2016/08/25

応援団に正坐して礼をしたブラジルの柔道選手

リオデジャネイロ・オリンピックが終わった。ほとんど何処の国でも自国選手の活躍に最も関心が高い事は当然の現象ではあるが、その様な中で私が大いに感心させられた柔道選手がいた。残念ながら日本人の選手ではないが、開催国ブラジルのラファエラ・シルヴァと言う黒人女性の柔道選手がとった金メダルだった。

彼女はリオ郊外のスラム(貧民街)に生まれ育ったと紹介されていた。その様な環境の中で育った女性が、地元開催のオリンピックで金メダルに輝いた事はブラジルのみならず、柔道と言う文化を伝えた日本にとっても非常に素晴らしい出来事ではないだろうか。金メダルが確定した試合の後、脱力した様にゆっくり正座して応援者に礼をする(頭を下げる)姿は、欧米や地元のブラジルでは見られない文化である。

経済的にも貧しい環境では犯罪に走る若者も多いと聞く。社会格差と人種差別の困難を柔道で乗り越えたとすれば、ブラジルのみならず貧富の格差に苦しむ途上国の人々に希望を与える『努力すれば報われる』と言う、大きな貢献をした事になったのではないか。一方で五輪の輝かしい実績を持ちながら虚偽の事件を騙り、自国に戻った後も国内外から批判される選手も出た。経済的な富や名声も十分にありながら被害者を装い、ブラジル国民のみならず自国民のアメリカ国内からも糾弾されるに至った水泳の選手には同情の余地もない。

同じ金メダリストでありながらブラジルの柔道選手と真逆の結果を招いた選手が出た事は、ドーピング問題も含めて今後の五輪が解決しなければならない人間教育と言う重い課題であろう。オリンピックで金メダルを捕った選手にも称賛ばかりではなく、社会正義に反する行為には厳しい社会的制裁も当然の事ながら避ける事は出来ない。オリンピック選手である以前に一社会人としての規範が問われる事になる。

『平和な社会造りに貢献できる人材を輩出したい』とする団体は少林寺拳法ばかりではない。オリンピックの抱える否定的な側面にのみフォーカスを当てるのではなく、そこにこそ『人、人、人すべては人の質にある』と言う少林寺の掲げる哲学が生かせるのではないだろうか。オリンピック競技に批判ばかりで背を向けて居るだけでは何の進展もない。自分達が少林寺拳法と言う武道を通して描く未来の姿も、これを機会に立ち止まり今一度考えてみる事も無駄では無い様に思う。

何処の国でも自国の選手に声を枯らして声援を送る。金メダルを取った選手が見せる涙には国を背負って戦った者でなければ理解できない重さがある。私は日の丸をまとい喜びを爆発させる選手には思わず拍手を送ってしまう。アスリート達が見せる涙や、関係者に寄せる敬意の言葉にも心を揺さぶる力が有ると感じた。

今年のリオ五輪では日本人選手の活躍が数多く見られ嬉しかった。ロンドンでのテレビ放映では残念ながら、日本人選手の活躍が生中継では見られるチャンスは非常に少ない。どこの国でも自国選手の活躍が最も重要なニュースソースである事は洋の東西を問わない。そんな訳で翌日の日本から送られてくるTVニュースに毎日一喜一憂した2週間でもあった。

2020年に開催される東京オリンピックでは日本の得意な野球やソフトボールに加え、永年の念願だった空手も新しく種目に加えられることが決まった。勿論それらの代表選手達には世界中から声援が送られる事であろう。国を背負ったアスリート達の熱い戦いには、理屈を超え見るものを魅了する力がある。これからも日の丸を背負って戦う選手達を私は応援したいと思う。

2016/05/23

三菱自動車と東芝、組織の抱える悪しき文化

三菱自動車が起こした燃費偽装事件は会社の存続にまで係る様な大きな事件である。三菱自動車と言えば過去に2度もリコール隠しで非難を受け、当時も提携関係にあったダイムラー・クライスラーが提携を解消してしまった事は多くの人々の記憶にあるはずである。

しかるに今回も又同様な信頼を裏切るような事件を起こしてしまったことは、この会社の持つ企業文化と言われても仕方がない。事件が発覚してから三菱自動車の存続自体も危ぶまれ株価も暴落していた。

三菱自動車のみならず現在も経営再建中の東芝や、鴻海の傘下に入ったシャープも少なからず企業の持つ体質が影響していた事が共通の現況を招いたようにも思われる。

これらの世界に名の通った大企業でも、組織内の風通し(意見を言える体制)が良くない会社程、問題が起きた時の結果は悲惨である。創業者から引き継がれてきた企業文化であっても、会社が成長する段階で幾つも脱皮しなければならない事は数多くあると思う。第二次世界大戦以前から存在する東芝や三菱等と言う大企業であればその過程は学習していると思うのが普通ではないか。

しかしここで見落としてはいけない事がある様に感じる。これは日本社会が抱える一つの共通する問題点かも知れない。それは会社(組織)の上層部に対するものが言えない(言い辛い)社会構造かも知れない。勿論すべての会社がそうであると言っている訳ではない。ここでも言える事は組織の上に立つ人の質ではないだろうか。トップの考え方如何でその組織の風通しが良くも悪くもなってしまう。

三菱自動車の例からは、上からの命令には逆らえない体制や、無理な目標の達成には不正な方法にも目をつぶる。東芝の件も同様に企業経営者が自社の業績を良く見せたいと思う気持ちは、自身の評価とも相まって普通の心理だと思うが、それでも東芝の様な大企業であれば企業ガバナンスが働き、粉飾決算に至る前に何らかの社内メカニズムがそれらを防止出来てもよさそうなものである。

歴代社長3人が同様な手法で企業の業績を上方修正して、粉飾して居た事がニュースで世界中に配信され、株主の集団訴訟も動き出している様な報道もあった。言い換えると日本企業は世界で名の通った大企業でも、真っ当な企業ガバナンスが機能しない国なのではないか?と海外投資家の目に映っても不思議では無い。

もしそうであるとすればこれは東芝と言う一企業がこうむる評価ではなく、日本の企業全体にとって大きな信用の損失と言う事にもなる。そしてその結果として最初に影響(被害)を受けるのは、そこで働く末端の社員であることは言うまでもない。この例は三菱自動車や東芝に限った事ではなくすべての組織に言えるのではないか。上層部(企業経営者や組織のトップ)に組織の風通しを良くして、末端の社員からも重要な提案には耳を貸す度量が有れば、三菱自動車や東芝の様な結果は免れたであろうことは容易に想像できる。

少林寺拳法の指導者が幾度も耳にし、同時に拳士にも伝え自分達の教えの中核としてきた哲学がまさにこれである。『人、人、人すべては人の質にある』三菱自動車や東芝には世間の人々の目も厳しく注がれると思う。それによりそれらの企業が立ち直り再び信用を取り戻すことが出来るのかも知れない。もしそれでも同様な事件を繰り返すことになれば、大会社と言えども倒産は免れ得ないであろう。

企業には社会やステークホルダー(利害関係者)等の厳しい耳目が注がれる事になる。社外取締役や監査の導入も必然的に導入される事は珍しくない。それにより企業は立ち直り発展に繋げることも可能となる。言い替えれば何処かの組織の様な社会の目やステークホルダーが働かない組織であれば、内部(その組織に関わる)の人達以外にそれらを変える方法は無いであろう。『己こそ己のよるべ、己をおきて誰によるべぞ』今一度この言葉を噛み締めてみる事も無駄では無い様に思う。

2016/03/18

人類の発展(幸福追求)がダーマへの挑戦であってはならない理由

春先になりスギ花粉の飛び交う季節ともなると、マスク姿の人達が町に多く見られるのも日本の特徴であろう。

このところ中国の大都市においても公害が発生してマスクをする市民が多くなっているようではあるが、日本がこの様な公害問題を経験したのは1960年代から70年代における高度成長期であった。光化学スモッグや水俣病と言った現象は現在の中国と同様、世界に知られる公害であった事を記憶しておられる人も多いと思う。中国のPM2.5とスギ花粉では少々異なっているとは言え、双方共に人間が自分たちの利益の為に作り出した現象には違いない。

第二次世界大戦後、焼け野原となった日本各地で建築ラッシュが起きた。その当時は木造建築が中心であった事から、木の需要を見越してスギの苗木が全国いたる所で植樹される事となった。スギやヒノキは木造建築にとって使い勝手の良い便利な部材である事が主な理由であった。しかしながらその事がやがて一般市民に花粉症と言う新たな問題を引き起こす事になろうとは、当時予見出来なかった。高度成長を遂げた日本は木材等もより生産コストの安い海外に求める事になったが、残された国内のスギやヒノキが成長すると共に、人間にとっては有り難くは無い花粉をまき散らす現象が日本中で起きた。

言うまでもなく常緑樹のスギやヒノキは広葉樹とは異なり果物やナッツ類を実らせる事は無い。これらの人によって人工的に植えられた常緑樹により苦しんで居るのは人のみならず他の動物も同じであろう。ドングリやクルミと言った実をつける木がスギやヒノキに代えられた事により、それまで人間社会とは距離を置いた環境で、住み分けが出来ていた野生動物の熊やイノシシ、サルやシカまでが人里近くに餌を求め現れるようになった事は、彼らのせいばかりでは無いはずである。

人が花粉症で苦しむ事は自業自得で致し方が無いかもしれないが、自然環境の変化がもたらした人間以外の動物たちにしてみれば、いい迷惑に他ならない。

自然環境の破壊は、人も含めてこの世に生を受けた全ての生命体にとっての危機を意味して居るように思われる。人間だけの利益などと言う都合のよい論理が成り立つはずが無い。人も動物もウイルスさえも地球環境が生み出した生命体であれば、それぞれの種の絶滅はその生き物以外の生命体にとっても、同様な危機をはらんで居る様な気がしてならない。

その様なおりアメリカでは今年アーモンドの受粉を助けるミツバチが死んで問題となった。農薬散布が原因らしくアーモンドの木を守るはずの農薬が、受粉に必要なミツバチまで殺す結果となった事は皮肉と言わざるを得ない。ミツバチが死んで行く様なアーモンドの花を、仮に人工的に受粉させて実がなったとしても私は食べたいとは思わない。GMフードと言われる遺伝子操作により作り出される食材も、言ってみれば人類が自分達のみの利益追求の為に作り出した不自然な食べ物であるように感じられてならない。

我々はダーマと言う言葉を『宇宙の真理』とか『この世の全てを司る大霊力』と教わってきた。地球を含めた宇宙全体を動かす大自然の力をダーマと呼ぶのであれば、人類を含めた全ての生命体のバランスを伴わない科学技術や、人間の欲望に根差した他の生命体を無視した利益の追求には、人類が発展出来る道理が無い様に感じるが、拳士の解釈(自他共楽)はどうであろうか?

2016/02/04

スポーツと武道

今年もオリンピックの年がやってきた。早いもので前のロンドン・オリンピックからすでに4年も過ぎてしまったことになる。オリンピック・イヤーが来るといつも考えさせられることがある。我々が普段修練している少林寺拳法はスポーツか?と言う自問自答がそれである。

4年後の2020年の東京五輪では空手が競技として取り上げられる事が決まったとのニュースが伝えられて居たが、本来が武道として考えられている柔道や空手がオリンピックの種目に取り上げられると言う事を考えれば、世界の基準で言えば日本の武道もスポーツのカテゴリーに入ることは明確な事実であろう。 翻って私たち少林寺拳法を修練する拳士や指導者はその事をどの様に取らえているのであろうか。以前にもこの課題には触れたことがあったが、今一度拳士としての考えも整理して考えてみるのも無駄では無い様に思う。

以前私がこの件について色々な国で拳士の考えを聞いた結果、日本以外の国でも多くの割合で指導者はスポーツとしてとらえる事や、オリンピック競技の種目として考える事には否定的な考えの拳士が多かった事を紹介した。確かに開祖も生前オリンピック選手の勝利至上主義に対して、厳しい批判をされていた事を記憶している。 しかしその事実を知っている自分からしても開祖が全面的にオリンピックや武道を否定されていたとは単純には肯定できない様に思う。

私の解釈は往々にしてオリンピック選手が陥りやすい勝利至上主義、その為にはドーピングを始めとした不正や、仲間の選手すら敵と考えるような自己中心的な人格を如何に作らないかという、アンチテーゼではなかったのか? 勿論これこそが正解だというつもりはない。 もし開祖が武道やスポーツを全面的に否定されていたと捉えれば、何故少林寺拳法の様な武道を修行の手段とされたのか私には説明がつかない。

今一度開祖が残した言葉を振り返ってみたい『少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない』この言葉が独り歩きしていないのであろうか? 単なる武道やスポーツでは無いに込められた意味は、『少林寺拳法は一部の競技者の様な勝利至上主義的な考えは取らない、少林寺拳法には哲学があり自己の幸せと他人の幸せをも考えられる人格の育成に努める』というメッセージが込められた言葉ではなかったのであろうか。

『単なる武道やスポーツでは無い』この言葉を今一度吟味してみることもオリンピックの年に当たり無意味なことではないような気がする。 世界中の人々がオリンピックには少なからず興味を持ち、どこの国でも政府を挙げてオリンピック競技を推奨している事は紛れもない事実であろう。

オリンピックに限らず、ワールドカップや世界選手権で活躍した選手が帰国する時に空港で見られる、一般の市民の歓迎ぶりを考えてみれば、競技の種類を問わずスポーツの果たす役割には大きなものがあることが理解できる。 それでもその様な事実には目をつむり、競技スポーツの負の側面にのみスポットを当てて否定的に捉えているとすれば、拳士の認識には世界の一般的な人々の考え方とは大きな乖離(かいり)が有りはしないだろうか。

一般市民と相容れない価値観を持った団体に人々が集まるとは考えられない。 以前私はオリンピック憲章の事を紹介した。その時書いたことはオリンピック憲章で謳われている事は『オリンピックをして心身共にバランスの取れた人格を養成することにより世界の平和に貢献する』と書かれている。オリンピックの代わりに少林寺拳法を入れれば、開祖が説かれたリーダーの養成やそれによる理想境建設と殆ど同じではないのか。

より詳しくは重複するため2010年5月3日のブログを見て頂きたいと思う、それには今一つ別の例を挙げて開祖がオリンピックを敵視していなかった根拠もあげている。 私はオリンピック選手の繰り広げる卓越したスキルとスピリッツを純粋に楽しみたいと考えている。