2024/03/28

時代の変化と価値観の変化

現代における価値観の変化は我々の世代には非常に大きな変化が起きていると言わざるを得ない。先ず我々の認識からすれば言葉のみならずその意味する事が結構異なる事が起きている。

自身の記憶なので100%正しいと言う自信は無いが、例えば今ではサッカーと呼ばれるスポーツは自分が小学生当時に先生が呼んで居た時はフットボールだった。それがいつの間にかサッカーが一般的になり、フットボールはアメリカン・フットボールを呼ぶときに使われるようになり、サッカーはおそらく区別する目的で使われ始めたのではないか?と思うが、現在でもJFA(Japan Football Association)は日本サッカー協会と訳されている。ちなみに国際サッカー連盟 FIFAは(Fédération Internationale de Football Association)が正式名称と言う事らしい。

自分が学生時代にはアメフトは当時アメラグと呼ばれていたと記憶している。これなどもボールの形やゲームのスタイルを考えればラグビーに似ている事から容易に想像できると思うのだが、今ではアメフト(American Football)が一般的な呼び名として使われておりアメラグとは呼ばれない様だ。

この様に考えると時代の及ぼす影響は大きく世界ではどの様に呼ばれているかと考えてみる事も面白いかも知れない。日本で非常にポピュラーな野球も例外ではない様に感じる。どこの国も自国の選手の活躍には野球(MLB)での活躍で超人気選手となった大谷選手のみならず、イングランドのサッカー プレミアリーグで活躍する日本人選手も日本国内では人気選手なのだろうと想像している。

これは野球やサッカーに限った事では無い。オリンピックを含め自国選手の活躍は何処の国にとっても喜ばしい事で特に日本に限った事では無いように思う。自国選手の活躍に国を超えて人々が熱狂する事は自尊心が与える影響ではないのか?オリンピック競技で自分達の国の選手が勝つことにより自分達も同様に自尊心が満たされるからでは無いだろうか。

スポーツ競技が作り出す自尊心はオリンピックや国際試合ばかりでは無い。甲子園の高校野球でも同様の現象は国単位と言う大枠ではなく、県単位でも同様な事が起きる事は何度も見てきた。その様な観点からどのように競技を体系化するかで、それらに直接関わって居ない人々まで巻き込んだ社会全体の幸福感(自尊心)も有り得るように感じるが如何であろうか?

2024/03/01

時代と環境の変化を感じるか?

この2回は少林寺拳法と言う武道が目指してきた宗道臣の哲学と近代オリンピック(クーベルタン男爵)の哲学に照準を当ててきた。先のIOCで2028年のロサンゼルスのオリンピック種目にどの様な競技が新しく選ばれたのであろうか、検証してみるのも無駄では無いと思う。

そんな新種目競技の一つにクリケットが有る。
クリケットと言えばイギリスで生まれ現在ではコモンウエルス(commonwealth)を中心とした旧英国の植民地であった国々で幅広く愛されている球技の一つである。残念ながら日本では馴染みの少ないスポーツかも知れない。
しかし世界におけるクリケットの競技人口は野球よりはるかに多いと言われている。野球はアメリカの影響を受けた国々で広まり、クリケットはイギリスの影響が強い国で盛んになった事は事実であろう。イギリスにも野球(baseball)連盟は存在する。しかし残念ながら日本とは逆に幅広くプレーされているスポーツとは言えない。イギリスに限った事では無くヨーロッパの国ではその多くが野球を知らない人達の方が多い事も事実であろう。

そんな中にあって来年のパリオリンピックで新種目に加えられた競技を見てみると、まさしく時代の変化が如実に表れていると感じるのではないか?
東京オリンピックのスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンに加えてブレークダンスである。我々の古い世代のイメージからすれば『これがオリンピック種目?』と首をひねりそうな競技が並んでいる。その様な観点から見ればパリの種目からは外されてしまった『空手』の方が余程世界的な普及度やスポーツと言う観点からもふさわしい様に感じる。

私が英国に来て以来1980年代初めに空手をオリンピック種目にと言う話し合いが持たれた事が有る。81年の夏頃だったように記憶している。
MAC(マーシャルアートコミッション)と言う組織が有り、柔道(すでにオリンピック種目として認知されていた)を除く英国での武道の統括組織であった。当時の予想では空手が柔道に次ぐ武道のオリンピック種目に加わるのではと言う事で、ルールや統一組織の模索が何度もなされた事を覚えている。

その様な中で世界における競技人口が最も多かった空手は次のオリンピック種目としては最有力の武道で有った。しかし結果的には空手がオリンピック競技に選ばれる事は無かった。空手と一括りに相称していた武道だが現実には組織としてはいくつもの団体が有り、それぞれが自分達の団体を中心とした競技ルールを主張して折り合うことが出来なかった事が最も大きな障害であった様に思う。

そんな事実が有り、日本武道で世界中を席巻していた空手(WUKO)はオリンピック競技として認められる大きなチャンスを失う事となり、その後のソウルオリンピックでtaekwondo(テコンドー)が公開競技として認められた事により、はるかに競技人口が多かった空手はオリンピック種目入りが2020年東京大会まで見送られる結果となった事は有名である。先の東京オリンピックの公開競技として公開されたが、来年のパリ大会では消える事になってしまった事は同じ日本の武道に携わる者としては残念な気もする。

柔道も今のIJF(国際柔道連盟)の本部はスイスのローザンヌにあり発祥の地 講道館が有る日本ではない。伝統空手グループは(WUKOからWKF)と名が変わり現在の本部はスペインのマドリッドである。空手のフルコンタクト派はWKAとなり、現在では東京大会を機にWKFルールを受け入れ オリンピックの正式競技として認められるべく共に道を歩き始めている。

この様に見て来ると日本の武道はいずれも発祥の地であるはずの日本に本部が無い事が分かる。ソウルオリンピックで公開競技として始まったテコンドーはすでにオリンピックの公式競技として認められており、同種の競技(武道として)となる空手は正式競技化が難しい事も予測される。一般に区別の難しい(似通った)競技はオリンピックで認められるには余程の違いが見られないと難しいと言われている。

柔道も1964年の東京オリンピックでの公開競技の後、1968年のメキシコ大会では見送られた事が有った。その時柔道のオリンピック入りを強力に推奨した国がイギリスとフランスだった事は有名である。オリンピックもカラーTV放送化に伴い、競技者を見分けやすい国際試合での道着が白とブルーになった事はフランスの国色(ブルー)をオリンピック種目推進の貢献が認められ使い始めたと言うのも頷ける理由であろう。

この様に見てみると日本は武道家に限った事では無く、大局的な視線が乏しく結果的に世界中での発展にも支障をきたす事例は幾つも有る。それでも先に挙げたブレークダンス、スケートボード、スポーツクライミング等 果してこれがスポーツ?と感じるのはやっぱり古い日本人が出てしまったのかと反省する昨今である。

2024/02/01

少林寺拳法とオリンピックの目指すものとは

前の投稿で少林寺拳法を発展させるには何が必要か?と言う事に触れた。その中で述べたのは、開祖 宗道臣の法話の一部分を切り取って自分達の正当性を拳士たちに印象付け、組織そのものを都合よく私物化する旗印にしてこなかったかと言う問いかけであった。

少林寺拳法がそれ以前の日本武道と何が異なったのか?なぜ短期間で多くの拳士(支持者)を得られたのか?問われる事はまさにその一点に尽きる。

宗道臣の説いた哲学『人、人、人すべては人の質にある』人々の考え方を少林寺拳法の修練を通して徐々に変える事により、この世の中に平和で豊かな世界『理想境』を実現したい。道院・支部で説かれた『教え』、哲学の部分にも共鳴した人達が多かった事がこの一武道の急速な発展に寄与したのが容易に想像が出来る。

しかるに開祖 宗道臣はその法話の中で『オリンピック選手の中には自身が選ばれる為に自分と競合する仲間でも蹴落とさなければならないと考える者もいる、その様な考え方は我々の目指すものではない』と諭された事が有る。これはオリンピックに代表されるスポーツの競争原理の間違った例として、また自分達の教えがいかに大切であるかの指標としたのでは無いであろうか?

その様な言葉の切り取りが政治的に都合よく利用され、組織としての在り方を異なった方向に導く助けとなる事は理解している。

それでは宗道臣の説いた『理想境』建設とクーベルタン男爵が説いた近代オリンピックの考え方とはどこが異なるのであろうか。前に述べた開祖の言葉の切り取りで組織としての在り方をオリンピックやスポーツから切り離そうとしては来なかったか?

私は近代オリンピックの父として語り継がれるクーベルタンの説いたオリンピック憲章に付いて今一度検証してみたい。
以下はオリンピック憲章で謳われている文面である。

『 オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。』
他にもいろいろとオリンピックの目的など書かれているが最後に以下の様な記述がある。

《オリンピズムの根本原則1》
「オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化や教育と融合させるオリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などに基づいた生き方の創造である。

これをもってしても少林寺拳法の哲学とオリンピック哲学は全く違うと断言できるのか? 今一度検証してみるのも無駄ではないように感じるが、如何であろうか。

2024/01/07

BSKF並びにIKA設立の目的

合掌
 
2024年と言う新しい年を迎え新年のご挨拶と同時にこれまで自身のブログを中断していた事へのお詫びを申し上げたいと思いここに改めて記すことにしました。

先ず新年早々世界中を驚かせた能登半島での大地震で被災された多くの方々には心よりお見舞いを申し上げます。続いて2日には新たな悲劇が起きてしまいました。

被災地に救援に向かうはずだった海上保安庁の小型機と日本航空の旅客機による大変悲惨な事故を目の当たりにし、いったい今年はどんな一年になるのだろうと多くの人々は不安な気持ちになったのではと想像しています。

現在も続くウクライナとロシアによる戦火、そしてイスラエル国内のガザ地区の戦火。共に人の判断によって引き起こされたものであることは言うまでも有りません。

この様な時こそ少林寺拳法をこの世に創始した宗道臣の言葉『人人人すべては人の質にある』を思い起こすのは自分一人なのか?今一度検証してみるのも意味があるのではないかとの思いです。

British Shorinji Kempo Federation(英国少林寺拳法連盟)設立の目的はどの様な経緯と意味を持ち設立されたのか、これまでの歴史を振り返って整理してみました。

思えば小生が50年前に英国の地を踏んだのは、戦後に想起され最後発だった少林寺拳法と言う武道が破竹の勢いで組織を拡大していた時代です。その一員である誇りと同時に一助に成りたいとの願いから渡英するに至った経緯は偽りのない事実です。1974年当時にはまだ現在WSKOと呼ばれることになる組織は無く、世界に展開する少林寺拳法は数カ国だけの時代でした。

古くは柔術、そしてオリンピック種目にまで発展した柔道は言うに及ばず、空手や合気道そして剣道と言った日本古来の武道はすでに世界で紹介されており各地でその勢いを拡大している時代でした。しかしその当時においても最後発で有ったはずの少林寺拳法がなぜこれ程急速に発展できたのか?そこに少林寺拳法の持つ世界観(哲学)が多くの人々に共感を与えた事が要因ではなかったのかと考えたのです。

『単なる武道やスポーツではない!』そこに示された宗道臣の哲学、それ以前の日本武道では聞いたことも無い『理想境建設』と言う教えこそが急速に多くの支持を得たものと理解して居ます。

人々の質(考え方)を向上させることによって、この世界に平和で誰もが住みたいと思える社会を実現したい。第二次世界大戦で疲弊していた日本のみならず、世界から受け入れられる普遍性の高い哲学(教え)!が示された事が大きな要因では無かったのかと思えてなりません。

自分の思いは少林寺拳法の創設者『宗道臣』を一武道家で終わらせて良いのか? 柔道を世界中で認められるオリンピック種目にまで高め、歴史上もその名を留める加納治五郎と同等の功績は充分にあるとの強い思いです。

柔道と柔術の違いは何でしょう?
加納治五郎もかつては柔術を修練して居た事は歴史上の事実です。ではなぜ柔術は現在も続けられているにも関わらず柔道の様に世界中に発展出来なかったのでしょう、 加納治五郎の先見性と時代に即した考えがあったからではなかったのか?

今一度宗道臣の残した教え(哲学)を見直してみるのも良いのではとの思いから、自分なりに整理してみようと考えた訳です。

『少林寺拳法は単なるスポーツではない』と言う宗道臣の残した一言を切り取り、都合の良い解釈で現在の様な体系に変えてしまったのではないのか、拳士なら修練の都度 唱える道訓の最後(信条)に次のような二文が有ります。

「我等は正義を愛し、人道を重んじ、礼儀を正し、平和を守る真の勇者たることを期す。」

「我等は法を修め、心身を錬磨し、同志相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想境建設に邁進す。」

この様な武道の修練を通して人の質を高める教えこそが『少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない』と言わしめた哲学ではないのか?それこそが発展の一因である。自分にはその様に思えてなりません。

宗道臣を歴史に名を遺すような存在にしたい!偽らざる思いでBSKFが、またそのモデルを世界に広げる目的でIKAは設立されたのです。

結手

2020/11/22

日本社会のガラパゴス化とは

ずいぶん前から『日本の常識は世界の非常識だ!』と言われることを聞いた事が有る人は結構居ると思う。それはある意味 日本では特に問題なく行なわれている習慣や思考方法(常識)が世界の基準とは異なる事を意味した言葉なのだと理解している。

ガラパゴスと言えば世界中の中でそこでしか生息しない生命体や、島の中で独特の進化を遂げた動植物が多い事で有名である。他の国や環境から隔離された場所で独特の進化を遂げた動植物であるがそれにも諸説ある事は承知している。

日本社会の中で今一般的に使われているガラパゴス諸島を起源とした呼び方に『ガラケー』(スマホが一般的に普及する前の携帯電話機などを指す)がある。しかし振り返ってみるとガラケーばかりではなく、かなり多くの分野で日本独特の進化や変化をしてきた工業生産物はいくつも見られる。

70年代後期にファクシミリが世に出た時の事は現在でも鮮明に記憶している。それまでの伝達方法は当然の事ながらEメールやSNS等は無く、オフィスにおける緊急時の伝達手段は電話かテレックスが主流であった。英語圏のみならずアルファベットが主流の国では、それもある意味それ程の不都合も無かったことが主な理由であろう。

しかしながら漢字文化の日本では容易にテレックスを漢字化する事は出来なかったし、和文のタイプライターも確かに存在したがその後のワードプロセッサーの出現によりそれも意味を持たなくなってしまった。当然の事ながらファクシミリの便利さはテレックスの比ではなく、漢字の文章のみならず写真まで送信可能となればテレックスに置き換えられる事は時間の問題で有った。

3.5型フロッピーディスクと言うのも日本で発明されたと聞いた。残念ながらより便利な記憶媒体が主流となりいつの間にか消えてしまった。そのような中にあって現在も尚日本のオフィスではFaxが厳然と生きのこっている様だ。多くの欧米のオフィスから消えてしまったFaxが変わらず日本の社会の中で生き残っているとすればこれもガラパゴス現象かも知れない。

その他にも最近の日本政府が言い出した『脱ハンコ』文化、これも日本社会でしか見られない独特の習慣文化であろう。良くも悪くもこれらの習慣を変えようとすると大きな抵抗勢力が有る事は知られている。ハンコ文化を守りたい勢力にはハンコ業界と深い繋がりのある政治家や、Fax同様にパソコンやスマホの苦手世代(我々世代)が上司で居る会社等が影響していることは容易に想像が付く。

今年の大きな特徴は中国から始まった武漢ウイルスであることは言うまでもない。一年中このコロナで世界中が振り回される事になってしまった。その様な環境下でイギリスやヨーロッパではロックダウン(都市封鎖)が始まり、オフィスでの仕事をオンラインで自宅からにする会社が増えてきた。

我々の拳法活動も例外ではなく支部長達は知恵を絞りZoomなどの会議ソフトを使いオンラインでの道場を運営している。哲学のみの時間や鎮魂行の座禅だけををするクラスもあるし、普段の道場での練習に近いストレッチングや基本の技をやっているグループもある。

いまはこの様に我々指導者の思考方法の柔軟性が試されているのかも知れない。『少林寺拳法の練習がオンラインなどで出来るはずが無い!』と言う事は簡単である。ではどの様な知恵(方法)なら それを必要としている人達に届けることができるだろうか? 我々指導者が『ガラパゴス先生』化しない為に!

2020/07/02

少林寺拳法とBlack Lives Matterについて

5月25日 アメリカはミネアポリスにおいて黒人のジョージ・フロイド氏への白人の警察官による過剰な逮捕映像が世界中に拡散されることになり、その事が人種差別によって引き起こされた事件との非難の声が上がる事となった。

その後 該当の警察官は殺人罪で逮捕され起訴されることになったが、同時にその場にいた3名の警察官も解雇され訴訟が起こされているようである。この事件はその後アメリカ大統領のSNS等の投稿が切り取られて表沙汰になることで、益々その問題の根深さが改めて市民の間で話題になっていることは多くを語るまでもない。これはアメリカ社会のみならず世界中の至るところで人種差別に反対するデモが Black Lives Matterとして取り上げられている事をテレビニュースからもうかがうことができる。

アメリカの都市のみならず、イギリスは元よりヨーロッパの多くの街や日本においてもBlack Lives Matterのデモは起きている。私が住んでいるイギリスでも奴隷貿易に関わった当時の貴族や貿易商人の銅像がデモの群衆により倒されたりするニュースが登場している。

日本ではこれまで比較的 人種差別による社会問題は起きた事は記憶に無いが、欧米には一時期において植民地政策がとられ、その事により奴隷貿易や砂糖、紅茶等の取引で巨万の富を築いた人達がいることは歴史上の事実である。

その様な中でBSKF(英国少林寺拳法連盟)は連盟としてBlack Lives Matterを支持する事を表明した。もちろん私にも連盟理事からそれらの決定に至る経緯の説明があったことは言うまでもない。その時 私が彼らに伝えたことは『私も個人的に理念には賛同する』だが同時に『偏ったプロパガンダや過激な組織に乗せられたりしないように』という二つの事である。

自分の人生でも経験した1960年の日米安保条約反対と、学生だった70年の大きな出来事を今でも記憶している。当時の私はそれらのデモに参加した事はなかったが、殆どのキャンパスには立て看板が立ち並び、連日のように学生達によるデモやアジテーションが繰り返されていた。現在ではその様な過激なデモは想像もできないであろうが、当時の日本で現実に起きていた事は紛れもない事実である。

開祖は『若者は純粋でエネルギーは有るが、時に物事の本質を見失う』と言う事を指摘されていた。 当時の自分は毎日が少林寺拳法で明け暮れていたノンポリ(Non Politicsの略、死語だね)の代表格で政治には全く興味がない(知識不足の)学生であった為、その様なデモ行進に参加することも無かった。

ある時 本部での指導者講習会で開祖の法話にそれが話題に上がった。全学連と呼ばれていた当時の安保条約反対のデモを組織していた学生団体について、『誰によって資金が提供されていたか』と言う裏話を披露された事がある。開祖の話では共産党の思想を理想として掲げる全学連に裏で資金を提供していたのは『アメリカのCIAである』と言うショッキングな内容であった。誰もが最初は『まさかその様なバカな事が』という反応だった。どこで仕入れた情報かは言われなかったが、その時の記憶では『安易に信念もなくその様なデモに加わってはいけない』と言う内容であった様に記憶している。しばらくして諸々の情報が明らかにされる時代になり、開祖の話が根拠のない作り話では無かったと言うことが理解できた。

翻って今回のBlack Lives Matter問題は日本国内で生活する人達や拳士には中々理解できない事なのかも知れない。少林寺拳法が掲げる『理想境建設』や『半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを』を挙げるまでもなく、社会正義に反する犯罪や差別には声を上げる事は大切な時ではないかと思う。日本の協調社会は世界でも例を見ない程に羨ましい国であることは多くの例が示している。ただ同時に行き過ぎた協調(同調)で他人の評価や眼差しを意識しすぎて行動に移せない人が多い事もまたその特徴かも知れない。

開祖が我々に伝えたかったのは『自己確立』、『良いと思ったら先ず行動せよ』と言う事ではなかったのか? 欧米社会には確かに日本より大きな人種に対する偏見や差別は存在する。私自身も英国における生活の中で経験もしたし目撃もした。故にBlack Lives Matterは黒人社会のみならずあらゆる人種に対する差別と社会正義の必要なことを我々に突き付けているのではなかろうか。であるならば私は今回のBSKF理事会には賛成である。人種差別に乗じた破壊活動や略奪などは全くの論外であることは言うまでもない。

支部長がんばれ!拳士がんばれ!『良い社会は君達の双肩にかかっている!』



以下にBSKF理事会が出したコメントを掲載しておきます。

Gassho We hope you are all staying safe and well.

The BSKF has rarely spoken out publicly on political matters. However we feel it is important to directly address recent events, as they have no doubt had an impact on all of us.

"I can't breathe"

On 25th May, George Floyd, an unarmed black man, was killed by a former Minneapolis police officer during arrest. The officer has since been charged with murder. His death and last words have become a catalyst for renewed momentum behind the Black Lives Matter movement around the world, and led to much needed dialogue and introspection on the subjects of race, discrimination and privilege.

The BSKF supports Black Lives Matter. We aim to be an inclusive organisation that welcomes everyone regardless of gender identity, race, background, ability or sexual orientation. We have always and will continue to stand against discrimination in all its forms. However if current events have taught us anything, its that it's not enough to simply take an inclusive standpoint. We all need to actively seek to understand, challenge and change bias, privilege and prejudices at personal and institutional levels. Shorinji Kempo's philosophy is one of personal responsibility and positive action, of self-awareness and respect for others. Equally the BSKF's leaders and branch masters are constitutionally bound to challenge discrimination or discriminatory behaviour within our organisation, wherever it may exist. As an organisation and as leaders we can always do better. We would also encourage all of our members to reflect on these events, and reflect on our philosophy, and ask yourselves what you can do differently too.

If any of our members have been affected by recent events and would like to talk, have feedback for us on what we can do to better address diversity and inclusion within our organisation, or have experienced discrimination within your own dojo, we encourage you to get in touch. You can talk confidentially to the directors (Kat, Ben and Michal), speak to your branch master, or message us via the BSKF website.


以下 Google翻訳

BSKFが政治問題について公に発表することはほとんどありません。しかし、最近の出来事は私たち全員に影響を与えたことは間違いないため、直接対処することが重要だと感じています。

「息ができない」

5月25日、武装していない黒人のGeorge Floydがミネアポリスの元警察官によって逮捕されました。その警官はその後殺人罪で起訴された。彼の死と最後の言葉は、世界中のBlack Lives Matter運動の背後にある新たな勢いのきっかけとなり、人種、差別、特権についての必要な対話と内省につながっています。

BSKFはBlack Lives Matterをサポートしています。私たちは、性同一性、人種、経歴、能力、性的指向に関係なく、すべての人を歓迎する包括的な組織を目指しています。私たちは常に、そしてあらゆる形態の差別に立ち向かい続けます。しかし、現在の出来事が私たちに何かを教えてくれたなら、それは単に包括的な立場を取るだけでは不十分です。私たちは皆、個人的および組織的なレベルでバイアス、特権、および偏見を積極的に理解し、挑戦し、変更することを求める必要があります。少林寺拳法の哲学は、個人の責任と前向きな行動、自己認識と他者への尊重の一つです。同様に、BSKFのリーダーと支部長は、存在する場所にかかわらず、組織内で差別または差別的行動に異議を唱えることが連盟規約上 義務付けられています。組織として、またリーダーとして、私たちは常により良いことをすることができます。また、すべてのメンバーにこれらの出来事を振り返り、私たちの哲学を振り返り、自分に何が違うのかを自問することをお勧めします。

2020/04/09

中国武漢ウイルスについて(おまけ)

昨日TVニュースで映し出された中国武漢からのニュースには驚かされた。

それは明らかに何らかの意図を感じずにはいられない異様な光景であった。

単純に見れば今度の新型コロナウイルスに打ち勝った!と言う喜びを世界に向けて発信したかっただけなのかも知れない。

一方で現在もなお、多くの国々で悲惨なウイルスとの戦いが続いて居る事は、中国政府も分かって居ると想像していた。いま各国で続けられるニュースの8割近くはこの武漢発祥のコロナウイルスである。

ヨーロッパ各国やアメリカでも、危機的な映像と共に紹介される現実を鑑みれば、いくら武漢での感染が終息したとは言え、あらゆるビルにネオンサインを輝かせて、花火まで打ち上げ祝福する映像に、素直に納得の出来ない感情が芽生えた事も正直な感想である。

長い時間ロックダウンで都市封鎖が続き、沢山の人が亡くなった事から感情として終息した事を喜びたい気持ちは、分からない事も無い。しかし元を正せば今回の新型コロナウイルスは当の武漢から発症したものである事も事実ではないか。そしていくら自分達の都市で、その問題が終息したとは言っても、現時点でも同じ問題で多くの感染者や死者が増え続けて居るニュースを、毎日目の当たりにしている人々にとって、あのようなお祭り騒ぎは中々単純には受け入れられない気分だった。

勿論これらの行事も『中国政府がウイルスに打ち勝った!』と言うプロパガンダである事は容易に想像が付くが、あまりにもド派手な演出で中国共産党が目的とするプロパガンダの効果が有ったとは思えない。この様なお祭り騒ぎの様な映像がもたらす結果が、今回のコロナウイルスでいま現在も戦っている多くの国の医療従事者や国民から、逆に反発が出る事は考えなかったのであろうか? 適切なアドバイスができる軍師(宰相)が、かの国のリーダーには居ない事が良く理解できた一幕だったのではないか。

そう言えば近隣のどこかの国でも、お友達で周りを固め、忖度政治で良識ある声が届かない環境をエンジョイしているリーダーにも同じ事が言えるのかもしれない。