2007/05/13

ためしてガッテン!

NHKのテレビ番組の話ではありません。少林寺拳法の教え方の事です。

技の指導をしている助教を観察すると実に様々である。
ある者は一つ一つの動作(形)にこだわるし、又別の者は非常に大雑把なアドバイスをする者も居る。これは仕方が無いことで、それぞれの拳士に個性があるように練習方法にも個性が出てくる。

助教が教えている時に自分が注意している事は"横から口を挟まない"と言う事である。一応任せて指導させている訳だから少々指導方法が偏っていても直さない。もし聞かれた場合や大きな間違いがあったときには指導する事は勿論あるが。

小生が気を付けている事は"教え過ぎない"と言う事である。
これがなかなか難しい。思わずかゆい所まで手が届くような指導をしてしまいそうになる。しかし、なぜそれがいけないのであろうか?

今日、少林寺拳法に限らず多くの武道やスポーツの分野においては、本やビデオ等色々なメディアを通じてそれらの上達する為の秘伝を伝えようとしている。しかし時として、それらを受ける側が本を読んだりビデオを見たりする事で技術が上達したり理解できると勘違いする事が起きる。

本で解説されて解かる事も確かにあると思う。
又ビデオ等の実際の動きを見ることが出来ればより一層のメリットがあるはずだ。しかしこれらはあくまでもメリットと理解しなければならない。なぜならば本やビデオで伝えられる事などは非常に限られた部分でしか無い。又、教える側と習う側のその技術に対する理解度や体験が全く異なる事も認識する必要があるだろう。

あるとき気が付いたのだが、少林寺拳法の指導者には教え魔が多い。
勿論親切心から出ている事は言うまでも無い。しかしこれは本当の意味で習う側のメリットになっていないと思う。それは習う側が問題点に気付く前に色々とアドバイスをしてしまうからだ。それはせっかく問題点を探す努力をしている者に『そんな事していると時間の無駄だよ。こうした方が速く上達するよ』と答えだけを教える事と変わりは無い。

25年くらいも前の話であるが、日本に行った時、たまたま地元の東海武専に出る事があった。指導員は新井先生(現財団法人会長)が担当されており、沢山の拳士達が熱心に技術指導を受けていた。先生の技術を見て皆感心しているが、実のところほとんどの拳士は貴重なアドバイスを授けられながら身に着けられなかったように感じた。

その頃の自分は現在のように毎年日本へ帰ると言うわけにはいかなかった。経済的理由が最も大きかったが、航空運賃も現在とは違い非常に高く2年か3年に一度くらいしか行く事が出来なかったのである。

その間、英国連盟の拳士から聞かれる技の質問には答えなければならない。とりわけ自分にとって自信の無い技に限って何度も聞かれることになる。それはそうだろう、教えている側が自信の持てない技に誰も簡単に納得するわけが無い。

その帰国できない2年間、3年間同じ技で悩む事になる。その悩む時間が長いほど良い答え(技)を見せられた時に習得する時間は短い事を実感した。多くの武専学生が首を捻っている事が不思議だった。なぜこんなに解かりやすく教えてくれているのに取れないのだろうと思った。

そして自分が簡単に理解できたのは、その2年の間に問題点がかなり掘り下げられ、焦点がはっきりしていたからだと気が付いた。もしこの時に新井先生の技が理解できなければ又次の2年間か3年間、同じ事で悩まなければならなくなる。

新井先生は武専の後小生の実家に泊まられた。先生の人柄か実家の親父もお袋もそれを期に新井先生ファンになった。

翌日、名古屋まで送ってゆく車の中で技に対する質問をぶつけて見た。『先生の技と解説で目から鱗と思える箇所がいくつかあった。でもアレはかなりの人達が理解出来ていなかったのでは?』と。先生曰く『良いんです、この次ぎ見たらもっと解かるようになりますから』 なるほど、流石に新井先生程にもなると指導方が上手いだけではなく、人の習性を良く解かった上で指導しているのだなと感心した。

いま一つは、小生が柔法習得の上で非常に参考になった森道基先生である。
先生はすでに亡くなられ今や伝説となってしまわれたが、実に見事な技を持っておられた。神戸の先生の道場にお邪魔して何度もご指導を受けた事も今となっては懐かしい思い出である。

講習会の指導員として英国に来られた折、小柄な先生が倍以上も体重のある拳士を軽々と投げられる様は、これが少林寺拳法の技なんだと皆息も呑まずに見入っていた事を思い出す。

森先生のすごさは体のデカイ人をあえて選んで投げているのではないかと思わせるが、先生が小柄だから余計にその様に感じたのだろう。右も左も関係なく、つかまれた手や腕を言葉ではなく、無造作に投げられる技術を見せる事のできた数少ない指導者だった。

そんな先生がいつも見せてくれたのは、同じ技でも必ずどこか工夫が加えられ少しづつ変わってゆく技の進化であった。あるとき先生に『前に先生から受けた説明と違っていましたが?』との問い掛けてみると『僕自身が何時も変わっているからだよ』と答えられた。

つまり先生自身が常に前進されていたことになる。
あれほどの達人が技に対してこれ程までに貪欲に技を追求している姿を知り、開祖が言っていた『昨日よりも今日、今日よりも明日、死ぬまで成長する』と言う言葉を真剣に実践されていた姿が自分にとってはかけがえの無い教訓となった。

『水野君教えすぎは拳士の為にならんョ!質問されたら理解できるように教える事は必要だが』と言う言葉を胸に、先ずポイントを教え、それが実際にどの様に作用するのか実験して(ためして)、方法も紹介する。そして理解(ガッテン!)すればある程度技がかかる事になるはずである。

2 件のコメント:

  1. 「ためしてカッテン」
    「教える」と云う事と「学ぶ」と云う事。」私はその道の事は全然分からない者ですが、武道に拘わらず、どんな事でも、見て簡単だど思う事でも、いざ自分がやって見ると思ったように全然出来ない事をよく思い出します。しかし、人間いや、私と云う事でしょうか、本で読んだ、又偉い人の話を聞き、本当にその通りだ・・・と思う事で、恰も、その事が分かったような錯覚に陥る事があります。いくら良い事を言ったとしても、その事が自分のモノになるのは、やはり実践しかないのだとしみじみ思ったりします。人はその人の言った事に耳を傾けるのではなく、その人から発する何かを感じて、その人についていくのかと思います。{昨日よりも今日、今日よりも明日、死ぬまで成長する}自分も道は違うにせよ、そんな生き方をして行きたいと改めて思いました。そして、人として、地道なところで、実践を通して、どんな事からも、学んで行きたいと・・・限りある人生を中身のある豊かな人生を歩んで行きたいと思いました。

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  2. Yamamoto さん
    いつも丁寧な書き込み有難う御座います。
    人に教える事の難しさは何でも同じだと思います。 随分前の小生がまだ日本に居た時に会社の講習会でコミュニケーションと言うタイトルのセミナーを受講した事がありました。
    その時講師の人が色々な方法でコミュニケーションの難しさを教えてくれました。 その時自分が理解できた事は、同じ言葉を話す日本人同士でも人に意図するところを伝える事がいかに難しいかと言う事でした。 思うことの30%が伝わればある意味で意思の疎通は成功と考えねばなりません。 しかし普通言った側も、聴いた側も(90%近くは相手が言わんとするところを)理解できたと考えてしまう事がよくあります。 外国人には普通の日本人に伝える努力(言葉やアクション等)の何倍もの努力と忍耐が必要です。 ですから小生の言う事は一般的な日本人にはくどい様に感じるかもしれません、本当は伝えたいと云う気持ちの裏返しなのですが。

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