2019/12/31

2020 新年のご挨拶

皆さん明けましておめでとうございます。

年が改まり令和二年です。私達の国際拳法協会(IKA)も6か国で立ち上げた2015年の結成以来5年目に入りました。

その間にもIKAには参加する国が増え続け、昨年末に新しく加わったマレーシアを含め、現在では10か国が参加する組織にまで発展する事が出来ました。


これもIKA指導者の献身的な努力と、そこに参加する拳士相互の協力がもたらした結果ではないかと信じます。

私達IKAはこれからも発展して参ります。その精神は『伝統を継承しつつも、時代に合わせて進化していく!』と言う思いです。

旧年にも勝るご尽力とご協力をお願い申し上げます。

合掌


2019/11/26

返し技を理解する事で分かる事

少林寺拳法の技を理解するうえで重要な要因がある。複雑な技であればなおさらの事、これらの要因は無視できない。技の指導をする場合、個々のポイントで最初から一つ一つ止めて解説しながら説明している指導者を見た事が有る。これらの方法はともすると誤解を受けやすい。習った側は技を掛けられる側が抵抗する事を考慮する事なく練習するからである。

究極的な護身の技を行使する時には、考えたり止まったりと言う状況は考えにくい。少なくとも指導する場合においては、初めは説明では無く一気に技を掛ける必要がある。その後でポイント毎に説明を加える事は大切ではあるが。

技の流れが止まる事によって考えられるリスク(相手のカウンターアタック、返し技)が有る事を無視して練習すると、現実の護身の時には使えない技になってしまうと言う事もあり得る。このビデオはサイプロスの指導者講習会における解説である。腕十字や片胸落と言う様な比較的に初期の段階で習う技でも、同様のリスクが存在する事を認識する必要がある。

また返し技を知る事で如何に正確な技が大切か!そしてどの様な事に注意しないと相手から返し技を掛けられるリスクが生じるのか、と言う事を説明している。カウンターアタックのリスクを認識した上で腕の位置、持ち方、技の方向や角度と言った個々のポイントを認識して練習する事で、より正確な技の修得に繋がると考える所以である。

(サイプロス指導者講習会の映像)

2019/11/10

課題を決めて練習するーその2

順蹴りが今回の課題である。

理由は前回と同じで、課題がある事で迷いがなくなる。その事で相手の蹴り・間合いに対するリアクション(反応)がよりスムーズに行えると言う理屈である。

相手との間合いの取り方は、それぞれの身長や手足の長さにもよるが、相手から蹴りの間合いの取り方(測り方)は、相手が差込み足や差替え足等で間合いを詰めないと攻撃出来ない間隔を言う。ある程度の経験は必要ではあるが、突の間合いよりも広くとる事で相手に蹴りの攻撃させやすくする事が可能になる。

(スイス講習会での記録)

2019/10/25

課題を決めて練習するーその1

格闘技の練習の中で一番難しいのが相手の動きに対する的確な対応ではないか。何故ならば相対した時に相手の動きが直ちに読めると言う訳ではない、通常は攻防の中で少しづつ相手の特徴が分かり始める。その様な状態で相手がどの様な攻撃を仕掛けて来るのか分からない時、自身がすでに頭の中を整理しておく事により、ある程度は迷いが無く反撃の技が出せると言う事である。

先ず相手に対しての間合いを整理する必要がある。突きの間合いなのか、蹴りの間合いなのか。初めに自分がやろうとする技を限定しておくことにより迷いがなくなる!それを効果的に使う事により、全くプランが無い状態よりもより効果的な反応が出来ると言う練習方法である。

先ず我は『逆蹴りのみ』と言う結論を出す。技としては払受蹴り、十字受から逆の下段蹴り。この2種類のみのカウンター攻撃と言う事を決めて練習する事で他にあれこれと考える必要がなくなる!この事によりよりシンプルにカウンターの反撃に入る事が出来ると言う理屈である。自分がやる事を決める事により迷いを消すことが今回の目的であると言う事を理解して練習してみたらどうであろうか。簡単に反撃が出来たと言う人は目的が達せられたことになる。

(スイス講習会での記録)

2019/10/11

切小手の捕り方

少林寺拳法の指導者として過去にいろいろな場所で指導してきた。

私より身長の低い拳士が一人も居なかったスウェーデンやフィンランド等のスカンジナビア半島の国から、標高1000Mを超える空気の薄さを感じる国や、環境から来る身体能力の非常に高いアフリカのケニア、タンザニア等と言った国々まで指導する機会を得た。

そこで分かったことがいくつか有る。自分達の現在やっている技に対する研究と進化の大切さである。研究心が足りなければ進化も適わないのみならず、より強大な者には技が通じない。その時に役立った事は図らずも先輩指導者による知恵だった。

ここで紹介する技にもそれら先輩諸氏の血の滲む様な研鑽と努力の跡が見て取れる。正直言って切小手と言う技は自分が指導者になった後も全く自信が持てなかった。言葉の通じない場所での指導であれば説明して倒すことなど不可能である。そんな悩みをぶつけた時に偉大な先人達は少しも隠すことなく指導してくれた。

そんな一人が柔法で名を馳せた森 道基先生であった。切小手で悩む私に『小指丘で切る!』と教えてくれた。その後また別の問題が生じた、握っている相手が危険を感じ、あるいは痛みを感じて離そうとして技が掛からない。この対処法も奥村正千代先生のアドバイスがぴったりと当てはまり解決を見た。この様に自身が心底悩んで居る時には大先輩の先生方が授けてくれた対処法は大いに役に立ち、自信が持てる様になった。

それ以後、それらの技を指導する時には心してそれを授けてくれた先生の名を出して指導に当たるよう心掛けている。現在の自分が有るのは偏にこれらの知恵(技)を授けてくれた先生に報いる為と心して指導に当たっている。

(サイプロス指導者講習会での記録)

2019/09/30

鈎手の誤解

少林寺拳法の柔法を習う時、最初に教えられるのが『鈎手守法』である。5指を張って肘を脇に付ける事で、態勢が安定して相手から崩される事なく技を掛けられると言う理論である。これは多くの指導者が同じ様な理論で技を指導していると想像する。

しかし残念ながら鈎手守法ですべてが解決するわけではない!鈎手はあくまでも技の過程の一部である事は言うまでもない。問題は最初に習った『5指を張って、肘を脇に付ける』と言う事を過剰に意識する事で、その後の技に対する動作(練習)が誤った結果を招く事を何度か見ている。

鈎手とは腕を固める事が目的ではない、逆に固める事によりその後の動きが相手に悟られ技の流れが途切れてしまう事になる。合気道などの他武道には、鈎手で自身の体制が崩されるのを守ると言う概念は無い。この様に考えると鈎手は初期動作として5指を張り、肘を脇に付ける動作ではあるが、一瞬の動きであり1秒も2秒も鈎手を続ける(固まる)と言う事では無い。

鈎手はセンサー(感知装置)である。最初に手首等をつかまれた時、崩されないように守る事ばかりに意識が行くと固まってしまう。 これでは相手の動きが分かるはずもない。センサーと考えれば相手の意識(目的)も感知しやすくなるはずである。相手との貴重な接点と捉えれば鈎手の意味も少しは理解できると思う。

ではどの様な鈎手が有効なのか? 相手に捕られた手首は瞬時に5指を張り鈎手の態勢に入るが、ほとんど同時に脱力する事で相手の目的や力の加わり方が感触として分かるようになる。また脱力で相手にも自身のその後の力の入る方向(目的)を悟られる事を防ぐことが出来る。相手が気付いた時には技は決まっていることになる。

(スイス講習会での記録)

2019/09/18

日本と英国の共通点

日本と英国はどの様な共通点があるのか?
両国とも海洋国家(島国)である。大陸は間近な距離ではあっても繋がっては居ない。

明治維新後の日本は西欧の国々に多くの事を学び取り入れてきた歴史がある。

その様な中で面白い現象が有る。日本と英国は共に自国語で外国の地名や人名を語る。日本では中国の事を『チュウゴク』と呼ぶ。北京は『ペキン』習近平は『シュウキンペイ』現在世界が注目している香港行政府の長は林鄭 月娥『リンテイゲツガ』つまり漢字文化の中国は地名、人名等も日本読みが普通である。

イギリスでは漢字文化の国をオリジナルに近い発音で呼ぶことが普通である。中国は『チャイナ』北京は『ベイジン』そして習近平は『シージンピン』林鄭 月娥は『キャリー・ラム』と言う具合である。

逆にアルファベット文化の国に対して日本と英国では上記と逆になる。つまり日本がオーストリアの首都を言う時『ウィーン』、我々が指導者講習会をやった国は『キプロス』、チェコの首都は『プラハ』、ベルギーの首都は『ブリュッセル』と言うはずである。

ではイギリス人はオーストリアの首都を『ヴィエナ』、キプロスは『サイプロス』、チェコの首都は『プラグ』そしてベルギーの首都は『ブラッセル』と言う具合で若干ではあるが違っている。初めて聞いた時『ヴィエナ』が『ウィーン』だとは想像すらつかなかった。

日本はアルファベットの文化圏ではオリジナルに近い呼び方をとり、逆に漢字文化圏の地名や人名では、他国の人には通用しない意味不明な日本語読みになる。英国も漢字文化の国はオリジナル・アクセントに近く、逆にアルファベットが使われる場合には外国人には分かりづらい呼び方と言える。

それ以外の言語における特徴は分からないが、ともに島国の日本と英国は面白い共通点と言えるのかもしれない。

次の呼び方は何だか分かるかな?

1. コジェット  Courgette
2. ヴィークル  Vehicle
3. フローレンス Florence
4. ヴォラディヴォストック Vladivostok
5. ズーリック  Zurich

2019/09/09

少林寺拳法の『技』過去と現在

少林寺拳法で初期の科目表にはあったがある時期から外れた技がいくつかある。その一つに二人抜きと言う護身の技術としては有用な技を見てみたい。( BSKFの初段科目には含まれて居る)

この二人抜きと言う技は、複数の抜き技を組み合わせた総称である。『諸手突抜』や『三角抜』又は『諸手巻抜』『諸手輪抜』と言う技等で如何にうまく相手の力を利用して複数の抜き技を使い、最後は剛法で決める技とも言える。

この様な護身術としては非常に有効な、また現実味のある複数の敵に対しての対処法としての抜き技なのだが、現在の演武競技を対象とした少林寺拳法の練習では多くの指導者にとって関心の薄い技なのかもしれない。

武道としての技術を考えてみれば護身の意味するところは非常に重要だと思う。我々が教えられてきた少林寺拳法を修練する事によって得られる三徳『護身練胆、精神修養、健康増進』を考える時、護身の技術が忘れ去られて良いと言う事にはならないと思う。

その様な理由から今回は二人抜きを選んでみた。順序として技の組み合わせで使われる諸手突抜や三角抜そして諸手輪抜、巻抜を理解しておく必要がある。

最初の足捌きは両側から引っ張る二人の相手に対して、より力の強い方に寄る事。これはそれ程難しくはない。(力の弱い方に寄る事は難しいが。)

何故ならば合わせて2人の力で弱い相手を引っ張る形になる。足捌きと同時に寄った側の腕が鈎手になる事も重要な要件である。

次に素早く鈎手を解き(腕を伸ばし)逆側の相手に諸手突抜又は三角抜で抜くことが可能となる。最初の鈎手で自由に動ける範囲(腕が伸びる距離)を利用する事が可能となるからである。(詳しい動作は下の動画を参考にしてほしい)

最初に突抜又は三角抜で抜いた手で金的打ちを加え、もう一方の相手に寄足でより、諸手巻抜をして連攻撃を掛けると言う一連の動作である。確かに組演武ではやる事も無い技なのかもしれない(?)が、武の要諦としては面白い技では無いかと考える。

(サイプロス指導者講習会の映像から)

2019/08/22

IKAの指導者に求められる心構え

少林寺拳法の講習会をする都度感じる事が有る。参加する拳士の意識と目的がはっきりしている時は指導する側も比較的やり易い。

しかしながらせっかくの講習会に参加しているにも拘わらずその様な意識が希薄な人達が居る事も過去に何度か経験している。私が過去に所属していた組織での事、本部や地方での講習会等において指導員が技の実演や説明をしている最中に、何処かの道院長と思われる人達がヒソヒソ話しているところを目にした事が有る。聞く気が無くとも耳に入る言葉から、今まさに指導に当たっている指導員の技に対する批判であった。『あんな捕り方では掛からない』とか『自分が習ったやり方とは違う』と言う様な内容だった。その時感じた事は、この様な話を聞かされる拳士達はどう感じるであろうか、陰でそんな話をする指導者を見て、やる気が出るのであろうか?と言う単純な疑問だった。

一つ言える事は『万人に共通する技の掛け方などは存在しない!』個々の技を掛ける人の体力や体のサイズそして年齢等が異なり、掛けられる側も同様な条件のみならず、柔軟性や俊敏性等千差万別であると言う事を忘れてはならない。よく昔から伝えられる武道における秘伝等という物は個々の武道家の技量であり、それが普遍的に誰でも出来ると言う事とは異なると思う。

野球のバッティングにしても共通する課題は、基本をおろそかにしては上達が難しいと言う事位ではないか。基本と言うのは同様なパターンの練習をすることにより、大多数が一定のレベルに到達する為の近道と考える事が出来る。しかしながら試合の場においては自身の体力や技量のみならず、相手(投手)の体力や技術が自身それを上回ると言う事になれば、基本通りのバッティングをしても打てないと言う事は理解できると思う。

まして武道の世界であれば一握りの高段者が到達した技術一つをとっても、万人が常に同じ結果が保証されると言う訳ではない。しかしここにヒントが隠されているのではないか? 高段者の先生が到達した原則(Principle)は非常に有効なアドバイスとなり得る!しかしながらそれがすべての人に理解できると言う事ではないし、たとえ理解できたとしても先程の原理が存在する事を忘れてはならない(自身の体力、サイズ、運動能力に加え相手にも同様な条件が有る事!)

もし仮にその様な原則が理解できれば、多くの事が野球のバッティング技術と共通する事も分かるのではないか?自身に合ったフォーム、タイミング等最終的には自分で見つけるより他にはない。では少林寺拳法の技術は何でも良いのか!と言う事では無い、自身に一番合った技術を指導してくれる人を見つけると言う事になる。そう考えれば一人でも多くの指導者の技を見て、これはと言う技術(指導者)に出会ったならば、それを徹底的に追及する事が技の上達の近道かもしれない。その事が理解できれば少々個性の強い技の在り方も、個々の拳士においては大いに参考になり得る事も有ると思う。

IKAの指導者には自身の技に自信をもって指導に当たって欲しいと願うと同時に、自分とは異なった捌きや捕り方等をする指導員を批判しないで頂きたい、何故ならばそれ等が万人に有効な技では無くとも、特定の拳士には非常に参考になる事もあり得るからだ。私の経験から言える事は、自分の技も一人の先生からの技術指導だけではなく、多くの先人達の到達した技に影響を受け又アドバイスされた結果の集大成と考えるからである。

『守、破、離』まさにこの言葉の意味するところを思い出してみるのも良いのではないか。 

結手

2019/08/13

手軽に楽しめるYoutube、見る側が試される訳!

昨今の時代変化の一つにYoutuberが挙げられるかもしれない。映像を自分から発信して趣味の世界からプロの仕事まであらゆる映像を見ることが出来る。もちろん少林寺拳法の映像も沢山出て来るが、他のジャンルと同じで質の良いものからひどい内容のものまで千差万別の感がある。と言う事はどのジャンルでも見る側の知識(知恵)が必要であることは言うまでもない。

先の参議院選挙の時も実に多くの面白い映像が出ていた。それらの中にはこれまでの選挙ではありえなかった様なアジェンダ(公約)やキャッチコピーが出てきて、過去の選挙では見られなかった様な人達の活躍が目を引いた。NHKだけを標的としたアピールや、元号を幕末の新選組と組み合わせた名称など有権者に分かりやすい(選択しやすい)アジェンダを主張する事には、これまでにない新しい政治の動きが感じられた。これらの人達に共通する新しいアピールにYoutubeが大きな役割を果たした事は言うまでもない。

料理の映像も沢山ある。確かに鮮やかに料理をする映像にはいかにも旨そうな印象を受けるが、その出来上がった料理がどの様な評価を受けるのかは定かではない。見事に魚を捌く板前から寿司職人、そして和食、中華、洋食そしてストリートフードの様なあらゆるジャンルの露店料理まで、世界中の食文化の一片をそれらの中に見る事が出来る。ただ確かに見た目には旨そうでは有っても実際の味は食べてみるまでは定かではない事も確かである。

武道のYoutubeについても非常に興味深いものが沢山ある。日本ばかりではなく世界中の格闘技からボクシングや武道まで、あらゆる格闘技の映像が楽しめる。ただ先にも書いたようにこの分野も例外では無くひどいものが沢山ある。私は他の武道の事を評価するつもりは無いが、少林寺拳法の動画には指導者の一人として厳しい評価もしなければならないと考える。特に酷いと思うものは技の名称とやっている技がマッチしないものや、技術的観点からも、おそらく自身の弟子以外には通用しないであろうと思われる映像が度々あるのも事実である。日本以外の国の指導者が指導(説明)している技と名称が異なる事はある程度理解は出来るが、それでもそれらの間違った情報を元に指導を受けた拳士が世界で広まっていく事を考えると、簡単に諦めて良い問題ではないように思える。

諸々の分野の情報が簡単に手に入るYoutubeであればこそ、楽しむ側の知識とそれらの内容を吟味できる眼力が試されているのかもしれない。今Youtubeが面白い!

2019/08/06

最強の日本ウイスキー

最近のウイスキーはどれも旨いと感じるものが多い。特に日本のウイスキーがこのところ注目を集めて居るようである。以前のNHK連ドラでマッサンと言うのがあった、それがブームの火付け役かも知れないが、ともかく日本製ウイスキーが最近とても高額になり入手が困難な状態になりつつある。

なぜその様に日本のウイスキーが高騰しているのか?と言えば何もマッサンばかりが影響しているとは思えない。ウイスキーやブランデーの様な蒸留酒には何年もの時間が必要であることは知られている事実だ。しかしながら何らかのきっかけである銘柄のウイスキーが予想以上に沢山売れた事により、そのウイスキーを短時間で作る事が出来ないことが主な原因だと想像される。

近年ヨーロッパの名だたるウイスキーのコンテストで日本のウイスキーが優勝するなど良い成績を収めた事により、それ以前にはあまり注目をされることもなかった日本産ウイスキーが一躍世界中から注目されることになった事も原因ではないかと思う。

言うまでもなくウイスキーの産地はスコットランドやアイルランド、そしてアメリカではバーボンがありカナディアンも有名である。そこから作り出されるシングルモルトやブレンデッドのウイスキーはこれまでも大きな評価を得てきた。

以前の日本産ウイスキーは世界中でそれ程大きな評価は受けてこなかった様に思う。ところが近年の有名なウイスキーコンテストで高評価を受けた大きな要因には、ブラインドテスト(銘柄を明かさないテースティング)による優勝が挙げられる。我々が成人したころの日本産ウイスキーは評価も非常に低かった。スコットランドの無名な蒸留所のウイスキーを輸入して日本で造られた新酒とブレンデッドのウイスキーを作ったりしていた事もあった。それが全部悪いと言っている訳ではない、そこから学ぶ事も多かったと思う。

多くのスコッチウイスキーは結構個性が強い特徴があり、それがまた愛好家に支持される所以なのかもしれない。スコッチウイスキーはシングルモルトがその代表格だと思う。ハイランドやローランドモルトなどと呼ばれ、それらの蒸留所の場所からくる個性を特徴としている。

又は○○アイル等の島で生産されるウイスキーは結構強いスモーキーなフレーバーを特徴としているものが沢山ある。日本人の好みとはおそらく逆のテイストではないかと思うが、なんでもマッサンの主人公はスコッチのスモーキーなフレーバーにもこだわりが有ったとストーリーの中で紹介されていた記憶がある。そのこだわりから見つけた北海道の余市と言う場所がスコットランドの環境に似ていた事がその後のウイスキー生産に繋がったと言う事らしい。

偉そうに講釈を申し述べるほど小生にウイスキーの知識は無い。しかしながら今日世界が認めた日本産ウイスキーが次々に販売が中止になったり、プレミアの付いたウイスキーがとんでもない値段で取引されると言う現象には全く残念としか言いようが無い。 せっかく世界で評価された日本のウイスキーは買い占めなんぞしないで欲しい。それでなければこの様な時流(日本のウイスキーがもてはやされる)も一過性で終わる様な事も十分に考えられるのではないか。

最近ではロンドンのスーパーでウイスキーが並ぶ棚には日本産ウイスキーの銘柄も散見する。20年前では考える事も出来なかったことだ。世界を席巻する昨今の日本産ウイスキーが、将来的にも世界中から末永く愛され続けて欲しいと願うものである。これ等日本産ウイスキーもこだわりが生んだ日本の名産品として、オリジンを超える評価を後世に残して欲しいと願うばかりである。単なる呑兵衛の与太話にお付き合いいただき恐悦です。

2019/07/25

個々の嗜好を大切にしよう

人の嗜好には理由の付けられない(分からない)ものが数多く存在する。もちろん理論的に説明の付くものも有るが、そうでないものの方が多い。音楽や芸術等の世界においては特に個人的な嗜好(好き嫌い)が理由もなく存在することを認識したことがある。

音楽を例にとれば自分に合ったリズム(波長)などがあるのかもしれない。音楽のジャンルによっては聞く方の特徴も明らかに異なる光景を見る事が出来る。クラッシック音楽の場合には観客は静かに演奏を聴くことが普通である。立ち上がったり演奏中に拍手をしたりと言うようなコンサートにはあまりお目にかかった事は無い。

逆にポップスやロックコンサートでは観客が立ち上がり両手を挙げて体ごと自分達も楽しんで居ることを演奏者と一緒に共演している様な場面がある。同じようなコンサートでもジャズのライブコンサートではクラッシックコンサートと同様イスにかけて聞く場合が多いが、一つ異なっている特徴?は多くの観客はリズムに合わせ体をゆすったり、時々は『ヤァー、イエー』等と声を発したりしている光景も見かける。

絵画や味覚も人の好みとは実に様々な嗜好が存在している事は認識されて居る。では何故異なった好き嫌いが出るのであろうか?もしかするとこれらの異なった嗜好が、人類(ホモサピエンス)が他の生き物などよりもより高度な文化や種の発展に繋がって行ったのかも知れない。他の動物で人の様に個々の嗜好が異なる生き物が居るのか分からないが、好みの多様性はおそらくそれぞれの感性に合うものを見つけたり、追及した結果が今日の発展に繋がったのではないかと勝手に想像している。

そんな事を思うと異なる嗜好や趣味が実は我々にも大変重要な意味があるように感じられてならない。多様性のあるものの方が柔軟でより多くの可能性を生み出してきたのではないか?人々がすべて同じ方向を求め、そうでない者を排除しようとするならばその様な社会や国は早晩衰退するか滅びるのではないだろうか。

殆どの人は自由を尊び、その様な環境の中で自身に最も合った(好きな)ものを選び発展させてきたのではないか。そう考えると趣味や味覚、感覚等々自分達の好み(感性)に合ったものを見つけより深く追及することが、さらに物事を高い段階に導いてくれるような気がする。

スポーツも武道も絵画などの芸術や味覚なども個々の感性を大切にしたい、その様な中で自分が一番好きで納得できることをより深く追求していく事が、より大きな集大成として残っていくのだと思う。万物の霊長と言われる人類に与えられた一番の強みとは、この様な個々の違いこそが貴重な資源ではないだろうか。

もしそうであれば、より拳法にこだわりたい!柔法が好きな人は柔法に、剛法が好きな人は剛法に、圧法が好きな人は圧法に、錫杖が好きならば錫杖に、幸いなことに少林寺拳法には多くの選択肢がある。これは強みでも有るが単純に強みとなるのかどうかは、それにこだわって人より深くそれぞれの技を追及していけるのかどうかに係わっている。

ならば追求しよう、我々の先輩に続こうではないか、少林寺拳法の偉大な先生達に少しでも近づく為に!スペシャリストと言われる様な存在になれば、武道の種類を問わず強みと認識される事であろう。

2019/07/15

面倒な事(リスク)は誰でも嫌い!それで良いのか日本人?

国立感染症研究所でエボラ出血熱のウイルスを輸入して研究する事への地元住民の反対者の意見をニュースが取り上げていた。この様な例はいくらでもある。頭では必要と分かっていても自分に近いところでその様なリスクを受け入れる事への嫌悪感である。

原発の出す使用済み核燃料の中間貯蔵施設(?)も変な名称からも分かるように、この場合は最終処分場ではない!中間貯蔵施設の設置が難しい段階で、最終処分場が決まる訳もない。しかし安い電力の為(?)に原発は必要である。福島の原発事故以来コストにおいても嘘がばれた訳ではあるが、現在でも経済界等はその様に主張している。

弾道ミサイル防衛システムの設置場所に関しても同様な反応が見られ、候補地として選ばれた市長から意見が出ている。北朝鮮や中国脅威論を振りかざすことで、「日本の国土を守る為にはこの様な防衛システムは欠かせない!?」と言う理屈でイージス艦やパトリオットPAC-3システム、THAADミサイル・システム等と言う、途方もない金額の防衛システムが次々と米国から出てくる。それらを買わされるのは日本政府ではあっても、それらの原資は国民の税金である事は言うまでもない。

今回はそれらの防衛システムが必要か否かと言う話ではない。それらのシステムが必要であると結論が出たと仮定して、ではそれらの配備をどこにするのか?と言う時の問題点の事である。弾道ミサイル迎撃システム(イージスアショア)設置が秋田市と山口県萩市と発表されると、地元の市長等から出された懸念や反対意見の事である。その様な防衛システムでもイージス艦の場合には同様な反対意見は少ない様に感じる。

とどのつまり頭では日本の安全や市民を守る為には病理研究の為の研究施設や防衛システムが必要と分かっていても、では自分達の地元にそれらの施設が作られる場合には反対すると言うDouble Standard(二重基準)に危険性は無いのか?との視点がその論拠である。

F35と言うステルス機能を持つ戦闘機が配備される。それらの戦闘機が『優れた戦闘能力を持つから日本の安全を守る為には必要である』と言う結論に達したとして、それらが配備されると決まった地域の人達がどの様な反応を起こすのか。オスプレーと言う飛行機とヘリコプターを足した様な兵員輸送のヘリが事故を起こした時にも同様な反応が出ている。普天間への配備には沖縄県民以外からはそれ程強い反対意見が出なかったが、それ以外の本土への配備計画が計画の段階で漏れた様なときには、それらの関係する地域からは猛烈な反対運動も起きている。

言い換えればこれが日本人のメンタリティかも知れない。遠い沖縄の事であれば自分たちの生活にはそれ程大きな影響もない!故にデモをする程の問題ではない。一旦それが自分たちの地元と分かると今度は強烈な反対運動が起きている。原発問題と同根なのだと言う事を多くの人達は気が付き始めているのではないか。

繰り返すが、原発が必要か否か、とか安全保障の為にステルス戦闘機やオスプレー、そして弾道防衛ミサイルが必要か否か?と言う事を言って居るのでは無い!そこにある自分達に影響(被害、リスク等)が無い場合には無関心、そして何らかの影響が出る場合には猛反発と言う二面性の事にフォーカスを当てている訳である。

これらの現象を実に上手く利用して居る事が政治の世界ではよく見られる。沖縄の普天間米軍基地の辺野古への移設問題を例にとって考えれば、ある程度ボヤっとしたものが見えて来るようには感じられるのでは無いのか?
そこには一国の総理大臣でも変える事が難しい大きな現実(力)が働いている事もおぼろげには分かるのではないか。

沖縄県民が抱える問題(不満)、米軍基地の70%が沖縄に集中していると言う現実を『少しでも変えたい!』と言い出した時の総理大臣の思い自体は間違っては居ないと思う。一国の首相でも変えられない力が働いている事を感じたのは、それらを何とか解決したい『移設先は海外か県外に』と言う言動が、官僚や他党の国会議員などから集中砲火を浴び、情報が意図的にリークされ続けた事にある。他県の島に移転先を模索しただけで、潰されてしまった現実を見て思ったことは『彼の主張はそれ程までに突拍子もない事なのか』と言う単純な理由から来ている。

もちろんこれらの裏事情にそれ程詳しい訳では無いが、政府間で取り決められた約束事であるかの如く、メディアもTVニュースも否定的にしか取り上げなかった。沖縄県民の民意は我関せずと全く無視をする他府県人の態度に対しての違和感だった。『日米地位協定で定められた事は、一総理大臣の力では変えられない』と言う事を知った時である。

日本の安全保障と言う事に関して言えば誰も必要性は認めるであろう。しかしその為に『自分達の住んでいるところに米軍基地が来る事には反対!』沖縄は自分たちの住んで居る所からは遠いので問題(影響)は無い、米軍基地は中国や北朝鮮からの軍事的脅威に対抗する為には位置的に沖縄に米軍の基地が必要である、『わが県にはその必要は無い!』と私には聞こえる。

先のブログで軍産複合体の事に少し触れた。一般の日本人もほとんどのアメリカ人にも関心の低い話題ではある。しかしながらその実態とは、ある意味では非常に残虐(悪賢い)で危険な複合体である事も近年少しづつ分かってきた。海外における日本の研究者は、日本に対してシンパシー(好感情)を持っている人ばかりとは限らない!と言う事を知る必要がある。ある一握りの研究者は日本の弱点ばかりを研究しているグループも確実に存在する。その様な人たちが出した報告書は戦略家(政治家)にとってはこの上ない好材料である事は言うまでもない。

日本が世界でアメリカだけから最も高い兵器や防衛システムを次々に買わされて居る現実はなぜなのか? 現実の問題は別としても、多くの日本人は近隣諸国の脅威が間近に迫っていると感じているのかもしれないが。しかしその様な現象を意図的に作り出している人達の事は中々一般の目には触れない。『恐怖も不信も非常に好都合な商売の道具になりうる』と言う事を私達に伝えたかったのが宗道臣(旧日本軍諜報員)ではなかったのか、今その言葉の意味するところ『眼光紙背に徹す』を思い出しているが、この言葉の意味するところは非常に重い。

他者への無関心、自身だけの都合、この様な現象はある種の人達には非常に使い勝手の良い(利用されやすい)材料を提供する事を、今一度心に止めておく必要があると思う。『半ばは自己の幸せを半ばは他人の幸せを』を死語にしない為にも

2019/07/11

今年のIKAヨーロッパ講習会を終えて

今年のIKA講習会のヨーロッパラウンドが終了した。

6月の最初の週末である7日と8日はチェコのカルロイバレーにおける講習会があり、私と日本から参加し新しくJSKFの代表に選出された川村先生が指導員として渡航した。チェコの講習会には海外からも参加があり、私の地元BSKFや隣国のスロバキアからも拳士が出席して技術の検証と交流を楽しんだ。




続く第2週の週末にはスイスで講習会が催され我々2人もチェコからスイスに飛んだ。スイスの講習会にはスイスの拳士のみならず、英国や新しくIKAに加わったインドネシアのPorkemiからも8名もの幹部拳士の参加があった。彼等は先ずローザンヌにあるIOC(国際オリンピック委員会)を訪問していて、少林寺拳法がオリンピックスポーツとして認証されるための条件などが話し合われた様である。




講習会も無事終了し、参加した拳士たちの満足げな顔が印象的であった。どの講習会においても今年の10月に神戸で催されるIKA大会と講習会に参加したいと言う拳士が多かった。前回の2015年以来4年ぶりの神戸における特別講習会には、久しぶりに訪日して旧知の拳士や新しい仲間と出会う事の出来る機会を非常に楽しみにしている様子であった。






私達の特別講習会はスイスでひとまず終了したが、引き続き第3週末には、スペインにおいてIKA講習会がベアサインで行われた。このセミナーにも日本から駆けつけて頂いた指導員によりスペイン拳士達の喜びの声が届いている。この様に講習会が催される都度感じる事は拳法の持つコミュニケーション能力の強さである。それぞれの言語や文化は異なっては居ても少林寺拳法と言う言語は同じである。またそれを求める拳士達の情熱にはついつい我々指導員もそれに答えようと普段以上の力が出て来る事を認識させられる。



6月は日も長くヨーロッパではホリデーシーズンを控え何かと落ち着かない時期でもある。その様なときにも関わらず参加する拳士達の真剣な眼差しには指導する側が、彼らの情熱に何とか答えようと力が入る事は紛れもない真実ではなかろうか。

今年は毎年催されるサイプロスでの指導者を対象としたリーダーズ・セミナーは行われない。変わって全参加国を対象としたIKAセミナーが神戸の地で催されるわけである。今一度この機会に少林寺拳法を見つめ直してみるのも良い機会である様に感じるのは私だけでは無いはずである。開祖宗道臣が残した剛法、柔法、圧法等、拳法の持つ武道としての魅力は日本人の我々よりも海外の拳士達の方が強く感じているのかもしれない。

初心に帰り今一度『少林寺拳法とは何か?』を自身に問いかけてみてはどうか。何かその先に見えてくるものがあるかもしれない。


2019/06/10

日本は世界の先進国?

多くの日本人は概ね『日本は世界の最先端を行っている』と信じている人が多いのではないか。確かに工業製品やファッション等を見ればそれも一理あると思う。しかしながら現実の社会で起きている実態を目の当たりにすると「?」と思わされることが度々ある事も何度か見てきた。

つい最近では日本政府からの要請(指導?)で携帯電話の料金値下げがあった。これ等も本来の自由主義経済の先進国であればとっくの昔に自由な料金設定が選べることが普通である。しかしながら日本においては大手の携帯キャリアが独占的に料金を設定し、談合ではないと思うが明らかに利用者不利の料金体系がまかり通ってきた。

日本国内に住む友人に携帯電話に掛かる料金を聞かされ『なぜシムフリーの会社に変えないの?』と質問したことがある。その時の友人は『シムフリー』と言う事自体が理解できなかった様であったが、日本ではこの様な選択が殆ど紹介されておらず、ほとんどの携帯ユーザーは大手キャリアの料金設定を疑いもなく受け入れていた事になる。

私もそれ程携帯料金に詳しい訳ではないが自分の携帯電話の料金契約はシムフリーであり、1か月の料金は£7.50≒¥1,050と言う具合で日本の様な金額とは大きくかけ離れている事は言うまでもない。この様な携帯電話のキャリア選択肢は英国では非常に多い。ワイフの契約もシムフリーで1か月の料金は£3.50 ¥490でありもっと安い事になる。

海外旅行等に出かけた人達は日本とはかけ離れた料金の安さや、自由な選択が出来る事に気が付いた人も居たと思う。しかしながら日本国内においてそれらの安い料金体制を選択する余地が無い事が今日まで続いてきたことになる。最終的には政府の指導により大手キャリアがしかたなく従う構造(?)にはもしこのまま政府が動かなければまだまだ大手キャリアの傲慢な体制は続いた事であろうと推測できる。

携帯電話ばかりの話ではない。LCCと呼ばれる格安航空の世界も日本での登場は大変遅かった記憶がある。ヨーロッパやアメリカではこの様な格安航空は随分早く90年代中頃から始まっている。

当初はジーンズ姿のキャビンクルー(搭乗員)が登場して料金の安さと相まって随分と話題になった。冗談の様な料金でキャンペーンが度々あり、私も利用したことがある。確か2005年頃にキャンペーンでロンドンからイタリアのベニスまでの航空運賃が往復10ペンス≒15円であった。冗談の様な値段だったが普通の観光旅行には何の問題もなかった。私は息子と2人で参加したが自宅から飛行場までの電車賃の方が遥かに高かった。もちろんこれ等は格安航空が広告を目的としたキャンペーンであった事は言うまでもないが、それらの航空会社をその後も利用したが相変わらず大手の航空運賃に比べれば三分の一以下で飛べるものが沢山あった。

これらの情報は当然の事ながら日本の大手航空会社は知って居たであろう事は容易に想像できた。それらのLCC各社が成功をおさめその後も多くのLCCが登場したわけである。しかし日本のマーケットと言えばLCCが登場したのは遥か後の事で2010年頃まで待たねばならなかった。それも近隣諸国からのLCC乗り入れ圧力があって初めて日本の航空業界も動かざるを得なかったのだと思われる。

今一つはIT業界の話である。現在でこそスマホが中心となりLINE等のフーリートークやビデオ会話が日本の社会でも普及してきたが、私がSkypeと言う同様なサービスを使い始めたのは弟子の拳士に紹介された事が切掛けであった。確か2005年頃でありパソコンを使い無料でビデオ会話が出来ると言う事で早速使い始めたことを記憶している。当初はビデオの画質も悪く、通信回線も遅かった事もあり今ほど快適ではなかったが、いかんせんタダで日本や海外と映像を見てパソコン上で会話が出来ると言う事で日本の友人達にも勧めた。それ以前の国際電話料金の高さを考えると非常にありがたかった事を記憶している。

現在の環境はスマホが中心になり欧米での使用が多いSkypeやWhatsAppのみならずLINEが韓国主導により日本で開発されて日本人社会でも普通に使われる様になってきた。これ等は全くのパクリ文化の国が先にやった訳で日本もその恩恵にあずかっているわけであるが、NTTをはじめとする大手のキャリア等はとっくに欧米でのフリービデオ通話等の利用状況等は知って居たであろう。

この様に見てくれば日本社会が抱える問題点は、世界の先進国どころか近隣諸国の方が先に取り入れている事が分かる。これらは何を意味しているのか。日本国内の大手の事業者と官僚、政界の談合(癒着)の体質ではないだろうか? 一頃アメリカの同様な問題点を軍産複合体(Industrial military complex)と呼び批判的な日本のメディアが紹介する記事を何度か目にした事が有った。ネオコンと兵器産業そして政界の繋がりを意味した言葉ではあったが、見方を変えれば日本社会の現状も兵器産業でこそないが仕組みとしてはアメリカの軍産複合体と似たような構造である事が理解できる。

日本のマスコミがこの様な問題点を指摘している記事を見た事が無い。マスコミ関係者にとっても見て見ぬふりをするならば、それ等を言い換えれば『寄らば大樹の陰』と言う事なのであろうか? その様な一般市民の利益を代弁しない報道姿勢は、マスゴミやフェイクニュースと呼ばれるのが昨今の状況である。

2019/06/06

この強さは何だ!信じ難いボクシングKO劇

井上尚弥と言う稀代まれなボクサーが活躍している。

つい先日はグラスゴーで行われたWBSSの準決勝で、モンスターNaoya Inoueとのキャッチフレーズで紹介され注目していた。その試合は井上と言うボクサーの圧倒的強さを世界中のボクシングファンに強烈に認識させる場となった。井上尚弥 WBA世界チャンピオン 25歳16戦全勝14KO驚くばかりの結果ではないか。

日本は軽量級の世界では多くの世界王者を輩出しているボクシング大国である。しかしながら井上尚弥が見せるその強さは、観るものを感動させる凄さかもしれない。試合後の井上は普通の顔であざ等もほとんど見た事が無い。たった今世界王者戦を戦った選手の顔とはとても想像できない様なきれいな顔なのだ。

日本ボクシングが世界チャンピオンを輩出して久しいが、歴代王者の中にも優れたボクサーは確かに居た。しかし現在の様に多くのボクシング団体が出来てどれが本当の世界王者なのかが良く分からなくなっている。同じ階級の世界チャンピオンが2人も3人も居れば当然の事ではないだろうか。

井上はすでにWBC世界ライトフライ級王者、WBO世界スーパーフライ級王者、現WBA・IBF世界バンタム級王者と言う世界3階級を制覇したチャンピオンである。WBSS(World Boxing Super Series)において井上は準決勝の場においてまざまざとその強さを見せつけた。今や彼は極東の生んだ地味な世界チャンピオンではなく、紛れもなく世界から注目を浴びる最強の存在である。

ボクシングの4団体(WBC、WBA、IBF、WBO)が唯一の世界王者を!と言う理由からスタートしたと聞く。イギリスも過去に数多くの世界王者を輩出して来たボクシング大国である。目の肥えたファンも数多く、グラスゴーで催された今回の準決勝は世界中のボクシングファンの耳目を集めた事は言うまでもない。その本番で見せた今回の2ラウンドKO劇は改めて井上の強さを際立たせる結果となった。

今回対戦したIBF世界チャンピオンのエマヌエル・ロドリゲスも19戦全勝(12KO)と戦績はかなりのものである。そのロドリゲスが僅か2ラウンドでTKO負けをするとは戦前の予想は無かった様に思う。今後の戦いから益々目が離せなくなりそうだ。『岡山のおばーちゃん 大和魂』(ちょっと古いか!)と叫んでいた世界チャンピオンも居たが、次元が異なる強さを見せてくれた。

頑張れ井上尚弥。

2019/05/22

右ハンドルのFordマスタング(アメリカ車)が意味するもの

最近ロンドンにおいて時々「おや!!?」と思ったのは右ハンドルのアメ車を見た時だ。なぜ「おや?」なのかと言えば、アメリカ車ではこれまで右ハンドルというものを見たことが無かったからである。もちろんドイツや英国で生産されたFordやGMの車は、英国で販売される場合においては確かに右ハンドルも普通に存在したが、それらは典型的な欧州車であり比較的小型車が多かったので特段気にも留めなかった。

しかし今日「おや!?」と思った車は典型的なアメリカ車を代表するようなFordのマスタングである。これらはヨーロッパで造られた車では無いのではないか!?と言う事が頭に浮かんだ。もちろんドイツや他のヨーロッパ諸国で造られていても何の不思議もないが。

以前にも述べたと思うが英国では左ハンドルの車は基本的に異端である。大陸から来る輸送トラックや、短期間旅行等で持ち込まれる大陸からの左ハンドル車は確かに時々見かけるが、英国に住むオーナーが左ハンドルの車を所有する事はクラッシックカーかビンテージカーを除けば見る事はまず無い。

単純な理由は日本と同じ交通ルールであれば、左ハンドル車の危険度は当然ながら右ハンドルに比べて高くなることは言うまでもない。保険料なども当然のことながら左ハンドルの車を所有していればかなり高くなる。以前ブガッティ―ヴェイロンの右ハンドルを見て驚いた事を紹介したが、何億円もする車でも右ハンドルは存在することを改めて認識させられた。

不思議な事に日本では現在でも街中で左ハンドルの欧州車に出くわす事が時々有る。 英国と同じ左側通行の国なのになぜ使いずらく、危険度も高い左ハンドルなのであろうか?もっとも最近ではメルセデスやBMW等でも比較的右ハンドルの車種が増えてきたと感じるが。

しかしである、それらの車であってもトップクラスの車種、メルセデスで言えばマイバッハやSクラスのAMG、BMWでも7シリーズなどの車種、はたまたフェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニ等と言った高価格車には相も変わらず左ハンドルが多い気がする。

ロンドンの街中でその様な車はまず見掛ける事は無い。日本では時々見かけるこの様な左ハンドルの車は運転上のリスクのみならず、駐車のつど道路際には寄せられず(ガードレール等でドアが開かない為)当然のことながら道路中央側にせり出して止める羽目になる。他車や自転車乗りには迷惑極まりない。

ではなぜ日本では未だに左ハンドルの車が大手を振ってまかり通っているのであろうか?車のオリジンが左ハンドルの国だったからそのまま受け入れているとは思えない。外車=左ハンドルと言う認識が高いせいか?

確かにヨーロッパのほとんどの国は左ハンドルであることは事実である。オリジナリティを壊したくないので不都合を受け入れている?その様な事を言う人達も居る。車のオリジナルのデザインが左ハンドルで設計されている為、右ハンドルに変えた車ではアクセルやブレーキペダルの位置が変わり、運転しづらいと言う意見もあった。だがそれが事実であったとすれば日本車がアメリカをはじめ左ハンドルの欧州諸国でこれ程までに支持されると言う事は説明できないと思う。

以前東京で左ハンドルのロールスやジャグアそしてMiniを見た事が有る、これらは何を意味するのであろうか?言うまでもなくロールスもジャグアもミニクーパーも英国オリジンの車であり右ハンドルのはずである。

人と異なる車(外車)に乗っている事をアピールする為には、左ハンドルの方が良いと思っているオーナーが多い事が本当の理由ではないのか? 最近でこそポルシェの右ハンドル車も時折見かけることがあるが、それでも少数派でしかない。

この様な現象をCar Graphicの初代編集長 小林彰太郎氏に質問した記者がいた、氏は間接的に否定的な意見を述べていた。言われてみれば外車を中心に編集されていたCar Graphicであれば、その広告の多くを外車の輸入元が占めていた事からも直接的な否定は難しかった事であろう。しかしその時の氏の返事は『言うまでもなく日本で左ハンドルの車を運転する事は危険なだけでは無く不都合な事が多い』と言うような内容であった。直接的な外車とそのオーナーの批判を避けたい事は雑誌の営業上の理由からも十分理解できた。

1960年代当時から英国や欧州各地でサーキット走行のみならず街中でも実際にハンドルを握り、テスト走行をされた経験が日本で左ハンドルの車を運転することが如何に無益な事かを肌で感じていたであろうことは容易に想像がつく。

その様に考えてみると日本の路上を走る外車(この場合は左ハンドル車)のオーナーはプライドと差別意識の中で、あえて不都合な部分には目をつぶっている事が考えられる。別の見方をすれば根底には相も変わらず外国車に対するコンプレックスがあるのか?と邪推したくもなる。日本の車が世界中で多くの賞賛と信頼を得て、世界で最も多くの車を生産する国の代表格でもある日本において相変わらず外車(左ハンドル車コンプレックス)と言うのでは余りにも情けないではないか。

ロンドンを走るマスタングにBritishはアメリカ車にも右ハンドルを要求している事が新鮮だった。アメリカとの貿易摩擦で日本車がそのやり玉に挙げられてはいるが、貿易不均衡を日本政府に言う前に、ではなぜアメリカで生産された車が日本で売れないのか?『もっと日本人の要求に合う車を作るべきだ!』と主張してみてはどうだろうか、その一つが『右ハンドルの車を生産しなさい』日本はアメリカや欧州のみならず輸出する国の実情に合わせて生産している事をMr.トランプにもはっきりと伝えた方が良いのではないかと想像したが、それでも中々売れないだろうなぁアメ車・・・それ(外車)を買う人達が左ハンドル車を有難がっているのが実情であれば。

2019/05/05

新たな門出、令和に少林寺拳法をどの様に伝えるのか

何度かこのブログを見ていると言って頂いた人たちから、『もう更新はしないのですか?』と問い合わせを頂いた事もある。まずは長らくこのブログを更新しなかった事をお詫びしたい。

最後にブログを更新した時からすでに2年もの時間が流れた事になる。時代はその間に平成から先日新たな元号の「令和」に代わった。我々の活動もその間においても続いていた事は変わりない。

毎年のことながらIKAの行事で加盟国の拳士を対象とした講習会や大会も開催されている。その様な中にあって参加国も少しずつではあるが増え、現在では9カ国になっている。

この間にIKA加盟国はインドネシア連盟(Porkemi)、香港が新しく加わり9カ国となった。これまでのIKABSKFを含めどちらかと言えば拳士数や支部数においても大きな国の連盟は無かった。

しかしながら昨年の11月に新たに加わったインドネシア連盟は支部数や加盟拳士の数においては圧倒的に大きな組織である。私もWSKO理事の時代には2度ほどインドネシアを訪問したことがあるが当時から組織も際立って大きく、立派な本部道場があり日本の組織に勝るとも劣らないナショナルな連盟であった。

組織運営においても連盟内にCongress(代表者による議会)が有り、すべての重要議案が民主的な運営で行われて居たことは強く印象に残っている。

開祖存命中から日本以外で最初に設立された国の連盟がインドネシアのPerkemi(兄弟姉妹と言う意味らしい)で1960年代中頃に活動が始まり現在に至っている。その様な長い歴史を持つインドネシア連盟がなぜWSKOから離れ,我々のIKAに加わる事になったのか?今もって定かではない。

ただ一つ言える事は、この度のIKA参加は、我々から彼らに働きかけたものではない。前のPerkemi時代に連盟会長職を長年務められたティンブルさんから、話を聞かせて欲しいと打診があった事がきっかけである。IKAの規約も送りその内容をCongressで話し合ってもらった結果、IKA加盟と言う結論に達した様である。

ティンブル代表はインドネシアでは最も名の知れた弁護士である。BSKFとWSKOとの名称問題についても十分理解されていた。その事も彼らが安心してIKAに加わる事を決断した大きな要因ではなかったかと思う。かつてお会いしたインドネシア連盟40周年記念式典の時にも、気軽に冗談を飛ばし周りを楽しい雰囲気に包む人柄であった。

まだまだ我々のIKAは発足後3年半と言う発展途上の団体である。しかしながら運営に於いてはインドネシア連盟も満足(納得)できるシステムである事は、今回の彼らの行動が如実に物語っている。

新しく立ち上げたインドネシア連盟はPorkemiと呼ぶとの事である。彼等の新組織が立ち上げになる式典にはインドネシアの国営放送局も取材班を送り、それをニュースとして流したようである。私も出席を要請されたが時間的制約もあり、ビデオメッセージと言う形で参加した。その時のニュースはYouTubeで誰でも見ることが出来る。

開祖宗道臣が残した少林寺拳法をどのような形で後進に残していく事が出来るのか、私達少林寺拳法関係者に課せられた大きな課題である。