2016/02/04

スポーツと武道

今年もオリンピックの年がやってきた。早いもので前のロンドン・オリンピックからすでに4年も過ぎてしまったことになる。オリンピック・イヤーが来るといつも考えさせられることがある。我々が普段修練している少林寺拳法はスポーツか?と言う自問自答がそれである。

4年後の2020年の東京五輪では空手が競技として取り上げられる事が決まったとのニュースが伝えられて居たが、本来が武道として考えられている柔道や空手がオリンピックの種目に取り上げられると言う事を考えれば、世界の基準で言えば日本の武道もスポーツのカテゴリーに入ることは明確な事実であろう。 翻って私たち少林寺拳法を修練する拳士や指導者はその事をどの様に取らえているのであろうか。以前にもこの課題には触れたことがあったが、今一度拳士としての考えも整理して考えてみるのも無駄では無い様に思う。

以前私がこの件について色々な国で拳士の考えを聞いた結果、日本以外の国でも多くの割合で指導者はスポーツとしてとらえる事や、オリンピック競技の種目として考える事には否定的な考えの拳士が多かった事を紹介した。確かに開祖も生前オリンピック選手の勝利至上主義に対して、厳しい批判をされていた事を記憶している。 しかしその事実を知っている自分からしても開祖が全面的にオリンピックや武道を否定されていたとは単純には肯定できない様に思う。

私の解釈は往々にしてオリンピック選手が陥りやすい勝利至上主義、その為にはドーピングを始めとした不正や、仲間の選手すら敵と考えるような自己中心的な人格を如何に作らないかという、アンチテーゼではなかったのか? 勿論これこそが正解だというつもりはない。 もし開祖が武道やスポーツを全面的に否定されていたと捉えれば、何故少林寺拳法の様な武道を修行の手段とされたのか私には説明がつかない。

今一度開祖が残した言葉を振り返ってみたい『少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない』この言葉が独り歩きしていないのであろうか? 単なる武道やスポーツでは無いに込められた意味は、『少林寺拳法は一部の競技者の様な勝利至上主義的な考えは取らない、少林寺拳法には哲学があり自己の幸せと他人の幸せをも考えられる人格の育成に努める』というメッセージが込められた言葉ではなかったのであろうか。

『単なる武道やスポーツでは無い』この言葉を今一度吟味してみることもオリンピックの年に当たり無意味なことではないような気がする。 世界中の人々がオリンピックには少なからず興味を持ち、どこの国でも政府を挙げてオリンピック競技を推奨している事は紛れもない事実であろう。

オリンピックに限らず、ワールドカップや世界選手権で活躍した選手が帰国する時に空港で見られる、一般の市民の歓迎ぶりを考えてみれば、競技の種類を問わずスポーツの果たす役割には大きなものがあることが理解できる。 それでもその様な事実には目をつむり、競技スポーツの負の側面にのみスポットを当てて否定的に捉えているとすれば、拳士の認識には世界の一般的な人々の考え方とは大きな乖離(かいり)が有りはしないだろうか。

一般市民と相容れない価値観を持った団体に人々が集まるとは考えられない。 以前私はオリンピック憲章の事を紹介した。その時書いたことはオリンピック憲章で謳われている事は『オリンピックをして心身共にバランスの取れた人格を養成することにより世界の平和に貢献する』と書かれている。オリンピックの代わりに少林寺拳法を入れれば、開祖が説かれたリーダーの養成やそれによる理想境建設と殆ど同じではないのか。

より詳しくは重複するため2010年5月3日のブログを見て頂きたいと思う、それには今一つ別の例を挙げて開祖がオリンピックを敵視していなかった根拠もあげている。 私はオリンピック選手の繰り広げる卓越したスキルとスピリッツを純粋に楽しみたいと考えている。