2010/05/03

拳士のオリンピックに対する否定的感情はなぜ?

少林寺拳法の拳士に『少林寺拳法はオリンピック参加をどう捉えているか』を聞くと、その殆んどが否定的意見である。

いわく、オリンピックは勝利至上主義に陥りやすく、我々の教えと馴染まない。
オリンピックでのドーピングを例に取り、どんな事をしても勝てばよいと言う様な人格を育ててしまう、等など否定的な意見がその主流である。

これは何も日本人の拳士に限った事ではない、ヨーロッパの拳士に聞いた時も多くの支部長が同じ様な見解を示した。勿論、中には賛成する意見も聞かれたが、どちらかと言えば少数派であった。

確かに開祖も生前オリンピックを例に取り、我々が目指す人造りには勝利至上主義に陥りやすい事や、仲間ですら選ばれる為には敵になる事、などを指摘されて『目的(勝つ)の為には手段を選ばないと言うような選手を育てる事が我々の指導とは相容れない』と指摘された事は今も記憶にある。

しかしながら開祖が言いたかった事は、オリンピックが勝利至上主義や、その為には手段を選ばないような人格を作ってしまう事が多々あるので、我々少林寺拳士や指導者は如何にそうならない為の指導や修行をする事が重要か?と言う問い掛けで有ったのではないかと思う。

ある時から少林寺拳法の允可状には竹田恒徳氏(JOC会長)が開祖宗道臣と共に、少林寺拳法連盟総裁として併記されるようになった。竹田総裁の少林寺拳法連盟就任は、我々拳士にとっても非常に名誉な事であり開祖をして、少林寺拳法の地位も上がった(認められた)と言わしめた。

竹田氏が日本オリンピック委員会の会長であった事実は、開祖が必ずしもオリンピックそのものを敵視していなかった事を明確に示しているのではないか。もし開祖がオリンピックを完全に否定していると考えるならば、その日本の統括団体の会長を日本少林寺拳法連盟の総裁に迎えるとは到底考えられない事である様に思う。

指導者が陥りやすい勝利至上主義の指導方法を如何に回避し、且つ又拳士には同士相親しみ、相助けを信条として徹底する事により、仲間意識を高め、決して一部のオリンピック選手の二の舞にならない様にと言う、戒めとしての指導で有ったと理解している。

ある時からその指導が一人歩きをして、少林寺拳法はオリンピックを目指さない、オリンピックの持つ否定的な側面だけにスポットを当て、それを政治的に利用して一部の人達の民主化と言う防波堤にしてこなかったのか?

オリンピックに競技として認められる為には、そのスポーツの普遍性(普及度)のみならず、組織運営上の民主的な有り方が厳しく精査されることは言うまでもない。

今一つ大事な事は、オリンピックは世界共通の祭典であり、世界のどこの国でも政府を挙げて支持している事を忘れてはいないだろうか。オリンピック憲章には次のようにその中で明記されている。

オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、全体としてバランスがとれるようこれを結合させることを目ざす人生哲学である。文化や教育とスポーツを一体にするオリンピズムが求めるのは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。
オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することを視野に入れ、あらゆる場で調和のとれた人間の発達にスポーツを役立てることにある。この趣意において、オリンピック・ムーブメントは単独又は他組織の協力により、その行使し得る手段の範囲内で平和を推進する活動に携わる。

この様に、オリンピック憲章それ自体が、少林寺拳法の目指す人造りと、理想境建設と言う哲学とも完全にリンクしているではないか。もし、それでも否定的な側面にのみ目を向けさせ、オリンピックそのものの価値を認めないとするならば、少林寺指導者の価値観は世界の一般市民のコモンセンス(常識)とは相容れないものではないか。

世界の人達の多くと価値観を共有出来ない組織が発展する事は到底考えられるものではない。世界中の多くの人達がその価値を認め、オリンピック競技に認められたスポーツは、世界中に市民権を得たスポーツとも言える訳である。

英国でも大学にクラブを設立しようとすれば、スポーツ カウンシルの承認団体かどうかでその対応は大きく異なる。オリンピック競技として認められる前に、その国の協議会が認めている団体かどうかと言う判断が、どこの大学でも重要視される。

英国ではスポーツ カウンシルが認めた団体であれば、問題なくそのスポーツクラブを大学で立ち上げる事ができる。しかしそうでない団体が同じ様にクラブを設立しようとした場合には、諸々の証明書が必要になる。つまりスポーツ カウンシルが認めた団体と言うのは、言い換えれば大学で学生がそのスポーツを習っても何も心配する事が無いと言う、お墨付きを与えた事になる。

もっと極端な表現をすれば、そのスポーツ団体のステータスがスポーツ カウンシル承認如何で、一流か二流又は三流かの分疑点と言えないことも無い。その様な実状であるならば、英国少林寺拳法連盟も当然の事ながらスポーツ カウンシルから認められるような団体になるべく努力をしなければ、その将来はないと思う。

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