警察署に行って話を聞くと、彼の言っている内容に矛盾が有る為に警察官も相手にしないという感じだった。

前の拳士と共通する被害妄想の気があったので、もう一人の日本人拳士に彼を一日預かってくれるように頼んで帰した。その日本人拳士は小生の言う事を理解出来なかった様で『本当ですか?』と言って不審顔だった。 

自宅に戻るとさっき別れたばかりの預けた拳士から電話が入った。『初めは分からなかったが今は怖くて一人にしておけない。窓から飛び降りる素振りをするので何とかして欲しい。』と言うのである。それ以上預かってもらえないと判断して、自分の住んでいた隣のフラットの一室を借りてそこに1日泊めさせる事にした。翌日何とか本人を説得して帰国させる事になり、我々はヒースロー空港までその拳士を連れて行き見送った。

帰国した本人から礼状とお菓子が入った小包が届いた時にはホッと胸をなでおろした事は言うまでも無い。初めに見抜けなかった自分の注意力の至らなさを虚しく感じて、申し訳ない思いであったが、その経験が有り何とか二人目の同様な結果を、回避することが出来て無駄な経験ではなかったと思えるようになった。本当は他にも居たのかも知れないが自分が掌握しているのはこの2件だけである。

精神の病は見た目が普通であるだけに判断が難しい。このように海外に住む事が不向きな人も確かに居る。ここに述べた2人の性格はかなり違う事を考えるとステレオタイプの性格付けは出来ないと思う。どんな性格の人でも海外に住む事による諸々のストレスはこのような精神障害を引き起こす可能性がかなり高くなると言う事だけは確かであろう。

2007/06/08

報道の文化の違い

外国と日本で大きく異なるものの一つに報道の違いが有る。

先日英国のブレア首相が自身の選挙区で首相の座を下りる事を発表した。これはすでに多くの国民にとっては意外性の無いニュースであったが、その折TVのニュースで流れるニュースを見て随分日本とは報道姿勢が違うなと思った。

以前にも海外の新聞記者の外国の首相や大統領等に対する報道姿勢を指摘した事があったが、日本のこれらの報道に携わる記者には相手が国家元首やそれに相当する人物の場合には、かなりディプロマティク(外交的辞令的)な質問の仕方をするのをよく見かける。

あまり辛らつすぎる質問は日本人の文化にはなじまないのかもしれない。しかし海外の報道に携わる記者の質問は実に際どいものがあったり、興味の対象をはぐらかす事無くズバリと聞くことにある。

トニー ブレア首相がイラク戦争でアメリカに賛同して積極的に英国の軍隊を派遣した事から、国内では彼の事をジョージブッシュのプードル(愛玩犬)と揶揄する記事が有った。アメリカを公式訪問したブレア首相が当のブッシュ大統領と共に記者会見に臨んだ席上で英国の記者から『ブレア首相はブッシュ大統領のプードルと呼ばれているが貴方はそれについてどう思うか』とTVニュースの前で質問するのを見た事がある。

この様な記者の姿勢は日本の報道では先ずありえないことではないかと思う。

日本の記者がブレア首相と同じ様に記者会見に臨んだ小泉前首相に同じような質問をしたら日本の視聴者はどう思うのであろうか?

おそらく日本人の感覚では『何もそこまで聞くことはないではないか。ましてや外国の国家元首の前で自国の首相の恥をさらすような事を!』との意見が出そうである。

こういったことは何も英国の記者ばかりではない。

少々古い話だが、ソ連崩壊と共に東ドイツが西ドイツと統合し喜びの記者会見が行われている中、コール首相に対して『貴方は東西ドイツ統一の為にロシアにいくら支払ったのか?』と質問した記者がいる。

質問されたコール首相は顔を真っ赤にして『1マルクも払っていない』とその記者を睨み返していた。
この様な辛らつな質問はヨーロッパの記者の間ではかなり普通に行われている報道姿勢だ。

文化の違いと言ったが、日本には報道においても「最後の一線を越えない」と言う暗黙の了解が、記者や報道される側にあるのではないだろうか?逆にヨーロッパにおいて平気な顔をして(その様に見える)当然のように辛らつな質問をする記者の姿勢も彼等の文化の裏返しであろう。

『知りたい事はとことんベールを引っぺがしても知りたい。』
『余りにグロテスクであったり国家元首の名誉を著しく貶める様な質問はしない。』
これも文化に合っている様に思うがいかがであろう。

今日のように世界中で起こる事件がその日の内に世界中を駆け巡る時代である。マスメディアも世界各国が競って情報を収集しようと懸命に動き始めている。

これらの情報収集にはコストが掛かる事は云うまでも無い。しかしながら偏った情報により国民が危うい方向に扇動されるとすれば、色々な角度からの報道は益々重要になってくる。

過去に於いては世界中に情報のネットワークを持ったアメリカや英国などから発せられる報道が、世界各国に大きな影響を与えてきた事も事実である。近年これらの事に気が付いた中国やアラブの国でも衛星放送に力を入れ、情報もアメリカやイギリスとは異なった角度から流し始めている。

そんな事を見ていると日本の報道姿勢がこれまでと同じやり方で良いのか?日本国内にも存在する菊、桜、鶴と言われる報道タブーも含めて検証してみる時ではないか。これまでの日本人の趣向に合った報道ばかりでは世界で起きている事件や真実から意図的に目をそらせているようにも思える。

開祖が指導者講習会の法話で『眼光紙背に撤す』と云うことわざを云われた事がある。「行間を読め」と言う事なのだが日本のマスメディアの報道姿勢には今一つ迫力が無いように感じる。

記者クラブを作り同じ様な記事ばかりが並ぶ日本の新聞では世界の本当の姿は半分くらいしか見えないような気がする。

2007/06/02

アフリカ地区講習会

80年代中頃からアフリカ地区との関わりを持つことになってから20年以上が過ぎた。

この間北アフリカへのホリデーは別として、東、南アフリカの国等6度ほど講習会で訪れた。そのどれもが自分が住む英国や日本とかなり異なり、経済状況が主な理由で環境、衛生、インフラ等どれもが先進国と比較すれば大きく立ち遅れている。

そんな中、東アフリカに位置するケニアはいち早く60年代に英国から独立を勝ち取り、アフリカの優等生と呼ばれた。事実自分が初めてこの国を訪れた1986年当時は首都のナイロビが非常に近代的で、街の風景などはヨーロッパ風のデザインで『綺麗な街だな』と言うのが率直な印象だった。残念ながらその後隣国のソマリアが政情不安定となった事から、難民やテロリスト、そして武器(拳銃等)が数多く持ち込まれた結果、随分荒れた街になってしまった。

最初の講習会で訪れた92年は日本政府のODAで建設されたジョモケニアッタ農工大学で講習会を行った。 その時に一人の16歳くらいの少年がタンザニアから参加した。タンザニアでの少林寺拳法は熊坂さんと言う拳士がJICA(青年海外協力隊)で電話の技術者として日本から派遣されている時、ダルエスサラーム大学で教え始めた事がきっかけであった。

その熊坂拳士とは86年に首都のダルエスサラームで会っており、その時参加した少年は彼の教え子であった。その時はケニアだけが講習会の対象であった為タンザニアからの参加者は想定していなかった。そんな時に母親と共にダルエスサラームからケニアのナイロビまで講習会に参加してきた事は驚きであった。詳しく状況を聞くにつけ少年と母親はバスでなんと30時間以上を掛けてやってきたと言う事だった。タンザニアでの練習内容や状況を詳しく聞きWSKO本部への報告とした。

ジョモ ケニアッタとはケニア独立の父といわれる人で、独立運動の指導者であり、又同時に初代の大統領でもあった。この名前は他にも国の英雄として色々なところに使われている。その名前を付けた農工大学には日本から教授陣が送り込まれていた。そんな事情もあり拳法部の部長には日本人の教授が引き受けてくれていた。キャンパスはナイロビから車で1時間ほど掛かる場所にあり、そこの講堂を借りて講習会を行った。キャンパス内の木々には綺麗な鳥が沢山巣を作っており如何にもアフリカの大学と言う雰囲気である。

ナイロビもそうだが海抜が1500メートルを越える地域にある大学での講習会は気候的に暑苦しいと言う訳ではなかった。その代わり高地トレーニングと同じで普段平地で練習している我々にとっては、同じ動きでもかなり苦しくなる時がある。

エチオピアのアジスアババに86年に初めて行った時、初日に軽い高山病にかかり頭痛がした事を経験しているので驚きはしなかったが、普段なんでも無い動作の動き(剛法の連反攻等)が少し続けてやると途端に息苦しく感じた。

この様な環境で普段走ったりしている彼等がマラソン等で良い成績を収める事は充分理解できる。少林寺拳法の演武でもこの様な場所でやると、平地でやるのとは異なりかなりしんどい思いをする事になる。

92年以後のアフリカ講習会では同時にタンザニアでも催される事になった。ケニアでもそうであったようにタンザニアでの少林寺拳法の発祥も、タンザニアで当時唯一の大学であったダルエスサラーム大学キャンパス内で始まった。

94年に担当指導員を伴いダルエスサラームの国際空港に降り立った我々は、WSKO事務局から連絡が行っているにも関わらず誰も出迎えに来て居なかった。後で分かった事は事務局から送られた手紙は古い住所に送られていて責任者には届いていなかった。当時はEメールも無く事務局と確認する事も簡単には出来ない時代であった。

86年に泊まったホテルを懸命に記憶をたどり、何とかチェックインを済ませた我々一行は、担当指導員の植林拳士が渡航前に得ていたわずかな情報、『毎日大学で4時から練習している』と言うたった一言の情報を頼りに大学へ向かった。小生もやっと連れてきた担当指導員を紹介も出来ないようでは面目も無かった。

そんな切羽詰まった状況で大学に着き、学生や職員に聞いて回ったが誰も少林寺拳法など知らなかった。何人も聞いた中で『キャンパス内のプール脇で空手の練習をしている』と言う情報を得た。何と場所は同じ大学のキャンパスとは言え山を一つ越えた反対側と言うではないか。タクシーを待たせておいて良かった。

早速言われた場所まで行きプールの周りを探したが誰も空手などやっていない。しばらく探し回っていた我々に時々気合のような音が耳に入ってきた。これは何だろうと顔を見合わせながら音の聞える方角に進んでゆくと、建物の入り口に突き当たった。音(気合のような)が聞えるようで聞えない。

ドアを開けると中に15人くらいの人達がこちらを一斉に見つめた。次の瞬間合掌礼が返ってきた。拳士だ!誰も道着を着ているものは居なかったが合掌礼とは紛れも無く少林寺拳士の証である。嬉しかった。そして小生の場合やっと責任の一端が少し下りた気がした。

それから練習が始まったが、しばらくして彼等の動きや顔がよく見えなくなってきた。普通の服であったし、電気も付いていない、『これでは練習できない』と言うと、『2階に電気が点く部屋が有る』と言うのでその部屋に移動した。そこも広い部屋ではあったが裸電球が一つである。

そんな中彼等の練習に合計4、5時間も付き合わされることになった。しかしそんな事より彼等に会えた事を喜びたかった、又次々に質問を浴びせ練習を続けようとする姿にも新鮮な感動があった。後で食事を共にしながら、これまでの彼等の歴史を聞いて驚く事ばかりであった。

86年に熊坂拳士が任務を終えて日本に帰国した後、残された拳士達はそれから毎日大学で少林寺拳法を練習していたと言う。『誰か教えてくれる人はいたか』と聞いてみたが誰もいないようだった。只、日本企業で働く人で学生達の相談に乗ってくれる人が居ると言うので、その人に会いに出かけた。日本のゼネコン鴻池組の現地法人タンザニア鴻池の宮崎所長がその人であった。

詳しく事情を聞くに付け『世界は狭いなァ』と思わずにはいられない気持ちになった。何と宮崎さんは学生時代日本大学の少林寺拳法部で活躍し、新井財団法人会長の後輩に当る人であった。そんな事から学生達の相談にのったりしていたと言う訳である。

我々が最も驚いた事はWSKO本部に登録もされていない状態の彼等が、86年以降94年までどうして少林寺拳法を指導者も居ない状態で続けられたかと言う事である。勿論昇級、昇段の試験なども無く、しかも毎日、2時間以上も練習していたと言う事事態に衝撃を受けた。少し考えて見れば想像が付くと思う、昇級試験も大会も無く、何を目標として練習していたのであろう。

後に会った日本大使館の人達からも、初めに少林寺拳法を指導した熊坂拳士の事、そしてその教えに従い毎日練習を続ける彼等に大変好意的であったことが印象に残っている。おそらく鴻池の宮崎所長も自身が少林寺拳法から遠ざかっていたにもかかわらず、彼等の相談にのって頂いた事が少林寺拳法を続けさせた原動力であったように思える。

この体験をWSKO本部に報告すると日本の学生連盟が中心になって、不要になった道着を集めタンザニアやケニアに送ってくれた。しかしながらこの様な古着の寄付であっても現地では輸入税が掛かってしまう、その事を知った宮崎所長から会社の輸送品として受け取って頂き、輸入税が掛からずに道着を拳士達に引き渡す事ができた。

その後の講習会では見違えるように全員が道着を着て練習している姿を見て感慨深く感じた。彼等の道着には襟の後ろに日本人の名前が書かれている事も、これらの道着が日本人拳士の好意によって送られた物である事を如実に物語っている。

『人、人、人全ては人の質にある』 開祖宗道臣の残したこの言葉を何度も繰り返し、少林寺拳法を続けてきた。拳法を修練する拳士が何処の国の人間であろうとも、この言葉の持つ普遍的真理は変わらないと思う。『人の心の持ち方(考え方)を変えよう!自分も大切にするが、他人の事も半分は考えよう。そしてその事が社会を良くしてゆく。』この言葉を死語にしては少林寺拳法を続ける意味が無いと思う。