2016/03/18

人類の発展(幸福追求)がダーマへの挑戦であってはならない理由

春先になりスギ花粉の飛び交う季節ともなると、マスク姿の人達が町に多く見られるのも日本の特徴であろう。

このところ中国の大都市においても公害が発生してマスクをする市民が多くなっているようではあるが、日本がこの様な公害問題を経験したのは1960年代から70年代における高度成長期であった。光化学スモッグや水俣病と言った現象は現在の中国と同様、世界に知られる公害であった事を記憶しておられる人も多いと思う。中国のPM2.5とスギ花粉では少々異なっているとは言え、双方共に人間が自分たちの利益の為に作り出した現象には違いない。

第二次世界大戦後、焼け野原となった日本各地で建築ラッシュが起きた。その当時は木造建築が中心であった事から、木の需要を見越してスギの苗木が全国いたる所で植樹される事となった。スギやヒノキは木造建築にとって使い勝手の良い便利な部材である事が主な理由であった。しかしながらその事がやがて一般市民に花粉症と言う新たな問題を引き起こす事になろうとは、当時予見出来なかった。高度成長を遂げた日本は木材等もより生産コストの安い海外に求める事になったが、残された国内のスギやヒノキが成長すると共に、人間にとっては有り難くは無い花粉をまき散らす現象が日本中で起きた。

言うまでもなく常緑樹のスギやヒノキは広葉樹とは異なり果物やナッツ類を実らせる事は無い。これらの人によって人工的に植えられた常緑樹により苦しんで居るのは人のみならず他の動物も同じであろう。ドングリやクルミと言った実をつける木がスギやヒノキに代えられた事により、それまで人間社会とは距離を置いた環境で、住み分けが出来ていた野生動物の熊やイノシシ、サルやシカまでが人里近くに餌を求め現れるようになった事は、彼らのせいばかりでは無いはずである。

人が花粉症で苦しむ事は自業自得で致し方が無いかもしれないが、自然環境の変化がもたらした人間以外の動物たちにしてみれば、いい迷惑に他ならない。

自然環境の破壊は、人も含めてこの世に生を受けた全ての生命体にとっての危機を意味して居るように思われる。人間だけの利益などと言う都合のよい論理が成り立つはずが無い。人も動物もウイルスさえも地球環境が生み出した生命体であれば、それぞれの種の絶滅はその生き物以外の生命体にとっても、同様な危機をはらんで居る様な気がしてならない。

その様なおりアメリカでは今年アーモンドの受粉を助けるミツバチが死んで問題となった。農薬散布が原因らしくアーモンドの木を守るはずの農薬が、受粉に必要なミツバチまで殺す結果となった事は皮肉と言わざるを得ない。ミツバチが死んで行く様なアーモンドの花を、仮に人工的に受粉させて実がなったとしても私は食べたいとは思わない。GMフードと言われる遺伝子操作により作り出される食材も、言ってみれば人類が自分達のみの利益追求の為に作り出した不自然な食べ物であるように感じられてならない。

我々はダーマと言う言葉を『宇宙の真理』とか『この世の全てを司る大霊力』と教わってきた。地球を含めた宇宙全体を動かす大自然の力をダーマと呼ぶのであれば、人類を含めた全ての生命体のバランスを伴わない科学技術や、人間の欲望に根差した他の生命体を無視した利益の追求には、人類が発展出来る道理が無い様に感じるが、拳士の解釈(自他共楽)はどうであろうか?

10 件のコメント:

  1. ゆとり拳士2016/03/26 20:29:00

    初めてこちらに書き込ませていただきます、ゆとり拳士と申します。
    少林寺拳法の話題以外だとあまりコメントがないのでチャンスだと思い書くことにしました。(コメントを読んでいくのは面白いのですが、若輩ですので他の先生方(と思われる)が書き込まれている中に混じるのは気が引けたのです・・・)

    自分なりに思うのですが、まず、自分の為に周りの環境を多少なりとも変化させるというのは動物でも当たり前の行動です。人間の場合はそれが極端に大きな影響を周りに与えるから非難されるのであって、目立たない変化であれば大半は見過ごされてきた、あるいは受け入れられてもう変化があったことを忘れられているだけだと思います。人間の手が入ってしまったことが自然でない変化だというのなら品種改良された動植物も自然のものではありませんから食べるのに適していない事になりますし、それによって出ていたかもしれない自分たちの気づかないような環境への影響は人間が気づかないから無視してよい物であったのでしょうか?

    先生の仰ることに通じることだと思うのですが、自分もバランスが大事だと思っています。ただ少し違うのは、破壊によってもたらされる変化を環境の、そしてその場に生きている人間の許容範囲内、受容範囲内に収めることを主眼に置いている点です。気温さえ何十年、何百年単位で変化し続けているのですから、ある程度の変化を受け入れることは人間にも自然にもそう不可能ではないと思います。行き過ぎた破壊や変化が自分達に跳ね返ってきている現状は、自分も自業自得だと思いますが、受け入れて適応するか新たに行動を起こして変化を最小限に収める努力をするしかないと思います。

    それと、目立った被害が出たからといって技術そのものを槍玉に挙げるのは間違っていると思います。
    人が技術を使うのですから、生み出された技術を非難するのではなくそれを使って取り返しのつかない結果を出してしまった人を責めるべきです。あくまで自分の個人的な意見ですが、技術を非難する人はその技術に対して無知であるが故に恐怖を感じるのだと思います。得体のしれない、何をしでかすかわからない妖怪のようなものだから非難されて当然だと。しかし所詮ただの技術ですからできること、できないことははっきりしていますし、生み出された経緯がどうであれそれがどう使われるかは人に委ねられています。元は軍事技術にも関わらず自分たちの平和な社会生活に使われている技術の例などいくらでもありますし、今は私利私欲で生み出された技術でも将来は違うかもしれません。

    思った事を書いたので中にはかなり失礼な表現になっている部分があると思いますが、ゆとり世代の一若者の無礼をお許し下さればと思います。

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  2. ゆとり拳士さん
    投稿有難うございました。
    現在出帳中で返信が難しい環境です、4月中旬に戻りましたら返信しますのでしばらくお待ちください。
    skmizuno

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  3. ゆとり拳士さん 返信が遅れてしまい恐縮です。 どの様な意見であれ関心を持って頂けたことをうれしく思います。

    >自分の為に周りの環境を多少なりとも変化させるというのは動物でも当たり前の行動です。

    ご指摘通り動物に限らず環境変化に順応できない生物は生き残れない事は当然ですね、であればこそ我々人類が出来る最低限のモラルも必要ではないかとの思いから投げかけたのが今回の題材でした。

    >人間の手が入ってしまったことが自然でない変化だというのなら品種改良された動植物も自然のものではありませんから食べるのに適していない事になりますし、それによって出ていたかもしれない自分たちの気づかないような環境への影響は人間が気づかないから無視してよい物であったのでしょうか?

    品種改良された動植物が人類にもたらした恩恵を私も十分に認識しているつもりです。私は品種改良と遺伝子操作を少し分けて考えています。現在EU域内ではアメリカで開発されたGM(Genome modification)フードは輸入できません。これには輸入を禁止する科学的根拠が無いと主張する科学者も居ますが、輸入反対者は「GMフードが時間的に十分な検証がされていない!」と主張しています、私の推測ですが多分に政治的判断(EU域内の農業保護)が優先されたのが真実ではないかと思います。日本に輸入されるアメリカ産の小麦やトウモロコシ、大豆にGMが明記されているかどうかは分かりませんが、せめて選択可能な表記は望みたいものです。

    >破壊によってもたらされる変化を環境の、そしてその場に生きている人間の許容範囲内、受容範囲内に収めることを主眼に置いている点です。気温さえ何十年、何百年単位で変化し続けているのですから、ある程度の変化を受け入れることは人間にも自然にもそう不可能ではないと思います。

    環境変化によってもたらされる地球上の生命体の消滅が、人類以外であれば許容範囲内との見解でしょうか。私は人類も含めた生命体の環境保全が、ひいては人類にも恩恵を及ぼす様に思えてなりません。私は科学者では有りませんので感覚でしか表現できませんが、地球上にある微生物やウイルスの中にも人類を救う可能性のある生命体が存在しているように思うからです。

    >目立った被害が出たからといって技術そのものを槍玉に挙げるのは間違っていると思います。人が技術を使うのですから、生み出された技術を非難するのではなくそれを使って取り返しのつかない結果を出してしまった人を責めるべきです

    人が生み出した技術を非難しても意味が無いことはご指摘の通りだと思います、あくまでもそれを使うのは人ですから。その場合においても被害者や消滅しなければならなかった人類以外の生命体にも、何らかの保全する技術を望みたいものです。願わくば可能な限りの人智を集め、人類を含めたより多くの生命体が共存できる地球の未来であって欲しいと願うものです。

    >生み出された経緯がどうであれそれがどう使われるかは人に委ねられています。元は軍事技術にも関わらず自分たちの平和な社会生活に使われている技術の例などいくらでもありますし、今は私利私欲で生み出された技術でも将来は違うかもしれません。

    まったく異議はありません、将来的に問題が発見された技術においてもそれらを補う技術を人類は見つけてくれると信じるからです。

    >目立った被害が出たからといって技術そのものを槍玉に挙げるのは間違っていると思います。

    ただ原子力技術を例に挙げれば、人類が制御可能な技術を持った後で原発を使うのであれば、チェルノーブルや福島の悲劇は避けられた様な気がします。現在の段階では暴走する原子力技術を制御できる技術力は未だ無い様に感じます。

    >技術を非難する人はその技術に対して無知であるが故に恐怖を感じるのだと思います。

    私もその種の人間かもしれません、技術の恩恵が人々の役に立っている事は誰も否定できません。であればこそ新たな技術の開発にはより多くの検証やモラルの徹底こそが、新たな被害を生じさせない為にも大切だと思います。人類の英知が問われているのではないでしょうか。
    率直な意見を有難うございました。

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  4. ゆとり拳士2016/04/30 7:31:00

    返信ありがとうございます。
    先週返信したのですが、何故か消えてしまったようです。
    バックアップも取っていなかったので文章丸ごと消えてしまったのが残念です。
    最近は忙しくて時間があまり取れそうにないので返信がまた遅くなるかもしれません。申し訳ありません。

    まず、GMフードに関して。検証に時間を掛けること、選択可能な表示は賛成します。人体そのものについても完全にわかっているわけではありませんし、産地ですら表示義務がありますから。品種改良も遺伝子は変わっているのでそう違いはないと思います。愛玩動物の品種改良で遺伝子の変化に関して批判がありましたが、そういった批判は少ないのに直接口に入れるものになるとやはり多くの人が注目しているので、許容範囲で区切るのはあながち間違っていない気がします。

    そして先生の返信の中で”環境変化によってもたらされる地球上の生命体の消滅が、人類以外であれば許容範囲内との見解でしょうか”とありましたが、前提が違うので誤解です。
    自分が前提としているのは、生命の大きな枠組みで言えば人類も許容範囲に入ることと、その人類の環境保護は人類の生活環境を維持する為のもの以外の何物でもないということです。
    人類が生きるために必要な環境を守るための技術や保全であり、望ましくない変化(耐性菌や害獣の進化)は拒絶するし、都合がよくコントロール可能(のように見える)なものを残そうとしているのが今の環境保護の考えに思えます。人類にとって望ましくない環境の変化(汚染や温暖化や寒冷化による気候変動など)に適応した動物は人類が住みよい場所を拡大していけば消える運命ですが、果たして彼らは本当に消していいものであったのでしょうか?
    人類がいなくとも生命は終わりませんし、次の何らかの世代が地球に溢れるでしょう。しかし、人類を長く残そうとするが故に人類が生きる為の環境保護や新しい技術が必要になるのだと思います。

    原子力技術に関して、自分はどちらも人災だと思ってます。チェルノブイリは言うに及ばず、福島は津波の記録があるのにそれらの経験のない国の仕様で原子炉を建設した故に、地震直後は止まった原発が津波で浸水し、事故対応のお粗末さも併せて水素爆発まで起こってしまったそうです。やはり技術は技術、人は人です。

    他の部分には大幅同意します。技術には検証も、それを実際に用いる場合にはモラルの徹底も必要だと思います。

    率直な表現が自分でも多いと思っていたのでこんなに丁寧に返信してもらって恐縮です。ありがとうございました。

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  5. ゆとり拳士さん 引き続いての投稿有難うございます。
    私も時々返信が遅れる事が有りますが、それぞれの都合を優先することは仕方がないと思います。

    >愛玩動物の品種改良で遺伝子の変化に関して批判がありましたが、そういった批判は少ないのに直接口に入れるものになるとやはり多くの人が注目しているので、許容範囲で区切るのはあながち間違っていない気がします

    許容範囲で区切ることは一概に否定できないと思います。それぞれの許容範囲は各人異なりますが、その人なりの価値観の違いもありますから。

    >人類が生きるために必要な環境を守るための技術や保全であり、望ましくない変化(耐性菌や害獣の進化)は拒絶するし、都合がよくコントロール可能(のように見える)なものを残そうとしているのが今の環境保護の考えに思えます。

    私も人類が自分達の生存の為に特定の生命体を排除することを否定しているわけではありません。当然ながら自分達(人間)の生命を優先に考える事は当たり前だと思うからです。

    >人類を長く残そうとするが故に人類が生きる為の環境保護や新しい技術が必要になるのだと思います。

    これも同感です。『人類を長く残そう』と言うよりは人類が生き延びる為にも、それに反する様な技術や生命体まで保護しなければならないとは思いません。

    >原子力技術に関して、自分はどちらも人災だと思ってます。チェルノブイリは言うに及ばず、福島は津波の記録があるのにそれらの経験のない国の仕様で原子炉を建設した故に、地震直後は止まった原発が津波で浸水し、事故対応のお粗末さも併せて水素爆発まで起こってしまったそうです。やはり技術は技術、人は人です。

    この部分に関しては私と少し解釈が異なると思います。前にも書いたと思いますが、人類が制御可能な技術を持った後であれば、私も原子力技術を活用する事(放射線治療等)には異論がありません。しかしながら先の原発事故を経験した後で、人災だけで説明する事には抵抗感が有ります。「人災だった」と言うのであれば、その人災を引き起こした人(責任者)は責任を問われなければなりません。現在も終息していないチェルノーブルや福島の原発が置かれている実態は、現時点においても人類が暴走した核燃料を制御するだけの能力を持って居ないと言う事の証しではありませんか?又仮に人災であったとしても、最終的な責任体系が明確に示されていない原発の再稼働を多くの国民が素直に納得出来ないのは当然な様に感じます。もし又同様な事故が起きた時には誰も責任を負わない(問われない)、原発再稼働を許可した原子力規制委員会のトップや,政治的な判断を下した責任者(総理大臣)も福島の二の舞になる事は容易に想像できます。

    最後の部分はゆとり拳士さんと解釈が異なった為、少し説明が長くなってしまいました。又異論が有りましたら遠慮なく投稿してください。

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  6. ゆとり拳士2016/05/25 18:13:00

    返信ありがとうございます。
    また意見が異なる部分があるのでまた書こうと思います。
    こちらの返信が遅くなってしまい申し訳ありません。先生の返信を読んで自分の考えをまとめるのに時間がかかってしまいましたのと、なかなか書く時間が取れませんでした。


    自分はやはり許容範囲で区切るのは間違っていないと思います。人間に対する害があるか、そうでないかが今目に見える形で現れないと対処しないのが人間だと思うからです。もし遺伝子改良したペットと触れ合うことで人間に何らかの目に見えない形の害が及ぼされていた場合、それが見えないうちは人は何もしません。何かするのは影響が何らかの形で多くの人の目に見えた時だけです。ただの例ですが、将来そういうことが起こらないとも限りません。

    そして、先生は『これも同感です。『人類を長く残そう』と言うよりは人類が生き延びる為にも、それに反する様な技術や生命体まで保護しなければならないとは思いません。』と書かれましたが、それを判断するのを現在の科学や技術で判断して良いものであろうかとも思っています。今現在害だからと絶滅させた結果将来予想外の所に効果が出てきてしまうことも考えられますし、今の技術のどこを発展させた先が将来生きるのに欠かせない技術に繋がっていくのかわかりませんから。

    自分が思うのは、環境の変化(地球の気温変化など人為的なものを除く)適応できない種はいくら人間が保護しようが滅んでしまうので、そこに適応した生態系に人間も新たに適応していくことが重要ではないかということです。もちろん人為的な環境変化の場合はある程度人間が譲歩し、環境保護に努めなければならないのを前提とした上の話ですが。人間は多くの種を絶滅させてきましたが、だからと言って有史以来全ての種の絶滅の原因になったかというとそうではないと思います。適応できなくて消えてしまいそうな種をそのままに留めるように人為的に手を加えるのは不自然だと思いますし。

    最後に原発に関しては、責任者の責任を問われなければならない、今後同じことが起きた場合に責任体系が明確にされていないまま再稼働するのは納得できないということに全くその通りだと思います。
    責任者は責任を取るのが仕事と聞きますが実際のところはどうなのでしょう。
    しかし、自分は何度も言いますが技術は技術、人は人で分けたいと思います。制御可能と仰いますが、完全に制御可能な技術しか人間が使えないのだとしたら人は火すら使えないと思います。今回の場合正しい設置と正しい対処をすれば起こらなかった災害を現実のものとしてしまったのはそれらを決めた人間の意志によるものです。技術に責任を転嫁して人が責任を回避していいはずはないと思います。

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  7. 引き続いての投稿有難うございます。                     
    カウンターを頂けると嬉しいですね、たとえ多少の意見の違いがあったとしても。 そのうえで私も思うところを述べたいと思います。

    >自分はやはり許容範囲で区切るのは間違っていないと思います

    私も許容範囲で区切ることには何ら異論は有りません。

    >もし遺伝子改良したペットと触れ合うことで人間に何らかの目に見えない形の害が及ぼされていた場合、それが見えないうちは人は何もしません。何かするのは影響が何らかの形で多くの人の目に見えた時だけです。ただの例ですが、将来そういうことが起こらないとも限りません。

    これも許容範囲と言う区切り方を例に挙げれば、害の種類にもよりますが人が生きる為には他の生命体の命を奪ってしまう事も場合によっては許容範囲に含まれると思います。極端な例で恐縮ですが野生動物が人に害を及ぼしたり、襲い掛かる様な場合にはそれらを排除する(命を奪う)事も仕方のない範囲だと思います。

    >それを判断するのを現在の科学や技術で判断して良いものであろうかとも思っています。今現在害だからと絶滅させた結果将来予想外の所に効果が出てきてしまうことも考えられますし、今の技術のどこを発展させた先が将来生きるのに欠かせない技術に繋がっていくのかわかりませんから。

    この問題は過去にも将来にも出てくる課題ではありませんか。現在の基準で判断する以外に方法は無いのではありませんか? たとえそれが将来取り返しのつかないミスに気づく事があったとしても。まさにこれこそ貴方が述べられている次の文面からも言えるのではないでしょうか。

    >人間は多くの種を絶滅させてきましたが、だからと言って有史以来全ての種の絶滅の原因になったかというとそうではないと思います。適応できなくて消えてしまいそうな種をそのままに留めるように人為的に手を加えるのは不自然だと思いますし。
    >そこに適応した生態系に人間も新たに適応していくことが重要ではないかということです

    人類を含めてあらゆる生き物は環境に適応できなくなった時点で滅びますから。

    >もちろん人為的な環境変化の場合はある程度人間が譲歩し、環境保護に努めなければならないのを前提とした上の話ですが。

    人間が譲歩し環境保護に努めると言うよりは、環境保護(保全)をしなければ人類も他の生命体もより住み辛い世界になる事だけは確かだと思います。

    >責任者は責任を取るのが仕事と聞きますが実際のところはどうなのでしょう。しかし、自分は何度も言いますが技術は技術、人は人で分けたいと思います

    私も技術と人の責任を混同しているわけでは有りません。先の原発事故(福島)では誰か責任を取りましたか?原因究明されてすべてが明らかになった分けでも無いと思います。現状で再稼働して、もし又同様な取り返しの付かない様な事故が起きた時には誰が責任を取るのでしょう。責任者が明確にされていない状況では多くの人達が心配(反対)する心境は当たり前だと感じます。

    >制御可能と仰いますが、完全に制御可能な技術しか人間が使えないのだとしたら人は火すら使えないと思います。今回の場合正しい設置と正しい対処をすれば起こらなかった災害を現実のものとしてしまったのはそれらを決めた人間の意志によるものです。技術に責任を転嫁して人が責任を回避していいはずはないと思います。

    火は制御可能です。原子力技術も前にも書きましたがすべてを否定している訳では有りません。現時点で人の責任において制御可能な技術であれば放射線治療などは利用する事になんの問題も無いと思うからです。でも原発はそれ程単純では無いはずです。現に福島の原発は事故から4年以上経過しても、メルトダウンした核燃料(デブリでしたか?)の最終処理段階は見えていませんね。火に関しては現在の技術云々を言うまでもなく制御可能だと思うからです。

    又異論が有れば遠慮なく書き込んでください。

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  8. ダーマとは拳法に潜む物理的法則、身体的法則、心理的法則のことと思います。それらを理解し、技の中に見出し、それらに沿うようにすれば上手くできる。
    単なる科学的法則なのでそれに感動することももちろんありました。でも宗教的礼拝の対象では全くないです。

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  9. Yanagita さん こちらにも投稿いただき有難うございます。

    ダーマと言う言葉自体仏教の教えの中で出てきた(使われた)解釈だと理解しています。
    日本の少林寺拳法の指導者が現在どの様に説明されているのか知りませんが、私が開祖宗道臣から聞いたダーマの解釈は『宇宙のすべてをつかさどる大霊力(人智を超越した力、宇宙の真理、法則』と言う事だと思っています。
    その言葉から考えるならば、拳法の技術のみに限った事案(法則)では無く、自然界や宇宙の中にある地球と言う惑星の存在を含めた法則だと理解しています。

    ですから貴方の言われる化学的法則が間違っているとは思いませんが、『宗教的礼拝の対象では全くない』とは思いません、『儀式の対象である』とは私も肯定しませんが。それらの存在(宇宙に存在する一定の法則、力)が有る事を理解した人が、それを宗教的にとらえる事も否定するものでは無いと思います。

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  10. > ダーマと言う言葉自体仏教の教えの中で出てきた(使われた)解釈だと理解しています。

    そうです。仏典の中に出てきます。
    仏典以外でも当時のバラモン教や土着宗教の中でも使われていたと考えられます。そのため宗教的で大げさな意味で使われているでしょう。
    初期の仏教はそれまでの呪術や洗脳による身分制度から抜け出し、ほとんどの呪術を禁止して、宗教色に染まった世間から距離を置き、科学的な思考を取り戻すものであったようです。つまり宗教ではなく、科学だったわけです。惑星間に働いている物理的な力が拳の中にもあります。僕が拳法についてダーマを定義するなら先の様になります。普段はダーマなんて言葉その物を使いません。物理法則とか心理的反応とか同調とか科学的な言葉を使います。

    現在は大乗仏教が主流です。仏教僧の間では神も仏も信じず、ひたすら科学的に思考する”悟り”に達し、民主的に合議するという民主主義的態度で良いものなのですが、僧ではない民はでっちあげた教義で信仰させてパトロンにし、お金を巻き上げて生活の糧とするというのが実態です。これはお坊さんに尋ねてみるとわかります。

    そういうわけで僕の定義では宗教的にとらえないわけです。

    Mizunoさま、反論して頂いてとても嬉しかったです。ご自分の考えを述べられる少林寺拳法の指導者には僕は出会ったことがありません。

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