2007/06/02

アフリカ地区講習会

80年代中頃からアフリカ地区との関わりを持つことになってから20年以上が過ぎた。

この間北アフリカへのホリデーは別として、東、南アフリカの国等6度ほど講習会で訪れた。そのどれもが自分が住む英国や日本とかなり異なり、経済状況が主な理由で環境、衛生、インフラ等どれもが先進国と比較すれば大きく立ち遅れている。

そんな中、東アフリカに位置するケニアはいち早く60年代に英国から独立を勝ち取り、アフリカの優等生と呼ばれた。事実自分が初めてこの国を訪れた1986年当時は首都のナイロビが非常に近代的で、街の風景などはヨーロッパ風のデザインで『綺麗な街だな』と言うのが率直な印象だった。残念ながらその後隣国のソマリアが政情不安定となった事から、難民やテロリスト、そして武器(拳銃等)が数多く持ち込まれた結果、随分荒れた街になってしまった。

最初の講習会で訪れた92年は日本政府のODAで建設されたジョモケニアッタ農工大学で講習会を行った。 その時に一人の16歳くらいの少年がタンザニアから参加した。タンザニアでの少林寺拳法は熊坂さんと言う拳士がJICA(青年海外協力隊)で電話の技術者として日本から派遣されている時、ダルエスサラーム大学で教え始めた事がきっかけであった。

その熊坂拳士とは86年に首都のダルエスサラームで会っており、その時参加した少年は彼の教え子であった。その時はケニアだけが講習会の対象であった為タンザニアからの参加者は想定していなかった。そんな時に母親と共にダルエスサラームからケニアのナイロビまで講習会に参加してきた事は驚きであった。詳しく状況を聞くにつけ少年と母親はバスでなんと30時間以上を掛けてやってきたと言う事だった。タンザニアでの練習内容や状況を詳しく聞きWSKO本部への報告とした。

ジョモ ケニアッタとはケニア独立の父といわれる人で、独立運動の指導者であり、又同時に初代の大統領でもあった。この名前は他にも国の英雄として色々なところに使われている。その名前を付けた農工大学には日本から教授陣が送り込まれていた。そんな事情もあり拳法部の部長には日本人の教授が引き受けてくれていた。キャンパスはナイロビから車で1時間ほど掛かる場所にあり、そこの講堂を借りて講習会を行った。キャンパス内の木々には綺麗な鳥が沢山巣を作っており如何にもアフリカの大学と言う雰囲気である。

ナイロビもそうだが海抜が1500メートルを越える地域にある大学での講習会は気候的に暑苦しいと言う訳ではなかった。その代わり高地トレーニングと同じで普段平地で練習している我々にとっては、同じ動きでもかなり苦しくなる時がある。

エチオピアのアジスアババに86年に初めて行った時、初日に軽い高山病にかかり頭痛がした事を経験しているので驚きはしなかったが、普段なんでも無い動作の動き(剛法の連反攻等)が少し続けてやると途端に息苦しく感じた。

この様な環境で普段走ったりしている彼等がマラソン等で良い成績を収める事は充分理解できる。少林寺拳法の演武でもこの様な場所でやると、平地でやるのとは異なりかなりしんどい思いをする事になる。

92年以後のアフリカ講習会では同時にタンザニアでも催される事になった。ケニアでもそうであったようにタンザニアでの少林寺拳法の発祥も、タンザニアで当時唯一の大学であったダルエスサラーム大学キャンパス内で始まった。

94年に担当指導員を伴いダルエスサラームの国際空港に降り立った我々は、WSKO事務局から連絡が行っているにも関わらず誰も出迎えに来て居なかった。後で分かった事は事務局から送られた手紙は古い住所に送られていて責任者には届いていなかった。当時はEメールも無く事務局と確認する事も簡単には出来ない時代であった。

86年に泊まったホテルを懸命に記憶をたどり、何とかチェックインを済ませた我々一行は、担当指導員の植林拳士が渡航前に得ていたわずかな情報、『毎日大学で4時から練習している』と言うたった一言の情報を頼りに大学へ向かった。小生もやっと連れてきた担当指導員を紹介も出来ないようでは面目も無かった。

そんな切羽詰まった状況で大学に着き、学生や職員に聞いて回ったが誰も少林寺拳法など知らなかった。何人も聞いた中で『キャンパス内のプール脇で空手の練習をしている』と言う情報を得た。何と場所は同じ大学のキャンパスとは言え山を一つ越えた反対側と言うではないか。タクシーを待たせておいて良かった。

早速言われた場所まで行きプールの周りを探したが誰も空手などやっていない。しばらく探し回っていた我々に時々気合のような音が耳に入ってきた。これは何だろうと顔を見合わせながら音の聞える方角に進んでゆくと、建物の入り口に突き当たった。音(気合のような)が聞えるようで聞えない。

ドアを開けると中に15人くらいの人達がこちらを一斉に見つめた。次の瞬間合掌礼が返ってきた。拳士だ!誰も道着を着ているものは居なかったが合掌礼とは紛れも無く少林寺拳士の証である。嬉しかった。そして小生の場合やっと責任の一端が少し下りた気がした。

それから練習が始まったが、しばらくして彼等の動きや顔がよく見えなくなってきた。普通の服であったし、電気も付いていない、『これでは練習できない』と言うと、『2階に電気が点く部屋が有る』と言うのでその部屋に移動した。そこも広い部屋ではあったが裸電球が一つである。

そんな中彼等の練習に合計4、5時間も付き合わされることになった。しかしそんな事より彼等に会えた事を喜びたかった、又次々に質問を浴びせ練習を続けようとする姿にも新鮮な感動があった。後で食事を共にしながら、これまでの彼等の歴史を聞いて驚く事ばかりであった。

86年に熊坂拳士が任務を終えて日本に帰国した後、残された拳士達はそれから毎日大学で少林寺拳法を練習していたと言う。『誰か教えてくれる人はいたか』と聞いてみたが誰もいないようだった。只、日本企業で働く人で学生達の相談に乗ってくれる人が居ると言うので、その人に会いに出かけた。日本のゼネコン鴻池組の現地法人タンザニア鴻池の宮崎所長がその人であった。

詳しく事情を聞くに付け『世界は狭いなァ』と思わずにはいられない気持ちになった。何と宮崎さんは学生時代日本大学の少林寺拳法部で活躍し、新井財団法人会長の後輩に当る人であった。そんな事から学生達の相談にのったりしていたと言う訳である。

我々が最も驚いた事はWSKO本部に登録もされていない状態の彼等が、86年以降94年までどうして少林寺拳法を指導者も居ない状態で続けられたかと言う事である。勿論昇級、昇段の試験なども無く、しかも毎日、2時間以上も練習していたと言う事事態に衝撃を受けた。少し考えて見れば想像が付くと思う、昇級試験も大会も無く、何を目標として練習していたのであろう。

後に会った日本大使館の人達からも、初めに少林寺拳法を指導した熊坂拳士の事、そしてその教えに従い毎日練習を続ける彼等に大変好意的であったことが印象に残っている。おそらく鴻池の宮崎所長も自身が少林寺拳法から遠ざかっていたにもかかわらず、彼等の相談にのって頂いた事が少林寺拳法を続けさせた原動力であったように思える。

この体験をWSKO本部に報告すると日本の学生連盟が中心になって、不要になった道着を集めタンザニアやケニアに送ってくれた。しかしながらこの様な古着の寄付であっても現地では輸入税が掛かってしまう、その事を知った宮崎所長から会社の輸送品として受け取って頂き、輸入税が掛からずに道着を拳士達に引き渡す事ができた。

その後の講習会では見違えるように全員が道着を着て練習している姿を見て感慨深く感じた。彼等の道着には襟の後ろに日本人の名前が書かれている事も、これらの道着が日本人拳士の好意によって送られた物である事を如実に物語っている。

『人、人、人全ては人の質にある』 開祖宗道臣の残したこの言葉を何度も繰り返し、少林寺拳法を続けてきた。拳法を修練する拳士が何処の国の人間であろうとも、この言葉の持つ普遍的真理は変わらないと思う。『人の心の持ち方(考え方)を変えよう!自分も大切にするが、他人の事も半分は考えよう。そしてその事が社会を良くしてゆく。』この言葉を死語にしては少林寺拳法を続ける意味が無いと思う。


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