2024/03/28

時代の変化と価値観の変化

現代における価値観の変化は我々の世代には非常に大きな変化が起きていると言わざるを得ない。先ず我々の認識からすれば言葉のみならずその意味する事が結構異なる事が起きている。

自身の記憶なので100%正しいと言う自信は無いが、例えば今ではサッカーと呼ばれるスポーツは自分が小学生当時に先生が呼んで居た時はフットボールだった。それがいつの間にかサッカーが一般的になり、フットボールはアメリカン・フットボールを呼ぶときに使われるようになり、サッカーはおそらく区別する目的で使われ始めたのではないか?と思うが、現在でもJFA(Japan Football Association)は日本サッカー協会と訳されている。ちなみに国際サッカー連盟 FIFAは(Fédération Internationale de Football Association)が正式名称と言う事らしい。

自分が学生時代にはアメフトは当時アメラグと呼ばれていたと記憶している。これなどもボールの形やゲームのスタイルを考えればラグビーに似ている事から容易に想像できると思うのだが、今ではアメフト(American Football)が一般的な呼び名として使われておりアメラグとは呼ばれない様だ。

この様に考えると時代の及ぼす影響は大きく世界ではどの様に呼ばれているかと考えてみる事も面白いかも知れない。日本で非常にポピュラーな野球も例外ではない様に感じる。どこの国も自国の選手の活躍には野球(MLB)での活躍で超人気選手となった大谷選手のみならず、イングランドのサッカー プレミアリーグで活躍する日本人選手も日本国内では人気選手なのだろうと想像している。

これは野球やサッカーに限った事では無い。オリンピックを含め自国選手の活躍は何処の国にとっても喜ばしい事で特に日本に限った事では無いように思う。自国選手の活躍に国を超えて人々が熱狂する事は自尊心が与える影響ではないのか?オリンピック競技で自分達の国の選手が勝つことにより自分達も同様に自尊心が満たされるからでは無いだろうか。

スポーツ競技が作り出す自尊心はオリンピックや国際試合ばかりでは無い。甲子園の高校野球でも同様の現象は国単位と言う大枠ではなく、県単位でも同様な事が起きる事は何度も見てきた。その様な観点からどのように競技を体系化するかで、それらに直接関わって居ない人々まで巻き込んだ社会全体の幸福感(自尊心)も有り得るように感じるが如何であろうか?

2024/03/01

時代と環境の変化を感じるか?

この2回は少林寺拳法と言う武道が目指してきた宗道臣の哲学と近代オリンピック(クーベルタン男爵)の哲学に照準を当ててきた。先のIOCで2028年のロサンゼルスのオリンピック種目にどの様な競技が新しく選ばれたのであろうか、検証してみるのも無駄では無いと思う。

そんな新種目競技の一つにクリケットが有る。
クリケットと言えばイギリスで生まれ現在ではコモンウエルス(commonwealth)を中心とした旧英国の植民地であった国々で幅広く愛されている球技の一つである。残念ながら日本では馴染みの少ないスポーツかも知れない。
しかし世界におけるクリケットの競技人口は野球よりはるかに多いと言われている。野球はアメリカの影響を受けた国々で広まり、クリケットはイギリスの影響が強い国で盛んになった事は事実であろう。イギリスにも野球(baseball)連盟は存在する。しかし残念ながら日本とは逆に幅広くプレーされているスポーツとは言えない。イギリスに限った事では無くヨーロッパの国ではその多くが野球を知らない人達の方が多い事も事実であろう。

そんな中にあって来年のパリオリンピックで新種目に加えられた競技を見てみると、まさしく時代の変化が如実に表れていると感じるのではないか?
東京オリンピックのスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンに加えてブレークダンスである。我々の古い世代のイメージからすれば『これがオリンピック種目?』と首をひねりそうな競技が並んでいる。その様な観点から見ればパリの種目からは外されてしまった『空手』の方が余程世界的な普及度やスポーツと言う観点からもふさわしい様に感じる。

私が英国に来て以来1980年代初めに空手をオリンピック種目にと言う話し合いが持たれた事が有る。81年の夏頃だったように記憶している。
MAC(マーシャルアートコミッション)と言う組織が有り、柔道(すでにオリンピック種目として認知されていた)を除く英国での武道の統括組織であった。当時の予想では空手が柔道に次ぐ武道のオリンピック種目に加わるのではと言う事で、ルールや統一組織の模索が何度もなされた事を覚えている。

その様な中で世界における競技人口が最も多かった空手は次のオリンピック種目としては最有力の武道で有った。しかし結果的には空手がオリンピック競技に選ばれる事は無かった。空手と一括りに相称していた武道だが現実には組織としてはいくつもの団体が有り、それぞれが自分達の団体を中心とした競技ルールを主張して折り合うことが出来なかった事が最も大きな障害であった様に思う。

そんな事実が有り、日本武道で世界中を席巻していた空手(WUKO)はオリンピック競技として認められる大きなチャンスを失う事となり、その後のソウルオリンピックでtaekwondo(テコンドー)が公開競技として認められた事により、はるかに競技人口が多かった空手はオリンピック種目入りが2020年東京大会まで見送られる結果となった事は有名である。先の東京オリンピックの公開競技として公開されたが、来年のパリ大会では消える事になってしまった事は同じ日本の武道に携わる者としては残念な気もする。

柔道も今のIJF(国際柔道連盟)の本部はスイスのローザンヌにあり発祥の地 講道館が有る日本ではない。伝統空手グループは(WUKOからWKF)と名が変わり現在の本部はスペインのマドリッドである。空手のフルコンタクト派はWKAとなり、現在では東京大会を機にWKFルールを受け入れ オリンピックの正式競技として認められるべく共に道を歩き始めている。

この様に見て来ると日本の武道はいずれも発祥の地であるはずの日本に本部が無い事が分かる。ソウルオリンピックで公開競技として始まったテコンドーはすでにオリンピックの公式競技として認められており、同種の競技(武道として)となる空手は正式競技化が難しい事も予測される。一般に区別の難しい(似通った)競技はオリンピックで認められるには余程の違いが見られないと難しいと言われている。

柔道も1964年の東京オリンピックでの公開競技の後、1968年のメキシコ大会では見送られた事が有った。その時柔道のオリンピック入りを強力に推奨した国がイギリスとフランスだった事は有名である。オリンピックもカラーTV放送化に伴い、競技者を見分けやすい国際試合での道着が白とブルーになった事はフランスの国色(ブルー)をオリンピック種目推進の貢献が認められ使い始めたと言うのも頷ける理由であろう。

この様に見てみると日本は武道家に限った事では無く、大局的な視線が乏しく結果的に世界中での発展にも支障をきたす事例は幾つも有る。それでも先に挙げたブレークダンス、スケートボード、スポーツクライミング等 果してこれがスポーツ?と感じるのはやっぱり古い日本人が出てしまったのかと反省する昨今である。

2024/02/01

少林寺拳法とオリンピックの目指すものとは

前の投稿で少林寺拳法を発展させるには何が必要か?と言う事に触れた。その中で述べたのは、開祖 宗道臣の法話の一部分を切り取って自分達の正当性を拳士たちに印象付け、組織そのものを都合よく私物化する旗印にしてこなかったかと言う問いかけであった。

少林寺拳法がそれ以前の日本武道と何が異なったのか?なぜ短期間で多くの拳士(支持者)を得られたのか?問われる事はまさにその一点に尽きる。

宗道臣の説いた哲学『人、人、人すべては人の質にある』人々の考え方を少林寺拳法の修練を通して徐々に変える事により、この世の中に平和で豊かな世界『理想境』を実現したい。道院・支部で説かれた『教え』、哲学の部分にも共鳴した人達が多かった事がこの一武道の急速な発展に寄与したのが容易に想像が出来る。

しかるに開祖 宗道臣はその法話の中で『オリンピック選手の中には自身が選ばれる為に自分と競合する仲間でも蹴落とさなければならないと考える者もいる、その様な考え方は我々の目指すものではない』と諭された事が有る。これはオリンピックに代表されるスポーツの競争原理の間違った例として、また自分達の教えがいかに大切であるかの指標としたのでは無いであろうか?

その様な言葉の切り取りが政治的に都合よく利用され、組織としての在り方を異なった方向に導く助けとなる事は理解している。

それでは宗道臣の説いた『理想境』建設とクーベルタン男爵が説いた近代オリンピックの考え方とはどこが異なるのであろうか。前に述べた開祖の言葉の切り取りで組織としての在り方をオリンピックやスポーツから切り離そうとしては来なかったか?

私は近代オリンピックの父として語り継がれるクーベルタンの説いたオリンピック憲章に付いて今一度検証してみたい。
以下はオリンピック憲章で謳われている文面である。

『 オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。』
他にもいろいろとオリンピックの目的など書かれているが最後に以下の様な記述がある。

《オリンピズムの根本原則1》
「オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化や教育と融合させるオリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などに基づいた生き方の創造である。

これをもってしても少林寺拳法の哲学とオリンピック哲学は全く違うと断言できるのか? 今一度検証してみるのも無駄ではないように感じるが、如何であろうか。

2024/01/07

BSKF並びにIKA設立の目的

合掌
 
2024年と言う新しい年を迎え新年のご挨拶と同時にこれまで自身のブログを中断していた事へのお詫びを申し上げたいと思いここに改めて記すことにしました。

先ず新年早々世界中を驚かせた能登半島での大地震で被災された多くの方々には心よりお見舞いを申し上げます。続いて2日には新たな悲劇が起きてしまいました。

被災地に救援に向かうはずだった海上保安庁の小型機と日本航空の旅客機による大変悲惨な事故を目の当たりにし、いったい今年はどんな一年になるのだろうと多くの人々は不安な気持ちになったのではと想像しています。

現在も続くウクライナとロシアによる戦火、そしてイスラエル国内のガザ地区の戦火。共に人の判断によって引き起こされたものであることは言うまでも有りません。

この様な時こそ少林寺拳法をこの世に創始した宗道臣の言葉『人人人すべては人の質にある』を思い起こすのは自分一人なのか?今一度検証してみるのも意味があるのではないかとの思いです。

British Shorinji Kempo Federation(英国少林寺拳法連盟)設立の目的はどの様な経緯と意味を持ち設立されたのか、これまでの歴史を振り返って整理してみました。

思えば小生が50年前に英国の地を踏んだのは、戦後に想起され最後発だった少林寺拳法と言う武道が破竹の勢いで組織を拡大していた時代です。その一員である誇りと同時に一助に成りたいとの願いから渡英するに至った経緯は偽りのない事実です。1974年当時にはまだ現在WSKOと呼ばれることになる組織は無く、世界に展開する少林寺拳法は数カ国だけの時代でした。

古くは柔術、そしてオリンピック種目にまで発展した柔道は言うに及ばず、空手や合気道そして剣道と言った日本古来の武道はすでに世界で紹介されており各地でその勢いを拡大している時代でした。しかしその当時においても最後発で有ったはずの少林寺拳法がなぜこれ程急速に発展できたのか?そこに少林寺拳法の持つ世界観(哲学)が多くの人々に共感を与えた事が要因ではなかったのかと考えたのです。

『単なる武道やスポーツではない!』そこに示された宗道臣の哲学、それ以前の日本武道では聞いたことも無い『理想境建設』と言う教えこそが急速に多くの支持を得たものと理解して居ます。

人々の質(考え方)を向上させることによって、この世界に平和で誰もが住みたいと思える社会を実現したい。第二次世界大戦で疲弊していた日本のみならず、世界から受け入れられる普遍性の高い哲学(教え)!が示された事が大きな要因では無かったのかと思えてなりません。

自分の思いは少林寺拳法の創設者『宗道臣』を一武道家で終わらせて良いのか? 柔道を世界中で認められるオリンピック種目にまで高め、歴史上もその名を留める加納治五郎と同等の功績は充分にあるとの強い思いです。

柔道と柔術の違いは何でしょう?
加納治五郎もかつては柔術を修練して居た事は歴史上の事実です。ではなぜ柔術は現在も続けられているにも関わらず柔道の様に世界中に発展出来なかったのでしょう、 加納治五郎の先見性と時代に即した考えがあったからではなかったのか?

今一度宗道臣の残した教え(哲学)を見直してみるのも良いのではとの思いから、自分なりに整理してみようと考えた訳です。

『少林寺拳法は単なるスポーツではない』と言う宗道臣の残した一言を切り取り、都合の良い解釈で現在の様な体系に変えてしまったのではないのか、拳士なら修練の都度 唱える道訓の最後(信条)に次のような二文が有ります。

「我等は正義を愛し、人道を重んじ、礼儀を正し、平和を守る真の勇者たることを期す。」

「我等は法を修め、心身を錬磨し、同志相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想境建設に邁進す。」

この様な武道の修練を通して人の質を高める教えこそが『少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない』と言わしめた哲学ではないのか?それこそが発展の一因である。自分にはその様に思えてなりません。

宗道臣を歴史に名を遺すような存在にしたい!偽らざる思いでBSKFが、またそのモデルを世界に広げる目的でIKAは設立されたのです。

結手