2024/02/01

少林寺拳法とオリンピックの目指すものとは

前の投稿で少林寺拳法を発展させるには何が必要か?と言う事に触れた。その中で述べたのは、開祖 宗道臣の法話の一部分を切り取って自分達の正当性を拳士たちに印象付け、組織そのものを都合よく私物化する旗印にしてこなかったかと言う問いかけであった。

少林寺拳法がそれ以前の日本武道と何が異なったのか?なぜ短期間で多くの拳士(支持者)を得られたのか?問われる事はまさにその一点に尽きる。

宗道臣の説いた哲学『人、人、人すべては人の質にある』人々の考え方を少林寺拳法の修練を通して徐々に変える事により、この世の中に平和で豊かな世界『理想境』を実現したい。道院・支部で説かれた『教え』、哲学の部分にも共鳴した人達が多かった事がこの一武道の急速な発展に寄与したのが容易に想像が出来る。

しかるに開祖 宗道臣はその法話の中で『オリンピック選手の中には自身が選ばれる為に自分と競合する仲間でも蹴落とさなければならないと考える者もいる、その様な考え方は我々の目指すものではない』と諭された事が有る。これはオリンピックに代表されるスポーツの競争原理の間違った例として、また自分達の教えがいかに大切であるかの指標としたのでは無いであろうか?

その様な言葉の切り取りが政治的に都合よく利用され、組織としての在り方を異なった方向に導く助けとなる事は理解している。

それでは宗道臣の説いた『理想境』建設とクーベルタン男爵が説いた近代オリンピックの考え方とはどこが異なるのであろうか。前に述べた開祖の言葉の切り取りで組織としての在り方をオリンピックやスポーツから切り離そうとしては来なかったか?

私は近代オリンピックの父として語り継がれるクーベルタンの説いたオリンピック憲章に付いて今一度検証してみたい。
以下はオリンピック憲章で謳われている文面である。

『 オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。』
他にもいろいろとオリンピックの目的など書かれているが最後に以下の様な記述がある。

《オリンピズムの根本原則1》
「オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化や教育と融合させるオリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などに基づいた生き方の創造である。

これをもってしても少林寺拳法の哲学とオリンピック哲学は全く違うと断言できるのか? 今一度検証してみるのも無駄ではないように感じるが、如何であろうか。