2007/07/23

与えられた民主主義

日本における第二次世界大戦後の民主主義は残念ながら日本国民自らが勝ち取ったものではない。いま改正が話題になっている憲法と同じ様に占領下にGHQ(連合国)から与えられたものである。このところ日本国憲法の改正が政府の重要な課題法案として出ているが、時々この民主主義や憲法が日本国民自らが勝ち取ったものではないために起こるおかしな現象を見聞きする。ここでは民主主義についてヨーロッパと日本の違いを比べて見たい。
 
日本の大都市ではバブル崩壊後より一段と多くの人達がホームレスとなり、色々なところでダンボールやビニールテントを見かける様になった。ホームレスそのものは世界中の先進国の都市ではそれほど珍しいものではない。行政や宗教団体、そしてボランティアに至るまでそれらの人たちを支援して社会復帰させるように努力しているところも有る。日本でも地方自治体が支援策の一つとして無償のホームを作りこれらの人達を社会復帰する手助けをしているところも有ると聞く。 

しかし、自分が感じた違和感は法治国家であるはずの日本におけるこれらホームレスの人達の無法振りである。何が無法かと言えば、彼等がダンボールやビニールテントを張って仮の住処としている場所の事である。

ロンドンでもこれらホームレスの人達は数多く居るが、彼等は一応寝泊りする場所を取り締まりの等の対象とならない所でしている。しかしながら日本のこれらの人達にはこの様なルールは無いものと想像する。時々公園等でブルーのテントを張って生活しているホームレスを見るが、何年か前には名古屋城の前のお堀端で堂々とブルーのビニールテントを張って生活している人を見た事がある。この様に公園や駅の構内等、公共施設であるにも関わらず、彼等にとっての便利さが優先されているように感じた。

もし同じ事をロンドンのハイドパークやケンジントンガーデン等の公園でやったら直ぐに公園を管理するポリスの厄介になる。ロンドンに限った事ではない、パリでもどこのヨーロッパの都市でも公共施設を私設の住処とする事は不可能である。スイスなどは駅のベンチで寝る事も許されない。警官から直ぐに事情を聞かれ場合によっては罰金を科せられる。

公共施設とは本来この様なものではないか。個人が勝手に住み始めても文句を言われない公園は先進国では日本くらいのものだろう。この辺に日本の「与えられた民主主義」と、欧米の「勝ち取った民主主義」の違いが現れているように思う。

公園や駅等でみる段ボール箱で囲いあたかも自分の所有地のような態度で住み続ける行為が許される国は日本だけではないか?それを官憲が排除しようとすると支援者と称する人達が『人権』を振りかざし抗議する姿も不思議である。はっきり云って公共施設を無断で占領したりする事が人権問題で許されるとすれば日本中の公共施設は無くなってしまう事になる。

ロンドンでも冬の寒い夜は時々地下鉄の駅が開放される事はある。しかるにその開放がずっと続く事は無く、一時的な救済策であり誰もその事に感謝しても文句を言うことは無い。暖かい食事の振る舞いも協会やボランティアによって行われる。しかしこれはあくまでも善意の施しであり強制されてやっている訳ではない。そしてその様なボランティアをしている人達がホームレスの自立支援をする事はあっても、公園や駅等の公共施設に入り込んだホームレスの人々を擁護したり、又排除しようとする警察官に文句を言うことは無い。

公共が無視されると言う事は大多数の人達の利益(人権)が少数者によって犯される事である。成田空港の反対運動も異常である。日本以外の先進国であのような事がまかり通る事は先ず考えられない。

当初の農家の人達による反対運動はある程度理解できる。
しかし、その後政治問題にすり替え人権闘争にしてしまった事がどう考えても理解できない。国の政治判断が一人でも反対者が居たらどうにもならないとは、いったい日本の民主主義とはどんな価値観において誰の為の民主主義なのであろうか。100人の人権よりも1人の人権の方が尊重される民主主義なぞ聞いたことが無い。英国やフランスで成田空港のような騒動は決して起きないだろう。

国の権力とはそれ程強いものである。国がマイノリティー(少数者)の意見に耳を傾ける事は悪い事ではないが、しかし民主主義とは最終的には意見の対立が解けないときには多数決を持って決める事が大前提では無かったのか?100人の意見の方が50人の意見より強いのが民主主義のルールではないのか。

民主主義が唯一最高の法則とは自分も思わない。場合によっては1人の優れたアイデアの方が100人の愚かなアイデアよりも良い事も考えられる。しかしこと民主主義を標榜している以上は100人の愚かなアイデアを採択する事が当然の帰結である。そうでなければ民主主義など成り立たなくなってしまう事になる。

小生が憲法を含む日本の政治体制が上(戦勝国)から与えられたと感じるのは、その最も基本的なルールであるマジョリティー(多数)よりも、権利や制度を逆手にとった個人的な感情やイデオロギーが疑問も無く優先されてしまう事である。成田闘争はどこから見ても民主主義を完全に無視した単なるテロ行為である。

こんな民主主義を取り巻く状況にも日本の常識が世界では非常識と云われる所以ではないかと感じている。

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