2007/02/24

耳も鍛えよう

個人的な趣味の話で恐縮だがが、オーディオファイルと言う言葉を知ったのはそれ程古い事ではない。確か昔はオーディオマニアと呼んでいたのに「マニア」と言う言葉からイメージされる英語がよくないため日本でもオーディオファイルと呼ぶようになったのだろう。

我々が学生の頃はジャズ喫茶と称する店が数多くあった。
ところが最近日本に行く都度ジャズ喫茶の数が減っている事に気が付いた。

学生時代の友人が3年ほど前までやっていたジャズ喫茶のオヤジ(マスターではなく)をやめてしまった。いつも帰国の都度寄って彼の元気な姿を見るのと、好きなジャズを素晴らしい音で聞くことを楽しみにしていた。

色々な国を回ったが、ジャズ喫茶は紛れも無く日本の誇れる文化である。何処の国でもあれほど素晴らしい装置で、又よい音でジャズを聞かせてくれる喫茶店は無い。

日本人はこだわる民族だと思う。
ジャズ喫茶のオヤジ達(オーナーが女性の場合もあるが)はほとんど趣味で店をやっているようなところがある。ステレオ装置にあれだけお金を掛けているのに、コーヒーの値段は普通の喫茶店とさして変わらない。2倍の値段でも決して儲からないだろう。いつも新譜のレコードを買い増しているし。

そう言えばレコードからCDに変わった事がジャズ喫茶を続ける意欲を失くさせたのかも知れない。LPの片面の長さが丁度良い長さだと思う。CDじゃね、長すぎるもの。

時は進み今やiPodなるものに若者は夢中である。小生も初代のiPodを買ってみたがその使いかっての良さや、デザインの優れた事は認めるが、いつも聞きたいか?と聞かれたら『No』である。

なぜかって?『音が好きじゃないから』。
だから聞くこともあまり無い。時々日本に行くフライトの中で1,2時間聞く程度である。 第一疲れるでしょう、ヘッドフォンを耳に入れて何時間もあのキンキンしたデジタル音を聞いたら。

先日帰国の折、飛騨高山に行った。地元のだんご屋のオヤジが良い音でジャズをかけていたので聞かせてもらった。だんごをほお張りながら、『珍しいねだんごやでジャズとは』と聞いたら、『好きだからねー』の一言。奥さんは呆れ顔で(あきらめ顔かナ?)『だんごの売行きには関係ない!』と一言、でも『おとーちゃんが好きだから』とのたまわった。いいねーこう云う夫婦は。
でも、おとーちゃんが好きだからだんごが売れなくても良いのか、おとーちゃんがジャズ好きだけど私は関係ないョ、と言う意味なのかは分からずじまいだった。

日本のジャズ喫茶は世界に誇る文化だと書いたが、なぜ日本人はそこまでお金をかけて良い装置で聞くのだろう。
Jazz好きのステレオ装置の中で根強い人気のスピーカーがある。JBLだ。
やっぱりJazz の生まれた国のスピーカーだから、その音楽に良くマッチした音作りをしているのか。

オーディオ ファイルの装置にお金をかける順番は先ずスピーカーだ。予算の50%くらいはどうしても良いスピーカー(気に入った)物にお金をかける。

そんなJBLの38ウーハー(低域用スピーカー)を4本、他にもJBLでフル装備、なんとアンプまでJBLでマルチ駆動している、通称日本一の音とJazz 好き達から呼ばれている、一ノ関のジャズ喫茶『ベイシー』に10年ほど前に行った事がある。

当日は定休日で店のステレオ装置を調整している時だったが、店主は嫌な顔もせず聞かせてくれた。
店に一歩入った途端『参りました』と言うほどの音だった、その後自宅に帰った後も2年くらい自分のステレオから音を出す気がしなかった事を今でも鮮明に覚えている。

その後心を入れ替えて(あきらめて)、自分の装置に向き合ってみた。
スピーカーは彼の店とは比べるまでも無いが一応JBLのスタジオモニターである。アンプはその時思い切って球に変えてみた。 
それまでのトランジスタアンプと全く違う音が出てきた。

何十年も前に発明された真空管のアンプがなぜ最新のデジタルで作られたアンプよりいい音(小生には)なのだろう。
iPodの音が悪いわけではない。しかし、この音が良い(好きな)とはとても思えない。
iPod しか聞いていない(極端な言い方だが)若い人達に言いたい。
ジャズ喫茶に行って耳を鍛えてからiPod を聞いてみたらと。

良いものと、そうでない物が見分けられる能力大切だと思うがどうだろう。
そういう物にこだわった人達が日本には少なからずいて、世界に冠たる高品質な日本製品が世界中で認められる時代が、昭和40年頃から今日まで続いたのではないか。
大きなステレオなど古臭い懐古趣味と云われようと、団塊のオヤジ(ジジイか?)はそんなに簡単には妥協なんか出来ないョ。だって小さくてチョロイ音のiPodでは楽しめないから。

2007/02/22

テニスについて

ゴルフをやめて少し経った頃、弟子の拳士でテニスクラブに入っている者がいた。
あるとき『先生テニスしませんか?』と言うので『やった事は無いが興味はある』と答えると、自分が所属しているテニスクラブへ来ないかと誘ってくれた。

そこはローンテニスクラブ(天然芝のコートばかりのテニスクラブ)でビジターとして呼んでくれたわけである。2時間ほどテニスボールを追い掛け回していたが、学生時代、あれは女子がやる軟弱スポーツだ!と見下していた自分がフウフウ言ってボールを追いかけてみて、このスポーツこそ今始めるべきだと手のひらを返すのだからこれほどいい加減なモチベーションも無い。

ゴルフの時もそうだったが、一定のレベルに達していないとそのテニスクラブもメンバーになれなかった。
テニス初心者の小生は初めアダルト インストチュート(成人学級)にビギナーズクラスがあることを見つけ1ヶ月のコースに参加した。
皆同じようなビギナーズばかりだったが日本人は当然自分一人だった。
コーチの指導で説明の後(解からない部分もあったが)デモンストレーションの相手をさせられて一番ボールを打たせて貰った事で浮かれていた。

テニスもゴルフと同じくシーズンのピークがあるスポーツだ。5月頃から沢山の人がテニスを始めるがウインブルドンが終わると、それの前と後ではコートでプレーする人の数がはっきりと異なる。

それでも小生は何とかウインブルドン以後もテニスを続けていた。
ビギナーズコースでしか教えてもらえなかった事からそれ以上の進歩は難しかった。
そこで弟子のローンテニスクラブで教えているプロのコーチの指導を受ける事にした。
今度は1対1のプライベートレッスンを受けたのだ。

約束の時間コートに現れたのは初老の老人だった。しかも足が悪いようである。
この人がテニスの様な激しく動き回るスポーツをはたして教えられるのか。これは失敗かな?と思い始めていた。
小生の前に1時間、15歳くらいの女の子を教えているのを見学したが、その時走る事の出来ないそのコーチは言葉で色々支持を出して指導していた。

小生の番になった。
先ず初めにサーブの練習を指示された、強く打ったボールはネットに当ったり、時々はまぐれで上手く入ったりしたが全く形になっていなかったのだろう。
その時の小生のサーブのイメージはジョン マッケンローだった。彼がするようにテレビで見た胸を反らせ反動で飛び上がってサーブを打つ。

『体を真直ぐにしてトスを上げなさい』(胸をそらすな)とコーチが言った。
それじゃーマッケンローみたいなサーブは出来ないじゃないか。と胸の中で呟いていたが、言われたとおりにすると不思議と良くサーブが入るようになった。
やっぱり基礎にかなった方法で練習すれば上達は早いなァ、と初日のレッスンが終わる頃には関心している自分の姿があった。

毎週1回のレッスンだったが、おかげで1ヶ月後に行われたテニスクラブの試験に何とか合格してメンバーとなった。
テニスクラブに入って分かった事は、年に何度か試合があり、それで勝ってよい成績を収めてクラブの評判を高めたいという思惑があるということで、その為にビギナーはあまり歓迎されない。
小生の場合運良くかなり上手いメンバーが拳法の弟子に居た事である。

ウインブルドン前には何処のテニスクラブもクラブメンバー全員にティケットの割り当てがある。それを何とか売らなければならない。小生の場合メンバーになってから日が浅かった為5枚ほどでよかったが、当然の事ながら良いゲーム(センターコート決勝等)のティケットは端から回ってこない。

自分の足でウインブルドンへ行ったのは丁度ビヨン ボーグが負けて引退した年が最後だった。その前に2度ほど見に行ったが有名選手のコートは何処も満席で、これならテレビ観戦の方が良く見えていいなと感じた事を覚えている。

テニスもその後余り長く続けられなかったが、その初めに受けた足の不自由なコーチからの指導で学んだ事はその後の少林寺拳法の指導に大きな教訓となった。

『生徒をよく観察する(どんな指導が必要かを見つける)』
『的確な言葉で理論を説明する』
『正確な基本を先ずビギナーには教える』

勿論言葉が足りない(基本的語学力の問題で)小生の場合、拳法の指導には見本を何度でもやって見せる が必要だったが。これはどんなスポーツでも同じではないかと思う。

言葉で納得させられるように明瞭に説明する。
セオリーが正しければ誰もが上達する。
これらの事はテニスを続けなくなったそれ以後も決して忘れる事のない教訓として心に残っている。

2007/02/20

学生合宿2007

さて、今年の学生合宿がいよいよ始まる。

異常気象といわれる今年の冬、これまでのところロンドンも暖冬です。
願わくば週末のグラスゴー、寒くならないで欲しいナァ。

何しろ小生はアフリカ系体質、寒いところは大の苦手。
何年前か忘れたが丁度今と同じ頃、アフリカ地区講習会に行き、連日30度を超える日に指導した後、冬のロンドンに帰って2日後に今度は雪の舞い散るグラスゴーに行ったことがある。
温度差は3日で30℃以上、逆も辛いであろうがアフリカ体質の小生にとっては拷問みたいなもんでした。

今週末がそんな寒いグラスゴーで無いよう祈りながら、日本からの皆さんを迎えるべく明日グラスゴーに向かいます。

この合宿での出来事は又来週にでも報告したいと思います。

2007/02/17

ゴルフについて ~その3~

スコットランドの中央にあるグレニーグルスは5スターホテルと周りを山に囲まれた、ゴルフ以外に何もする事が無い有名なチャンピオンコースである。普段は有名なハリウッドの映画スターや、英国の裕福なクラスの連中がゴルフを楽しんでいる。

このホテルはコンベンション等の会場となるホテルでもあり、一昨年夏7月にロンドン同時多発テロが起きた時にはここでG7サミットが開催され、日本からも小泉首相が参加していたのでご記憶の方も多いかもしれない。

この超有名な5スターホテルには泊まることは出来ないので、近くのBBに宿泊した我々ズッコケ3人組は翌朝早くやってきた。ここでもインストラクター デリックの名前はたいしたものだった。
ここでホッとした事はギャラリーが居ない事だ。
同じチャンピオンコースでも前日のセントアンドリュースとは大違い、のびのびとプレーが出来る!と喜んでいた。

しかし先のコースとの違いは直ぐにやってきた。

観客の多さではなくアップ、ダウンのきつい事。スコアーはたちまち崩れ、もう打てども打てども、ラフや林の中ばかりにボールが飛んでゆく。

この時ほど自分のゴルフの未熟さを痛感した事は無かった。考えて見ればゴルフを始めて1年余り、しかも場所は名高い難コースのグレニーグルス。
キングス、クイーン、プリンセスそれぞれ18ホールの3コース回り放題の一日も、最初のキングスコースで10番ホールくらいからラフに打ち込んだボールを探すのに時間が掛かりプレーどころではなくなっていた。

同時に自分のボールを探している途中で有名なスタープレーヤーのボールが出てきたりで、ズッコケトリオはそれらスタープレーヤーのゴルフボール探しに夢中になってしまいプレーどころではなかった。
かろうじての2番目のクイーンズコースも中頃まで来た時には時間も随分経っており、そこであきらめねばならなかった。当然この日のスコアー等誰も途中から付けていなかったのは言うまでもない。

こんな経験をした後何年か後に日本でプレーする機会があった。 学生時代の友人と一緒にプレーしたが、この時も時差ボケと人から借りたゴルフクラブでスコアーは散々(苦しい言い訳)であった。
その時プレーフィーとして3万円くらい支払った事に相当ショックを受けた事を覚えている。

当時のロンドンはパブリックコースであれば£2-(約1000円)、平日は£1-の所もあったし、先に述べたセントアンドリュースのオールドコースでも£6-(約3,000円)、グレニーグルスは回り放題で£11-だったから、日本の名も無いゴルフ場(一応チャンピオンコースらしかった)が30,000円と聞いた時は冗談だろうと思ったが、本当の料金と分かった時は驚いた。

日本での経験(散々なスコアーとべらぼうな料金)の後、『これは今俺のやるスポーツではない』もう少し年を取って50歳過ぎたら又やればいい、そんなに体力がいるスポーツではないし(頭の中まで筋肉マン)であった小生は勝手な理由を付けてゴルフをやめてしまった。
経済的に余裕のある奴のスポーツ、と言うイメージを言い訳にして、まだ若い今はもっと激しい、年を取れば出来ないスポーツを練習して、体を鍛えるべきだと考えるようになっていた。
50歳はとっくに過ぎ去り60目前の今日もゴルフ場には行っていない。

時代は変わりパーシモンのウッドクラブを振っている奴などいなくなって、今ではチタンや炭素繊維で出来たウッドクラブ(ウッドと言えるのかね)が全盛期。
あんなでかいクラブ(ヘッド)で球打って楽しいか?とゴルフの話には悔し紛れにふてくされているこの頃である。

2007/02/14

ゴルフについて ~その2~

しばらくしてそのレッスンをしてくれるデリックと呼ぶプロと一緒にコースを回りながら指導を受けるようになった。
3ヶ月くらい経ってからの事である。その頃には95~100くらいで回っていたが、ある時、同じ打ちっ放しに来ていた日本人の駐在員と一緒に回る機会があった。

彼はまだ『100を切った事が無い』と言うので、どれくらいのゴルフ暦か聞いたら2年もやっていると言う。年齢的には小生より4,5歳上の人だったが2ヶ月くらいで90台になった小生には、この人はあまり運動神経が良くないのかな?と思っていた。
後に日本ではそれ程特別なスコアーではない事が分かったが、その当時は上達が遅いな?と言うのが率直な感想だった。

考えてみるとロンドンのゴルフ場は山が無い、つまり平坦な所が多い。
言ってみれば日本より簡単なわけだが、理由の分からない小生は自分のスコアーの上がるスピードを鼻に掛けていたのだろう。

ある時スコットランドにホリデーで行く事になった。
せっかくならゴルフの発祥地でやってみたい!と、レッスンをしてくれたデリックに聞いてみた。

『セントアンドリュースで出来ないかな?』 無知はここでも強い!
すると彼はセントアンドリュースのオールドコース(ゴルフ発祥の名門コース "TheOpen" の行われる事でも有名)で働いている知り合いに電話しておくから『プレイの朝6時ごろに行って、デリックの紹介と言って予約しなさい』と言ってくれた。

同時に
『せっかくスコットランドに行くのならグレニーグルスでもプレーすると良いよ』
『ここもチャンピオンコースだし山の中に在るからセントアンドリュースより難しくて面白い』と教えてくれた。

普段はロンドン近郊のパブリックコースばかりでプレーしていたので始めて回るチャンピオンコースにワクワクしていた事を憶えている。

最近でこそセントアンドリュース オールドコースはビジターに対してハンディーキャップの提示を要求すると聞いたが、当時1980年頃はおおらかなもので誰でもプレーする事を許されていた。

しかし、そこは最高の歴史あるゴルフコース。
クラブハウス前には沢山のギャラリー(クラブのメンバーだろう)が椅子に座ってコーヒーやビールを飲みながらプレイを見ている。
これまでのパブリックとは違うな と感じたが時すでに遅し、我々3人は沢山の観客の見守る中1番のティーグラウンドに向かう事となった。

先ず拳士のF君が始めに打つ事になり、緊張をほぐそうと肩を上下したりしているが観客の視線は普段あまり見かけない東洋人の我々3人に釘付けである。
そして彼が放った打球は期待と裏腹に野球のショートゴロの様にフェアウエーを転がっていく。

緊張はいやがうえにも膨れ上がり、2番目になんと数回しか打ちっぱなしの経験しかないMrs.Mizuno(ワイフ)がティーショットに向かう。
2,3度素振りを繰り返した後、いよいよ彼女の本番となったが、緊張の余り第一打は空振りに終わった。

観客は益々乗り出して見ている(そう感じたのは我々だけで、実際はあきれて見ていたのだろう)。緊張はさらに膨れ上がり、彼女が第2打を振る。
今度はボールの代わりにクラブがすっぽ抜けてグランドに転がった。
Oh my Godとイギリス人なら叫びそうである。
こうなると益々いけない。
三打めはかろうじて打ち損じのボールが10メートルほど転がっていくのが見えた。

ホッとするのも束の間今度は小生の番である。他人の場合でも緊張していたが(恥ずかしさで)いざボールを前にして構えると前の二人の緊張が伝わってきた。
以前、イギリス人の年配の知り合いからゴルフの話になり、『1番ホールは特に半分の力で振る』と言っていたのを思い出した。
祈るような気持ちでギャラリーの見守る中、半分くらいの力でスイングした。
結果はフェアーウエーのど真ん中、200ヤードくらい飛んで水路の手前で止まった。スーと緊張が解けたが何か1時間くらい格闘していた様に3人ともドッと汗をかいた感じだった。

しかしその後のプレーもいつものパブリックコースとは大違いだった。
グリーンは広いものの鏡のように刈り込まれたグリーンは乗ったボールがなかなか止まらない。
普段は見たことも無い深いバンカー(通称目玉と呼ばれているらしい)、海際のコースは快晴であったが風も強く、いったい幾つまで叩くのかと不安に感じていた。ワイフなぞ途中でスコアを記入する事をやめて右に左にフェアーウェー上を駆け回っている。

最終18番ホールのグリーンにボールが乗った時には4メートルくらい離れたところにボールが止まった。
ここでもギャラリーの目が気になったが神経を集中させて、2パットでもかまわないと思い打った球はまぐれで直接カップに入った。
その日のスコアは99だった。日ごろプレーするパブリックコースでは85~90前後のアベレージで回っていた小生は、『やっぱりチャンピオンコースは難しいな!』と改めて感じたが、結果にはまあまあ満足していた。

この時はまだ2日後に挑戦するチャンピオンコース、グレニーグルスの悲劇など想像する事すら出来なかった。

...その3へつづく

2007/02/12

ゴルフについて ~その1~

ロンドンに来てから始めたスポーツにゴルフとテニスがある。

大学卒業した後、住宅会社に3年近く働いたがその時はそのどちらもするチャンスは無かった。
当時の収入は現在考えてみても悪くは無かったが、しかし仕事に取られる時間が長く、休日は特にスポーツをしようという意欲さえなかった。
しかしロンドンへ来てみると収入は恐ろしく少なくなったが、代わりに自由な時間は比べものにならない程増えた。

当初のうちは毎日ランニングが日課であった。
住んでいた場所が現在では高級住宅街になってしまったノッティングヒルに近いフラットであった事もあり、朝一番の日課は走って5分ほどのケンジントンガーデン(故ダイアナ妃が住んでいた宮殿がある)に向かい、続けてハイドパークを一周(合計約9キロメートル)1時間かけてすると言うのが毎日だった。
経済的には厳しかったが、かわりに体力と、時間と、自由だけはタップリあった。

そんな訳で暇さえあれば走っていた事になる。
拳立てや腹筋を毎日あきもせず日課のように続けていた。頭の中も100%筋肉マンであったことは言うまでも無い。
拳立てなど300回くらい続けて出来たし、腹筋は日に1000回がごく当たり前のメニューであった。股割りやストレッチも自己流ながら続けていた。
なぜならばこれが不安を打ち消す唯一の方法だったのだ。

そんな20代から30代になった頃ゴルフを始めた。ロンドンは日本のように打ちっ放しの練習場は多くはなかったが、一応基礎からやりたいと思いレッスンを受けた。
全くの素人だった小生はスタンス、クラブを握るグリップから始まってゴルフのA to Zを一つ一つ習っていった。

幸い少林寺拳法の指導をしていたので共通する部分(軸をぶらさない)等の基本の部分では比較的早くのみ込めた。インストラクターから『何をやっているか?』と聞かれたので武道の『指導員だよ』と答えると、『君の仕事は一年中忙しいのか?』と聞く。『一年中だいたい同じようなものだが』と答えると、『いいね、俺たちの忙しいのはThe Openまでだ』と言う。

その時はThe Open(ゴルフのThe British Open Championshipの略)が何をさすのか分からないような全くのゴルフのビギナーであった。

...その2へつづく

2007/02/09

貪欲に強さも追求すべし!

少林寺拳法とは何ですかと一般の人に聞いたら『武道!』と答える人がほとんどでしょう。
少なくとも自分の周りにはその様な認識の人がほとんどではないかと思う。

ただ我々少林寺拳法をしている者はそこで何と答えるであろう?
チョット複雑に考え込んでしまう拳士が居るかも知れない。

それは開祖 宗道臣が残した『少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない、宗門の行である』と言う言葉に一言では表せない困惑を感じるからではないだろうか?

では開祖はこの言葉の中に『武道ではない!』と言う意味の言葉を少しでも言っているのであろうか?
逆説的に考えてみれば答えは出てくる。

『単なる』と言う言葉が独り歩きして、いかにも開祖が少林寺拳法が武道であることを否定しているように感じてはいないか。

中身をよく検証すれば金剛禅門信徒の、修業の為の、宗門の行、そして修行の為の武道である事は明白であるし、どこも否定していないと思う。つまり武道なのだ! 開祖が言いたかったのは『「精神性の全く無い安っぽい格闘技」「勝敗の結果みが全てのスポーツ」であってはいけないよ。』と言う事ではないだろうか。 武道家の陥り易い問題点を『単なる武道ではない』と言う言葉に託したのだと思う。 だからと言って『少林寺拳法を修行するものが強さを追及しなくても良い』と言うものではない。

以前、少林寺拳法をやっている拳士から、「強くなった気がしない。」とか「他の武道の方が強くなれるのでは無いか?」と言う言葉を聞いた事がある。これは単なる言い訳にしか聞こえない。自分が真剣に人一倍 の練習もしていないくせに、その言い訳として少林寺拳法のせいにしているのだろう。もし本気にそう思ったならば少林寺拳法などやめて、そう思える武道に行くべきだ。真剣に練習しないで言っているのであれば、どんな武道や格闘技を練習しても決して 強くはなれないと思う。武道の流派が人をチャンピオンにするのではない、強い人は元から強い!それらの才能ある人だけがゲーム(試合)においては一定のルールの下でチャンピオンになれるのだから。

少し矛盾した例えになるが、格闘技に限らずおよそどのスポーツでもその競技で一流と言われるアスリートは努力とは別の才能(タレント性)を持っている。同じような努力をしてもこれらの人は一般の人より秀でた成績を残す。オリンピック等では同様の才能に磨きを掛けたアスリート達が力と技の限りを尽くした白熱した試合を繰り広げる。普通の人が彼らと同じように練習しても、カールルイスやモーリス グリーン、マイケル ジョンソン等のような世界記録は出せないであろうし、それどころか、その場に行く(参加する)事すら出来ないであろう。

つまり『少林寺拳法で一生懸命練習しましたがK-1の選手と試合して勝てる自信がありません』と言うのと意味は似ている。恵まれた運動能力があるだけではダメであろうし、人より強くて大きな体もプロの格闘家としては必要な条件だろう。この様な鍛え抜かれた競技者(アスリート)とK-1等のルールで試合をして勝つ事など、普通の人が町道場で 武道を少しくらいやっても、そしてそれがどんな流派の武道であっても結果は同じであろう。

開祖が教えた本当の強さとは、その様な意味の強さでは無い。しかしその言い訳として弱くても良いと言うような軟弱な教えでもないはずである。戒めとしたいのはこの様に『勝ち負けのみにこだわる武道であってはいけない』と言う事ではないだろうか。

厳しい武道としての妥協の無い修練、その結果として培われた体力、そして健康、困難を乗り越える精神力、 負けないからこそ人を赦せるやさしさ、弱いものを庇える包容力、そして正義感に裏打された行動力 『それらを実現する為には力が必要だ!』と何度も聞かされた言葉である。

自分が強くなれないことを少林寺拳法のせいに摩り替えて、言い訳にするのはやめよう。そう言う人は自分のために少林寺拳法をやっていないからではないか?

練習は組織や他人の為にするものでもはないと思う。純粋に自分が強くなるように貪欲に技術も練習したいものである。

2007/02/08

独断と偏見で車社会を見る

日本の交通システムはイギリスを手本にしたのだろうか?。
注意深く観察すると、両国の車に対するとらえ方(交通システムを含む)が随分違う事に気が付く。

先ず両国とも車は右ハンドル(左側通行)である。
これは他のヨーロッパ諸国や南北アメリカをはじめ、旧英連邦を除くほとんどの国とは逆である。日本は旧英連邦(植民地)ではなかったが、同じ交通システムをとっている国である。
アフリカやオーストラリア、アジアの英国を宗主国とした国々も同じシステムであるから思ったより右ハンドルの車を使う国は多い。

日本人が外車に抱くイメージは圧倒的に「左ハンドル」である。
どうかすると右ハンドルの国「英国」で製造されたジャグアーや、ロールス、アストンマーティン等も日本では「左ハンドル」なのを見かけることが何度もあった。日本へ行く都度見かける外車の左ハンドル車の多さに驚きながら、さぞかし使い辛いだろうにと感じるものだ。

現在自分はアウディA8に乗っている。
その前はメルセデスEクラスを4台乗り継いだ。そのすべてが右ハンドルであった。
『ベンツでも右ハンドル?』と日本から来た友人が聞くので『イギリスでは基本的に右ハンドルしか運転しないよ!』(ごく稀に個人が持ち込んだ左ハンドルの車も見るが)と答えるとヘェーという顔をする。 

街中を走るポルシェやフェラーリまで判で押したように右ハンドルである。
なぜ日本と違うのか?

交通システムが車の左側通行(=右ハンドル)を前提として作られている国で、左ハンドルの車なんぞ使いずらくて仕方が無い。
幸いにして高速道路は無料だから通行券を受け取る必要は無いが、駐車場に出し入れする場合など駐車券やお金を出し入れするたびに左ハンドルのドライバーは車から降りなければ入れられない。日本のように左ハンドル用の設備があるところなんて見た事がない。

また『左ハンドルは危険度が高い』と交通システム上で認識されており、保険料も随分割高になる。
日本でもこのところ保険料金が自由化されたと聞く。何年か後にはおそらく左ハンドル車の保険料は右ハンドル車より割高になる事と思う。

あるとき日本でメルセデスSクラスに乗っている友人に聞いた『この国で左ハンドルは乗りにくく無いかい?』
彼曰く『なれれば大丈夫だよ!』
オイオイ、それでは慣れるまでは危険な車を運転している事になるだろう。
自分も以前これとは全く逆の事を経験した事がある。だからその危険さが分かるのだ。 

もう25年以上前の話だが、当時ロンドンへ来てから初めて買った新車「日産サニー」を国外(フランス)へ乗っていった。フェリーからフランス側のカレーへ着いて,初めのうちはドックの中ということもあってあまり緊張しなかったが、いざ一般道へ入るや否や急に不安になってきた。
この場合は『日本で左ハンドル』の全く逆で『フランスで右ハンドル』と言うわけである。

初めに困ったのが追い越しの難しさ。前の車がトラックでも簡単には追い越せない。
なぜなら対向車の確認が容易ではないのだ。

次に高速を降りてからの右折や左折の時にはより一層緊張した。パリ市内の運転は田舎道の比ではない。凱旋門の周りを回る時などロンドンとすべてが逆なのだ。ロンドンのラウンダバウトも経験して居るのでなんとも無いだろうと思っていたら大変な事になった。

普通英国のラウンダバウトは中に居る車が優先度が高く、これから入ろうとする車は待たなければならない。しかし,そのつもりでフランスを運転するとえらい目にあう!彼の国は外からラウンダバウトに入る車が優先(本当は心臓の強い奴が優先)らしい。だから凱旋門の周りはいつも大渋滞!
2日でロンドンへ帰ったが、その時にその国の交通システムと逆のハンドル車を運転する事が如何に危険かを痛感した。

その後ヨーロッパはおろかアフリカでも左ハンドルの車を運転したが、その国のシステムにあった車であればフランスで経験したような危険さは一度も無かった。

メルセデスをベンツと日本人に教え込んでしまったヤナセはその影響力をもっと真剣に考える時にきている。日本のみならず韓国も中国も「ベンツ」と呼ぶそうである。ヤナセ流商法はこれらの国にも呼び名まで影響を与えた事を多くの人は知らない。

一般に欧米ではメルセデスと呼ぶ、会社名はダイムラークライスラー(以前はダイムラーベンツだったが)彼等欧米人が短く呼ぶ時は「マーク」という。「ベンツ」ではほとんど通じない。

輸入業者はヤナセのみならず良心的な業者であれば、日本に輸入される車は右ハンドルに限定するべきであろう。買う顧客に左ハンドルを運転する場合の不便さとリスクをはっきり説明して販売する姿勢が大切である。これの方が車間距離自動調整付クルーズコントロールや、夜間のレーダーシステムで前方の障害物を知らせるメルセデスのご自慢の最新兵器(勿論兵器ではない)ナイトビューアシスト、よりも余程基本的な安全対策であろう。

インポーターのメルセデスジャパン、最高級のマイバッハにも勿論右ハンドルはありまっせ!知ってるでしょうけど。現にどんな高価な車でも右ハンドルは用意されている。

一部のバカな車ジャーナリストの『右ハンドルの外車は左足のスペースが足りない』とか言う「たわごと」に乗せられて、危険度も不便さも我慢して乗って楽しいと思う人は相当おめでたいと言う他ない。

いつも道場の帰りに見る、小生には永遠に手の届かない車『ブガッティ ヴェイロン』(今年の価格は1億7千万円らしい)に目をやりながら、こんな車にも右ハンドルがあるのに『日本を走る時には左ハンドルなんだろうな?』と考えてしまった。

『まあ制限速度100キロの国でマークのSクラスやフェラーリも所詮宝の持ち腐れか』と悔し紛れに嘯いて今日は寝る事にしよう。


                         

2007/02/06

一期一会なるもの

自分の年代はいわゆる団塊の世代である。
日本ではこの世代が退職期に入り何かと話題も多い。この世代の特徴かもしれないが戦後日本の混乱期に生まれたせいか色々な事を体験してきた。

その内の一つとしてビートルズ世代とも言えるであろう。
それまでのロックやポップスに見られなかった革命的音楽的変化をもたらし当時世界中から熱狂的に支持された音楽である。当然、日本も例外ではなく沢山のビートルズファンを生み出しビートルズ以前と以後とでは音楽的影響も計り知れないと思う。

そんな音楽の洗礼を中学、高校生時代の多感な時期に受けた世代は現在でも当時の音楽をこよなく愛している。またそんな人を少なからず知っている。

そんなビートルズの音楽に自分も周りも浸っていた高校生の時に友人からコンサートに誘われた。聞いたことも無いミュージシャンでJAZZの偉大なプレーヤーだと言う。

「めったに聞けるミュージシャンではないから是非いっぺん聞いてみろ。好きになるから。」と言われ、 乗り気がしなかったが一緒にコンサートに出かける羽目となった。そのミュージシャンの名前はもとより高校生の自分にはJAZZなど興味の対象には全くと言って良いほど無かった。

コンサートが始まる前にミュージシャンの紹介があり、そのミュージシャンの名前が”マイルス デイヴィス”と聞かされたがほとんど同時に忘れていた様な状態だった。しかしその少し後に始まった音楽がその後の自分の音楽に対するテーストを180度変えてしまったのだ。

名前も知らなかったマイルスが吹き始めたトランペットの音に、知らない曲ばかりであったが恐ろしく集中して聞いている自分に気が付いたのは前半のコンサートが終わり休憩に入った時であった。マイルスの発する音の一音一音はそれまで聞いたことの無い新鮮で印象的、一度聞いたら忘れない驚愕の音だった。

そんな訳で音楽を勉強して理解できてJAZZが好きになった訳ではない。
すごい音に驚いて興味を持ち、そこからJAZZなるものにのめり込んで行ったと言うのが正直なところである。

『JAZZは難しくてよく解からない』と言う人が居る。
ではビートルズの音楽は本当によく分かって好きになったのだろうか?

自分の場合はそうではない。刺激的な音、それまでに無い綺麗なハーモニーと旋律、別に歌の文句がすべて理解できて好きになった訳ではなく感覚的に、聴覚的に好きになったと言える。JAZZの場合も全く同様で聞いてその音に驚き、音そのものに感動して好きになったのである。

茶道や武道の世界では一期一会と言う言葉が使われる事がある。
人との出会いの大切さと繰り返す事の出来ない時の大切さを説いた一句であるが、これは何も人だけに限らない事を随分たってから気が付いた。

音楽の趣向がマイルスとの出会いから180度変わった顛末を述べたが、同じ時期一冊の本との出会いがその後の自分の人生を大きく変えた事も事実である。
友人から借りた「秘伝少林寺拳法」と言う本に出会わなかったならば今日自分ははたして、このロンドンで少林寺拳法の指導者としてやっていたのであろうか。

これら人の人生の転換期の中で大きな影響を与える人や本や音楽など “一期一会” と呼べるものはそこら中に転がっているように思う。そんな中でそれと何時どのように出会うのか、自分にとっては思春期の多感な時代、音楽にもそして少林寺拳法にも出会ったのが一期一会だったのだろう。

時間が、場所が、年代が少し違えば一期一会で無かったような気もしている。

2007/02/04

エネルギーを貰おう!学生合宿

今年も学生合宿の月になった、91年にこれを始めて16年が経ったことになる

当初20名弱の学生達が集まり始めた英国連盟の学生合宿も、今ではスコットランドからイングランドのサウスコーストまで、12大学が参加する年間行事の一大イベントとして定着した毎年の参加学生は150名近くに達するまでに成長した。

学生は経済的には何処も同じような状況だ
経済的にあまり余裕の無い彼らはお互いにホームステイ等の便宜を図り、経済的負担を最小限にする様努力をしているそんな訳でこの合宿には一般の拳士は基本的に参加出来ない一般拳士の為にはサマーキャンプと言う夏季合宿が年間行事として確保されているからだ。

学生合宿を観察していると、初めて会った学生達が技の練習を始める前にお互いに自己紹介をして、握手をしてから技の練習に入っている光景をよく目にするいつも会うことが出来ないよその大学の拳士と練習するわけだからこの光景は実に新鮮で微笑ましい情景である。
少林寺拳法という共通の楽しみが彼等、彼女等をして遠くの大学まで足を向けさせる事を感慨深く思う
この様な光景が世界中に広まって行く情景こそ開祖宗道臣が思い描いた理想郷の一つでは無かったのかと自問自答している。

今年はそんな学生合宿に日本から18名もの指導者と学生達が応援に駆けつけてくれる
この様な機会にお互いの大学が姉妹クラブとして少林寺拳法の理念に立脚して、互いに助け合い発展してゆくような組織にしたいと思う。

これまで英国連盟内で行われていたホームステイ等が国境を越えて日本やイギリス、世界中で実現するようになれば経済的に限りのある学生達でもより一層の交流ができる事であろう
その事が相互理解につながる事は100冊の本を読んだり、インターネットから入る情報よりも何倍も優れた理解につながる事は云うまでも無い。

今年は6つの大学(英国3校Vs日本3校)が姉妹クラブを立ち上げようとしている
云ってみればその歴史的瞬間に立ち会えるわけであるから楽しくないはずが無い毎年の学生合宿でも楽しいのにこの様な特別な機会はお祭りの様なものだより一層盛り上がる事は容易に想像出来る

サア彼らからエネルギーを貰おう。
そして精一杯自分の力も出し切りたいと願う。
それが又何らかの形として次の世代に引き継がれてゆくのだから。

2007/02/02

少林寺拳士として

渡英して33年目を迎える今年、今一度少林寺拳士としてこれまでの自身の歩み、そしてこれからの生き方を模索する中でその都度感じたことを書いてみたいと思う。

現在までOccupation(職業)を聞かれた時 “ShorinjiKempo Instructor(少林寺拳法指導員)” と 答えてきた。

いわば少林寺拳法を生業とする事を公言して来た訳だ。元来少林寺の世界にあってはそれを生業とする事は日本国内にあっては禁じられている。事実開祖もその事をなぜ認めないのかを説いていた。

しかし小生が渡英した1974年当時は海外に少林寺拳法が出始めて間もない時であり、それ以前の海外支部と言えばインドネシア、アメリカ、スェーデン、フィンランド、フランスくらいしか正式な支部は無かった。

そんな折、英国の労働許可証を取得する時に少林寺拳法の指導員として認められ許可が下りた。

その様な訳で、当初は拳法指導以外の仕事に就くことは法的にも許されないと言う事情があり、もし余暇の時間にアルバイト等をして見つかったらたちまち国外退去は免れない事であった。その後は勿論永住権を取得するに至り自由にどのような職業にも就けるようになり、事実拳法以外の仕事もしてきた。しかし拳法中心の生活である事は変わらず出入国の際の職業欄にも “ShorinjiKempo Instructor” と記入する事は今日まで変わることは無かったのである。

そんな訳で少林寺拳法はofficials, unofficial を問わずInstructorには変わりないことになる。であるならば今後とも拳法と関わる中で自身が感じた事をあるがままに記録として残しておきたいと考えた。又その中で第三者からの視点も有益ではないかと思いこの場をお借りする事にした。

同時に拳法のみならず趣味も含めた自分の趣向も感じるままに書いてみるつもりである。