2015/05/26

発展する会社(組織)と瓦解する会社(組織)

前回はイタリア、シチリアでの25周年記念大会と講習会の様子を報告した。その中で自分達がかつて同様な事(喜びとして)が出来た事を述べたが、少し掘り下げて考えてみたい。

戦後日本の武道と言う環境の中で、比較的短期間に大きな発展をとげた武道団体と言えば、宗 道臣の少林寺拳法と大山 倍達の極真会くらいであろう。両団体とも手法は異なるも、卓越した創始者が居たからこそ大きな発展に繋げられた事は疑う余地も無い。

しかしこの様な事が出来た組織が当たり前であるはずがない!そこには宗 道臣や大山 倍達に強く傾倒する指導者と拳士(弟子)が存在したからこそ、実現出来た話である。少林寺拳法に限って言えば、大きな理想をかかげて少林寺拳法を創始した宗 道臣が居たからこそ可能となった事実(発展)ではないだろうか。

もし仮に宗 道臣が居なかった少林寺拳法を想像してみれば分かると思う。数ある武道の中で短期的に、これ程大きな組織に発展する事が出来たであろうか?創始者で成功した者には、並外れた感覚と技術のみならず実行力があったからである。なにもそれは少林寺拳法の開祖 宗 道臣や極真会館の大山 倍達に限った話では無い。

目を実業界に向ければなお一層理解できるのではないか。 本田 宗一郎の居ない『HONDA』、井深 大と盛田 昭夫の居ない『SONY』、松下 幸之助の居ない『Panasonic』、国内に限った事では無い。スティーブ・ジョブスの居ないアップル、エンゾ・フェラーリの居ないフェラーリ、トーマス・エジソン(戦後ではないが)がもし居なかったら、そもそも現在まで続くGEは存在したのか。などなど数え上げればきりがない。

それらの創立者と呼ばれる人達の中には、非常にエキセントリックな人物も珍しくない。

普通の人が思いも掛けない事が出来たから、大きな成功も可能となったと言う方が正しいのかも知れない。しかし肝心な事は、その様な偉大な創始者を失った時、会社や組織がどの様に発展を続けられたのかと言う事を見てみれば、ある程度の答えは見つけられるのではないだろうか。

創始者亡き後も発展を続けることが可能となった組織や会社には、そのほとんどが多くの人知を結集して発展に繋げてきた事が見てとれる。逆の場合には組織や会社は倒産するか責任者が替る事で、その後の発展に繋げられた。

創始者亡き後も成功し発展する組織には、それらを可能にするメカニズムが存在するはずである。ほとんどの場合、創始者が実現したビジネスモデルを継承するプロセスは尊重される。武道組織の場合には中々難しい事が沢山ある。多くの組織が直面する後継者問題に複数の課題が存在する事は枚挙に暇がない。

武道団体の難しさは組織運営(経営能力)の前に、血筋や武道家としての実力等が、非常に問題を難しくしている事が挙げられるのではないだろうか。創始者は全てにおいて尊敬を集め、創始者その人が法律であっても問題は無い場合が多い。宗 道臣や大山 倍達が正にこれらに当てはまると考えられる。しかし後継者がそこを見失うと組織は崩壊に向かう事になる。この問題を克服した武道組織だけが、その後の発展に繋げられると言う事なのだと思う。

果たして現在の少林寺組織に発展に繋げられるメカニズムは存在するのか? 私には想像が出来ない。世界に多くの支社や従業員を抱える大企業でも、これらのメカニズムが機能しない会社は倒産する例を数多く見ている。もし二代目トップが、自らを創業者と同等の能力が有ると勘違いしているとすれば、残念ながらそれらを救えるマジックは存在しないであろう。

2015/05/12

イタリアのおもてなし


今年の講習会シーズンが始まった。
昨年8月のBSKF40周年記念大会に参加してくれた事がきっかけとなり、今年は彼等の25周年大会と特別講習会に行く事を約束していた。過去に何度も訪れているイタリアでの講習会ではあるが、今回の訪問はお互いがWSKOと言う組織を離れてからは初めての記念すべき? 講習会となった。

今回の大会並びに講習会には昨年のBSKFと同様に、日本からも指導者が駆け付けて頂いた事で大変に充実した催しとなった。参加したBSKFの拳士も3名の支部長初め10名を超える拳士の参加があった。その他にもスイスや新しく我々のグループIKAに加わったスペインからも、指導者のみならず拳士の参加が実現した事は大きな成功と自信をもたらす結果となった。


以前イタリア連盟が主催した講習会に比較すれば、拳士数においては比べるまでも無い。当時イタリア連盟は発展期に入っており初めてのヨーロッパ講習会を主幹する事で、国内やヨーロッパでの問題を封じ込める事に成功し乗り切った。ヨーロッパでの講習会としてはピークの参加拳士数を記録している。

その様な事情を知る者からすれば、今回のシチリア25周年の大会・講習会は実に意義深いものであった。 第一に参加拳士の笑顔が実にイキイキとした印象を与えていた。そこには上からの命令で強制的にさせられている大会ではなく、自分達の記念大会に海外から応援に駆け付けてくれた拳士達と、共に最大限に楽しみたいと言う気持ちを見てとる事が出来た。それは昨年8月に催されたBSKF 40周年記念大会と全く同じ雰囲気が再現されたものと思われる。



思い起こせばこの様な雰囲気の大会は何も昨年に始まった事ではない。開祖が存命中は毎年この様な雰囲気の大会が催されて居た事は、当時を知る指導者には理解出来ると思う。 大会も講習会も自分達が楽しむためにやって居る。そこには心から喜びを分かち合いたい仲間が居て、自然に協力する事があたりまえの様に出来た。仮に先生や先輩からの指示があったとしても、そこには自分に課せられた責任を喜びとして受けとめる事が普通であった。


今回の講習会に日本や海外から参加した指導者や拳士達にも、主催したイタリア拳士達のホスピタリティは充分に伝わっていた。 昼食時には美味いワインも添えられていた事をBSKFの支部長達には是非記憶しておいて欲しいものである。昼食時間はイタリア同様、3時間は必要ですぞ! 宜しく。


2015/05/04

新たなる旅立ち No.2

前回『新たなる旅立ち』として書いたが、今回はその後の動きを述べてみたい。日本からの問い合わせや支援者に対して私から直接的な働きかけはしなかった。 しかしその様な中にあってこれまで少林寺拳法の指導者として長年運営に関わってきた人達の中から、実際の行動を起こす人達が現れた時には新鮮な驚きと同時に大きな責任を感じた。

今年の初め頃から色々と相談を受ける中で、私自身が何かお役に立てる事があれば協力させて頂く事を伝えた。そうは言ったものの形として何かが形成されるまでにはかなりの時間と努力が必要で、組織としての形が出来上がるまでには、多くの人達の協力が有ったればこそ実現に至った事は言うまでもない。

私がこの場にも何度か書いた様に、新しく拳法の組織を日本国内で立ち上げようと考えるのであれば名前にこだわる必要は無いと言う事である。今回この様な考え方に共鳴して、護身術としての武術に思い入れを強く描く指導者達によって立ち上げられた組織に、相談役と言う形で関わる事が出来て光栄に思う。

『少林寺拳法は日本以外では一般名称である』と言う事がこのところ急速に知れ渡る事となり、様々な国で色々な形の『少林寺拳法』と呼ばれるグループが活動を始めている。私がこのブログで1年ほど前に指摘したように、WSKOがいくら主張しても、『世界で一つの少林寺拳法』とは言えなくなってきた事は現実が証明している。今日の様なインターネット社会であれば世界中にどれくらいの数の『少林寺拳法』を名乗るグループが存在するのか直ぐに分かる事であろう。

この事実が理解できていないと今後世界中で出現が予想される摩訶不思議な『少林寺拳法』に振り回される事になる。「その様なグループは少林寺拳法では無い」と主張しても、次々に出てくる同様なグループに対して打つ手は無くなるであろう。日本国内では知られて居ない無数の少林寺拳法が、世界では様々な国で現に出始めている。自分達で勝手に作ったと思われる、おかしな法衣(少林寺経験者から見れば)を着た先生が、靴を履いて真顔で指導しているビデオもYoutube で見る事が出来る。真っ黒の道着を着ている少林寺拳法の指導者も存在する。私が述べた『パンドラの箱』は開いた事が見てとれると思う。

この様な現実に目を背けているばかりでは何も変わらない。しっかりと眼を開き現実を見る以外には何も解決等出来ないであろう。 同時に日本で活動を始めた元少林寺拳士による『拳法』の団体も数多く存在している。 彼等は別派ではあっても偽物では無い!長年、少林寺拳法の指導者として携わってきた人達である。組織の示す方向と自分達の信じる方向が異なった為、やむなく別組織として活動を始めたと言う方が正しい解釈であろう。

世界は益々狭く感じる様になり、情報伝達のスピードも過去のものとは格段の違いを見せる時代である。この様な時勢において数十年前と同様のプロパガンダを繰り返すだけで拳士が納得するとは考えられない。

我々が望む拳法の姿とは『宗道臣の教え』を根底に持つ組織の結束ではないかと考える。いくら名前が『少林寺拳法』であっても靴を履いて練習し、形だけの法衣(らしきもの)を着ていても、同じ拳法グループとは認めたくない人達も居る。 又逆に名前は『少林寺拳法』とは名乗って居なくとも、正当に教えを貫いて居るグループであれば共に協力が出来るのではないかと考える。

要は名前が何よりも大切(前提)ではなく、『どの様な教えをしているか』が問われているのではないか。摩訶不思議な『少林寺拳法』は自分の目で確かめて頂きたい。それに対する私のコメントは必要ないであろう。個々の拳士や指導者が判断すれば良い事である。『名前』(少林寺拳法)を取るのか、『実』(実際の指導内容)を取るのか? 拳士それぞれが選ぶ時が近づいて居る様に感じている。