2014/08/22

英国少林寺拳法連盟40周年について思う (2)

1974年の9月中頃、後で触れるBKCCから紹介された大学で少林寺拳法部を立ち上げた。 その時日本から先生はじめ10名の先輩や後輩の拳士が応援の為に駆け付けてくれた。大学での入門式では奉納演武から式典まで日本と同様に行う事が出来た。この時に駆け付けてくれた師匠や同門の拳士達の事は今でも鮮明に蘇ってくる。

同年、英国南部の都市ボーンマスで吉田拳士が少林寺の指導を始めたと連絡を受けた。 吉田拳士もスウェーデンを旅行中に、ボーンマスで拳法のクラブを立ち上げた留学生が帰国するに当たり、後を引きついでくれる人を探している事を知った。そのクラブを引き継ぐ事を期に少林寺拳法本部に正式加盟を申請したとの説明だった。その後彼とは協力して英国連盟を発足させることになり、我々は合同で合宿や大会を定期的に始める様になった。

その当時の我々は労働許可証(ビザ)を取得しておらず滞在にも限界があった。 そこで私は当時オリンピック種目以外の武道団体を統括していた空手団体、BKCC(British Karate Control Commission)に相談した。ウイリアム氏はBKCCのコミッショナーとして親切にアドバイスをしてくれた。

空手の統括団体が主催する審査委員会の前で私が少林寺拳法の技を披露し、その結果審査委員会から認められ1975年に労働許可証を取得する事が出来た。ビザの滞在期限で困っていた吉田拳士にもそれを伝え、彼も翌年の審査を受け認められた。1976年に吉田拳士にも労働許可証が下りた事で、我々二人は英国で正式に少林寺拳法の指導員として合法的な足場を得る事となったわけである。

残念ながら吉田拳士は79年ごろ帰国する事になり、その後の指導はボーンマスやその他の支部も私が担当する事となった。1982年には英国において日本以外で初めて本部から指導員が参加して国際講習会が催された。現在とは異なり少林寺拳法がヨーロッパでは未だ支部の数も少なく、その時参加した国はイギリスとフランスだけだったように記憶している。

その頃を境にWSKOもより積極的に海外での指導に係るようになった。同時に当時BSKAと呼んでいた我々の組織もBSKFと変更した。理由は国の組織は連盟と呼ばれるようになり、英国においても英国少林寺拳法協会(Association)と名乗っていたものを英国少林寺拳法連盟(Federation)と変えた訳である。

1980年代は少林寺拳法が世界に発展し始めた時期でもある。 開祖亡き後、当初は色々なところで組織の分裂がささやかれてはいたが、指導者の結束はより強くなった様に感じられた。 この頃を境として私の活動範囲も海外が増え始め、北はスカンジナビアのスウェーデンやフィンランドから、ヨーロッパで活動するほとんどの国へ出かける様になった。 86年に起きたエチオピアの食糧危機をきっかけとしてアフリカの国々とも連絡が取れるようになり、この頃からアフリカへも指導に出かける事になっていった。

日本とアフリカはヨーロッパの国ほどアフリカ諸国とのつながりは大きくは無い。それは過去にアフリカ植民地国家の宗主国がヨーロッパに多く、その様な関係からアフリカ諸国が独立を果たした現在でも、国としての係りは日本に比べれば非常に大きいと言わざるを得ない。86年に初めてアフリカ大陸の大地を踏んだことが切っ掛けとなり、その後94年にはアフリカでの少林寺拳法普及の為に本部から正式に資格を持った指導員が派遣される運びとなった。

おそらく私はWSKO指導員の中で最も多くアフリカ講習会に行った事になる。 経済的には厳しい環境に置かれたアフリカの拳士達であるが、誇り高く成長して行って欲しいと願っている。

2 件のコメント:

  1. 水野さん40周年おめでとうごがいます。これからも、元気で活躍願ってます。吉田さんの事を見て懐しく思いました。スカイプで呼んでください。 ohtori4より

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  2. Ohtori4さん 投稿有難うございました。

    第2回コンベンションをボーンマスでやりましたね。その時Ohtori4さんが乱捕りの審判をしてくれた事記憶しています。イタリアから鈴木先生が来て一緒にボーンマスへ行きました、懐かしい時代でした。我々も若く元気一杯の時代でしたね。Ohtori4さんも残念ながら帰国され、吉田さんも3年後に帰国してしまいました。

    その後は色々大変でしたが、どうにかこれまで続けて来られた事は立ち上げ時の師匠はじめ高木君たちの応援や、鈴木先生そしてOhtori4さんの支援が有ったからこそ厳しい事も乗り越えられたと思います。有難うございました、又コメントして下さい。

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