2007/09/27

自己責任型社会

ロンドンに来たばかりの日本人が先ず驚く事は、歩行者のマナーの悪さではないか?歩行者用の信号機が赤であるにも拘らず車が近くまで来ていなければ堂々と横断する。小生も当初良いのかな?と思いつつ何時の間にやら他の人達と同じ様に渡っている。

これは警察官が近くに居ても全く同じである。それを見た警察官が注意をする事など見た事がない。この様な街は多分ヨーロッパでも少数派であろう。なぜならばスウェーデンやフィンランド辺りから来た人達にも初めは驚きのようである。何も外国人ばかりでは無く英国の地方都市から来たイギリス人やスコットランド人にもこの様な習慣は無いようだ。

ではパリやローマと言ったヨーロッパの他の大都市ではどうかと言えば、やっぱりロンドンと同じ様に歩行者は赤信号無視の人達が多い。 さすがに車は信号を無視する事は少ない。なぜなら信号機の近くにはカメラが据え付けられている場合があり信号無視の車が通るとピカーッと来るからだ。後で罰金を払わされることでもあり一応ルールは機能している。

ロンドンの拳士が日本に行って先ず感じることは、東京のような大都会でも歩行者が赤信号で皆行儀良く待っている事だ。当たり前の事だがロンドンの交通システムに慣れている彼らには逆に新鮮に映るのかもしれない。『先生日本人は行儀が良いね』と聞かれた時には何とも答えようが無かった。

この習慣を考えて見ると日本では法律を厳格に運用しようとする。市民の便宜性よりも法律が優先される事は当然な事としても警察官が規則通り歩行者にも車と同様の取締りの対象とする事も歩行者が信号機を守る一因ではないかと想像する。

今一つ社会の中での人々の法律や官憲に対する信頼も大きな違いと言えるのかもしれない。ヨーロッパ人の彼らにとって法律は最後の手段であってそれが個々のケースで市民を守ってくれるとは考えていない事だろう。

自分の身は自分で守る、つまり交通環境の中にあっても車や機械(信号機)を100%は信用しない(信用できる機械を作っていないとも言えるかもしれないが)。事実ロンドンを車で走っていると点灯していない信号機を時々見かける事がある。

彼らにとって信号機を信じて青信号で横断中に車にはねられる事も自己責任の範疇(自損という意味で、治療費や慰謝料は支払われるにしても)に入るわけで、そうであるなら『赤で横断しても責任は自分にあるのだから文句は無いだろう』式の言い分だと想像する。

翻って日本人のメンタリティーとしては、法律がある限り法(お上や法律)が市民を守ってくれる式の信頼型、悪く言えば社会依存型メンタリティと言えるのかもしれない。

現実問題としていくら法整備が整っていても最終的に身を守る(交通事故から)のは自分自身だという事は日本もヨーロッパも同じはずだが、お上や機械に対する信頼がヨーロッパでは今一つ低いことも自己責任型社会の原因として挙げられるのかもしれない。

交通システムでその他気付いた事は東京などの大きな交差点で時々見かける縦横同時に車が止まり、横断歩道が交差点の真中にX字に書かれており、歩行者がどの方向にも自由に渡れる交差点はヨーロッパでは見たことが無い。

それに歩行者、なかでも特に視覚不自由者の為に音楽やヒヨコの泣き声が流される交差点も見かけない。横断歩道にはこれも視覚不自由者の為に歩道の一部にパターンがブロックに入っている事も親切なシステムだと思う。自分が視覚不自由者ではない為イギリスでのシステムがどの様に作られているか分からないが、日本のこの様な装置は小生がイギリスのシステムが分からないのと同様に外国人の健常者にもなかなか分からないと思う。

自己責任型の特徴を一つの事故が起きたことを例に見るとかなり異なる結果になる。例えば歩行者が携帯電話などに夢中で赤信号に気付かず横断歩道に入り車と接触する事故が起きたとすると、日本のシステムであれば歩行者に非があるこの様な場合でも車の運転者は前方不注意と言うペナルティを少なからず問われ、歩行者が怪我をしたような場合には治療費を支払うばかりではなくお見舞いにも行く事になるのではないか?

しかし自己責任型社会においては歩行者が携帯電話をしながら信号無視という責任が問われる為、状況にもよるので一概には云えないが運転者に責任が及ぶ事は考えにくい。もしその事故で歩行者が軽い怪我で、車にダメージが生じたとすれば歩行者に修理の為の賠償責任が課せられる事も充分にありうると云う事である。

この様に考えるとお上が守ってくれる(依存型)社会にあっては法律も強い立場(この場合歩行者よりも車)の方により厳しい責任を要求する事になり、自己責任型社会においては車(運転者)も人も同じ立場におかれると言うわけである。

2007/09/22

ミュージシャンの素晴らしさ

世の中でミュージシャンと呼ばれる人達は数多い事と思うが、時々彼らを羨ましいなァと思うことがある。

それは音楽のジャンルを問わず、そのジャンルの好きな人々を魅了することが出来ると言う事ではないか。クラッシックが好きな人、ポップスのファン、演歌や歌謡曲の好きな人とそのジャンルは様々であるが、それぞれの音楽を愛する人達にそれぞれの分野で感動や勇気を与える事もミュージシャンには出来ると言うことだ。

音楽を聴き涙する人や、その音楽と接することによって生きる希望を見出す人が居ても何の不思議も無い。音楽や歌が人に与える力は我々が想像するよりもはるかに大きいと思う。

自分の場合はジャズが好きであるため何度も好きなミュージシャンのコンサートには足を運んだことがある。いくら好きなミュージシャンでもその日のコンディションが当日のプレーに大きく関わっている事を時々その日のコンサートで知らされることがある。

彼らもある意味アスリート達に近いのかも知れない。期待した音が出なかったり、今一つ乗りが悪かったりすることも時々経験した。 ジャズと言う音楽の持つ特徴かもしれないが、総じて大きなコンサートホールでのギグは今一つミュージシャンが乗れなかったり、観客とのコミュニケーションが上手くいかない事を目の当たりにしたことが何度かあった。

もちろんこの様な例ばかりではなく、大きなコンサートホール全体を巻き込んだ素晴らしい演奏を聞かせてくれるミュージシャンも幾度も経験しているので、やっぱりその人個人の問題なのか?得意、不得意があるのか?はたまたその日の体調や精神状態が影響しているのかは断言できない。

ミュージシャンのすごさはその本人が自覚しているかどうかは別に、かなり本能的なところで音楽に向き合っていると言うことではないか。言い換えるとミュージシャン本人の持つ文化的特長(民族的と言い換えても良い)が全面に出ている場合が良くある。

これはその文化を共有しないものにとっては少しも楽しくは無い。ジャズのプレーヤーが黒人でなくても良いが、マイルスやコルトレーンの演奏にはどこか音楽の中に彼らの血から出たのではないかと思わせるフレーズや表現があるように思う。

これはテクニック(演奏技術や音楽的教養)とは異なった部分での音の使い方であったり、白人のジャズ ミュージシャンが努力して出せる音ではないように感じるのだ。勿論マイルスやコルトレーンの演奏技術や音楽的教養は人一倍優れていることは誰しも認めるところだが。  

同じように演歌の好きな人にとっては日本や韓国に見られるコブシの利いた歌い方こそが、魅力の一つであろうがこれとてもそれ以外の文化を共有しない国の人達にとっては理解できない部分だと思う。

インド系の人達が聞く民族音楽も我々にはどれも同じに聞こえるし、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネそして悲哀を全面に出したポルトガルのファドも、寂の部分では言葉は分からずとも悲しさは充分に伝わってくる。しかしながらポルトガル人が感じる事の出来るファドの持つ音楽的な深さは残念ながら小生には理解できなかった。

マリアゴンザレスと言うファド名手(ポルトガルの美空ひばりとニックネームを付けた)のCDからは彼女の声の素晴らしさと歌の上手さは理解できても、本当の意味での感動は我々日本人にはなかなか難しいように感じられた。

別の言い方をすれば、美空ひばりの良さがヨーロッパやインド、アラブ、アフリカ等の国で理解されることは難しいだろう。

そんな音楽の世界でクラッシック音楽だけが洋の東西を問わず、ミュージシャンの国籍や文化的背景にも関係なく愛されている事は基礎としての音楽の持つ要素が世界的に統一されているからであろう。勿論ジャズの世界においても黒人ミュージシャンばかりが素晴らしいと言うことではない、白人のミュージシャンや優れた日本人のジャズマンも知っている。

どのジャンルの音楽についても言えることはクラッシック音楽で確立された基礎としての音楽的要素を充分に習得せずには一流と言われるミュージシャンにはなりえないと思う。

冒頭にも書いたがミュージシャンの素晴らしさ(羨ましさ)は、自分の好きな分野で人々を幸福にする出来ると言う事だ。そしてレコードやCD等の記録媒体により何十年でも多くの人々に感動を与え続けられることではないかと思う。

2007/09/19

常勝の日本がそれ程喜ばしいか?

現在少林寺拳法は世界で32ヶ国まで広まってはいるが柔道や空手などと比べるとまだまだ少ない数である。歴史的に世界へのデビューがこれらの日本武道よりも遅かった事も影響している。

これまでの少林寺拳法の国際大会では日本がほとんどの部門で優勝している。別に優勝することが悪いわけではない。インドネシアも時々良い結果を出してはいるが、優勝はそのほとんどが日本の拳士が独占していると言っても過言では無いだろう。

よく空手の国際試合等で日本人選手が外国の選手に負けると『空手よお前もか』みたいな見出しが新聞などに出る事がある。日本人の心情としては理解できないことも無いが、現実的に考えれば世界的に普及したスポーツであれば例えそのスポーツを創造した国であっても常勝できることは考えられない。

イギリスはフットボール、ラグビー、クリケット、ゴルフ、テニス等世界でメジャーなスポーツとして定着ているスポーツを生み出した国である。しかしその多くがほとんどの国際試合やワールド カップ等の大会においてイギリス人選手がいつも勝つと言う事は無い。

つまりフットボールを例にとっても世界中で最も広く愛されるスポーツであり、どこの国でも統括組織が整備され、優秀な選手は国境を超えてプレーをしている。4年に一度のワールド カップにおいてもイングランドは強豪国の一つではあるが、優勝したのは1966年の自国開催の1回だけである。

このことはフットボールと言うスポーツがもはやイギリスと言う発祥国のアドバンテージが通用しないほど世界中に広まっている事を指し示している。言い換えるならばいつも毎回同じ国しか優勝しないようなスポーツは、その発展段階がまだまだ世界規模では無いという証ではないだろうか。

柔道もオリンピックでは毎回全てのカテゴリーで日本人選手が金メダルと言う事は不可能に近い。なぜならばオリンピック ゲームはどこの国でも政府が振興に力を入れている。日本からも優秀な指導者を招き技術力アップに余念が無い。その様なスポーツこそ世界中で認められた、言い換えれば市民権を得たスポーツと言えるのではないか。

その意味においては日本が常勝の少林寺拳法は、現時点においては残念ながら真の意味で世界中で認知されたスポーツ(武道)とは言えないように思う。逆の意味において空手が世界大会で勝てなくなって来た事は、それだけ空手が世界中で普及している証でもあり日本の一般市民の心情は別にして、空手家としては喜ばしいことであるとも言える訳だ。

ここで言いたい事は『だから少林寺拳法もオリンピック ゲームになるように努力するべきだ』と言う様な短絡的なことではない。少林寺拳法がオリンピック競技を目指していないことは承知している。しかしオリンピックの普及力を利用せずに、どうやってに少林寺拳法を発展させてゆくのか?その発展はどの様に世界中で広まることが好ましいのか?等のストラテジー(戦略)が必要ではないか。

オリンピック スポーツの持つネガティブ ポイントを単に羅列する事は簡単な事である。しかしながら『オリンピック競技でないからその害を受けない』というのは無理があると思う。我々少林寺拳法の指導者はオリンピックから何を学び、少林寺拳法がその様にならない為にはどうすべきかを提示しなければなるまい。

卑しくも少林寺拳法は『理想境建設に邁進す』と言う崇高な理想を掲げる団体である。その目指すところがいくら崇高なものであっても賛同者(この場合拳士)の数が少なくては実現は難しい。

また『世界の平和と福祉に貢献』しようとする団体であれば、世界中に少林寺拳法を修練する拳士が必要になる。こんな状況を見るとき国際大会において日本が常勝と云う事は余り嬉しくない現実ではないか。

本当の意味で世界中のあらゆる国に少林寺拳法が普及してゆけば国際大会での日本の常勝は無くなると思う。しかしその時こそ我々が掲げる理想にはいくらかでも近くなったと言えるような気がする。

2007/09/15

運転免許証の話

英国と日本の自動車運転免許証には少々異なった事情がある。

1975年に日本から持ってきた国際免許証が切れたのを機に英国の運転免許証を取ることになった。当時は日本の運転免許証からの切り替えはできなかったので、新しく英国の免許を取ることが必要になったわけである。日本で運転免許を取得してから8年、その間日本でも渡英後もずっと運転をしていたし、日本と同じ左側通行なので特別難しくはないだろうと考えていた。

英国の自動車教習には日本のような自動車学校のようなものはない。いきなり路上で車の前後に「L」のプレートを付けて練習することになる。自分は運転そのものは問題無いだろうと思っていたのでそう言った路上での教習も受けなかった。

それよりも交通ルールを試験官から聞かれたときにどう答えるのかが心配だった。筆記試験などは無くドライビングの実技試験が終わると口頭での質問である。幸い当時は通訳者を入れることが許されていたので英語の出来る友人に頼んだのだが、友人が免許証を持っていれば役立つ事も考えられるが自分の場合そうではなかった。

試験当日は自分の車を持って行き、試験官が車に問題が無いか簡単にチェックした後、助手席に同乗して試験となる。通訳者は後ろの座席に座って試験官が言うことを受験者(この場合は小生)に伝える。試験が一通り終わって問題なく出来たのでルールの口頭での試験になった。

始めに道路標識の質問があった、何問か質問される中に十のマークが出てきたのでよく考える前に『病院』と答えてしまった。十字路のことだったが通訳に入った友人が答えた後にしまったと思ったが後の祭りだった。

そのほかにも日本と英国での実技試験で異なるルールがあった。日本で禁止されている"送りハンドル、たぐりハンドル"がイギリスは重要で日本のようなクロスさせるハンドリングはだめとの事であった。そんな事とは知らず無事問題も無く実技は合格だろうと思っていたらそれを指摘された。国によってルールも実技の評価も随分違うものだなと改めて考えさせられた。

2度目の挑戦では問題なくオーバー気味にハンドリングのアクションをして合格だったが、その時もらった免許証は現在でも同じものである。書き換えが70歳まで無いのだ!また当時の免許証には写真も無く住所と生年月日、免許証番号等が書かれているだけで、免許証を見ただけでは誰のものか判らない事にも驚きであった。

現在は日本の免許証を持っていれば申請すれば英国の免許証を発行してくれる。同時に日本と同じようにクレジットカード大で写真付の物に変わった。

そうなると70歳まで書き換えの無い免許証は可能なのだろうか?と思ってしまう。なぜかと言えば17歳で取った免許証の写真が50歳でも通用するとはとても想像できないからだ。

確認してみると免許自体は70歳まで有効だが、免許証は10年ごとに更新するらしい。更新は申請用紙に古い免許証と新しい写真を添えて提出するだけでよいらしい。日本で更新の講習を受けて、更新料をとられることを考えれば何と簡単なことか。

自分は英国の免許証を取得してから日本の免許証の更新をやめてしまった。
その代わり今では毎年どこの国でも運転が出来るように国際免許証を取るようにしている。

2007/09/11

人材育成には時間がかかる

大阪で開かれた世界陸上が終了した。日本人選手の成績が女子マラソンの土佐選手の3位を除いて中々思うような結果に結びつかず、当初期待された日本人アスリート達が予選から決勝に進めない事に、多くの日本人が歯痒い思いをしたかもしれない。

しかし考えてみればこれは順当な結果ではないだろうか。今回期待された多くの選手は確かに過去の海外における世界クラスの大会において良い成績を収めた実績もあるが、彼らや彼女らの過去における好成績は日本新記録を出して3位入賞や2位で銀メダルと言う結果がほとんどである。

確かにハンマー投げの室伏選手のように先のオリンピックで金メダルを取った選手も含まれては入るが、塚原、末続、高平、朝原という日本短距離界のスター選手達が日本新記録を出した400Mリレー決勝の結果が5位と言う事は何を物語っているのか。現時点における日本人選手の短距離における実力はこの辺りではないのか。

メディア等には日本での開催が選手にとってプレッシャーになり結果に結びつかなかったと言う論調もあったが自分は逆だと思う。

海外での大会に比べれば日本人選手は大きなアドバンテージを持っていたはずである。数多くの観客の応援は何のスポーツでも自身の持つ力のプラスには働いてもマイナスになるとは思われない。また体調管理においても海外の選手に比べれば食事も普段のものだし、気候や時差などによる変化も少ないはずである。この事は陸上競技短距離界においてまだまだ世界のトップ アスリート達と優勝を争うまでにはなっていないと考えられる。

水泳競技は早くから日本は比較的数多くの優れたスイマーを輩出してきた。オリンピックにおける金メダルの数も他競技に比べれば多い方であろう。もちろん日本のお家芸柔道などに比べれば少ないが、この事を考えると世界で戦えるアスリートの人材育成には時間が掛かると言う事ではないか。

そして今一つ見過ごされそうな要素に人種による適正性は無いのか?陸上競技の圧倒的分野で短距離から長距離までアフリカ系選手のしめる層の厚さである。少林寺拳法をロンドンで教えているからこそ感じる人種による肉体的特長と言うものは確かに存在する。

アフリカ系(黒人)選手は骨太で筋肉が非常に強い!これは陸上競技に限って言えば大きなアドバンテージである。アメリカも英国もそしてアフリカ系の国民が居る国の陸上競技の代表は間違いなく黒人中心である。つまりよほどの例外的なタレント性を持った人材が現れない限り白人や黄色人種がアフリカ系民族を陸上競技で打ち負かす事は非常に難しいと思う。

しかしながらその黒人の持つ身体的特徴は水泳には不向きのようだ。一頃は人種差別が理由で黒人が充分な練習が出来ず優れたスイマーが現れないと言われた事もあったが、どうもこれは陸上競技のアドバンテージが逆に働き、骨太で強靭な体(重さ)が水の中ではディスアドバンテージになっているのだと考えるようになった。この様な人種による特徴は確かに競技種目において色濃く現れる事はスポーツ競技の集大成であるオリンピックを見てみればよく理解できるのと思う。

話を戻して、ハードウエアーの世界では日本の工業製品は殆んどの分野において世界で最も競争力の強い製品を送り出す国である。明治以来産業革命で遅れを取った日本はヨーロッパの国々から新しい技術や人材教育法をどんどん入れて日本の競争力を付けてきた。

富国強兵もその一つでヨーロッパの国から学んだ大きな要素である。その結果明治から今日に至るまで140年以上を経て日本の工業製品に対する世界の人々からの認識には確固たる地位を築いたと言える。

自分は車が好きな為GPレースにも興味があり殆んどのレースを見ているが、日本の車メーカー ホンダが60年代から参戦して比較的早い80年代中期には圧倒的な強さを誇った時期がある。その後他社メーカーの参戦もあったが中々結果を出すまでには至らなかった。最近では世界のトップメーカーにまで成らんとするトヨタが参戦してはいるが結果は未だ出して居ない。

しかし、もの作りに対する日本人の実績には疑問を持たないからトヨタやホンダが良い成績を出すのも時間の問題であろう。

残念ながら日本人ドライバーは佐藤琢磨になって初めて世界の一流処と戦えるドライバーが出てきた、彼もおそらく日本の陸上競技短距離選手と同じ様な立場なのではないか?彼が今年のフェラーリやマクラーレンに乗っていればアロンソやハミルトン、ライコネンと言ったドライバー達と対等に戦えたであろうか、小生は可能だと信じる。F1の日本人ドライバーには過去に中島や鈴木、片山といったドライバー達が出ているがその世代のトップ ドライバーとの間には大きな差が存在した。

その点、車のF1と同じくレースだけの為に作られたオートバイのグランプリである。MotoGP(モーターサイクルのグランプリ)には比較的日本チームや選手が早くから参戦していると言う実績もあり、世界チャンピオンも250ccクラスで過去に輩出している。

近年のグランプリ500ccクラスにも玉田誠が参戦して、時にはワールドチャンピオンのバレンチーノ ロッシに勝つ事もある。その他のカテゴリーでも日本人選手の層は厚く時々優勝のポデュームに上がる選手を見ている。

逆にひところ日本のバイクメーカーの独壇場だったMotoGPの世界にこのところイタリアメーカーの台頭が著しい。 レースには車のフェラーリと同じくらいの実績を持つドゥカティ、そしてアプリリアと言った新参ティームが結果を出すようになってきた。

これも世界の巨大メーカー ホンダ、ヤマハ、スズキと言ったGP常連組に挑戦する姿は、かつてのホンダがマン島TTレースに挑んだ姿に重なる。英国のバイクメーカーBSEやトライアンフ、ノートンと言った名だたるメーカーを打ち負かしてしまった事が結果的には極東の小さなバイクメーカーが世界のホンダにのし上がるきっかけであったことは歴史が証明している。

ホンダの創始者である本田宗一郎氏が世界に挑戦し続けた事が結果として人材を作り、バイクメーカーとしての確固たる地位を築いた事は言うまでもない。いまやホンダと言うメーカーはバイクばかりではなく車メーカーとしても世界屈指の巨大製造者となった。

この様に観察してみると完成度の高い工業製品やそれを可能にする為の産業の育成、そしてそこから作られた優れたハードウエアを使いこなすGPレーサーやライダー、又優れたスポーツ競技者を輩出する為には多くの時間と情熱そして環境が大切な要素である事が理解できるのではあるまいか。

2007/09/03

スペック重視

自分は好きなものを買うときかなりの部分で直感的に決めることがある。昨年デジカメを買い換えた。それまで使っていた奴が古くなり機能的にも最新の物に比べて使い辛くなったからである。デジカメやパソコン等日進月歩の今日、昨日買った新型が数日で旧型と言う事も起こりうる。

デジカメなどは非常に数が多く出ているため選ぶのに大変である。そんな時にはスペシファケーション(通称スペック)と呼ばれるものを参考にする。スペックを参考にすれば比較が出来選ぶ場合の参考になりやすいからだ。

往々にして男の場合にはスペック派が多い。小生も好きなハイファイや車を比較する時などついついスペックを調べたりする事がある。しかし現実にそのアンプが良い音を出すのか、その車が期待通りの走行性能があるのかは実際に音を聞いたりハンドルを握り運転して見るまでは分からない。スペックの優れた機種がいつも必ず良いとは限らない事を何度か経験した。

車の場合には何を基準に選ぶかでその満足度も違ってくる。一口に走行性能と言ってもオフロードをラリーの様に走れる車か、またレーシング サーキットのようなところを超スピードで走るのか、または街の中や一般的な運転で心地よい乗り心地を大切にするかで全く異なった印象となるであろう。この様なことはなかなか数字で表されるスペックでは判断が難しい。

しかしながら男の場合往々にしてスペックに頼る事が多い。では女はスペックに頼らないのか?そんな事は無いと思うが男に比べたらより感覚的に選ぶ人の割合が多いのではないかと想像する。これは何も女性が数字に弱いと言う事ではない。男の場合に比べ勘が鋭く、直感的に自分の好きなものかどうかを判断する能力に優れているからではないか。それに比べると男の場合はやっぱり物事の判断をする場合数値に表れたスペックを頼りに物を見ていると思うのである。

日本人は世界でも割と数字信仰が高いと思う。確かに数字で表されると一目瞭然である。その数値にこだわる日本人の特性を上手く利用して居るのが日本のメーカーではないか。こと細かく数字を羅列して、はたしてこの数値が何を指し示すのか余り詳しく知らない人でも数値が比較できると、数値が高い方が良いのか、低い方が良いのか知ろうとする。何かの理由で高い方が良いと分かると他の要因は無視しても知っている数値は非常に大きな比較の原理として働く事になる。

オーディオの場合スピーカーの許容入力やアンプの出力、レコード プレーヤーのSN比、等などこれらのスペックはほとんどのメーカーのカタログにも出ている。それらの数値が良い値であってもイコール良い音が出ると言う保障ではない。ではあるがオーディオ ファイルの機器を判断する材料の大きな要素をこれらの数値が左右していることも事実である。

もしスペックの数値なんか売り上げに関係ないと言うのであればその様な数値を羅列することなどやめてしまえば良さそうなものだが、そんなに単純なものでは無さそうである。

車についてもこれらのスペックは重要であろう。最高出力や発進加速のタイム、最小回転半径からボディー サイズまで数字はありとあらゆる事まで出してある。では実際にその車を使っている人がそれらの数値(スペック)を意識して乗っているのであろうか?

おそらくNoだと思う。普段の車を運転する時にその様な数値などどうでも良い事ではないか。それよりもシートの座り心地が良いか、高速時の直進安定性が良いのか、ステアリングの反応、ブレーキの踏み具合等々、なかなか数値に表しにくい要素の方が日々の運転には気になる事ではないかと思う。これらの感覚に頼らなければならない部分での新型車の煮詰め方(開発)に未だ少し日本のメーカーとヨーロッパ メーカーとの差があるように思う。

経済性、故障率の低さ、部品品質の良さ等においては日本の自動車メーカーに勝るヨーロッパ メーカーは少ないと思う。しかしスペックに表れない感覚での車の価値で言うのであれば安い車種のシートでも日本メーカーでは真似の出来ない車造りのノウハウを持ったヨーロッパのメーカーは存在する。

こんな事を考える時、スピーカーから出る音や、ハンドルを握って運転する人がどう感じるのか等、数値で表せない事をスペックと言ういかにも良い(分かりやすい)判断材料であるように考え付いた日本のメーカーの広報は賢い人達だなと感心してしまう。