2010/01/20

何か変だなと一般国民が感じない今の日本での報道

このところ政界がまたまた政治資金やら、不正献金の問題で騒がしい。
以前から感じていた事ではあるが、日本の司法当局は、マスメディアに対して、どんな対応をしているのだろうと、不思議に感じた事が何度もある。
これは何も民放ばかりではなく、公共放送といわれるNHKまでもが良く使うフレーズがある。『関係者からの証言によれば』等と表現され、いかにも情報源が真実であるような言い方を良く見かける。

この“関係者”とはいった誰の事を言うのであろうか?
今回もその事が使われた背景は、事情聴取を受けていた国会議員が逮捕され、その事件について伝えるニュースでも出てきた。まさか逮捕された本人が直接メディアに話したとは考えられない。それ以外の関係者と言えば逮捕に踏み切った特捜部か、検察の誰かと言う事になる。少し慎重に考えればこの様な状態がおかしい事は直ぐ分かるのに、中々それ自体が問題として論じられた事を余り聞いた事がない。

何がおかしいのか?
本来、仮に容疑の掛かった人物を逮捕したとしても、その時点で容疑者が有罪と決まったわけではない事は明白である。 個人の人権にとっても容疑者の個人的情報は、裁判以外の場では保護されなければならない。そうであるにもかかわらず、関係者と呼ばれる人達から、その人物や関係部署の名前を出す事も無く、又真実かどうかも確認できた訳でもないのに、いかにもと言うような情報がぞろぞろと紹介される事に違和感を感じるのは、小生だけであろうか?
足利事件での冤罪が昨年あれほど脚光を浴びたのに、警察や検察ばかりでなく一方の責任を問われるべきマスメディアは、今回もその反省のかけらも見られない。客観的事実だけを伝えなければならないはずの、メディアが面白おかしくテレビのニュースから、ワイドショーまでくり返し放送し、又新聞、週刊誌は同じ情報のソースを何の検証もしないまま垂れ流す事に、一般の日本国民は何の不思議も感じなくなってしまったのであろうか。

大きな問題は裁判での結果が出る前に、多くの国民がメディアに洗脳されてしまい、その事により国論までが左右される事態が現実に出てきていることである。
ニュースや新聞での内閣や政府の支持率や、容疑を公表された政治家に対して使われる、『説明責任がなされていない』と言う言葉ほど、自分達の責任を放り出して都合の良い言い訳にしているとしか思えない。本来のメディアの誠実な立場から言えば、その情報の根拠こそ自ら説明しなければならないはずではないか。それをいかにも政治家や容疑者本人から説明されないからと言って、それを持って黒のレッテルを(イメージ的に)貼って、その事による国民の真実を知る権利どころか、見方を変えれば情報操作と言われても仕方が無いところまで来ているのではないか。

又単純に考えても、テレビ画面に映し出された時間内で、果たしてどの様に説明すれば国民は説明責任を受け入れるのであろうか?預金通帳を見せたり、関係するドキュメントをメディアの前で公表すれば理解されるのであろうか?おそらくどんな説明も何の助けにもならない事は明白である。なぜならばそれを伝えるメディアそのものが、すでに答え『有罪ありき』を導き出しているようにも見えてしまうからである。このメディアの姿勢こそ本来批判されなければならないはずであるのに、この様な論調は何所にも見られない。

国会での記者クラブが海外のメディアから批判される事は度々起きている。なぜならば記者クラブを構成しているメディアは、極論を言えば何の努力もしないで、政府や閣僚、官僚からの情報をいちはやく入手できるからである。これは言い換えれば、どこのメディアも特出は許されず、同じ情報源を、多少のフレーズを変えて大衆にばら撒いていることになる。本来であれば、多様な情報源からそれぞれの信頼にたる客観的な裏付けをとり、それを元にメディアで紹介するのが良質な情報活動であると思う。

世界の先進国と呼ばれる国の中で、マスメディアの一元的な法人が許されているのは日本だけではないか。日本国内のこの状態を海外から見れば、その異常さに気が付くと思う。テレビ放送をする会社が、新聞から雑誌まで、幅広く情報を流す(コントロールできる)事は欧米の社会では禁じられている。情報の均一化は国民の知る権利どころか、国民の思考方法まで左右させる事が出来る力を持っている事を知っているからだ。

マスメディアが導き出した結論、『有罪』が本当の結論では断じてない事は言うまでもないが、そこで導き出された洗脳(言葉は極端ではあるが)は、価値観が均一的(欧米諸国と比べ)な日本と云う国民体質を考えると恐ろしい事ではないだろうか。

『誰も戦争など肯定する国民は居ない』と言う事は簡単であるし、その事事態が間違っているとは思わない、しかし何度も言うように、特別な情報源を明かさないまま、垂れ流される一方的な情報を、何の疑いも無く受け入れる国民的な体質と、その事を良く知っている人達が一部に居る事も事実である。

開祖宗道臣の残した遺訓、『拳士一人ひとりが賢くなって、物事の真実を見抜ける力を持たなければならない』、と講習会で多くの指導者を前に話していた事がつい先日の様に思い出される。その言葉の意味するところが『眼光紙背に徹す』だろうと想像している。