2007/09/22

ミュージシャンの素晴らしさ

世の中でミュージシャンと呼ばれる人達は数多い事と思うが、時々彼らを羨ましいなァと思うことがある。

それは音楽のジャンルを問わず、そのジャンルの好きな人々を魅了することが出来ると言う事ではないか。クラッシックが好きな人、ポップスのファン、演歌や歌謡曲の好きな人とそのジャンルは様々であるが、それぞれの音楽を愛する人達にそれぞれの分野で感動や勇気を与える事もミュージシャンには出来ると言うことだ。

音楽を聴き涙する人や、その音楽と接することによって生きる希望を見出す人が居ても何の不思議も無い。音楽や歌が人に与える力は我々が想像するよりもはるかに大きいと思う。

自分の場合はジャズが好きであるため何度も好きなミュージシャンのコンサートには足を運んだことがある。いくら好きなミュージシャンでもその日のコンディションが当日のプレーに大きく関わっている事を時々その日のコンサートで知らされることがある。

彼らもある意味アスリート達に近いのかも知れない。期待した音が出なかったり、今一つ乗りが悪かったりすることも時々経験した。 ジャズと言う音楽の持つ特徴かもしれないが、総じて大きなコンサートホールでのギグは今一つミュージシャンが乗れなかったり、観客とのコミュニケーションが上手くいかない事を目の当たりにしたことが何度かあった。

もちろんこの様な例ばかりではなく、大きなコンサートホール全体を巻き込んだ素晴らしい演奏を聞かせてくれるミュージシャンも幾度も経験しているので、やっぱりその人個人の問題なのか?得意、不得意があるのか?はたまたその日の体調や精神状態が影響しているのかは断言できない。

ミュージシャンのすごさはその本人が自覚しているかどうかは別に、かなり本能的なところで音楽に向き合っていると言うことではないか。言い換えるとミュージシャン本人の持つ文化的特長(民族的と言い換えても良い)が全面に出ている場合が良くある。

これはその文化を共有しないものにとっては少しも楽しくは無い。ジャズのプレーヤーが黒人でなくても良いが、マイルスやコルトレーンの演奏にはどこか音楽の中に彼らの血から出たのではないかと思わせるフレーズや表現があるように思う。

これはテクニック(演奏技術や音楽的教養)とは異なった部分での音の使い方であったり、白人のジャズ ミュージシャンが努力して出せる音ではないように感じるのだ。勿論マイルスやコルトレーンの演奏技術や音楽的教養は人一倍優れていることは誰しも認めるところだが。  

同じように演歌の好きな人にとっては日本や韓国に見られるコブシの利いた歌い方こそが、魅力の一つであろうがこれとてもそれ以外の文化を共有しない国の人達にとっては理解できない部分だと思う。

インド系の人達が聞く民族音楽も我々にはどれも同じに聞こえるし、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネそして悲哀を全面に出したポルトガルのファドも、寂の部分では言葉は分からずとも悲しさは充分に伝わってくる。しかしながらポルトガル人が感じる事の出来るファドの持つ音楽的な深さは残念ながら小生には理解できなかった。

マリアゴンザレスと言うファド名手(ポルトガルの美空ひばりとニックネームを付けた)のCDからは彼女の声の素晴らしさと歌の上手さは理解できても、本当の意味での感動は我々日本人にはなかなか難しいように感じられた。

別の言い方をすれば、美空ひばりの良さがヨーロッパやインド、アラブ、アフリカ等の国で理解されることは難しいだろう。

そんな音楽の世界でクラッシック音楽だけが洋の東西を問わず、ミュージシャンの国籍や文化的背景にも関係なく愛されている事は基礎としての音楽の持つ要素が世界的に統一されているからであろう。勿論ジャズの世界においても黒人ミュージシャンばかりが素晴らしいと言うことではない、白人のミュージシャンや優れた日本人のジャズマンも知っている。

どのジャンルの音楽についても言えることはクラッシック音楽で確立された基礎としての音楽的要素を充分に習得せずには一流と言われるミュージシャンにはなりえないと思う。

冒頭にも書いたがミュージシャンの素晴らしさ(羨ましさ)は、自分の好きな分野で人々を幸福にする出来ると言う事だ。そしてレコードやCD等の記録媒体により何十年でも多くの人々に感動を与え続けられることではないかと思う。

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