2014/12/22

新体制をどの様に構築できるのか

私のこのブログには実に多くの方々から投稿を頂く様になった。何にもまして投稿者の真剣さが伝わって来るものがほとんどで、時には真剣に向き合う彼等の姿勢が少林寺の指導者となった当時の自分の姿とも重なり、何とか現状を打破する良いアドバイスが出来ないかと日々模索する毎日である。

現在の日本の少林寺拳法と言う組織は、多くの方々から何度も書き込まれている様に非常に疲弊した組織になって居る事が分かる。その大きな要因は組織の示す矛盾から発している事は明らかである。何が矛盾かと言えば、そもそも武道を売りものに発展してきた組織を、ある時を境に宗教が全面に打ち出される様になってしまった。これまでは青少年教育を唱え、年少者の拳士や保護者に対して武道の修練を通して健康な体と人格、社会性を植え付けて行くと捉えられていた。それが宗教団体を標榜する事で、これまでとは立場の異なった説明が必要になってしまった。

私がこのブログで何度も指摘した事は、武道教育を通して人格形成の一助とする事と、例えは悪いが武道という力を餌に宗教を刷り込む事は全く逆の手法であると言う事につきる。明らかに後者は超能力を喧伝したカルト的団体と類似した構図であると受け取られても仕方がない。それが事実かどうかは別として、現在、多くの指導者が口をそろえて言う「新入門者が居ない!」と言う言葉の重大さである。

彼等の言葉を借りれば、「何らかの理由で少林寺を辞めて行く者はこれまでにも居た」、しかしながら道場を何とか維持できていたのは「新入門者が入る事で辞めた拳士数と同等な数を維持する事が可能であった」からである。しかし現在では長い期間で新入門者が無いと言う現象が続き、道場での拳士数がかなり減ってしまった。結果として道院運営にも支障を来たす様になってきたとの説明であった。

これは一部の意見では無い。私が話を聞いたほとんどの指導者が同様の見解を口にした。それらを無視する事は簡単であろう、しかし今後もこの様な状況が改善されないとなれば少林寺拳法と言う組織そのものが崩壊してしまう事は目に見えている。その様な中で最近では本部と距離を置き、私やBSKFに直接連絡をくれる人達が居る。熱心な指導者ほど現状に居たたまれず、何とかしなければとの思いからであろうと想像する。

部外者の私に何が出来るか分からない。しかしながら私自身が直接関与するまでも無く、組織に疑問を感じた指導者達は自問自答を繰り返しながら考え続けて居るのであろう。その様な人達の中には自分達自身で解決の方法を見付け出し、行動を起こそうと言う人達も居る。仮にその事で将来的に少林寺拳法とは名乗れない結果に成ろうとも、過去に誇りをもって少林寺拳法を修練していた頃を思い出し、武道としての楽しさ、厳しさを指導の中で伝えて行きたいと言う情熱を本人から聞く事が出来た。

少林寺拳法は長い間『世界で一つ』と言い続けてきた。その根底には少林寺拳法をブランドとしてとらえ、『ブランドを守る事が教えを守る事である』と言うバカな論理がまかり通ってしまった事が原因であろう。『少林寺拳法』は本部にとっては商品かも知れないが、多くの指導者にとっては生きがいと夢でもあったはずである。その指導者の情熱が覚めた時に発展は望めない。

同時に少林寺拳法は『LOUIS VUITTON』や『SONY』という優れた商品を生み出す一般の会社では無い。商品であればブランドに対して人々は信用し少々高額な商品でも受け入れる。しかしながら一般の商品の場合とは異なり、武道やスポ―ツの類は人が教える訳であり、同じ武道を名乗る団体であっても個々の指導者に差が有る事は当たり前の現実であろう。

その事実を証明するまでも無く、同じ少林寺拳法の道場でもそれぞれに拳士数には大きな差が出ている。少林寺拳法と言う名称(ブランド)に初めは魅かれたかもしれないが、習うときには当然の事ながら指導者を選ぶ事になる。ブランドで人が呼べると言う事が事実であれば、どこの道場も同様に人が集まらねばならない。しかしながら現実には50名を超える門下生を抱える道場も存在すれば、10名にも満たない拳士数しか所属しない道場も有る。

これらの現実を前に『少林寺拳法をブランドとして守って行けば、将来も間違いなく発展して行ける』と判断した組織の責任者はどの様に答えるのであろう。一般の会社においては、経営判断を誤った者に対する責任を追及できるメカニズム(株主総会等)は存在する。少林寺拳法と言う一大武道組織(宗教組織?)の責任体系はあるのか。無いとすればその様な組織の改革と、それに伴う発展は将来も望めない事はハッキリしている様に思うが、この様な現実を多くの指導者はどうとらえているのであろうか。いま個々の指導者の質が問われている。