2008/02/22

演武と乱捕り

武道としての少林寺拳法を表現するのに一番手っ取り早くて説得力のある方法は演武かもしれない。一般に武道と何の接点も無い人には言葉で少林寺拳法を説明する事には限界があるが、演武はその少林寺拳法が持つ技術的特徴を短時間で表現出来る大きな手段なのではあるまいか。当然のことながら、見る人を魅了する迫力ある演武を身に着けるにはかなりの時間と努力が必要な事は言うまでも無い。

近年道場における練習で乱捕りのしめる時間は随分少なくなった。自分が入門した1960年代前半はまだまだ少林寺拳法の道場そのものが少ない時代であった。道場は柔道場と剣道場が半々の場所を大人ばかり(年少部が無かった)100名以上もの拳士が所狭しと練習しているような状態だった。

当時、高校生だった自分は土曜日の学校が終わると随分早くから道場にでかけた。同じ学年の高校生達が道場の始まる1時間以上も前に集まってくる。練習等とは名ばかりの軽いストレッチングの後は、いきなり乱捕りだ!剣道の胴のようなプロテクターを身にまとい12オンスのグローブを着けて先輩たちの見よう見まねで殴り合いである。脛や腕のあざ等は日常茶飯事、上達はともかく、しっかり汗をかいて『練習した!』という充実感だけは毎回あった。

少林寺拳法が開祖によって四国に産声を上げてからまだ20年にもならない時代である。毎月の入門者が10名以上の時代、自分が入門した月には20名以上の新人が同時に入門式を受けた記憶がある。その入門式の最後に披露されるのが演武だった。

2組くらいの演武が新入門者の前で行われるのだが、この頃の道場は入門者も先輩達の拳士も一体になって楽しんで居た。拳法を始めて何年かは先輩拳士の演武に圧倒され、自分もいつかはあんな演武が出来るようになりたいと興奮して見ていた事を思い出す。

大学を卒業して何年か経った70年代中頃に乱捕りにおける死亡事故が起きた。大学拳法部の新人戦だったと聞く。

それ以外にも乱捕りの練習中におきた死亡事故は数件ある。まことに残念と言わなければならない事故であったが、それ以後乱捕りに対する判断が大きく二分されたように思う。先ず開祖自らが大学拳法部の乱捕りの大会を見直すよう指導された。

当時の学生大会は『選手権大会』となっており、今から考えれば勝利至上主義であったことは否めない。そしてその後の経緯はご存知かと思われるが、学生大会における自由乱捕りの試合が無くなった事である。確かに死亡事故はなくさなければいけないが、乱捕り練習まで無くしてしまった道院や大学拳法部は、今少し冷静に少林寺拳法の武としての要諦を見直してみる必要があるのではないか?

開祖が示唆されたのは乱捕りの有り方であり、『勝利至上主義を見直してより良い乱捕り修練のあり方を考えろ!』と言う事では無かったのかと自分は解釈している。もし本当に『乱捕りなんぞしなくても良い』と考えている指導者が居たとしたら残念である。少林寺拳法の魅力は確かに演武にも有るが、その大きな目的でもある自己に対する自信をどの様に習得するか?ではないだろうか。

自己確立とは恐れ多いが、少なくとも武道を志す拳士が己の身を守る最低限(最小限)の心構えが無くて本当に胸を張って『自己確立の手段です』と言えるであろうか。もしそんなもの(乱捕り)しなくても『自信は持てる』と言うのであれば、その方法を示すのがリーダーであろう。

口先ばかりの説教では本当に人心はつかめない!と言う事を体験されたからこそ開祖は少林寺拳法を創始されたのではないのか。その中でも重要な修練体系の一つである乱捕り練習を否定する指導者があるとすれば、ではどの様な方法が乱捕りなどしなくても同様な効果が得られるのか、が示されなくては少林寺拳法を学ぶ拳士にとっては切実な課題である。

数年前に日本から来ていた大学の女子留学生拳士がいた。二段で高校生の時には単演で優勝経験もあるらしい。演武を見ると確かに上手い!腰の落とし方、天性の柔軟性のある蹴り等非凡な面も確かに持っていたが、あるとき『君は空手の二段くらいの女子と乱捕りしたら勝つ自信は有るか?』と質問したら、彼女の答えは『怖くて駄目です』と言うものだった。

確かに大人気ない質問かもしれないが、正直に『怖い』と言うことの出来る素直さは見方を変えれば対等に勝負できる可能性を秘めているとも言えるわけだ。もし空手家の実力(と言っても一人ひとり皆違うが)を見切る能力が無ければ別の答えが返ってきた可能性がある。そのとき感じた事は、この女子学生は鍛えればかなり強くなれる!と瞬時に分かった。残念ながら1年余りで帰国してしまったが日本で上手に育て上げられる指導者に出会って欲しいと切に願ったものである。

勿論どの様な練習でも強制してやらせるべきではない。当然それらの練習が苦手な人も居るであろう。又翌日の仕事に差し支えるような練習も一般の社会人には長続きしないであろう。要はバランスの問題ではないか、危険が伴う練習であれば如何にそのリスクを減らすか。又楽しく練習出来る方法を提示してやれるかが指導者としての責任で有るように思う。

本部の苦労も分かるが『運用法』等と名前を変えても乱捕りの方法論に過ぎない。今一つ盛り上がりに欠ける運用法は本当に説得力を持った練習方法なのだろうか?それにしては多くの拳士が共鳴して喜んで練習しているところまでは至って居ないのが現状である。そんな目先の呼び方を変える方法ではなく、本質的な乱捕り修練法に対する熱いディベートが必要な時期に来ていると思う。

2 件のコメント:

  1. 初めまして、今大学に通っていて少林寺拳法部に入っています。

    自分の通っている大学の拳法部は、大会の練習のない日は週に3回程乱捕りを行っている部活です。

    たまに落ちる人も居るくらいの乱捕りを行っています。

    自分は、この記事を見てとても共感しました。
    つい最近全日本学生大会があり、そこで運用法もあり見ていたら軽く胴に蹴りが当たっただけで「待て」をかける審判の先生がいました。
    自分がこんなこと言うのはおこがましいかも知れませんが、そんなんで有効を取られた拳士がかわいそうです。

    演武でも突き蹴りのスピードだけ速く当身もきちんと当てていない演武の得点が高く、スピードは落ちるけれどもきちんと狙うところを狙って行っている演武は得点が低かったりします。
    それが今の拳法なのでしょうか?

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  2. 乱捕りに対する投稿を有難う御座いました。
    これを書いたのは随分前ですから、その時はこの様な課題には今の拳士には興味が無いのかな?と想像しておりました。
    少林寺拳法に限った事ではありませんが、武道の修練形態と言えども時代のニーズによって変化して行くものだと思います。
    加納治五郎師範によって創設された柔道は、形が主な修練体系であったそれまでの柔術を、乱捕りを中心としたものに変えた事により世界中で受け入れられ、オリンピックの正式種目にまで発展しました。
    時代に取り残された形となった柔術は、古武道として現代でも残っては居ますがマイナーな武道になってしまいました。
    開祖が少林寺拳法を創始された時代には戦後の混乱期と言う事もあり、その時代が要請した(自分の身を守る)と言う事も重要な課題でしたので、乱捕り練習は必要不可欠な時代であったとも言えるでしょう。
    時代が変わり現代の平和な?(凶悪な犯罪は増えているようにも感じますが)時代には、乱捕り練習の様な激しい練習を好まない人達が増えた事も事実だと思います。
    この様な時代だからこそ貴方の様な若い拳士の生の声が必要だと感じます。
    勿論乱捕りだけが少林寺拳法の良さでは有りません、しかしそれを言い始めると限がありませんので、この際分けて討論することも必要だと思います。
    乱捕りの練習は必要か?不必要か? 必要だとすればどの様な修練体系が良いか? 不必要であるならば何か他にそれに変わる良い修練体系はあるのか。
    この様な根源的なディベイト(討論)が組織的に必要な時期ではないでしょうか。

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