2014/08/29

英国少林寺拳法連盟40周年について思う (3)

過去における少林寺拳法の世界大会や講習会には、殆んど例外なくBSKFの拳士は参加している。1997年に少林寺拳法創始50周年記念大会が日本武道館で催された。その大会には100名を超える英国連盟拳士が訪日し、大会の記念Exhibitionでは100名の英国連盟拳士による団体演武が披露された。当初は時間的に制約があると難色を示していた本部も結果的に了解して、無事参加拳士が全員武道館の舞台に上がる事が出来た。

1999年英国連盟は25周年を迎え、その記念式典ではヨーロッパから数多くの拳士を迎えヨーロッパ大会を盛大に行った。当時の高村正彦外務大臣から大会プログラムに祝辞も頂き、同時に駐英日本国特命全権大使の林貞行大使に大会名誉会長をお引き受け頂いた事は、これまでの大会に無い素晴らしい大会となった。

2000年11月には日本大使館より、『日本と英国の相互理解並びに友好親善に寄与した』と言う大変光栄な評価を頂き、第1回在外公官庁表彰を頂く事となった。 この時は英国各地から幹部拳士が日本大使館にまで駆け付けてくれた事は、私のみならず英国連盟にとりこれまでの様々な貢献が認められたと言う事で、皆が喜びを分かち合った事が昨日の様に思い出される。

その後私は少林寺拳法連盟に公認デモティームの創設を提案し実現を見るに至った。その時に決まったデモティームのメンバー諸氏は、その後少林寺拳法を日本国内は元より世界各地において紹介する上で非常に大きな役割を担う事となり、少林寺拳法の普及や評価には今も多大な貢献をしている。

2001年世界大会がパリで行われた。世界中から集まった拳士達の前で公認デモティームが初めて正式なデモを行った。この年はメキシコでも日本武道の一つとしてデモに加わり大いに評価されたと報告を受けた。また同年イギリスにおける日本年(10年毎に相互に自国を1年間かけて紹介するイベント)での開会アピールがロンドンのハイドパークで催され、この時も少林寺の公認デモティームは人気を独占した。この時私やデモティームのメンバーは視察に来られた皇太子殿下に公使から紹介され、お言葉を掛けられたことは今も強く印象に残って居る。

2004年英国連盟は30周年を迎えた。この時も日本やヨーロッパの国々から多くの仲間が集まって一緒に祝ってくれた。特に日本からは私の地元愛知県から先輩、後輩の先生達が奥様方を伴い参加して頂いた。普段の少林寺拳法の大会では中々機会の無いご婦人同伴の大会でこれまで経験した事の無い素晴らしい記念大会となった。

2007年5月リンネ生誕300周年の式典で、スウェーデン並びにバルト3国を公式訪問された天皇皇后両陛下は同時に英国を訪問された。その時に日本大使館で歓迎のレセプションが催され、私も家内と共に両陛下のレセプションにお招きを頂いた。

2014/08/22

英国少林寺拳法連盟40周年について思う (2)

1974年の9月中頃、後で触れるBKCCから紹介された大学で少林寺拳法部を立ち上げた。 その時日本から先生はじめ10名の先輩や後輩の拳士が応援の為に駆け付けてくれた。大学での入門式では奉納演武から式典まで日本と同様に行う事が出来た。この時に駆け付けてくれた師匠や同門の拳士達の事は今でも鮮明に蘇ってくる。

同年、英国南部の都市ボーンマスで吉田拳士が少林寺の指導を始めたと連絡を受けた。 吉田拳士もスウェーデンを旅行中に、ボーンマスで拳法のクラブを立ち上げた留学生が帰国するに当たり、後を引きついでくれる人を探している事を知った。そのクラブを引き継ぐ事を期に少林寺拳法本部に正式加盟を申請したとの説明だった。その後彼とは協力して英国連盟を発足させることになり、我々は合同で合宿や大会を定期的に始める様になった。

その当時の我々は労働許可証(ビザ)を取得しておらず滞在にも限界があった。 そこで私は当時オリンピック種目以外の武道団体を統括していた空手団体、BKCC(British Karate Control Commission)に相談した。ウイリアム氏はBKCCのコミッショナーとして親切にアドバイスをしてくれた。

空手の統括団体が主催する審査委員会の前で私が少林寺拳法の技を披露し、その結果審査委員会から認められ1975年に労働許可証を取得する事が出来た。ビザの滞在期限で困っていた吉田拳士にもそれを伝え、彼も翌年の審査を受け認められた。1976年に吉田拳士にも労働許可証が下りた事で、我々二人は英国で正式に少林寺拳法の指導員として合法的な足場を得る事となったわけである。

残念ながら吉田拳士は79年ごろ帰国する事になり、その後の指導はボーンマスやその他の支部も私が担当する事となった。1982年には英国において日本以外で初めて本部から指導員が参加して国際講習会が催された。現在とは異なり少林寺拳法がヨーロッパでは未だ支部の数も少なく、その時参加した国はイギリスとフランスだけだったように記憶している。

その頃を境にWSKOもより積極的に海外での指導に係るようになった。同時に当時BSKAと呼んでいた我々の組織もBSKFと変更した。理由は国の組織は連盟と呼ばれるようになり、英国においても英国少林寺拳法協会(Association)と名乗っていたものを英国少林寺拳法連盟(Federation)と変えた訳である。

1980年代は少林寺拳法が世界に発展し始めた時期でもある。 開祖亡き後、当初は色々なところで組織の分裂がささやかれてはいたが、指導者の結束はより強くなった様に感じられた。 この頃を境として私の活動範囲も海外が増え始め、北はスカンジナビアのスウェーデンやフィンランドから、ヨーロッパで活動するほとんどの国へ出かける様になった。 86年に起きたエチオピアの食糧危機をきっかけとしてアフリカの国々とも連絡が取れるようになり、この頃からアフリカへも指導に出かける事になっていった。

日本とアフリカはヨーロッパの国ほどアフリカ諸国とのつながりは大きくは無い。それは過去にアフリカ植民地国家の宗主国がヨーロッパに多く、その様な関係からアフリカ諸国が独立を果たした現在でも、国としての係りは日本に比べれば非常に大きいと言わざるを得ない。86年に初めてアフリカ大陸の大地を踏んだことが切っ掛けとなり、その後94年にはアフリカでの少林寺拳法普及の為に本部から正式に資格を持った指導員が派遣される運びとなった。

おそらく私はWSKO指導員の中で最も多くアフリカ講習会に行った事になる。 経済的には厳しい環境に置かれたアフリカの拳士達であるが、誇り高く成長して行って欲しいと願っている。

2014/08/15

英国少林寺拳法連盟40周年について思う (1)

今年は私がこの地ロンドンに少林寺拳法を紹介して40年になる。一口に40周年とは言え長くも有り、又振り返れば短くも感じられる。同時に良く続けてこられたものだと自分でも思う。当たり前の事ではあるが、ここに至るまでの自分や周りには色々な出来事があった。 40周年を期にこれまでの経緯を振り返ってみる事にした。

今から50年程前、高校生だった時に少林寺拳法との出会いがあった。同級生が始めていた事がきっかけで、彼が見せてくれた1冊の本『秘伝少林寺拳法』が少林寺拳法に入門するきっかけだった。

その本を借りて一日で読み終えた、後にも先にもこれ程真剣に短時間で読み終えた本の記憶は他にない、かなりのインパクトが開祖の本にはあった事になる。この本がきっかけで少林寺拳法に入門した訳であるが、当時は入門に当たっては自分がやりたいから入門したいと言うだけでは許されず、誰かメンバー拳士の紹介が必要だった。

この様に入門一つをとっても現在の基準からすれば随分と厳しい規定があった。にもかかわらず自分と同時に入門式に臨んだ者は20名を超えていた。ひと月の入門者が20名を超えた事は度々記憶しているが今から思えば隔世の時代であったと言える。

当時はまだ名古屋に道院が2か所しかなかった事も大きな要因だったと思う。少林寺拳法が最初に拡大期を迎えた時期で、その後の発展には目を見張るものがあった。 多くの道場が次々に活動を始め、自分も何時か少林寺拳法を指導できるようになりたいと思うようになっていた。

その様な環境の中で学生時代の一時期、愛知県内のある道場を先生の代行として任され指導する経験を得た。 今にして思えば元気なだけが取柄で未熟な指導者だったと思う。しかしこの経験がやがて海外で少林寺拳法の指導者を夢見る大きなきっかけとなった事は事実である。

大学を卒業後3年程働いてはいたが少林寺拳法との繋がりは切れなかった。

1974年の1月、25歳の私はロンドンに向かって旅に出た。横浜から船で当時はソ連のナホトカに向かった、そこからモスクワまで汽車の旅である。ロンドンへ着くのに10日以上も掛かったが、当時の貧乏旅行者の多くは同じルートで多くの若者達がヨーロッパにやってきた。

私にとってロンドンは全くの未開の地であった。『少林寺拳法の指導者になる』と言っても全くあてがある訳では無い。言葉は全く通じなかったが、しばらくはこの地の事を知ろうと毎日歩き回っていた。

ある日、空手の道場に顔を出した時に少林寺拳法を教えている日本人が居ると耳にした。会って話を聞きたいと道場を尋ねたが残念ながら会う事は出来なかった。何度か訪ねたがすでに帰国したらしいとの事であった。おそらく短期の滞在者で学生だったのであろう、この様な拳士がロンドン以外にも居た事は後に分かった。