2007/08/28

どこまで行くのパワー戦争

戦争と言っても実際の戦争の事ではない。車社会のパワー競争の事を言いたかったのだ。 

つい先日英国車の代表ベントレー(スポンサー並びに技術はVWから借用だが)がコンチネンタルGT Speed を発表した。

スペックを見ると6,000ccの12気筒、最高出力は610ps最大トルク76.5kg 最高速度は322km/hらしい。らしいと言うのは自分で運転した訳ではないので発表されたデータを並べただけであるが、世界中でこのスピードで運転できる高速道路なんぞ無いと思う。速度無制限を誇るドイツのアウトバーンでさえこの様なスピードは無理であろう。

随分前の話で恐縮だが小生は実際のアウトバーンをメルセデスの190Eと言う車で1,500kmくらい走った事がある。時速200キロを超えるスピードも何度か試してみたが速度無制限のアウトバーンは意外にも2車線区間がかなりある。ただし1車線がかなり広い為追い越しでもそれ程緊張することは無かった。

合法的に速度無制限と云う事は、ある意味安全かもしれないと思った。それは運転に集中でき、それ以外のパトカーや取締りのカメラに気を使う必要が無いからだ。そんな200キロで走行している小生の背後から鼻先がくっつきそうになるくらい接近してパッシングを浴びせる車が少なからず居た。メルセデスの大きな奴がそのほとんどで自分より小さな車を蹴散らしているように感じたが、意外にも若者ではなく年配のドライバーが多い事にも驚いたが、若者にはビッグ メルセデスが買える層はドイツでも少なく金持ちのオヤジ ドライバーが我が物顔でアウトバーンを飛ばしていると言う感じで、なるほどこの国(ドイツ)では暴走族はオヤジか!と言うのがその時の強烈な印象として残った。

それから20年近くが経った昨今、車のパワー戦争は益々エスカレートしている。先に上げたベントレーばかりではなくジャグアのXKRクーペは426psのパワーと57.1kgのトルクである。メルセデス・ベンツS65 AMGに至っては612ps/102.0kgmを謳っているし、フェラーリ612スカリエッテはV12DOHC48バルブから540ps/60.0kgm、ランボルギーニ ムルシェラゴは6.5リッターV12DOHC48バルブ640ps/67.3kgm、そしてブガッティ ヴェイロンに至っては空前絶後の市販車(F1ではありません)W型16気筒4ターボチャージャーで8リッターの排気量により、最高出力何と1001ps!!!!、最大トルク1250Nmを発揮する。おったまげたマーク(!)が10個くらい必要ではありませんか?いったいこの様な車に誰が乗るのだろう。ここまでくると環境に優しいとか省エネだとかはバカバカしくてやっていられない、まったく別次元の話になってしまう。

人間の欲望がすべて悪いとは思わない。欲望があるからこそ人は色々な事に挑戦して成し遂げてきた。テクノロジーの進化や経済的目的による努力、科学的トレーニングによるスポーツ アスリートの記録更新などがそれである。

その様な車社会において環境破壊が叫ばれ、『人と車の共存がどう図れるのか?』が問われているときに奇しくも日本の誇るハイブリッド技術はそんな中にあって、環境に配慮した技術を売り物にして世界にアピールし成功したと思っていた。しかし最近発売されたレクサスのフラッグシップLS600hは5リッターV8DOHC32バルブから394ps/53.0kgm、交流同期電動機224ps/30.6kgmつまりパワーでは合計が618ps、トルクは83.6kgm単純計算のようには成らないのであろうが、これだけ見ればメルセデスのS65AMGも真っ青の力持ちではないか。

一体トヨタのハイブリッドは環境技術ではなかったのか? いつの間にやら環境技術を謳いながらパワー戦争の仲間入りでは余りにも節操が無さ過ぎませんか?ブガッティ ヴェイロンがおったまげたマーク(!)10個なら、レクサスLS600hは?が10個でしょう。

2007/08/24

夏季合宿2007

今年も英国連盟の夏季合宿が無事終わった。
年間スケジュールの重要なイベントの一つが夏季合宿である。

思えばこの地で少林寺拳法を教え始めたかなり早い時期から夏季合宿を続けている。
確か1976年の夏から毎年サマーキャンプと称して夏季合宿をやっているはずだ。

当初は20名ほどの拳士が自分が教えていたロンドンとレッドヒル、そして吉田支部長のボーンマスの3支部から参加して始めた。その記念すべき第1回のサマーキャンプのゲスト指導員は現財団法人日本少林寺拳法連盟新井会長その人である。

丁度本部を降りられた時で3ヶ月間ほどヨーロッパ各地を回られている時で我々の夏季合宿と英国滞在がタイミング良く重なった。新井先生にそのことを話すと快く参加して下さった。当然その時の合宿は大いに盛り上がったことは言うまでもない。

合宿場所はRedhillと言うロンドンから南に車で1時間ほどかかる場所で、滞在先は拳士の個人宅である。大きなプール付の家であったが朝食と夕食は自分達で作り、昼食は毎日(2日間)フィッシュ&チップスを買ってきた。それでも仲間と一緒に食べるフィッシュ&チップスがやたら美味かったことを昨日のように思い出してしまう。若いと云う事はそれだけで何ものにも代えがたく素晴らしいと思うのは、この様な簡単な食事さえも一緒に食べる気の合った仲間達との記憶が鮮明に思い出されるからではないだろうか。

練習場所は近くのラグビー グラウンド、朝9時から始まって昼までグラウンドを往復の移動突や蹴、そして大声を出して読む道訓。何しろ100メートル以上離れた相手に聞こえるように道訓を読む訳だが少々大声を出しても簡単には聞こえない。勢い怒鳴るような読み方になるが幸い我々以外誰も居なかったので続けられた。合宿2日目には皆声はかすれ声、足はまともに歩く事が出来ないほどの筋肉痛であった。

合宿から帰った週の練習では皆合宿での成果を参加しなかった拳士達に話していたようである。そんな合宿だったが不思議に毎年参加者は増え続け、数年後にはドーバー海峡沿いにあるリトルハンプトンと言う小さな港町の民宿(B&B)を3,4軒借り切って続けるようになっていた。

        

当時の合宿は2泊3日、禁煙禁酒、朝6時起床、海岸沿いを5キロくらいジョギングして海に向かい道訓を読み鎮魂行を行うというもので、後は基本突、蹴である。

3日間の練習には千本蹴もメニューに含まれていた。今から考えれば馬鹿げた練習に思われるかも知れないが20代の自分や吉田支部長にとって熟練したと言えるほどの技が有る訳ではなく、体力勝負だけが唯一英国人拳士達に何とか指導者として受け入れられる手段だったのだと今にして思う。

合宿の最後には支部対抗の乱捕り大会が催され、体力的にかなり疲れているはずの拳士たちであったが皆が自分たちの支部の拳士を応援した。そして来年の再会を誓って帰路に着くのが毎年の合宿の風景だった。

近年は大学拳法部の数が多くなった為、学生合宿を春2月末、一般の拳士を対象としたサマーキャンプを夏8月末と分けて行うようになった。そんな中でも毎年の合宿参加者数は150名くらいが参加する一大行事になっている。

今年は6月のヨーロッパ大会と国際合宿、11月日本での60周年記念大会に参加するなどという事情が重なったため90名と例年に無く少ない参加であった。しかしこの合宿を楽しみにしている拳士達にとっては我々指導する側も全力で当たらねばならない。今一度合宿の原点に立ち返って毎年の合宿に心新たにして指導にあたりたいと思っている。

2007/08/21

眼光紙背に撤す

我々が学生の頃、開祖が法話で話された一つに『眼光紙背に撤す』と言うものがあった。始めは何の事か分からず漠然と聞いていたが話が活況に入る頃にはウーンと呻ると言うよりは、感心することばかりだった。その時ばかりではなく開祖宗道臣の話はいつも引き込まれる内容だったが、今にして思えば独自の視点と経験を通しての話には説得力にあふれていた。

眼光紙背に撤すと言うことわざの持つ意味は『行間を読む』と言う意味が最も近いのではないか。英語にもこの様な言い回しはあり、"Read between the lines" と言う。これらの言わんとする意味は伝えられても実際の『眼光紙背に撤す』は容易な事では得られない。

現実の社会に現れる政治や経済、そしてその他諸々の現象は表面に見られる情報とは往々にして随分かけ離れているか、時として全く逆の真実が隠されて居る事があるからだ。それらの事を今現在おきている世界の事に当てはめて説明しようとすると、特に政治の世界などは随分と生臭いものになってしまい、その意図する所を伝える事はなかなか難しいのも事実である。

今日のように情報があらゆる世界で溢れていても、そのソースが正しいかどうかは全く保障の限りではない。極端な例になるが同じTVニュースでもアメリカのFoxやCNNと中東のAl Jazeera では180度違った見方が出てくる。特に中東情勢など政治的な分野においては双方の主張は全く逆になる事がほとんどである。

どちらの主張が正しいかはなかなか読み取る事が難しいが、相反する二極の主張ばかりでなく独自のスタンスを取るフランスTVやどちらかと言えばアメリカにより近い英国のBBCもその判断の参考になる。

今日では衛星放送による英語のニュースがこれらの国々で24時間発信されるようになったとは言え、視聴者が往々にして表面に現れる映像や文面に流されやすい事は洋の東西を問わず同じであると思う。逆にそれを充分に計算できる人間にとっては世の中を上手く扇動したり、利用してビジネスにも成功する者も出てくる。

最近の日本で普通に信じられて居る情報として『日本国内で生産された牛肉はBSEの全頭検査が義務付けられているから安全である』しかしながら『アメリカから輸入される牛肉は生後20ヶ月以下は安全と言っても抜き打ち検査であり、どこまで検査や管理が行き届いているか信用できない』と言うのが社会的な雰囲気である。アメリカが90年代からBSEの監視を続けてきた事は余り知らされていない。(生後20カ月以下については2008年8月以降、国の全額補助が打ち切られるので日本でもアメリカと同じ抜き打ち検査になる可能性が指摘されている。)

ご承知のように初めにBSE問題が起きたのはイギリスである。その後英国内でも厳しい検査体制が敷かれ現在ではこの様な問題は起きていない。その後ヨーロッパ各地で同じ様なBSEの牛が発見されEU域内でも英国と同等の監視体制が定着している。日本で安全と言われる牛肉だがBSE発生数ではアメリカの3頭に対して日本は25頭くらいではなかったかと思う。その中には和牛も含まれていた。

別にアメリカを弁護するわけではないが、日本で飼育される牛の数 430万頭に対し、アメリカの12000万頭と比較すれば、必ずしも日本の方が安全だとは言い切れない。

この様に表面で流される情報には関係機関(生産者)や行政の都合でかなり色付けされている事は度々目にする。BSEに対する正確な情報よりも感染する恐怖心や、それらに対する険悪感を適度に信じさせていた方が好都合(利害関係者)な人達が国内に少なからず居ると言う事である。

80年代初めに日本に帰国した時に東京で献血をした事がある。しばらくしてBSEが問題になった以後は英国に6ヶ月以上滞在した者は献血できないと言われた。それが現在では「1日の滞在もダメ」と言う事である。なぜ英国滞在者だけなのか?フランスやアイルランドなどといった国も英国同様に多くのBSE感染牛が報告されているいう事実があるのに。

正確な情報があればこの様なばかげた措置はいかに無駄な事か理解できると思う。それ程BSEが危険と言う事であれば英国では国内での献血を受け付けないのか?とっくに患者が蔓延しているはずだが現実にはHIV患者よりはるかに少ない例しか報告されていないのに。と言う事で英国連盟OB拳士は日本国内での献血は免除されます。*注

ついでにもう一つ、ちょっと政治がらみで申し訳ないが自衛隊がイラクに派遣される時に『戦争をしに行くのではない。人道支援でイラクの人達に対する復興支援が目的である。』と言われていたが、今となっては誰も信じて居る人は居ないのでは?

現在、航空自衛隊がやっている支援は復興支援でも人道支援でも無くアメリカ軍に対する後方支援活動になっている。決して自衛隊の派遣された隊員達に文句を言っている訳ではない。日本政府の命令と有らば個々の自衛隊員の責任が攻められるはずも無い。又現地へ派遣された隊員諸氏の真摯な取り組みも伝わってくる。

日本政府がアメリカの方針に協力した訳だが現在の憲法の制約上、人道復興支援といわなければ国民感情の上からも出せなかった事が時間の経過と共に分かってきたと言う事ではないか。これなどもまさに開祖が言いたかった『眼光紙背に撤す』と云う事がいかに難しい事であるかが良く分かる一例ではないかと思う。

より多くの正確な情報が普遍的に流されるという事が一般の国民にとっては大切な事である。しかし同時にこれはどこの世界であっても非常に難しい課題でもある。だからこそ我々は普段から確かな耳目を持つ努力をしなければいけないと理解している。

*注 正式には1980~1996年に1日以上滞在、1997~2004年に6ヶ月以上滞在した人が献血できない。

2007/08/15

Coffee or Tea?

自分はコーヒーが大変好きである。

コーヒーも沢山の種類があってそれぞれに味や香りに微妙な違いが有る。

前はインスタント コーヒーを飲んでいたが7年ほど前にコーヒーミルを買いそれで挽いたコーヒーをドリップ式のコーヒーメーカーで入れて飲むのが毎日の習慣になっている。コーヒーメーカーと言っても高価な機械ではなくセールで売っていた安い物だが充分に目的は果たしていると思う。

3年ほど前に家内がジャマイカへ行く事があった。
日本から協力隊のボランティアで仕事をしていた親友が帰国する事になり、彼女の帰国前に是非ジャマイカに行きたいと云うので急遽航空券を手配して渡航した。ジャマイカは世界でも有名なブルー マウンテンと言うコーヒーの産地である。ロンドンに帰る前に土産としてブルー マウンテン コーヒーを2キロほど買ってきた。日本の友人にもあげた様だが、小生も1キロのコーヒーがお土産だった。

コーヒー好きの小生だがいくら好きでもブルー マウンテンを毎日飲むことなど出来ない。なぜかって高価すぎて手が出ません。しかしこの時ばかりは100%のブルー マウンテンを毎日堪能した。

美味い! 日本の喫茶店で出される1杯千円のブルマンを飲んだ事があるが、そのほとんどが50%くらい?のブレンドではないだろうか。それまでのブルマンとは全く違っていた。香りが高価なハバナシガーを思わせるようななんとも云えない香しい、そして酸味の無い、ほど良い苦味にはブラックでしか飲まない自分にはほのかな甘みが感じられた。何という至福の時間であっただろう。

朝食後にマグカップに2杯並々と注いで味わいながら飲んでいると本当に時間の経つのを忘れる程である。そのコーヒーも中々ロンドンでは買うことが出来ない。高価なことも原因であろうが聞くところによるとジャマイカで作られるブルー マウンテンの90%が何と日本に輸出されるという。日本はやっぱり経済大国なんでしょうねェ。

コーヒーの産地は主に気候の温暖な所がほとんどである、しかしそんな国でも高価なコーヒーは平地で生産されている所は少ない。

ケニアやタンザニアはコーヒー産地としても有名である。キリマンジャロ コーヒーもブルーマウンテンに匹敵する有名なコーヒーである。これらの国に行って飲むコーヒーははっきり云って美味しくない。少林寺拳法の講習会で何度もケニア、タンザニアの両国には行っているが美味しいコーヒーを飲んだ例が無い。

初めは不思議だったが、よくよく考えてみれば質の良いコーヒーはそのほとんどが輸出される。コーヒーは貴重な外貨獲得の大事な産物である。そんな訳で国内で飲まれているコーヒーは生産国であるにもかかわらずまずく、海外に売ることの出来ない品質のコーヒーが出回る事になる。

英国はコーヒーと言うよりは紅茶の国である。この国で飲まれる紅茶のほとんどはセイロンやインド、中国などから輸入された物である。

その昔はこの紅茶を輸入して大もうけしたのが歴史的に悪名高い「イギリス東インド会社」である。勿論その当時の国際情勢は先進国の世界進出(植民地政策)は当たり前の事として普通に行われていたわけであるから、取り立てて英国のみが悪いと云う訳ではない。

後に中国でアヘン戦争などがあり東インド会社の評判は悪くなってしまったが、紅茶を輸入した代価をアヘンでまかなおうとした事が歴史の上で汚点を残す結果となった。これも紅茶ばかりでは勿論無かったが中国から大量の中国茶が輸入された事は事実である。

英国での紅茶はその飲み方がレモンティーではなくほとんどの場合ミルクを入れて飲む、初めのうちはレモンティー以外の紅茶を不思議に感じたが、ミルクを入れて飲むことが普通になると今度は入れないと変な感じがする。

英国の水は硬水のため日本茶はどちらかと言えば今一つ味がしっくりこない。日本で飲んだようなまろやかさが無いのである。これとは逆に紅茶は結構硬水にあっている。ロンドンで飲む紅茶の味は日本で飲む紅茶よりその風味が舌に残るような気がする。幾分ざらついた感じの硬水(勿論水そのものがざらついている訳ではない)の方が紅茶には合っていると感じる。

これはあくまでも小生の個人的感覚であるから、人によっては日本の水の方が美味しいと感じられても不思議ではない。 個人の味覚の問題なのでその事に意義を唱えるものではありません。硬水の国だからこそミルクティーが広まったのではないか? 勿論ミルクそのものが安かったと言う事はあるであろうが、それでもまずければ別の飲み方(レモンやロシアンティー等の様にウォッカを入れたり)の方が支持されるはずであろう。

Tea(紅茶)のイメージが強い英国でもCoffeeを飲む人が多くなった。食事の後などは紅茶を飲む人よりもコーヒーの方が最近では多いように感じる。

コーヒーは明確な香りがある、その香りを楽しむ飲み物でもある訳だ。紅茶はどちらかと言うとコーヒー程の強い香りのメッセージは無い。紅茶の入ったカップに鼻を近付けると香りもするが、そんな紅茶ではあるがアールグレーと言う紅茶が良い香りがするので好きである。この頃は紅茶も自分でブレンドしたもの(普通の紅茶とアールグレー)を一緒に入れたものが、香りと味の両方を楽しめて気に入っている。

アフタヌーン ティーと言う習慣は日本で言えば午後3時のおやつに当るものであろうか。初めてこれを店で頼んだときティー ポットいっぱいに入った紅茶の他に、スコーンやビスケットの他に大量のダブルクリームとジャムが出てきた。もう一つのポットには只お湯だけが入っている?これは何に使うのだろうと想像を働かせていたが、他のお客が注ぎ終わった紅茶のポットにそのお湯を注いで居るのをみてやっと意味が分かった。

一杯の紅茶ではスコーンやビスケットを食べた後ではおそらく満足できないのでしょう。口の中の甘ったるさから開放される為にも。であるから彼等(この場合英国人)は2杯も3杯も美味しそうに紅茶を飲むことが出来る。小生も最近では慣れてしまったが初めのうちは腹がジャブジャブして異常な感じだった。 

英国に来て『コーヒーにしますか、ティーにしますか?』と聞かれたらあなたはどう答えますか?

2007/08/11

他人の目が気になる日本人

日本をそして日本人を海外に居て眺めると、日本人ほど他人(他国)の目を気にする国民も少ないと思う事が時々ある。勿論現在の日本がおかれた立場を思えば、ある程度の外国からの意見や注文に対して注意を払う事は必要であろう事も充分に理解できるが。

その良い例が産業界の成功であろう。日本の企業は海外に於けるクレームや要望に謙虚に耳を傾け、対処してきた事が今日多くの分野で成功したその良い例ではあるまいか。

随分前の経済欄に載った車の製造にまつわる日本企業と海外の企業の有り方を紹介した記事だったと思うが、日本のユーザーからVW(ヴォルクス ワーゲン)輸入元に、ゴルフのインジケーター(方向指示器スイッチ)が『右ハンドル車のゴルフであっても左側(左手で操作)に付いているが、他の日本車同様に右側(右手操作)にならないのか?』と問い合わせが有った為、その件をVWのドイツ本社に伝えたところ、『右ハンドルの英国でもその様なクレームは付いた事が無い、単に慣れの問題でしょう』と答えが返ってきたと言う。

これが日本のメーカーであれば当然現地の意見として直ぐ採用されるかどうかは別としても、『設計変更が可能かどうか検討して見ます』くらいの返事はするであろう。又多くの車を輸出している国からの要望であれば当然その国の事情に合わせた見直しも行われる事であろう。この様な顧客からの意見やクレームに真摯に耳を傾け、それに応じた対応を取ってきた結果が日本車や工業製品が世界で強大な競争力を持つに至った要因ではないかと思う。

しかるに外国では事情が異なる事がよくある。彼等は他人(他国)の目を余り気にしていない(ように感じる)。先にあげた車メーカーの例ばかりではない。

政治においても、環境においても自分たちは間違って居ないと信じて居るようだ。アメリカ等は特にその傾向が強く自分達は世界の盟主とでも自負しているかの様な態度をよく見る。政府がその様に振舞うと言う事は国民の多くも同じ様な考え方の人が多いと思わなければならない。

外国からの視線を気にする日本人にあってよく頑張っているなと感じる事が捕鯨問題であろう。反捕鯨国の中心国のほとんどは以前には捕鯨大国であった。彼等の言い分はこれまでのところかなり場当たり的で一貫性の無い主張である。

IWCと言う国際捕鯨委員会は現在では反捕鯨の代表のような印象を受けるが、実際には鯨資源を管理して有効に鯨資源を使えるようにとの目的で設立されたものである。ところが1970年代中頃にはグリンピース等の環境保護団体に牛耳られてしまい80年代初めにはモラトリアム(一定期間の捕鯨禁止)が採択されるに至った事は有名である。

反捕鯨に関しては色々な説があるが、捕鯨そのものに反対する事に関してはほとんどの欧米人が好意的である。それが環境保護をうたい文句にしても、動物愛護にしてもだ。それに対して捕鯨を有力な資源と見ている国は日本以外ではノルウェーやアイスランド等があり、日本を除くそれらの国はIWCからすでに脱退している。

これら捕鯨推進派の国は環境保護団体と動物保護団体の両方から攻撃の対象となる訳だが日本以外の国が標的になったニュースを余り見たことが無い。新聞やテレビニュース等を見ていてもこれら反対派の行動は過激である。IWC総会が行われる国でも彼等の行動を厳しく取り締まる事を余り見かけない。もし捕鯨賛成派が同じ様な過激な行動を(取るとは思えないが)取ったとすれば、おそらくニュースで大々的に取り上げ糾弾する事はほぼ間違いない。

10年ほど前に拳士に捕鯨に対する考えを聞いたことがある。一人の拳士はグリンピースのメンバーであると言い『日本は捕鯨を再開させようとしているが鯨は絶滅の危機に直面している、だから獲るべきではない』と言う。そこで小生が『では充分な数が確認されれば君は捕鯨を再開しても良いと言う意見か』と聞き返すと、『日本は調査を名目に捕鯨を続けているがこれにも反対だ!』と答えにならない事を言う。付け加えるように『鯨は賢くてかわいい生き物だからそれを殺す事は許されない』ときた。おいおい。

だいたい想像通りの答えだったのでこう質問してやった。『君はウェーリング オリンピックを知っているか?その時(60年以前)英国は捕鯨大国でいつも金か銀メダルを取っていたよ、そのお陰でブルー ウェール(シロナガスクジラ)は絶滅寸前まで減ったが。』と聞いたがほとんどの拳士は知らなかった。グリンピースのメンバーでも自分たちの反対している運動が純粋にその目的の為になっているのか、単に都合よく一部の勢力に利用されているのかその元(本当)の理由を知らない人達が大半である。

小生は『鯨が絶滅する事を最も真剣に危惧している国は日本だ。なぜならばこれからも有効な地球資源として食べ続けたいのでね。』と言うと皆笑っていた。『それと君が意見を言う事は結構だが普遍性の無い主張ではこれからも日本人は納得しないよ。ところでグリンピースは環境保護団体か動物愛護団体かどっちかね?』と聞くと『環境保護団体です。』と答えた。ほんとかね?

環境保護団体と言っても簡単に信じることが出来ないのが現実である。南氷洋での調査捕鯨の船に火炎瓶や塩酸か硝酸の入った瓶を投げつけるシー シェパード等も人命軽視と言われても仕方が無い過激さである。人命軽視の団体に環境保護や動物愛護が言えるかと小生などは思ってしまうが、全体的に欧米における鯨、イルカに対する感情はハリウッドで作られた映画等の影響が大きく、賢くてかわいい動物とイメージは多くの共感を得ている。そこに政治的な目的に利用されやすい危うさも当然あるが、当の環境保護や動物愛護
を謳う団体に所属している人達はそのほとんどが洗脳されている事に当事者が気付いていない。

環境保護を云うのであれば自国の大統領(自身が所属する団体の利益の為)が京都議定書から逃げて、世界で一番環境破壊(地球温暖化)のCO2排出を黙認しているリーダーを先に糾弾するべきではないか?又動物愛護を唱える団体が人命軽視の行動をとり自分たちが食べる牛や豚、鳥などは問題にしないばかりか、狐狩りやキジ撃ちと称するブロッド(血)スポーツには伝統文化だと言う言い訳をするダブルスタンダード(二重基準)ではこれからも捕鯨を促進する日本人を説得する事は難しいと思うが。

捕鯨問題は完全に政治であって環境保護や動物愛護は良い道具として使われている。ハリウッドが果たす役目が大きい事を彼等政治に利用しようとする人達が見逃すはずが無い。自分たちの政治的失敗から目をそらせさせる目的の為なら10や20の環境や動物愛護のNPO法人を資金援助することなど造作もないことである。

日本人が他人(外国)の目を気にすると言う事を一番良く知っているのも又彼等欧米人である。又逆に他人(外国)の意見を無視する事や二重基準で言い逃れる事が得意なのも彼等のしたたかさであろう。

敵(相手)を知り己を知れば百戦怪うからず。孫氏の兵法を持ち出すまでもなく日本人も他人の視線ばかりを気にする必要は無いと云う事であろう。

2007/08/08

銃規制とは

先週の土曜日の昇段試験の前夜,試験会場であるBrixtonの地下鉄駅の近くで射殺事件があった。殺されたのは10代の少年であった。ここBrixtonでは去年からこのような事件が続いている。

少し前にアメリカと日本でも銃による残虐な事件が相次いだが、その様な事件が起きる都度言われる言葉が『銃規制』である。

日本には元々拳銃等の武器は一般には入手できない事になっている。アメリカは勿論銃規制は無いがヨーロッパでもフランス等の様に拳銃を買うことが出来る国もある。ただ弾が買えないらしい。


アメリカ社会で銃による凶悪事件や悲惨な現状がマスメディアに流されるたびに銃規制が叫ばれるが、現実には規制に対する強い抵抗があるようだ。我々日本人的な感覚からすれば銃など無い社会の方が平和で住みやすいと考えるのだが、アメリカ社会では未だにその様な考え方はマジョリティーにはなりえないようである。

これは歴史的背景も大きく影響しているのかも知れない。『自分の事は自分で守る』と言うアメリカ建国以来のフィロソフィーなのであろう。しかし時代はアメリカが独立した当時と現在では環境も大きく変わってきていると思うが、なかなか規制には大きな障害があるようだ。

日本の社会は本来なら銃そのものが禁止されており、猟銃でも規制が厳しく誰でも持てるわけではない。しかしこのところ頻繁に起きる銃による凶悪事件を見るに付け、いったい日本と言う国は本当に銃規制をやろうとしているのか疑問の方が大きくなってくる。

暴力団が持ち込む拳銃によって日本の至るところで問題が引き起こされる都度、何故警察は真剣に取締りをしないのか?現実には警察も手をこまねいて居る訳ではない筈であろうが、以前よりも頻繁に起きる銃による事件を見聞きすると銃規制はどうなっているのだろうと思うのである。

英国も日本同様個人の拳銃等は所持が認められていないが、ここでも近年銃による事件は増えている。こう考えると銃規制がなされて居る国においてさえ違法に持ち込まれた銃を規制することの難しさを改めて思い起こさせる。こんな現実をアメリカ社会では自分の身を守る為の口実として認めているのかもしれない。 

銃も核兵器も突き詰めた見方をすれば同じであろう、銃が無い社会の方が住みやすいと思うことは核兵器も無いほうが住みやすい事と同じではないか?包丁やベースボール バットでも使い方によっては凶器となる事は事実ではあるが、これらの道具は元々その作られた目的が人や動物を殺傷する為のものでは無いはずである。

拳銃や核兵器が人や生き物を殺傷する事を目的として開発されたものである事を考えれば、その様な人を殺す以外に目的の無い銃火器や核兵器を含む大量破壊兵器はやはり人間社会にとって無いほうがより平和ではないだろうか。

確かにイギリスや日本でもこのところ銃による事件が頻繁に起きている、しかしそれでもアメリカ等よりは余程銃による事件は少ない事も事実である。イギリスは警察官でさえ拳銃を持っていない。特殊任務の警察官は別として街で見かける警官は拳銃を持たないのが普通である。一般市民も拳銃を持たない警察官を支持しているようだ。

同じく銃規制のある日本の警察官は拳銃所持が普通である。ここで問題になるのは拳銃を持っている警察官がそれをなかなか使えない事かもしれない。現実に銃を持った犯人の取り締まりにさえ日本の警察官は慎重である。慎重であることは結構な事だが死傷者が出たり警官自身が被害に遭うまでなかなか銃を使えない事も問題ではないか。

ロンドン警視庁の特殊部隊(銃を持った)が出動する場合はためらい無く犯人を撃つことが許されていると聞いた。それだけ普段拳銃を持たない警察官ではあるが、ひとたび銃を持って事件の鎮圧に出向く時には状況に応じて個々の警官に発砲の権限があることも確かである。2年ほど前にロンドンの地下鉄の中でテロリストと間違えられたブラジル人が私服警官に撃ち殺される事件はまだ記憶に新しいが、撃った警察官が罰せられたと聞いた事は無い。人権団体から抗議もあり、又被害者家族には慰謝料も払われた事は言うまでも無いし、被害者には本当に気の毒な事件であったが警察官に発砲の裁量が任されていると言うよい例であろう。

又フランスの警察署長からも聞いたことがあるが、フランスでも銃火器を持つ特殊部隊が派遣される場合には確実に犯人を狙撃(射殺)する事を目的としているそうである。対外的には生命に問題が無いところを狙うという事らしいが、現実には確実な殺傷を目的として狙うそうである。当然の帰結だろう、下手な同情で足などを狙ってそれが原因で被害者が増えてしまってはよけいに特殊部隊を派遣した責任を問われてしまうであろう。

この様に銃に対する認識でも日本とそれ以外の国ではとらえ方(使い方)に大きな差がある、日本の警察官に同情するのは市民を守る為の有効な武器を持っていながら使えない(使い辛い)環境があることだろう。勿論簡単に拳銃を振り回せと言っているのではない。任務として警察官の拳銃所持を認めているのであれば市民生活を守る為にはある程度の警察官個人の判断が尊重されるべきではないかと思う。

市民を守る為の警察官の拳銃と、国を守る為の自衛隊の有する陸、海、空の戦力が同じ様にならないようにしっかりとした法整備が必要な時代になってきたのではないかと思う。