2008/02/26

サービス残業でも先進国か?

G7各国は一応経済先進国と言うことになっている。最近ではそれにロシアも加わりG8と呼ばれるようになり、名称も国際社会における主要国と言う位置づけらしい。ロシアはそういう意味では未だ経済の先進国には仲間入りできないと言う事なのかもしれない。

しかしながら早くからアジアで唯一G7のメンバーになっていた日本は、国際的な位置付けはGNPやGDP等の数値からすれば先進国かも知れないが、毎年裁判等で争われる自殺者の残業時間を見ていると、とても先進国の常識では考えられないような実情が報告されている。

その最たるものがサービス残業である。つい最近マクドナルド チェーンが店長と言う役職を与え、いくら残業をしても管理職なので残業代を支払わないという事に対して裁判で敗訴している。この様な大手の場合は名前も出るが、中小の企業で働く人達のサービス残業は余り取り上げられた例が無い。自殺者が出るような事態になり、はっきりした物的証拠や記録などがある場合には裁判で争われることもあるが、現実には中々難しいのが実情であろう。

この様な実態はILO(国際労働機関)でも掌握しており、過去にも日本政府に是正を促した事はあったが、これまでのところ中々実態の変化は無い。英国やEU諸国ではこの様なサービス残業は先ず考えられない。個々の人権に対する意識だけではなく、権利意識が強い近代社会においてはサービス残業そのものが成り立たない。サービス残業のみならず働く者の権利は休暇の日数や休日出勤に対する保障制度など、かなり厳しく規定されている。そのお陰かどうかは不明だが日本の様にサービス残業で心身共に疲れ果てて自殺する人は聞いた事がない。

では、英国人は働かないのか?と聞かれると、そんなことは無い。中でも日本のオフィス労働者より労働時間が長い人達も居る。役職にある人や経営側にある人達は実働時間も日本と変わらないか長いほどである。しかしながら問題にならないのは休む時間はしっかり確保されているし、労働時間に見合った手当も充分に支給されるからだ。

21世紀に入って、しかも経済先進国と言われる国でサービス残業など恥ずかしい限りではないか。最近でこそ女性の管理職も増えてきたとは言え、まだまだ政治の分野と同じく女性管理職や経営者の数は驚くほど少ない。人類の半分が女性と言う現実を見るならば、この半分が数の上で反映されない社会と言うものは、どこかでいびつな現象を引き起こす。最近学校関係者の間で言われるモンスター ペアレンツ等もその様ないびつ現象の一つではないか。女性が一般社会で男性と同等の立場(チャンス)を与えられ、社会の中で学ぶ(経験する)事により一般的な常識と言うものが身に付けられれば、男も女もより成熟したバランス感覚が養われ、モンスター ペアレンツ等という人達もいくらかは減るのではないだろうか。

2008/02/22

演武と乱捕り

武道としての少林寺拳法を表現するのに一番手っ取り早くて説得力のある方法は演武かもしれない。一般に武道と何の接点も無い人には言葉で少林寺拳法を説明する事には限界があるが、演武はその少林寺拳法が持つ技術的特徴を短時間で表現出来る大きな手段なのではあるまいか。当然のことながら、見る人を魅了する迫力ある演武を身に着けるにはかなりの時間と努力が必要な事は言うまでも無い。

近年道場における練習で乱捕りのしめる時間は随分少なくなった。自分が入門した1960年代前半はまだまだ少林寺拳法の道場そのものが少ない時代であった。道場は柔道場と剣道場が半々の場所を大人ばかり(年少部が無かった)100名以上もの拳士が所狭しと練習しているような状態だった。

当時、高校生だった自分は土曜日の学校が終わると随分早くから道場にでかけた。同じ学年の高校生達が道場の始まる1時間以上も前に集まってくる。練習等とは名ばかりの軽いストレッチングの後は、いきなり乱捕りだ!剣道の胴のようなプロテクターを身にまとい12オンスのグローブを着けて先輩たちの見よう見まねで殴り合いである。脛や腕のあざ等は日常茶飯事、上達はともかく、しっかり汗をかいて『練習した!』という充実感だけは毎回あった。

少林寺拳法が開祖によって四国に産声を上げてからまだ20年にもならない時代である。毎月の入門者が10名以上の時代、自分が入門した月には20名以上の新人が同時に入門式を受けた記憶がある。その入門式の最後に披露されるのが演武だった。

2組くらいの演武が新入門者の前で行われるのだが、この頃の道場は入門者も先輩達の拳士も一体になって楽しんで居た。拳法を始めて何年かは先輩拳士の演武に圧倒され、自分もいつかはあんな演武が出来るようになりたいと興奮して見ていた事を思い出す。

大学を卒業して何年か経った70年代中頃に乱捕りにおける死亡事故が起きた。大学拳法部の新人戦だったと聞く。

それ以外にも乱捕りの練習中におきた死亡事故は数件ある。まことに残念と言わなければならない事故であったが、それ以後乱捕りに対する判断が大きく二分されたように思う。先ず開祖自らが大学拳法部の乱捕りの大会を見直すよう指導された。

当時の学生大会は『選手権大会』となっており、今から考えれば勝利至上主義であったことは否めない。そしてその後の経緯はご存知かと思われるが、学生大会における自由乱捕りの試合が無くなった事である。確かに死亡事故はなくさなければいけないが、乱捕り練習まで無くしてしまった道院や大学拳法部は、今少し冷静に少林寺拳法の武としての要諦を見直してみる必要があるのではないか?

開祖が示唆されたのは乱捕りの有り方であり、『勝利至上主義を見直してより良い乱捕り修練のあり方を考えろ!』と言う事では無かったのかと自分は解釈している。もし本当に『乱捕りなんぞしなくても良い』と考えている指導者が居たとしたら残念である。少林寺拳法の魅力は確かに演武にも有るが、その大きな目的でもある自己に対する自信をどの様に習得するか?ではないだろうか。

自己確立とは恐れ多いが、少なくとも武道を志す拳士が己の身を守る最低限(最小限)の心構えが無くて本当に胸を張って『自己確立の手段です』と言えるであろうか。もしそんなもの(乱捕り)しなくても『自信は持てる』と言うのであれば、その方法を示すのがリーダーであろう。

口先ばかりの説教では本当に人心はつかめない!と言う事を体験されたからこそ開祖は少林寺拳法を創始されたのではないのか。その中でも重要な修練体系の一つである乱捕り練習を否定する指導者があるとすれば、ではどの様な方法が乱捕りなどしなくても同様な効果が得られるのか、が示されなくては少林寺拳法を学ぶ拳士にとっては切実な課題である。

数年前に日本から来ていた大学の女子留学生拳士がいた。二段で高校生の時には単演で優勝経験もあるらしい。演武を見ると確かに上手い!腰の落とし方、天性の柔軟性のある蹴り等非凡な面も確かに持っていたが、あるとき『君は空手の二段くらいの女子と乱捕りしたら勝つ自信は有るか?』と質問したら、彼女の答えは『怖くて駄目です』と言うものだった。

確かに大人気ない質問かもしれないが、正直に『怖い』と言うことの出来る素直さは見方を変えれば対等に勝負できる可能性を秘めているとも言えるわけだ。もし空手家の実力(と言っても一人ひとり皆違うが)を見切る能力が無ければ別の答えが返ってきた可能性がある。そのとき感じた事は、この女子学生は鍛えればかなり強くなれる!と瞬時に分かった。残念ながら1年余りで帰国してしまったが日本で上手に育て上げられる指導者に出会って欲しいと切に願ったものである。

勿論どの様な練習でも強制してやらせるべきではない。当然それらの練習が苦手な人も居るであろう。又翌日の仕事に差し支えるような練習も一般の社会人には長続きしないであろう。要はバランスの問題ではないか、危険が伴う練習であれば如何にそのリスクを減らすか。又楽しく練習出来る方法を提示してやれるかが指導者としての責任で有るように思う。

本部の苦労も分かるが『運用法』等と名前を変えても乱捕りの方法論に過ぎない。今一つ盛り上がりに欠ける運用法は本当に説得力を持った練習方法なのだろうか?それにしては多くの拳士が共鳴して喜んで練習しているところまでは至って居ないのが現状である。そんな目先の呼び方を変える方法ではなく、本質的な乱捕り修練法に対する熱いディベートが必要な時期に来ていると思う。

2008/02/12

アメリカン ポリテックスが面白い

今年はアメリカの大統領選挙の年であるが、その予備選挙が全米ばかりでなく世界中から注目されている。そのメイン アクター(主役)の一人が間違いなくバラク オバマであることは言うまでもない。知名度においてヒラリー クリントンには当初大きな差が有った事は確かである。しかし多くの予想(自分もその一人だが)を覆して、民主党の大統領候補に一番近いとも言われはじめている。

英国に住んで34年間、日本と英国そしてヨーロッパ諸国やアメリカを同時に見てきたが、正直言ってまさか今年のアメリカ大統領選挙の有力候補にバラク オバマ氏が選ばれるとは想像も出来なかった。いくら国やEU法の中に人種に対する差別には罰則があるものの現実には諸々の人種的差別は実在する。それを渡英以来見てきたのでよけいに信じられない気持ちの方が強かったわけだ。

白人社会に限らず日本社会の中にも差別や偏見は大なり小なり存在する。人間の営む社会であれば異人種や異文化に対する拒絶反応は何割かの割合であるのが普通である。そんな事絶対に無い!などとナイーブな事を言う人は現実の社会を見ていないか、いびつな部分から目を背けているだけに過ぎない。


英国は80年代初頭に女性の宰相を輩出しているので、政治家としての能力さえあれば一国の総理大臣にまでなれる事をすでに証明した事になる。 アメリカにはこれまで女性の大統領は無かったのでヒラリー クリントン氏が選ばれれば初の女性大統領である。これまでのところ黒人初のバラク オバマ氏との非常に接戦が続いているが、ある識者によればすでにバラク オバマ氏に次期大統領は決まっている!と言い切る人も居る。

アメリカ国内の予備選は単にお祭り好きな国民の、大統領選挙を盛り上げる為の茶番であるとまで言い切るのである。もし本当にオバマ氏が大統領になったら面白いなと小生等は思うが、内心無理じゃないかなと今でも怪訝なのだがはたして11月には誰が次期大統領に選ばれて居るであろうか?

バラク オバマがもし本当にアメリカの次期大統領に選ばれるようであれば、アメリカと言う国は少なくとも日本より政治の上では遥かに先進的である。 ヒラリー クリントンにしても日本よりは先進的であろう。日本では未だに女性の宰相候補すら出ていない!ましてや外国人が困難な日本国籍を取得し総理大臣候補になる事など想像も出来ない。戦後の政局もそのほとんどの期間を自民党が独占してきた事を考えると日本での女性総理や外国出身の総理大臣は出る予想すらつかないのが実情ではないか。

アメリカのみならず英国も子供から大人まで政治の話を良くする。自分の記憶では子供の頃その様な、政治の話題に口を挟む事は親や周りの大人も喜ばなかった。そればかりか大学当時の学生運動にさえ随分と社会の風当たりは冷たく、当時の学生達がノンポリ(ノンポリテクス)と称して政治に関わりを持たない事が就職時に大きく影響した事を記憶している世代である。 今日の子供たちはどうか分からないが、日本の小学校や中学校で政治に対するディヴェートが行われる事など想像が付かないが?現実はどうであろう。

子供に政治に関わりを持たせない社会と、子供から政治に関心を持たせる社会?こんな違いからも民主主義の土壌は鍛えられるのかも知れない。人種差別が叫ばれた1960年代までのアメリカ、わずか240年にも満たない歴史しか持たない移民で構成されたアメリカが、その本領を発揮するかのように公民権運動から黒人大統領まで誕生させるとしたら、その国の先進性は未だ女性の宰相すら出した事のない日本とは歴史以上の開きが政治の上で出来てしまった事になるのではないか。

その様な事を考えていると、はたして日本は彼の国と対等に付き合っていけるのだろうか。あまつさえアメリカの属国であるとか、50何番目の州と言われているのに。

先進国のみならずアフリカにも女性大統領は存在している。西アフリカのリベリアで誕生したジョンソンサーリーフ大統領その人である。内戦で疲弊したリベリアを立て直すべく奮闘しているが、ヨーロッパやアメリカ等の経済先進国に媚を売ってきたこれまでの大統領と違って、はっきりものが言える大統領である。すぐに先進国に取り込まれてしまい、賄賂と特権意識ばかりで内戦を収められなかった「男の大統領」より、余程優れた大統領と言わねばならない。

この様に見ると国の政治に対する先進性は、その国民が「如何に柔軟に政治をとらえ、又国を変えていこうとしているのか」が選ばれる人達の多様性と言う形で表れてくるようにも考えられると思うが。とにかく11月が楽しみである。

2008/02/05

ナンバー プレート カバー

最近見た日本からのニュースでナンバー プレート カバーの是非をめぐって国土交通省が色付きのカバーを規制すると言うものを読んだ。 『エ!』というのが最初の印象で、そんな物付けているドライバーが居るのか?と言うのが偽らざる感想だった。考えてみれば以前にも自分の車に彼女を乗せるときにも土足厳禁でスリッパを履かせるドライバーが居ると聞いた時には、『まさか』というのを通り越して一体日本人にとって車とは何だろう?という疑問がわいてきた。

国交省にしたところでナンバー プレートの目的とするところを押さえていれば、カバー等と言う物を初めから許可するほうがおかしいのだが。車文化が今一つおかしな方向に行っているのが日本かもしれない。車に乗るのに泥まみれの靴なら理由も理解できるが普通のきれいな靴でも脱がせる事など日本以外の国では理解できない事であろう。

以前ナンバー プレートでオートバイなどは半分から先をウイングのように上に折り曲げた状態の物や、走行中にプレートその物が動いて見え辛くするものなどナンバー プレートとは一体何の目的で付けているんだろうと思ったりした。

又スピード違反の取締りカメラのフラッシュに連動して逆光を起こし、ナンバー プレートを読めなくする装置などよく考え付いたものだと感心したが、官憲は一体どうして手をこまねいているのだろうと不思議な気もする。


スピード違反の取締りで英国は一番多いのがカメラである。そのカメラも走行中のドライバーの顔を写すことは無い!

日本では正面から撮られると聞いたが、人権問題にうるさいヨーロッパでは後ろからナンバー プレートを撮る。自分は運転していなかったと言っても通用しない。現実に運転していた人が自分であると証言しない限り車の所有者に罰金の請求が来る。ここら辺りが人権問題にうるさいヨーロッパの配慮といえばそうかもしれない。日本のように正面から顔写真を撮られたのでは失業や場合によっては家庭崩壊もあり得るからであろう。罰金さえ払えばそれ以外の個人的事情までは踏み込まないのが彼等流の人権保護かも知れない。

車で走行中の携帯電話は英国でも罰金が科せられるが、走行中の車でテレビを見ていれば事故につながる事は携帯電話以上に危険な事は言うまでもない。自分の車にもTVは付いているが走り出せば自動的に画面は消える。しかしながら日本の車アクセサリー専門店では走行中にもTVも見る事が出来るように、切り替え可能な装置を堂々と宣伝している光景には唖然とした。違法な事を承知で宣伝してもなんとも無いのかね?

GPS(カーナビ)がいち早く普及したのも日本が最初だった。日本の車文化がいびつだなと感じる事は、車そのものの走行性能よりも豪華なカーステレオやエアコン、そしてGPS等の確かに有れば便利な装置ではあるが車本来の目的(速く安全に目的地に着く)という事よりも車が家の延長線のような錯覚をするのは自分だけだろうか。

リバース(車庫入れ)の自動装置や運転中居眠りしても車が知らせたり、走行車線を外れないように前車との車間距離を保ちつつ自動調整するクルーズ コントロール等など数え上げたらきりが無い。そんなにくつろいで移動したいのなら電車やバスに乗ったほうがよほど安全だと思うが。

日本の道路事情を考えればノロノロ運転の道が多く、その移動中を快適に過ごすことも重要かも知れない。その様な観点からステレオ、エアコン、GPS等が他の先進国より早く普及した事は理解できる。家でリラックスした環境に近い状態で車の中での運転をとらえているとすればこれも随分危険な状態ではないか。その様なところが運転中はある程度の緊張(集中)を要求される欧州車と違うのかもしれない。

しかしながら日本車の成功体験が及ぼした影響は大きく、遅ればせながらヨーロッパの自動車メーカーもエアコンを装備したりカーステレオのアップグレードやGPSの導入(未だ少ないが)等日本の自動車文化の影響がじわりじわりと迫ってきている。

運転中のある程度の緊張と書いたがヨーロッパを走る車の80%以上はマニュアル車であることは、車自体の持つ楽しみと目的を最小限維持しようとしているのではないか?と最近は考えるようになった。