2020/02/29

課題を決めて練習するNo.3

今回は突技に対する練習方法である。

これまで蹴技に対しての方法を紹介してきたが、今回は相手の攻撃が少し近間で突技が出された時に対しての課題克服の為の方法を試してみたい。

この方法は以前の蹴技と同様に自身のカウンター攻撃と受技をある程度決めておく事により迷いなく技が出せると言う事になる。今回の受は外受だけを考えてみる事にした。受け側は順手、逆手どちらの手で外受をしても良い!それにより繰り出すカウンター技は蹴に限定してやってみる。蹴返しの技は順蹴でも逆蹴でも可とする。

布陣が対構でも開構でも両方対処は可能である。外受に限定されているので守者側は上受や内受等と迷う必要は無くなる。それが結果的によりスムーズにカウンターを繰り出すことが可能となり、相手の連攻撃を防ぐこともより簡単に出来る様になる。

一番難しい状況(攻防)とは、相手の連攻撃が始まった後でそれらの状況に対処(対応)する事を想像してみれば理解できると思う。


2020/02/24

文化の違い、護身の解釈

殆どの日本人は法を良く守る、これは多くの場合 美徳と言っても良いはずである。しかしながら護身(自分の身の安全を自分で守る)と言う場合を考えてみると海外とは少々異なった実態が見えてくる。

法律を守る事で身の安全が守れるか?と言う事を考えるとどうであろうか。確かに法を犯してまで他人に危害を加える事は一般的な人々はしないはずである。しかしながら犯罪者がそのカテゴリーに含まれない事は結果を見れば明白である。

自身の身を守ると言う事は、法律を守って居れば他者からは危害を加えられる事は無い、と言う事とは全く違うと言う事を認識しなければならない。『法律を守ってさえ居れば暴力を振るわれたりする事が無い!』と完全に保証されると言う事であればこの世の中で問題は起きない事になる。犯罪者は法に従わない、あるいはその様な事を無視する事が出来る者が犯罪者なのである。

よく日本の路上で見られる光景の一つに、歩行者が赤信号が緑に変わるまで忍耐強く待っている事を知って居る。これらは日本人社会の良い習慣である事には違いないが、ともするとこの様な認識は性善説が深く根付いている事がその一因の様な気がしてならない。この場合の信号機は法であり、『それを守る事により自身の身の安全を守る事が出来る』という考えは確かに一面においては真実である。しかしながらそこには自分で身を守る為の意識が箕臼と思えるような印象も感じてしまう。

ロンドンやパリではこの様な状況をあまり見かける事はない。警察官が居る前でも全く変わる事はない!東京や大阪で同じ事をしたら即座に警察官から注意をされるか、逮捕されるかも知れない。基本的な事実として『自分の身は自分で守る』あるいは『他者を信用しない』と言う事が根底にあるのかも知れない。法の解釈でも雲泥のさがあるのでは無いだろうか。即座に注意をする日本の警察官においても、目の前で歩行者が法(赤信号)を無視する事に対して注意する事は理解できるが、それにより歩行者が確実に守られると言う保証ではない。

決してロンドンやパリの歩行者を肯定している訳では無く、日本の信号に従う歩行者を揶揄している訳でもない。根底に流れる『自身の身は自分で守る』と言う意識が根底にあるか?無いか?と言う事を考える上で、一つの現象を指摘してみた訳である。

昨年の春ごろと記憶しているが、幼稚園児が道路わきで交通事故に巻き込まれ多数の子供が被害者となる痛ましい事故が有った。この様な状況では子供たちや保育士達に責任が有るとは思えない。しかし若し保育士達の中に、『万が一車が突然に突っ込んできたら』と考える人が居たら子供達を信号で待たせる時の場所(位置)も変わっていたのかも知れない。

基本的な意識の中に法が守ってくれる、と言う気持ちが無意識のうちに働いてはいないか。路上における自身の身(意識)の置き方のみならず、法が自分達を守ってくれる、と考えて居る人が多いのであればこの様な事故は今後も起きるかもしれない。逆に赤信号で渡っている人達の場合には警察官ではなく車を見てから道路を渡る習慣が付いて居ると言えなくもない。

国の安全もしかり、国際法を守らない国が攻め入ってきた時に、同盟国(警察官)や国際法が確実に守ってくれると信じている人達が大半であるとすれば、残念ながらノー天気国家と言われるかも知れない。この様な国の情勢(紛争や戦争)が世界の至る所で現実に起きている事を考えれば『法は必ずしも個人や国の安全を保障してくれるものでは無い』と言う事が理解できるのではないか。