2007/12/28

朝青龍問題とは

大相撲もこのところ随分と話題が多い。若い力士が死亡した事件から部屋でのカワイガリ(シゴキ)が問題になったかと思えば、大横綱朝青龍が腰の疲労骨折という診断書を提出したのにモンゴルで子供達とサッカーをしていた事が発端となり日本中が大騒ぎをしているような報道ぶりである。

朝青龍問題と力士死亡の問題は同時期に相撲界を騒がせた事件ではあるが、全く性格の違う事件だと思う。なぜ全く性格の違う問題かといえば力士の死亡という事件は場合によっては刑事事件になりうる重大な問題である。

一方の朝青龍事件のほうはその様な性格の問題ではなく、朝青龍という力士が好きか!嫌いか!で大きく見解は異なるようである。主に大きく彼の非を指摘して糾弾している人達のほとんどは朝青龍自身が嫌いだ!という事に尽きると思う。

大相撲の世界にあって横綱の地位は大したステータスであろう。しかし歴代の横綱がすべて人格的にも素晴らしい人達ばかりであっただろうか? ここ数年の大相撲の世界にあって一人横綱で頑張ってきた(少なくとも本人はそう信じているのではないか)、日本人にしてみれば憎らしいほど強くモンゴル出身の横綱が肩を怒らせ我が物顔に角界で振舞う事に少なからぬ感情的な嫉妬を抱いていたとしても不思議ではない。

そんな折モンゴルでの子供とサッカーをした朝青龍の映像が流れ、疲労骨折の診断書は嘘ではなかったか?と言わんばかりのバッシングが始った。少し考えれば分かりそうなものだがプロの力士が全力でぶつかり合う本場所の相撲と、子供達と遊ぶサッカー(中田氏も参加していた)を同列で論じ、診断書は嘘であるかのような論調はこの問題の根源が本当は何処にあったかを見事に映し出している。

朝青龍は立場を変えればメジャーリーグで活躍する日本人プレーヤーのイチローや松井、そして松坂と同じ立場ではないか。モンゴルの人達にとって日本という大国(経済先進国)で活躍する国のヒーローだ。その誇るべきヒーローが国に凱旋し地元の子供たちにサービス精神を発揮した事がそれ程攻められなければならない事件であろうか?

もし仮に松井が日本に帰国し故郷の町で何かのチャリティーイベントに出ていた事をアメリカのマスコミが取り上げ 『手首の故障をして充分な活躍もしなかったのに日本で遊ぶとは何事だ』 などと騒いだとしたら多くの日本人は何と感じるだろうか。

確かに朝青龍自身にも全く非が無いとは思わない。しかしモンゴルでのフットボール事件が2場所休場というペナルティーを押し付け、そのうえ国を挙げての非難とは日本も何と自信の無い国になったのであろうか?

マスコミの論調を煽るように横綱審議委員会とか言う、訳の分からない年寄りたちが雁首そろえて朝青龍を腐す光景は見て決して『なるほど』とうなずけるようなものではない。大相撲の横綱が強さは今一つだが、品格は申し分ないという方が大切だとは思わない。そんなことになれば大相撲そのものの価値がなくなってしまう。

朝青龍が騒がれたときと時を同じくしてボクシングの亀田ファミリーがバッシングを受けたが、これは仕方が無い事であろう。世界選手権で反則を指示した父親や兄弟の姿勢はボクシング以前の問題だ。3人兄弟のボクサーと父親の言動は日本人としての常識ではとても一般社会人のものではない。その様な態度に日本のマスコミがバッシングを煽るのは日本人社会の自浄作用としてある程度は納得のいく事ではある。

しかし、朝青龍問題はこれとは大きく異なった要素を含んでいる。先ずモンゴルという日本に対する国民感情で数少ない好感情を持っている国民に冷や水をかぶせた事だ。『モンゴルなど我々にとってはどうでも良い国だ!』と言うのなら話しは別だが。現実の世界の中で日本に対して好感情を持っている国は非常に少ない事をどれだけ日本国民は知っているであろうか。

確かに日本と険悪な関係の国も少ない事は事実である。しかし険悪で無いという事と、好感情を持っている事は別問題である。日本政府が国連常任理事国になりたいと世界中にODAや無償資金援助をしても、国としての文化的結び付きが無い国では日本国自体にそれ程興味が無い、その様な国にいくら頭を下げたところで常任理事国入りの助け(一票)にならない事は明白である。トルコやポルトガルそしてモンゴル等、親日国は世界中でも少数派である。その数少ない親日国の国民感情を逆撫でするような論調を何時までやるつもりなのか。

奇しくも朝青龍が日本に戻りNHK初め民法のTVニュースもこぞって彼の謝罪する姿を当日のニュースの第一報で伝えた。当日のニュースには防衛省全体を揺るがせた守屋前次官(容疑者)の件や、社会保険庁の照合が出来ない事、またテロ支援国指定解除で米が北朝鮮に追加3条件、やガソリン価格が1リットル155円等を押さえてトップニュースであった。

防衛省や年金問題は国民の税金や年金に関わる重大事件であり、北朝鮮問題は拉致事件につながりガソリン価格は日々の生活に直結するにもかかわらず、なぜ朝青龍なのであろう? 意地の悪い見方をすると意図的に国民の目を朝青龍に向けさせる事により他の重要案件から国民の視線を逸らそうと企んだ輩が居るとすれば恐ろしい事ではないか。

国家の品格の著者、藤原正彦氏の言葉を借りれば『成熟した民主主義などという事は妄想に過ぎない』という事かもしれない。
それにしても横綱審議委員会の人達の胡散臭さは自分だけが感じるのであろうか。

2007/12/25

国家の品格

自分がこのブログを書き出してから、何人かの友人から『国家の品格』という本が売れている、いちど読んでみたら!と言う事を聞いた。何でも内容的には自分がブログ内で指摘した日本で現在起きている事象を似た視点でとらえていると聞かされたのだ。著者の藤原正彦氏は高名な数学者で自分などとてもおこがましくて対比されたものではないが、氏も長年英国やアメリカで暮らされた経験から日本の近況を見て、憂いて色々な視点から指摘されている事が良くわかる。

先月日本に行った折親しい友人からその著書を渡され、ロンドンに戻ってから読んでみた。なるほどさすがに洞察の鋭い!頭の良い人は文章も美しく、非の打ち所が無いほどの内容だった。自分でも『うん、うん』と頷いて直ぐに読みきってしまった。

この本は面白いし、一つ一つの指摘が日本人には痛快で全く言われるとおりだと思う。99%は同意できる内容だったが一箇所これはそうなのかな?と単純には頷けない箇所が自分にはあった。氏は自分の祖国を愛さない人間はぶっ飛ばす、ガーナ人でガーナを愛さない人間はぶっ飛ばす。『ぶっ飛ばさないまでもその様な人間とは付き合わない!』とまで言われている。

そう言った人達は氏の言い方を借りれば『根無し草』と言うらしいが、この箇所だけはどうも引っ掛かって心にスッと入らなかった。国家、国籍は大切ではあるが氏が指摘されるほど意識して愛さなければいけないか?又その人の人格はどこかの国一国を愛してさえ居れば信頼に足るのか?挙げ足取りのようで恐縮だが、人は願ってどこかの国や人(両親)の下に生まれてきた訳ではないのではないか。氏も海外での生活が長かったにも関わらずこの一文だけは自分とは異なる見解のようだ。

小生が教えている拳士を見ていると実に多彩な人達が居る。特にロンドンは人種と言う事においては世界でもニューヨークやパリと並んで多人種都市の筆頭であろう。自分の支部に居る純血種のイギリス人(失礼な言い方だが)は果たして何人居るのだろうか?、もしかしたら一人も居ないのではないか?何をもってイギリス人なのであろうか?等など、考え始めると藤原氏ほど頭の良くない自分には答えが見つからなかった。

イギリスの道場で教えているのにイギリス人(純粋な?)が一人も居ない等と信じられるだろうか。確かにほとんどの拳士メンバーは英国籍の人達が大多数である。しかしその中で純粋な(変な言葉ではあるが)と言うと日本のようにはいかない、10人居ても10人とも髪の毛や目の色から肌の色まで異なる事は珍しくない。

ヨーロピアンと言うカテゴリーで括れば、ほとんどがその範疇に収まるであろう。白人でも一人ひとりの肌の色は違っているし現在の国籍は英国籍でも両親がイタリア人とドイツ人等と言う例はいくらでもある。英国は多重国籍を認めている為、人によってはパスポートを3つ持っている者も特段珍しい分けではない。そんなことを考えているとはたして『イギリス人でイギリスを愛さない奴は信用ならないので友人にはしたくない!』と簡単には自分は言えないのだ。

自分の子供達にしても我々を両親と選んで生まれてきたわけではないと思う。たまたま自分の場合は家内も日本人であり比較的人種的な分類はわが子に限って言えば簡単かもしれないが。それでも『両親が日本人だからお前たちも日本を愛さなければならない!』とか、『我々は英国で生活しているから、英国を祖国と思って愛さなければいけない』とは言えないのだ。『それでは祖国愛が足りない』と言われればそのとおりかもしれないが、自分は日本人である事に誇りを持っているし、日本という国にも人一倍強い祖国愛も感じてはいるが。子供たちには彼らが何を(何処)よりどころとして生きるかによって、何処の国に親近感を感じ、何処の国に祖国愛を感じるかは彼ら次第のような気がする。

ケニア人とフランス人の間に生まれた子が、イギリスで教育を受け成長し英国に祖国愛を感じる事もあるであろうし、両親のどちらかの国か両方の国に好感情を持つことは自然な事だと思う。この様に人種による国籍や祖国愛の強制には自分としては今一つ納得できないのが正直な感想だった。

藤原氏の書かれた内容の99%以上に共鳴し、且つ又氏の日本や日本人に対する情愛も充分に感じられる名著である事には疑う余地も無い。久々に日本を憂う優れた見解に触れ本当に清々しい気分になれた事も正直な感想である。

2007/12/19

階級社会

日本人には中々理解できない事の一つにヨーロッパの階級社会がある。

その中でも英国は階級社会を現在も保っている国であることは誰もが知っている。 階級社会はインドのカースト制度のように非常に厳しい制度(同じカースト意外との婚姻は認められない)や英国のように主に所属する社会制度によるもので婚姻等の自由はどこのクラスであろうと自由なものとに区別される。 おそらく19世紀辺りまでは英国においても階級を越えた結婚など考えられなかった事は容易に想像されるが、現在の英国における階級社会はそれらの問題は聞いたことが無い。

日本でも江戸時代には士農工商と言う階級制度があった事は歴史で習って知っている。 現に明治、大正、昭和と時代が過ぎてはきたが個々の家庭における明治以前の社会制度の出自は21世紀に入った現在でも知る事は可能である。

しかしながら江戸社会の階級制度が崩壊してから150年近くにもなると、ほとんどの日本人にとってはなかなか階級社会そのものがイメージできないのも事実である。自分も渡英するまで階級社会など意識した事が無かった。幸いな事に我々英国に住む外国人は一般の英国人からすれば自分達の社会に帰属(昔から)する人達とは違うわけで、単純なクラス分けをする事が出来ない為いわゆる彼らの階級社会に当てはまる事はない。

外国人でも旧植民地から移り住んできた人達には階級社会を当てはめる事は可能である。主に英国内で単純労働に従事した人達が多かった為そのほとんどがワーキング クラス(労働者階級)と呼ばれるクラスに所属する事になる。生粋の英国人達のほとんどがこのワーキング クラスになるわけであるが、そのほとんどが自分達の所属するクラス(労働者クラス)に強い誇りを持っている。

この事実をはじめて知ったときには意外な気もしたが、彼ら労働者階級に所属する人達は自分達のクラスそのものに何のコンプレックスも持っていない。そしてそれ以外のミドル クラス(中産階級)やアリスト クラテス(貴族社会)と呼ばれる人達に対する対抗意識は有っても嫉妬や羨望が無い(本当は有るのかも知れないが)事は事情を良く知らない(分らない)外国人には中々理会出来ないことである。

労働者階級の上にミドルクラス(中産階級)と呼ばれるクラスがある。日本で一頃統計を取ると80%以上の人達が自分の事を中産(中流か?)と答えたそうだが、これなどは英国流に判断すれば確実にワーキング クラスの分野に入る事になる。

英国内で中産階級と呼ばれる人達は職業で言えば大学教授や弁護士がローワ ミドルクラス(中産階級の下部)で入れ替わりも存在する。ではアッパー ミドルクラスと呼ばれる中産階級の上層部に属するクラスにはカントリーマン(郊外に住むジェントルマンと云う意味で田舎者ではない)やレイディと呼ばれたりするらしい。

こんな社会を見ていると江戸時代以後の日本という社会は実に急速に近代化を成し遂げたかが良く分る。そして日本と比較すると現在でも階級社会を引きずっているイギリスという国は我々の基準では計る事の難しい社会構造であることが良くわかる。

自分としてはその様な階級社会の無い国(時代)に生まれた事を良かったと感じているが。

2007/12/11

タマには負ける

家で飼っている犬がジャックラッセルという事は前にも書いた。犬の可愛さは姿、形もある程度あるかもしれないがその飼い主に対する100%の愛情表現ではないだろうか。しばらく出張等で家を空けても、帰った時に犬が見せる喜びの表現には全身で喜びを表するのを見ると思わず頭の一つも撫でてやりたくなる。

先日TVの番組(日本の)で犬を調教する名人と称する人達の事をやっていたが、確かに見事に調教師の言う事には従うが果たして彼らや彼女ら調教師に犬たちは飼い主に対する愛情を感じているのであろうか?

犬の世界には序列があると聞いた事がある。家の中でもその序列は確かに存在し犬が自分より下だと極めた人の言う事は中々言う事を聞かない。幸い我が家のタマは小型の犬種でメスなので比較的家族にもなじみやすかった。

以前のリキ(秋田犬)はオスで大型犬だったため家の中では飼えず、散歩にも苦労した事は前にも書いたとおりである。

タマはジャックラッセルと言う犬種で1歳と9ヶ月、ケンブリッジ近くのブリーダーから我が家に来た。イギリス生まれのタマではあるが家族が日本人なので理解する言葉は日本語である。『座れ』『伏せ』『外』『良し』『寝る』『お手』『待て』等の言葉は理解している。と言う訳で日本人以外の人が英語で話しかけても当然理会出来ない。日本人でもそれ以外の言い方をすると通じない!限られたボキャブラリーしか理解しないタマなので仕方が無い。

我が家に来た当初は子犬だったため家の中にある色々なものを噛んでいた。最近は昼間の間庭に出してあるので庭に置いてある物は噛む事もあるが家の中の物は噛まなくなった。昼間でもキッチンの入り口に1時間でも一人でジッとしている事が可能になった。

家に入ると『ハウス』と言えばタマ専用のバスケットに入り寝ている。夜10時頃に『寝る』と声を掛けると自分でタマの寝室まで走っていく、手が掛からなくなった。こんなとき飼い主の自分は思わず『いい子だね』と呼びかけている。

タマに対する呼び方も我が家はめちゃくちゃだ。自分は『タマ』『タマやん』『金太』などと呼んでいるが、他の家族は『タマちゃん』がもっぱらの呼び方で叱るときだけ『タマッ!』と云う。タマにとってもどれが自分の名前なのか複雑だろうな。

一応すべての名前に大小の反応はするみたいだが。

2007/12/04

国家権力とは

のっけから国家権力等と云うといきおい政治がかった話と思われるかも知れないがそうではない。どこの国でも外国人が最初に入国しようとする時に出会うのがイミグレーション オフィサー(出入国管理官)である。

ロンドンに住んでから少林寺拳法の指導や家族とのホリデーなどで国(この場合は英国)から出入りする事が多くなった。 年に何度も出たり入ったりを繰り返し、ほとんど要領は飲み込めているので英国においてもはや問題は無いのだが、それでも労働許可証を貰った後にも入管での受け答えには注意をした事を未だに覚えている。

なぜ注意が必要かと言えば彼ら出入国管理官(入官)には外国人の入国を許可しない権限も含まれているからだ。

もし入管の心証を悪くすれば例え労働許可証があったとしても入国を拒否されかねない。また最終的には許可が下りたとしてもそれまでに掛かる手続き等色々と面倒な事になるからだ。

日本に入国する外国人の大半は成田の入官の対応をうけることになる。これから日本に入国しようとしている外国人にとってある意味緊張する場所である事は同じなのであろう。 しかし自分が見た全く反対の光景は今でも鮮明に覚えている。

それは成田に限らずどこの国のイミグレーションでも自国民と外国人を入国審査するゲートは異なっている。自分が見た光景は日本人のゲートに平然と並んでいる30歳くらいの外国人(白人)が居た。不思議だなと思ったが家族が日本人でそこに並んだのかな?と想像したがそれらしい人も近くには居なかった。やがてその男の番が来て入管の前に立った時、入官から『外国人は向こうに並んで』と日本語で告げられた。当然の帰結であろう。

普通であればまた外国人のゲートの前に並びなおさなければならないはずであるが、なんとその男は『○uck off』と言葉を残してパスポートに入国許可のスタンプも無く平気でbaggage reclaim(手荷物受け取り)の方向にあるいて行った。

この男もすごいが、自分がもっと驚いた事は、入官がその男を追っかけ捕まえるわけでもなく、只手を2,3度横に振りそのまま放置して何もしなかった事である。

同じ事を日本人がロンドンのヒースロー空港の入官の前でやったらどうであろう、間違いなく国外退去で日本まで官憲に付き添われて強制送還させられる。イミグレーションのオフィサーとは言い換えれば国家権力の対面を持った仕事とも言える程強力な権限を持たされているのが普通である。そう信じていた自分はこの成田の出入国管理官の態度にはどう考えても納得が行かなかった。入官がそこまで馬鹿にされると云う事は、言い換えれば日本人全体が馬鹿にされたことと同じ意味合いを持つ。本来ならば自分の間違いを詫びて並びなおし入国を許可してもらわねばならないはずの外国人から侮辱の言葉を投げつけられて、何もしないとは一体彼らは何の仕事をしているのであろうか。

別の実例も紹介したいと思う、3年ほど前に日本から来た3人の指導員と共にアフリカ地区講習会に行った時のことである。

ヒースロー空港からケニアの首都ナイロビ行きの飛行機に乗り込んだ我々に、何か男の声で叫んでいるような声が聞こえた。

声は益々大きくなり、よく聞くと『イタイ!イタイ!』『助けてくれ』と言うような事を泣きながら訴えているようだった。

そしてその方向には屈強な2人の警官が上から毛布のような物を被せて、下にいる黒人の男の頭を上から押さえつけている光景が飛び込んできた。婦警が周りの乗客に説明して回っている。しばらくして我々のところに来たので聞いてみると国外退去命令(強制送還)の男のようである、今日の朝ナイロビからロンドンに着いて入国しようとしたのを拒否されたらしい。

婦警が『飛び立つとあきらめて静かになります』というのでホントかな?と見ていると、婦警の言ったとおり飛行機の車輪が滑走路を離れた瞬間叫び声は聞こえなくなった。手には手錠が掛けられていたが男は平気そうな感じだった。 フーン官憲とはそこまでやるんだ!と言うのが偽らざる印象だったが、果たして日本の官憲がこの様な場合手錠を掛けた外国人を頭から布を掛けて、座席の間に押さえ込んでいる姿はなかなか成田の一件を知っている自分には想像できなかった。

本来の任務(この場合不法入国者の国外退去)を遂行しようとすれば周りの乗客に対する配慮(説明等)は必要であろうが、第三者の視線を気にしているばかりではこの様な措置は難しいと云う事である。国家権力にはこれ程の強い権限が与えられている訳で、その事を思うとき日本の官憲には果たして周りの目を気にせずに、ロンドンの空港で目の当たりにした強行手段が取れるかどうか。

日本人の資質が問われているようでもある。