2007/03/14

ブルース リーの功績

1970年代初期ブルース リー ブームが在った。

香港の生んだこの俳優は華麗なカンフーのテクニックをダイナミックに演出して瞬く間に世界中のヒーローとなり、若者の絶大なる支持を得た。
同時に日本を始め世界中でインフルエンザのように空手やカンフーの愛好家を増やして行った。 少林寺拳法も例外ではなく日本の道院や支部には映画を見てブルース リーに憧れ入門してくる多くの若者を生み出した。

小生が渡英した1974年当時の英国もまさにブルース リー ブームの真っ只中。
空手の道場には入りきれない程の若者達であふれていた。

ある日本人の空手の先生は『俺は1週間1500人の弟子に空手を教えている』と豪語していた。
その先生は一人1時間のレッスンで£1-(当時のレートで約800円)、1クラス30名が地下と2階の2つの道場で4時間、合計240人が毎日練習していると言う訳だ。
事実、彼はベントレーと言う高級車を乗り回していたし、この先生に限らずその他の空手やカンフーのクラスは満員御礼状態がしばらく続いた。

さて、そんな時期ロンドンにやってきた小生は初め2つの大学にクラブを開いた。
Shorinji Kempoと自分で手書きのポスターを作り、自分で写した写真を貼り付けて大学のクラブ紹介の掲示板に張っておいた。

初めての練習日、はたして何人の学生が集まるのか心配しながら行って見ると20名近くの学生が集まっていた。先ず彼等を道場に入れ、合掌礼を教えた。

言葉が出来ない時にいきなり20人の学生である。
日本語で始めるしか仕方が無い。
『構え!』 『突け!』
と声だけ張り上げていたが、それでも学生たちは見よう見まねでついて来た。

練習が終わると又大変である。
『道着は何処で買うのか?』
『お金はいくら掛かるか?』
『ブラックベルトになるまでにどれくらい掛かるか?』
などなど質問の連続である。
今の自分がその場に居たら随分違った対応が出来たのに、とつくづく思う。

しかし年齢的に彼等と近い為、ある種の安心感があったのかもしれない。
翌週は道場には入りきれない程の30名以上の学生が集まっていた。
その次の週もまたまた人数は膨れ上がり、いったいこの数は何処まで増えるのかと面白さと同時に不安に感じた。

その頃英文の“What is Shorinji Kempo”という本が出版され、その本を全員に買わせる事にした。
この本は内容も良く、本を読んで入門してくる人達の知的レベルは高かった。
また当時の身分証明書の裏側に印刷されていた聖句、誓願、信条の英訳文は誰が訳したのか間違いが多く、学生達から間違いを数多く指摘された。

一度想像してみていただきたい。全く言葉の通じない国へ行ったら指導者の皆さんはどの様に少林寺拳法を教える事が出来るのでしょう。
幸い英語の国であった事もあり、単語だけでも並べていれば何とか通じるものもあるが。

クラブ活動を始めて何ヶ月かした頃、日本人の留学生も入ってきた。
こうなるとコミュニケーションにおいては大きな助けとなった。
1年ぐらい経って一般の支部を開設する事となった。
学生のクラブに参加していた大学の教授の勧めもあり街の協会(キリスト協会)の中で、卍を胸に教え始めたわけである。

そこの牧師さんも初めに『それは何のマークか?』と聞いたが、まさか『ダーマと言い仏教のシンボルです』とは言えない。
そこで、キリスト教が好きな『愛のシンボルです』と答えたらその後は何も言わなかった。
まんざら嘘ではないはずです!
そんな訳でその協会で2年ほど教えた後、ロンドンで一番大きかった柔道場へ拳士と共に移った。

ブルース リーの映画のおかげで初めの道場(クラブ開設)が比較的運良く船出したくだりを紹介したが、映画の力のすごさを認識せずには要られなかった。

甘いマスク、鍛え抜かれた体、そしてなによりも見せる事を意識したダイナミックな演技。
それ以前のアクションスターがどう転んでもまねが出来なかった演技を、本物の武道の動きやヌンチャク等の武器を使って観客を魅了した事は疑う余地の無い事実であろう。

ブルース リーは「ジークンドー」と言う武道を残し今や伝説の人である。
彼が本当に映画と同じように強かったかどうかは又別の話であろうが、ともあれ1970年代に一大センセーションを巻き起こし29歳の若さでアッと言う間の短い生涯を閉じてしまった。
それ以後にも数多くの香港カンフースターを排出したが、その奔りを作った功労者は紛れもなくブルース リーだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿