2015/01/24

現状維持が快適か

昨年の40周年の大会以来ヨーロッパの国は元より、日本からも多くの方々から問い合わせを頂く様になった。また同時にこのブログにも沢山の書き込みを頂いたが、現状に対する不満は直接話を伺った指導者の方々にも共通して『組織の示す方向性』についてのものであった。 私の知り合いも昨年からの組織改革の名の下に道場を閉める結果となり、長年続けてきた努力の結果がこの様な結末となった事に大いなる不満を口にしていた。


少林寺拳法と言う武道団体が発展することが出来た大きな要素は、他ならぬ個々の指導者の努力の賜物である事は言うまでもない。その様な指導者は組織の発展の為に自己犠牲は元より、家族や友人にも協力(理解)を仰いだことであろう事は容易に想像できる。その様な努力が報われるどころか、1通の通達でこれまで心血を注いできた道場を閉めなければならない事態を簡単に納得できる訳もない。


今一つ私が不思議に感じる事は、上記の様な現状に対して非常に大きな不満を口にする指導者が数多いにも関わらず、なお組織に留まろうとする人達が多いという事実である。物事を簡単には割り切れない事は理解できるが、自身がそれ程までに不満を口にするのであれば何故変えようとしないのであろうか? 別の見方をすれば、何故それ程までに理不尽な扱いを受けても、組織に留まるのか?と言う疑問である。この様な不満を抱いた道院長では現組織に対する忠誠心が強いとは到底考えられない。何かにつけての不満は周りにも聞こえてくる。


それでも道院長と呼ばれる事にそれ程大きな魅力が有るのだろうか、私には理解できない。組織外の者が口を挟む事では無いかも知れないが、現状を知るにつけ益々理解不可能な状態と思える様になってきた。単純に組織の外(武道とは無関係の者)から見たとき、少林寺拳法の道院長が、それ程大きく評価をされているとは思えない。武道の世界で『先生、先生』と呼ばれる事が、単にその武道の先駆者とは見られても人格評価には繋がらない事を開祖は法話で述べられて居た事を思い出す。


現状に不満が有り、何とかそれを打破したいと願うのであれば、自ら行動を起こす以外に変える事など出来るはずもない。私が日本へ行った折、多くの指導者とお会いし話をする機会を得た。そこで得た印象は少林寺拳法と言う団体は過去のものとは様変わりしており、全く別の組織(団体)になったという事である。 名前こそ同じではあっても、過去の武道から得た名声とは裏腹に、現在はかけ離れた存在の団体になってしまったと言う印象だった。


その様な折、何人かの指導者から「自分達で出来る事を考えたい!」と相談を受けた。私に何が出来る訳でもないが、私達の経験が何か参考になるのであれば喜んで協力させて頂くと伝えた。自分達だけで色々考えて居ても、なかなか次の段階に進む事は難しい事も理解できる。その様な人達にはこの投稿欄にも述べた様に日本国内は元より、海外においては日本の優れた指導者が必要とされている事をお伝えした。 組織の一翼を担ってきた指導者の努力(武道としての技術の指導)を、単なるパフォーマンスとしか評価しない現組織では、多くの指導者の研鑚と努力は将来も陽の目を見る事は無い。


「自分に正直になって考える時に来ていませんか?」私はそんな質問をぶつけてみた。指導者と呼ばれる人達はパフォーマンスをする為に少林寺拳法を続けてきたのでしょうか。 自分に嘘をついて続けたとしても、同様な境遇の仲間に合えばついつい本音が出てしまいます。「そのような状態をこれからも続けて行けますか?」 少林寺拳法に対する情熱が「自身が入門した時と同じ、熱い思いが湧いてきていますか?」 私にはなかなか想像出来ません。拳士数が増えない最も大きな原因がそこにある様に思えてなりません。

2015/01/15

中々見えない自画像

世界は今『シャルリ』のオンパレードの様な感が有る。言うまでも無くテロリストによって襲撃されたシャルリ・エブドの被害者に対する支援の声である。世界中にニュースが配信される今日では、本物の銃撃シーンが人々に与える影響も計り知れない程大きい事は言うまでもない。

17人もの人が短時間に殺されてしまう現実を目の当りにした世界中の人々が受けた衝撃は、東日本大地震や原発事故にも相当するインパクトが有った。勿論自然災害とテロリストの事件は異なってはいるが、単純に人々が感じたショックの度合いからすれば共に大きな事件と言えるのではないだろうか。

事件の直後に世界中から50か国を超える首脳・閣僚がパリに集まり、370万人とも言われたデモの先頭に立って連帯を訴えた事がその衝撃の大きさを物語っている。同時にやり場のない怒りと、これからも身近で起きる同様なテロに対する恐怖感に連帯する事こそがテロに屈しないと言う、一般市民と世界のリーダー達に出来るせめてもの表現(デモンストレーション)だったのかも知れない。

テロとの戦いは今に始まった事では無い。大きな転換は2001年のニューヨーク、ワールド・トレード・センターの9・11(同時多発テロ)からである。それ以前にも日本においてオウム真理教が引き起こしたテロ(地下鉄サリン事件)があった。その後のロンドンでのG8サミット期間中の地下鉄やバスでのテロや、スペインでの列車内でのテロ事件等が直ぐに思い起こされる。ヨーロッパの国々に限った事ではなく、アジアでもインドネシアのジャカルタやバリでの事件、そして北アフリカ諸国でもテロの数が多い。

そのほとんどにイスラム教過激派勢力が絡んでいる。イスラム教は日本人には馴染みの薄い宗教ではあるが、過激派(原理主義派)にとっては欧米型社会のシステム其の物に反発しているグループが多く、何処の国であっても攻撃の対象となる。日本人がこれらのテロに巻き込まれた数は少ないが、2013年の1月にアルジェリアの天然ガスプラントで起きた事件は記憶に新しい。

何故イスラム原理主義はこれ程までにテロを起こすのか? だが先ず初めにイスラム教徒とイスラム原理主義者を区別して理解する必用が有る。イスラム教徒のすべてがテロ事件に絡んで居る訳では勿論無い! 原意主義と言われる宗教であればイスラムに限った事ではなく、キリスト教や仏教(オウム真理教)でも同様の事件が過去にも起きている事を考えれば、極端な教義の解釈はどの様な宗教でも原理主義になり得ると言う事を理解しないといけない様に思う。

確かに一神教の方がどちらかと言えば過激な行動に至りやすいと言う事が言えるのかもしれないが、ここで宗教の源流をたどって行くとキリスト教、イスラム教等の一神教はユダヤ教を源として居る事が分かって居る。 共に同じ源を共有しているにも関わらず一神教を貫く両派(キリスト教、イスラム教)は共にお互いを認めようとしない人達が多い事も事実である。

八百万(やおよろず)の神々を信じる日本人からすると理解できない事なのであろうと想像する。又それが神道と仏教の共存を可能にしている日本の大きな特徴なのかも知れない。世界から見たときその様な日本人は非常にまれな宗教観を持った国民だと思う。ほとんどの日本人の宗教観は、彼等一神教の人達から見れば無宗教者であると思う。第二次世界大戦の後に連合国から突き付けられた戦前の神道イズムの否定から、無宗教者が増えた事も一因かも知れない。

学校教育の場から宗教性が消され(宗教に対する中立性が求められ)、多くの場合で宗教そのものを学習する機会は少ない事も無宗教を助長している原因と考えられる。これとは逆にイスラム教の国では学校教育の現場でも当然の事ながら宗教教育は行われている。 これらの理解無くして単に自分達の価値観を一方的に押し付けても解決の糸口は中々見えてこないのではないだろうか。

フランス政府は今回のテロを受け、国会で首相が『フランスはイスラム国とテログループ(アルカイダ等)と戦争状態になった』と発言するに至った。  フランスは国旗の三色旗が示す様に『自由、平等、博愛』を国是として来た国である。その首相が戦争状態になった事を宣言した事は本当に深刻な状態になった事を意味している。 同時にこれらのテロはフランスに限った事ではなく世界中で何時でも起こり得る事を理解する必要があるのではないか。

今回の事件を受けて人々が繰り返す『自由』と言う言葉に、時々このままで良いのか? 『報道の自由が大切だ』と言う気持ちは理解できても、その自由な表現(風刺画)により、傷つく人達も居る事を理解した上での『自由』なのであろうか私には理解できない。

イスラム原理主義者のみならず、自分達が命よりも大切と信じる存在(モハメッド)を風刺画により貶める事も表現の自由であるとの主張が、一般のイスラム教徒から理解される事は難しいのではないか。 自分や家族が同様な辱めを受ける事を考えれば、ある程度彼等(ごく一般のイスラム教徒)の気持ちも理解できるのではないかと思うが、感情が激高した今の欧米の雰囲気では中々静まりそうもない。人の事はよく見えて批判できても自画像は中々見る事が難しいのかも知れない。