2007/06/12

海外生活でのストレス

今年でロンドンに住んでから33年目である。その間に沢山の日本人拳士も支部での練習に参加している。沢山といっても33年間に渡っての数であるから、一つの道場に5人も10人も居る訳ではない。

海外で生活すると言う事は色々な面で日本国内とは異なったストレスに出会う。最近では少なくなったが自分が渡英した当時は随分と人種差別もひどかった。現在ほど人種差別に対する教育が徹底されておらず、多かれ少なかれ有色人種に対する偏見や差別は存在した。

たまたま自分の場合は少林寺拳法と言う武道をやっていた事もあり暴力等の直接的な被害は無かったが、逆に加害者にならないように注意しなければ大変な事になる。相手が悪くてもこちらが訴えられてしまえば著しく不利になるのは当然である。

ごく初期の日本人の弟子で非常に誠実でまじめな拳士が居た。
道場には常に一番に来て他の拳士が着替える頃には床を掃いたり、作務も積極的にする模範的な拳士であった。日本から働く為の労働許可証も渡英前に取得し、働いていたホテルではその勤務態度が認められ、早い段階でセクションのマネージャーに抜擢されるような拳士であった。

あるとき日本に行った時にお土産として友人から貰った酒をいつも助けてくれている助教の日本人拳士2人を招いて一緒に飲んだ。

宴もそろそろ終る頃、そのホテル マネージャーの拳士がいつには無く真剣な表情で『先生、ロンドンの生活は辛い事が多いですね』と涙を流しながら言うのである。『どうしたの?』と小生ともう一人の助教の拳士が聞くと、仕事場でのトラブルで、彼の指示に従わない黒人の部下がいて、責任感の強い彼はその黒人の仕事も自分がやってしまっていると言うことであった。

その時は、おそらく日本人同士で呑んだ為に気が緩み愚痴が出たのだろうと深刻には受け止めなかった。

『では又今度の練習で』といって見送った後で、「彼はまじめだからなァ。いい加減な野郎とは人間関係がなかなかうまくやって行けないのだろうな。」と想像するくらいであった。

次の練習日にその拳士は連絡も無く参加しなかった。
急に仕事が入ったのかなとその時は気にも留めなかったが、その次の練習にも来なかったので、少し気になりもう一人の助教の日本人拳士に彼の仕事場まで訪ねてもらった。

それから1週間経って、助教の拳士から驚くべき事実が報告された。

我々が一緒に酒を飲んだ数日後『辛い』と涙を流した拳士は裸に近い状態で地下鉄のヴィクトリア駅に現れ、地下鉄のホームから飛び降りたそうである。

幸い電車が来る前に誰かに助け出され、命に別状は無かったが、その事を不振に思った警察が調べて行くうちに精神的な病では無いかと言うことになり、現在はロンドン郊外の精神病院に収容されていると言う情報であった。 

いったい彼に何があったのだろうと心配したが、ともあれ実情を調べなければならない。助教の拳士と共に収容先の病院を訪ねた。

精神病院を訪れるのは初めての経験であったが、中に入ると何処と無く異なった雰囲気である。彼の名前を告げ病棟を訪ねると名札のあるベッドに彼の姿は無かった。見回すうちにソファーの横にうずくまっている拳士に気付き声を掛けた。

小生を見返した拳士が『先生!』と呼ぶので、「これはそんなに深刻ではないな」と一瞬安堵した。しかし、次に彼の口から発せられた『今日、日本人が5,000万人殺されたと言うニュースが流れたが、知っていますか?』という言葉を聞いたときには、『え!』と思わず息を呑む思いだった。

その後色々と話し始めた彼が、黒人恐怖症のように一切黒人を信用しない言葉を次々に発するのを聞き、余程黒人に対して悪い印象を持っているなと分かった。仕事場での部下であったはずの黒人従業員との軋轢が生んだ悲劇であろう。

具合の悪い事は重なるものでそこに働く医者はほとんどが黒人であった。給仕をするスタッフも黒人であった事から彼は病院で出される食事には一切手を付けない状態が続いた。

もともと小柄な拳士であったが何日も食事を取らなかった事で彼の体は益々やせてしまい非常に危険な状態であった。毎日彼の為に家から食事を運ぶ事にも限界があった。

ある時『病院で出される食事を何故食べないか?』と聞くと、『先生、ここの食事には毒が入っているので自分は決して食べない』と答えた。

そこで小生が『何を馬鹿なことを言う。俺が目の前で食べるから見ていろ』と言って出されたパンと何かを口に運んだ。『やめてくれ!』と嘆願する彼の目の前で、食べ物を飲み込んで見せた。小生がてっきり死ぬものだと思っていた彼は、目の前の自分がいつまで経っても死なない事で出される食事が安全だと悟ったようであった。それから堰を切ったように食べ始めた。

2日後に訪れると食べている。安心した我々は次に少し様子を見るために時間を空け2週間後に再び病院に出かけた、今度は別の驚きが待っていた。

病院で出される食事が安全と分かった彼は、今度は逆に毎日食べ続け、運動不足も手伝ってわずか2週間前にやせ細っていた体が今度は太り始めたではないか。

その間小生は日本の彼の実家に手紙を書いて説明した。先ず自分の身分照会を本部で出来る事、そして現在の拳士の置かれた状態を説明する内容を書いた。早速返事が来て、兄弟が連れて帰る為にロンドンに来ると連絡があった。

ロンドンにやって来たお兄さんから聞いた話であるが、丁度同じ頃外務省からも電話が入り『息子さんが病院に収容されているから渡航の準備をするように、経費として100万円くらい必要だから』と名前も告げずに切れたと言う。初めに電話に出た家族はいたずら電話か?と思ったそうである。名前も告げずに『経費が100万円必要だ』と言われればそう考えても無理は無い。 

当初は『自分の顔を見れば元に戻る』と自信を見せていた兄も、病院に行き本人に会ってみて現実の重大さを悟ったようだった。

航空会社はこの様な場合本人と家族だけでは乗せてはくれない。本人以外に専任のドクターが同行する場合に限り乗せてくれる。その様な理由から兄は一先ず日本に引き返し、関係する諸経費(航空運賃等)を用意して2週間後に再びロンドンにやって来た。

思いもよらぬ展開ではあったが海外で暮らすと言う事は、日本国内で普通に生活する事よりも何倍も目に見えない数多くのストレスを受ける事は事実である。ロンドンで生活する日本人駐在員や家族の中にも精神の病にかかる人は少なからず居る。

現代社会は何処で暮らしてもそれ相応のストレスはつきものだが、外国と言う言葉が示すように日本と同じと考えると安易すぎるように思う。

これまでの33年間に拳士として接した日本人の中には、今一人危うく最初の拳士と同じ状態になる直前の兆候を示した拳士が居る。幸いと言ったら最初に病にかかった拳士や家族の方々には不謹慎であるが、この経験が小生に有ったから早い段階で帰国させ、同じ様な大事に至らなかったケースである。

この拳士はロンドンで入門した拳士であったが、ロンドンに来る前にフランス語が出来た為、アルジェリアで2年程アルバイトを日本の企業でやったそうである。その時に貯めたお金でロンドンにしばらく住んで英語を勉強して帰国する予定だった。

この拳士は不真面目と言うわけではないが、道場に来たり来なかったりと不規則な状態であった為、しばらく来ない事があってもそれ程気に留めていなかった。あるとき久しぶりに道場にやって来た彼の表情が異なった。話すうちにこれは何かおかしいな。と直感するものがあった。なにしろ話が矛盾していて辻褄が合わない。

彼は『自分のフラットの隣に住むアラブ人がマフィアで、部屋に置いてあったお金を獲られた。道場まで来る間も後をつけられていたが何とか巻いて逃げてきた』と言うではないか。『警察に行ったか?』と訪ねると『奴等もグルだから警察に届けたが相手にしてくれない』と答えた。

おかしいなと思ったが念の為に、『それでは俺が一緒に付いて行ってやるから帰りに警察に行ってみよう』と言うことになり、道場が終ってから本人と別の日本人拳士を伴って警察に行った。本人が住んでいる近くの警察署に行って話を聞くと、彼の言っている内容に矛盾が有る為に警察官も相手にしないという感じだった。

前の拳士と共通する被害妄想の気があったので、もう一人の日本人拳士に彼を一日預かってくれるように頼んで帰した。その日本人拳士は小生の言う事を理解出来なかった様で『本当ですか?』と言って不審顔だった。 

自宅に戻るとさっき別れたばかりの預けた拳士から電話が入った。『初めは分からなかったが今は怖くて一人にしておけない。窓から飛び降りる素振りをするので何とかして欲しい。』と言うのである。それ以上預かってもらえないと判断して、自分の住んでいた隣のフラットの一室を借りてそこに1日泊めさせる事にした。翌日何とか本人を説得して帰国させる事になり、我々はヒースロー空港までその拳士を連れて行き見送った。

帰国した本人から礼状とお菓子が入った小包が届いた時にはホッと胸をなでおろした事は言うまでも無い。初めに見抜けなかった自分の注意力の至らなさを虚しく感じて、申し訳ない思いであったが、その経験が有り何とか二人目の同様な結果を、回避することが出来て無駄な経験ではなかったと思えるようになった。本当は他にも居たのかも知れないが自分が掌握しているのはこの2件だけである。

精神の病は見た目が普通であるだけに判断が難しい。このように海外に住む事が不向きな人も確かに居る。ここに述べた2人の性格はかなり違う事を考えるとステレオタイプの性格付けは出来ないと思う。どんな性格の人でも海外に住む事による諸々のストレスはこのような精神障害を引き起こす可能性がかなり高くなると言う事だけは確かであろう。

2 件のコメント:

  1. 合掌
    何時も興味深く拝見させていただいております。
    読んで複雑な気持ちになりました。
    ジョマック拳士の事でもそうでしたが、人はいつも、何かを求め、探していて、出会いによって随分と変わります。

    私の仕事が忙しいときには手伝ってもらうときがあり、一緒に仕事をしていてもう一つの事をお願いすると、なかなかはかどらない時は(もういいから私がします、横で見といて!)相手を無視するときがありました。 今は年ですからその様な事をすると自分が疲れるのでしませんが(そんなことが出来ないのか!)無視してしまうことが度々ありました。
    今思うと(手伝いの仕事が終わるまで待てばよかったなー)と思っています。
    自分探しの旅をすればいろんな人に出会います、大変目合うことのほうが多いようです。

    先生が傍にいて会話できた事が彼には幸いだったと思います。
    ジョマック拳士の事も先生の話だけで見たことも無いのに((どうすれば強くなりますか!と言ったときの(輝いていたかどうか分かりませんが)強い瞳が見えるようです))
    彼の話にも随分心が打たれました。

    遅れましたが、天皇・皇后陛下のレセプションの列席まことにおめでとうございます。
    帰ってこられてからのお話を楽しみにしています。
    言葉足らずで本当にすみません。
    結手

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  2. 吉永先生 

    投稿感謝いたします。小生の拙い文章にお付き合い頂きありがたく思います。
    このブログはこれまでの英国に於ける小生の歴史と、小生の目から見た日本や英国その他の国々を独断と偏見(なるべく無いように心掛けては居ますが)でなるべく感じたままに書こうと思っています。 視点は個々の人が置かれた環境においても随分異なるものです、そんな事から色々と異論があることは充分に承知の上で書いておりますので、気が付かれましたことは遠慮なく書き込んでください。 これからもコメントを期待しております。
    結手

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