2019/07/25

個々の嗜好を大切にしよう

人の嗜好には理由の付けられない(分からない)ものが数多く存在する。もちろん理論的に説明の付くものも有るが、そうでないものの方が多い。音楽や芸術等の世界においては特に個人的な嗜好(好き嫌い)が理由もなく存在することを認識したことがある。

音楽を例にとれば自分に合ったリズム(波長)などがあるのかもしれない。音楽のジャンルによっては聞く方の特徴も明らかに異なる光景を見る事が出来る。クラッシック音楽の場合には観客は静かに演奏を聴くことが普通である。立ち上がったり演奏中に拍手をしたりと言うようなコンサートにはあまりお目にかかった事は無い。

逆にポップスやロックコンサートでは観客が立ち上がり両手を挙げて体ごと自分達も楽しんで居ることを演奏者と一緒に共演している様な場面がある。同じようなコンサートでもジャズのライブコンサートではクラッシックコンサートと同様イスにかけて聞く場合が多いが、一つ異なっている特徴?は多くの観客はリズムに合わせ体をゆすったり、時々は『ヤァー、イエー』等と声を発したりしている光景も見かける。

絵画や味覚も人の好みとは実に様々な嗜好が存在している事は認識されて居る。では何故異なった好き嫌いが出るのであろうか?もしかするとこれらの異なった嗜好が、人類(ホモサピエンス)が他の生き物などよりもより高度な文化や種の発展に繋がって行ったのかも知れない。他の動物で人の様に個々の嗜好が異なる生き物が居るのか分からないが、好みの多様性はおそらくそれぞれの感性に合うものを見つけたり、追及した結果が今日の発展に繋がったのではないかと勝手に想像している。

そんな事を思うと異なる嗜好や趣味が実は我々にも大変重要な意味があるように感じられてならない。多様性のあるものの方が柔軟でより多くの可能性を生み出してきたのではないか?人々がすべて同じ方向を求め、そうでない者を排除しようとするならばその様な社会や国は早晩衰退するか滅びるのではないだろうか。

殆どの人は自由を尊び、その様な環境の中で自身に最も合った(好きな)ものを選び発展させてきたのではないか。そう考えると趣味や味覚、感覚等々自分達の好み(感性)に合ったものを見つけより深く追及することが、さらに物事を高い段階に導いてくれるような気がする。

スポーツも武道も絵画などの芸術や味覚なども個々の感性を大切にしたい、その様な中で自分が一番好きで納得できることをより深く追求していく事が、より大きな集大成として残っていくのだと思う。万物の霊長と言われる人類に与えられた一番の強みとは、この様な個々の違いこそが貴重な資源ではないだろうか。

もしそうであれば、より拳法にこだわりたい!柔法が好きな人は柔法に、剛法が好きな人は剛法に、圧法が好きな人は圧法に、錫杖が好きならば錫杖に、幸いなことに少林寺拳法には多くの選択肢がある。これは強みでも有るが単純に強みとなるのかどうかは、それにこだわって人より深くそれぞれの技を追及していけるのかどうかに係わっている。

ならば追求しよう、我々の先輩に続こうではないか、少林寺拳法の偉大な先生達に少しでも近づく為に!スペシャリストと言われる様な存在になれば、武道の種類を問わず強みと認識される事であろう。

2019/07/15

面倒な事(リスク)は誰でも嫌い!それで良いのか日本人?

国立感染症研究所でエボラ出血熱のウイルスを輸入して研究する事への地元住民の反対者の意見をニュースが取り上げていた。この様な例はいくらでもある。頭では必要と分かっていても自分に近いところでその様なリスクを受け入れる事への嫌悪感である。

原発の出す使用済み核燃料の中間貯蔵施設(?)も変な名称からも分かるように、この場合は最終処分場ではない!中間貯蔵施設の設置が難しい段階で、最終処分場が決まる訳もない。しかし安い電力の為(?)に原発は必要である。福島の原発事故以来コストにおいても嘘がばれた訳ではあるが、現在でも経済界等はその様に主張している。

弾道ミサイル防衛システムの設置場所に関しても同様な反応が見られ、候補地として選ばれた市長から意見が出ている。北朝鮮や中国脅威論を振りかざすことで、「日本の国土を守る為にはこの様な防衛システムは欠かせない!?」と言う理屈でイージス艦やパトリオットPAC-3システム、THAADミサイル・システム等と言う、途方もない金額の防衛システムが次々と米国から出てくる。それらを買わされるのは日本政府ではあっても、それらの原資は国民の税金である事は言うまでもない。

今回はそれらの防衛システムが必要か否かと言う話ではない。それらのシステムが必要であると結論が出たと仮定して、ではそれらの配備をどこにするのか?と言う時の問題点の事である。弾道ミサイル迎撃システム(イージスアショア)設置が秋田市と山口県萩市と発表されると、地元の市長等から出された懸念や反対意見の事である。その様な防衛システムでもイージス艦の場合には同様な反対意見は少ない様に感じる。

とどのつまり頭では日本の安全や市民を守る為には病理研究の為の研究施設や防衛システムが必要と分かっていても、では自分達の地元にそれらの施設が作られる場合には反対すると言うDouble Standard(二重基準)に危険性は無いのか?との視点がその論拠である。

F35と言うステルス機能を持つ戦闘機が配備される。それらの戦闘機が『優れた戦闘能力を持つから日本の安全を守る為には必要である』と言う結論に達したとして、それらが配備されると決まった地域の人達がどの様な反応を起こすのか。オスプレーと言う飛行機とヘリコプターを足した様な兵員輸送のヘリが事故を起こした時にも同様な反応が出ている。普天間への配備には沖縄県民以外からはそれ程強い反対意見が出なかったが、それ以外の本土への配備計画が計画の段階で漏れた様なときには、それらの関係する地域からは猛烈な反対運動も起きている。

言い換えればこれが日本人のメンタリティかも知れない。遠い沖縄の事であれば自分たちの生活にはそれ程大きな影響もない!故にデモをする程の問題ではない。一旦それが自分たちの地元と分かると今度は強烈な反対運動が起きている。原発問題と同根なのだと言う事を多くの人達は気が付き始めているのではないか。

繰り返すが、原発が必要か否か、とか安全保障の為にステルス戦闘機やオスプレー、そして弾道防衛ミサイルが必要か否か?と言う事を言って居るのでは無い!そこにある自分達に影響(被害、リスク等)が無い場合には無関心、そして何らかの影響が出る場合には猛反発と言う二面性の事にフォーカスを当てている訳である。

これらの現象を実に上手く利用して居る事が政治の世界ではよく見られる。沖縄の普天間米軍基地の辺野古への移設問題を例にとって考えれば、ある程度ボヤっとしたものが見えて来るようには感じられるのでは無いのか?
そこには一国の総理大臣でも変える事が難しい大きな現実(力)が働いている事もおぼろげには分かるのではないか。

沖縄県民が抱える問題(不満)、米軍基地の70%が沖縄に集中していると言う現実を『少しでも変えたい!』と言い出した時の総理大臣の思い自体は間違っては居ないと思う。一国の首相でも変えられない力が働いている事を感じたのは、それらを何とか解決したい『移設先は海外か県外に』と言う言動が、官僚や他党の国会議員などから集中砲火を浴び、情報が意図的にリークされ続けた事にある。他県の島に移転先を模索しただけで、潰されてしまった現実を見て思ったことは『彼の主張はそれ程までに突拍子もない事なのか』と言う単純な理由から来ている。

もちろんこれらの裏事情にそれ程詳しい訳では無いが、政府間で取り決められた約束事であるかの如く、メディアもTVニュースも否定的にしか取り上げなかった。沖縄県民の民意は我関せずと全く無視をする他府県人の態度に対しての違和感だった。『日米地位協定で定められた事は、一総理大臣の力では変えられない』と言う事を知った時である。

日本の安全保障と言う事に関して言えば誰も必要性は認めるであろう。しかしその為に『自分達の住んでいるところに米軍基地が来る事には反対!』沖縄は自分たちの住んで居る所からは遠いので問題(影響)は無い、米軍基地は中国や北朝鮮からの軍事的脅威に対抗する為には位置的に沖縄に米軍の基地が必要である、『わが県にはその必要は無い!』と私には聞こえる。

先のブログで軍産複合体の事に少し触れた。一般の日本人もほとんどのアメリカ人にも関心の低い話題ではある。しかしながらその実態とは、ある意味では非常に残虐(悪賢い)で危険な複合体である事も近年少しづつ分かってきた。海外における日本の研究者は、日本に対してシンパシー(好感情)を持っている人ばかりとは限らない!と言う事を知る必要がある。ある一握りの研究者は日本の弱点ばかりを研究しているグループも確実に存在する。その様な人たちが出した報告書は戦略家(政治家)にとってはこの上ない好材料である事は言うまでもない。

日本が世界でアメリカだけから最も高い兵器や防衛システムを次々に買わされて居る現実はなぜなのか? 現実の問題は別としても、多くの日本人は近隣諸国の脅威が間近に迫っていると感じているのかもしれないが。しかしその様な現象を意図的に作り出している人達の事は中々一般の目には触れない。『恐怖も不信も非常に好都合な商売の道具になりうる』と言う事を私達に伝えたかったのが宗道臣(旧日本軍諜報員)ではなかったのか、今その言葉の意味するところ『眼光紙背に徹す』を思い出しているが、この言葉の意味するところは非常に重い。

他者への無関心、自身だけの都合、この様な現象はある種の人達には非常に使い勝手の良い(利用されやすい)材料を提供する事を、今一度心に止めておく必要があると思う。『半ばは自己の幸せを半ばは他人の幸せを』を死語にしない為にも

2019/07/11

今年のIKAヨーロッパ講習会を終えて

今年のIKA講習会のヨーロッパラウンドが終了した。

6月の最初の週末である7日と8日はチェコのカルロイバレーにおける講習会があり、私と日本から参加し新しくJSKFの代表に選出された川村先生が指導員として渡航した。チェコの講習会には海外からも参加があり、私の地元BSKFや隣国のスロバキアからも拳士が出席して技術の検証と交流を楽しんだ。




続く第2週の週末にはスイスで講習会が催され我々2人もチェコからスイスに飛んだ。スイスの講習会にはスイスの拳士のみならず、英国や新しくIKAに加わったインドネシアのPorkemiからも8名もの幹部拳士の参加があった。彼等は先ずローザンヌにあるIOC(国際オリンピック委員会)を訪問していて、少林寺拳法がオリンピックスポーツとして認証されるための条件などが話し合われた様である。




講習会も無事終了し、参加した拳士たちの満足げな顔が印象的であった。どの講習会においても今年の10月に神戸で催されるIKA大会と講習会に参加したいと言う拳士が多かった。前回の2015年以来4年ぶりの神戸における特別講習会には、久しぶりに訪日して旧知の拳士や新しい仲間と出会う事の出来る機会を非常に楽しみにしている様子であった。






私達の特別講習会はスイスでひとまず終了したが、引き続き第3週末には、スペインにおいてIKA講習会がベアサインで行われた。このセミナーにも日本から駆けつけて頂いた指導員によりスペイン拳士達の喜びの声が届いている。この様に講習会が催される都度感じる事は拳法の持つコミュニケーション能力の強さである。それぞれの言語や文化は異なっては居ても少林寺拳法と言う言語は同じである。またそれを求める拳士達の情熱にはついつい我々指導員もそれに答えようと普段以上の力が出て来る事を認識させられる。



6月は日も長くヨーロッパではホリデーシーズンを控え何かと落ち着かない時期でもある。その様なときにも関わらず参加する拳士達の真剣な眼差しには指導する側が、彼らの情熱に何とか答えようと力が入る事は紛れもない真実ではなかろうか。

今年は毎年催されるサイプロスでの指導者を対象としたリーダーズ・セミナーは行われない。変わって全参加国を対象としたIKAセミナーが神戸の地で催されるわけである。今一度この機会に少林寺拳法を見つめ直してみるのも良い機会である様に感じるのは私だけでは無いはずである。開祖宗道臣が残した剛法、柔法、圧法等、拳法の持つ武道としての魅力は日本人の我々よりも海外の拳士達の方が強く感じているのかもしれない。

初心に帰り今一度『少林寺拳法とは何か?』を自身に問いかけてみてはどうか。何かその先に見えてくるものがあるかもしれない。