2015/02/20

少林寺拳法の道院長は真の宗教者か

宗教法人を名乗る組織が日本には18万2千以上も団体が有ると聞き驚いた。世界広しと言えども一つの国に18万もの宗教を名乗る団体が存在する国は聞いた事が無い。ただしこの数字は国(文科省)に届け出たものと、地方自治体に登録したものとがあり中には重複している団体も有るらしい。

のっけからこの様な驚くべき数字になってしまったが、勿論日本ばかりではなく世界各国では様々な宗教が数多く存在している事も事実である。その中には前のブログでも書いた様にカルト的性格の強い団体も多く含まれている。只一つ言えるとすれば日本の様に18万もの宗教団体が存在する国は無いと言う事だ。

その主な理由は多くの国で一神教が多く、仮にその国で一般的に信じられている宗教とは異なった宗教の人達が居たとしても、百も二百も異なった宗教が出て来る事が難しいのが実体であろう。クリスチャン(キリスト教徒)が中心の国でも、カソリックからプロテスタント、ギリシャ正教まで色々あるが、その国内に20も30も違うキリスト教の団体があると言う国は聞いた事が無い。

テロ国家ISの問題で一躍日本国内でも存在が注目を集めているイスラム教徒だが、イスラムの国においてもキリスト教が中心の国と概ね、宗教団体の有り方(数)は同じである様に思う。前にも書いた様にこれら一神教の国々では中々異教徒(異なった宗教)を認めない人達が多い事も、宗教団体が派生しない主な理由なのかも知れない。

日本では逆に土着の宗教(神道)が諸々(八百万)の神々を認める事から一神教とは全く異なった宗教観が培われた。仏教やキリスト教が海外から入ってきた宗教にも関わらず、問題なく共存して行けるのは神道的価値観が根底にあったせいとも言えなくもない。八百万の神々という信仰からすれば18万余りの宗教団体等どうってことは無い現象なのであろうか。

そこで今、宗教団体を標榜する少林寺拳法と言う組織の道院長にあえて確認しておきたい事がある。貴方はご自身の事を「私は宗教家である!」と自信をもって言えますか。

私も開祖 宗道臣の本は一通り読んではいるが、とても自分の事を胸を張って「宗教家です」とは言えないからである。もしその様な道院長がおられるとしたら色々と伺ってみたい事がある。

逆に「私は宗教家では無い」と言われるのであれば、では宗教法人であるはずの少林寺拳法という組織は、宗教団体として何を教えている団体なのか是非伺ってみたい。

2015/02/02

実像と虚像の狭間で

日本の武道が世界に紹介されて久しいが、近代的な社会になってから初めに世界で名声を得たのは柔道ではないかと思う。勿論それ以前にも柔術や剣術があった事は知られてはいたが、世界から認知を得るのには時間が掛かった事も事実であろう。

その様な中で、2020年の東京オリンピックに向けて、空手が新しくオリンピック種目に加わる為のロビー活動がニュースで紹介された。空手は1980年代初めにもすでにオリンピック種目として検討されていた事は知られて居るが、当時の空手界は日本国内の各流派によるルール統一が難しく、見送られてきた経緯がある。その間に韓国のTaekwondo(テコンドウ)が先にオリンピック種目に加えられ空手界は今日までそのチャンスが無かった。

そのスポーツの普及度からすれば空手の方がテコンドウより遥かに競技人口が大きい事は事実ではあるが、これまで種目として認められなかった主な原因は異なった流派による綱引きが大きな理由であろう。ここにきて空手の世界も世界空手道連盟(World Karate Federation, WKF)がスペインのマドリードに本部を置き、東京オリンピックを契機にオリンピック種目に名乗りを上げたと言う事だと思う。

柔道も空手も日本から出た武道にもかかわらず、世界連盟の本部がフランスやスペインにある事は何を意味しているのであろうか。世界に誇る事の出来る日本文化が広く世界中で認められる機会を、日本と言う限られた世界での価値観によって自ら難しくして来た事実は否めない。その事が柔道や空手の団体をして世界組織の本部を海外に求めた一因ではないかと想像する。 

翻って我々の少林寺拳法を見てみれば世界へ普及する事の難しさをより一層感じずにはいられない。その最も大きな原因は組織の抱える不透明な構図ではないか。日本国内では宗教団体を標榜すると同時に一般財団法人(公益では無い)も運営している。世界連合(WSKO)は宗教法人では無いがその説明には当然の事ながら難しい問題を抱える事は言うまでもない。

今一つの問題は少林寺拳法と言う組織の掲げる矛盾は、海外に於いてさえ指導者に対してボランティアを要求する姿勢である。5年程前に私の事を糾弾するために支部長達を集めて行われた会議の席で「水野は少林寺拳法を指導して収入を得ている」との発言が有ったと報告を受けた。これには参加した支部長から「何故それが問題になるのか?」と逆に質問され、トップが答えに窮したと伝え聞いた。

質問した支部長に言わせれば「それがいけないとすれば、(組織のトップである)あなたや職員はどの様に収入を得ているのか」との思いがあったのであろう。「自分は特別な存在だから組織から給料を貰っても当然である、しかし他の支部長はボランティアなので少林寺拳法の指導で収入を得てはならない」。この様な論理が世界中で通用するはずも無い事は誰が考えても明らかである。それが少林寺拳法と言う武道が世界に発展する事を妨げている最も大きな原因ではないだろうか。

本音と建前を巧みに使い分けて組織を維持して行けるほど世界は甘くは無い。経済的に厳しい国も有る。その人達に対してもボランティアで指導を強要すれば確実に辞めてしまうであろう。先進国においてさえ同様な問題は存在している。海外で日本人が働く事の難しさを全く理解しない人達の机上の空論と言われても仕方がない。

日本人に限らないが海外で働くと言う事は先進国、途上国を問わず非常に難しい規制がある。先ず合法的に働くためには当然の事ながらその国で働く為の労働許可証を取得する必要が生ずる。私が労働許可証を取得した経緯はブログでも紹介したので繰り返さないが簡単な事では無い。労働許可証が幸い得られたとしても許可された勤務先の仕事以外から収入を得る事は許されない。少林寺拳法の指導員として得られた労働許可証で他の仕事をして検挙される事になれば国外退去は免れ得ない(もちろんその逆も)。

「私は少林寺拳法をボランティアで教えているので収入を得る事は出来ない、よって別の仕事で収入を得る必要があります」この様な理屈が通用すると本気で考えて居るとすれば、世の中の仕組みを全く理解して居ないトップが君臨する組織と言われても仕方がない。その様な組織が世界に発展して行けると多くの拳士は信じて居るのであろうか。

私が一例として挙げた組織の抱える矛盾は他にも数多くある。日本では当たり前の事が、世界でも普遍的に当たり前であるはずもない事は理解して頂けると思う。『実像と虚像の狭間で』とのタイトルで書き始めたが、実像以外に物事が発展して行く事はあり得ないと思う。残念ながら少なからぬ人達が虚像に怯え、本来の有るべき実像が見えていないと感じた事が今回の表現となった。

個々の表現で不快に感じられる箇所があったらお許し頂きたい。決して個人的な批判をしているのでは無い事をご理解頂ければと願っている。

2015/01/24

現状維持が快適か

昨年の40周年の大会以来ヨーロッパの国は元より、日本からも多くの方々から問い合わせを頂く様になった。また同時にこのブログにも沢山の書き込みを頂いたが、現状に対する不満は直接話を伺った指導者の方々にも共通して『組織の示す方向性』についてのものであった。 私の知り合いも昨年からの組織改革の名の下に道場を閉める結果となり、長年続けてきた努力の結果がこの様な結末となった事に大いなる不満を口にしていた。


少林寺拳法と言う武道団体が発展することが出来た大きな要素は、他ならぬ個々の指導者の努力の賜物である事は言うまでもない。その様な指導者は組織の発展の為に自己犠牲は元より、家族や友人にも協力(理解)を仰いだことであろう事は容易に想像できる。その様な努力が報われるどころか、1通の通達でこれまで心血を注いできた道場を閉めなければならない事態を簡単に納得できる訳もない。


今一つ私が不思議に感じる事は、上記の様な現状に対して非常に大きな不満を口にする指導者が数多いにも関わらず、なお組織に留まろうとする人達が多いという事実である。物事を簡単には割り切れない事は理解できるが、自身がそれ程までに不満を口にするのであれば何故変えようとしないのであろうか? 別の見方をすれば、何故それ程までに理不尽な扱いを受けても、組織に留まるのか?と言う疑問である。この様な不満を抱いた道院長では現組織に対する忠誠心が強いとは到底考えられない。何かにつけての不満は周りにも聞こえてくる。


それでも道院長と呼ばれる事にそれ程大きな魅力が有るのだろうか、私には理解できない。組織外の者が口を挟む事では無いかも知れないが、現状を知るにつけ益々理解不可能な状態と思える様になってきた。単純に組織の外(武道とは無関係の者)から見たとき、少林寺拳法の道院長が、それ程大きく評価をされているとは思えない。武道の世界で『先生、先生』と呼ばれる事が、単にその武道の先駆者とは見られても人格評価には繋がらない事を開祖は法話で述べられて居た事を思い出す。


現状に不満が有り、何とかそれを打破したいと願うのであれば、自ら行動を起こす以外に変える事など出来るはずもない。私が日本へ行った折、多くの指導者とお会いし話をする機会を得た。そこで得た印象は少林寺拳法と言う団体は過去のものとは様変わりしており、全く別の組織(団体)になったという事である。 名前こそ同じではあっても、過去の武道から得た名声とは裏腹に、現在はかけ離れた存在の団体になってしまったと言う印象だった。


その様な折、何人かの指導者から「自分達で出来る事を考えたい!」と相談を受けた。私に何が出来る訳でもないが、私達の経験が何か参考になるのであれば喜んで協力させて頂くと伝えた。自分達だけで色々考えて居ても、なかなか次の段階に進む事は難しい事も理解できる。その様な人達にはこの投稿欄にも述べた様に日本国内は元より、海外においては日本の優れた指導者が必要とされている事をお伝えした。 組織の一翼を担ってきた指導者の努力(武道としての技術の指導)を、単なるパフォーマンスとしか評価しない現組織では、多くの指導者の研鑚と努力は将来も陽の目を見る事は無い。


「自分に正直になって考える時に来ていませんか?」私はそんな質問をぶつけてみた。指導者と呼ばれる人達はパフォーマンスをする為に少林寺拳法を続けてきたのでしょうか。 自分に嘘をついて続けたとしても、同様な境遇の仲間に合えばついつい本音が出てしまいます。「そのような状態をこれからも続けて行けますか?」 少林寺拳法に対する情熱が「自身が入門した時と同じ、熱い思いが湧いてきていますか?」 私にはなかなか想像出来ません。拳士数が増えない最も大きな原因がそこにある様に思えてなりません。

2015/01/15

中々見えない自画像

世界は今『シャルリ』のオンパレードの様な感が有る。言うまでも無くテロリストによって襲撃されたシャルリ・エブドの被害者に対する支援の声である。世界中にニュースが配信される今日では、本物の銃撃シーンが人々に与える影響も計り知れない程大きい事は言うまでもない。

17人もの人が短時間に殺されてしまう現実を目の当りにした世界中の人々が受けた衝撃は、東日本大地震や原発事故にも相当するインパクトが有った。勿論自然災害とテロリストの事件は異なってはいるが、単純に人々が感じたショックの度合いからすれば共に大きな事件と言えるのではないだろうか。

事件の直後に世界中から50か国を超える首脳・閣僚がパリに集まり、370万人とも言われたデモの先頭に立って連帯を訴えた事がその衝撃の大きさを物語っている。同時にやり場のない怒りと、これからも身近で起きる同様なテロに対する恐怖感に連帯する事こそがテロに屈しないと言う、一般市民と世界のリーダー達に出来るせめてもの表現(デモンストレーション)だったのかも知れない。

テロとの戦いは今に始まった事では無い。大きな転換は2001年のニューヨーク、ワールド・トレード・センターの9・11(同時多発テロ)からである。それ以前にも日本においてオウム真理教が引き起こしたテロ(地下鉄サリン事件)があった。その後のロンドンでのG8サミット期間中の地下鉄やバスでのテロや、スペインでの列車内でのテロ事件等が直ぐに思い起こされる。ヨーロッパの国々に限った事ではなく、アジアでもインドネシアのジャカルタやバリでの事件、そして北アフリカ諸国でもテロの数が多い。

そのほとんどにイスラム教過激派勢力が絡んでいる。イスラム教は日本人には馴染みの薄い宗教ではあるが、過激派(原理主義派)にとっては欧米型社会のシステム其の物に反発しているグループが多く、何処の国であっても攻撃の対象となる。日本人がこれらのテロに巻き込まれた数は少ないが、2013年の1月にアルジェリアの天然ガスプラントで起きた事件は記憶に新しい。

何故イスラム原理主義はこれ程までにテロを起こすのか? だが先ず初めにイスラム教徒とイスラム原理主義者を区別して理解する必用が有る。イスラム教徒のすべてがテロ事件に絡んで居る訳では勿論無い! 原意主義と言われる宗教であればイスラムに限った事ではなく、キリスト教や仏教(オウム真理教)でも同様の事件が過去にも起きている事を考えれば、極端な教義の解釈はどの様な宗教でも原理主義になり得ると言う事を理解しないといけない様に思う。

確かに一神教の方がどちらかと言えば過激な行動に至りやすいと言う事が言えるのかもしれないが、ここで宗教の源流をたどって行くとキリスト教、イスラム教等の一神教はユダヤ教を源として居る事が分かって居る。 共に同じ源を共有しているにも関わらず一神教を貫く両派(キリスト教、イスラム教)は共にお互いを認めようとしない人達が多い事も事実である。

八百万(やおよろず)の神々を信じる日本人からすると理解できない事なのであろうと想像する。又それが神道と仏教の共存を可能にしている日本の大きな特徴なのかも知れない。世界から見たときその様な日本人は非常にまれな宗教観を持った国民だと思う。ほとんどの日本人の宗教観は、彼等一神教の人達から見れば無宗教者であると思う。第二次世界大戦の後に連合国から突き付けられた戦前の神道イズムの否定から、無宗教者が増えた事も一因かも知れない。

学校教育の場から宗教性が消され(宗教に対する中立性が求められ)、多くの場合で宗教そのものを学習する機会は少ない事も無宗教を助長している原因と考えられる。これとは逆にイスラム教の国では学校教育の現場でも当然の事ながら宗教教育は行われている。 これらの理解無くして単に自分達の価値観を一方的に押し付けても解決の糸口は中々見えてこないのではないだろうか。

フランス政府は今回のテロを受け、国会で首相が『フランスはイスラム国とテログループ(アルカイダ等)と戦争状態になった』と発言するに至った。  フランスは国旗の三色旗が示す様に『自由、平等、博愛』を国是として来た国である。その首相が戦争状態になった事を宣言した事は本当に深刻な状態になった事を意味している。 同時にこれらのテロはフランスに限った事ではなく世界中で何時でも起こり得る事を理解する必要があるのではないか。

今回の事件を受けて人々が繰り返す『自由』と言う言葉に、時々このままで良いのか? 『報道の自由が大切だ』と言う気持ちは理解できても、その自由な表現(風刺画)により、傷つく人達も居る事を理解した上での『自由』なのであろうか私には理解できない。

イスラム原理主義者のみならず、自分達が命よりも大切と信じる存在(モハメッド)を風刺画により貶める事も表現の自由であるとの主張が、一般のイスラム教徒から理解される事は難しいのではないか。 自分や家族が同様な辱めを受ける事を考えれば、ある程度彼等(ごく一般のイスラム教徒)の気持ちも理解できるのではないかと思うが、感情が激高した今の欧米の雰囲気では中々静まりそうもない。人の事はよく見えて批判できても自画像は中々見る事が難しいのかも知れない。

2014/12/22

新体制をどの様に構築できるのか

私のこのブログには実に多くの方々から投稿を頂く様になった。何にもまして投稿者の真剣さが伝わって来るものがほとんどで、時には真剣に向き合う彼等の姿勢が少林寺の指導者となった当時の自分の姿とも重なり、何とか現状を打破する良いアドバイスが出来ないかと日々模索する毎日である。

現在の日本の少林寺拳法と言う組織は、多くの方々から何度も書き込まれている様に非常に疲弊した組織になって居る事が分かる。その大きな要因は組織の示す矛盾から発している事は明らかである。何が矛盾かと言えば、そもそも武道を売りものに発展してきた組織を、ある時を境に宗教が全面に打ち出される様になってしまった。これまでは青少年教育を唱え、年少者の拳士や保護者に対して武道の修練を通して健康な体と人格、社会性を植え付けて行くと捉えられていた。それが宗教団体を標榜する事で、これまでとは立場の異なった説明が必要になってしまった。

私がこのブログで何度も指摘した事は、武道教育を通して人格形成の一助とする事と、例えは悪いが武道という力を餌に宗教を刷り込む事は全く逆の手法であると言う事につきる。明らかに後者は超能力を喧伝したカルト的団体と類似した構図であると受け取られても仕方がない。それが事実かどうかは別として、現在、多くの指導者が口をそろえて言う「新入門者が居ない!」と言う言葉の重大さである。

彼等の言葉を借りれば、「何らかの理由で少林寺を辞めて行く者はこれまでにも居た」、しかしながら道場を何とか維持できていたのは「新入門者が入る事で辞めた拳士数と同等な数を維持する事が可能であった」からである。しかし現在では長い期間で新入門者が無いと言う現象が続き、道場での拳士数がかなり減ってしまった。結果として道院運営にも支障を来たす様になってきたとの説明であった。

これは一部の意見では無い。私が話を聞いたほとんどの指導者が同様の見解を口にした。それらを無視する事は簡単であろう、しかし今後もこの様な状況が改善されないとなれば少林寺拳法と言う組織そのものが崩壊してしまう事は目に見えている。その様な中で最近では本部と距離を置き、私やBSKFに直接連絡をくれる人達が居る。熱心な指導者ほど現状に居たたまれず、何とかしなければとの思いからであろうと想像する。

部外者の私に何が出来るか分からない。しかしながら私自身が直接関与するまでも無く、組織に疑問を感じた指導者達は自問自答を繰り返しながら考え続けて居るのであろう。その様な人達の中には自分達自身で解決の方法を見付け出し、行動を起こそうと言う人達も居る。仮にその事で将来的に少林寺拳法とは名乗れない結果に成ろうとも、過去に誇りをもって少林寺拳法を修練していた頃を思い出し、武道としての楽しさ、厳しさを指導の中で伝えて行きたいと言う情熱を本人から聞く事が出来た。

少林寺拳法は長い間『世界で一つ』と言い続けてきた。その根底には少林寺拳法をブランドとしてとらえ、『ブランドを守る事が教えを守る事である』と言うバカな論理がまかり通ってしまった事が原因であろう。『少林寺拳法』は本部にとっては商品かも知れないが、多くの指導者にとっては生きがいと夢でもあったはずである。その指導者の情熱が覚めた時に発展は望めない。

同時に少林寺拳法は『LOUIS VUITTON』や『SONY』という優れた商品を生み出す一般の会社では無い。商品であればブランドに対して人々は信用し少々高額な商品でも受け入れる。しかしながら一般の商品の場合とは異なり、武道やスポ―ツの類は人が教える訳であり、同じ武道を名乗る団体であっても個々の指導者に差が有る事は当たり前の現実であろう。

その事実を証明するまでも無く、同じ少林寺拳法の道場でもそれぞれに拳士数には大きな差が出ている。少林寺拳法と言う名称(ブランド)に初めは魅かれたかもしれないが、習うときには当然の事ながら指導者を選ぶ事になる。ブランドで人が呼べると言う事が事実であれば、どこの道場も同様に人が集まらねばならない。しかしながら現実には50名を超える門下生を抱える道場も存在すれば、10名にも満たない拳士数しか所属しない道場も有る。

これらの現実を前に『少林寺拳法をブランドとして守って行けば、将来も間違いなく発展して行ける』と判断した組織の責任者はどの様に答えるのであろう。一般の会社においては、経営判断を誤った者に対する責任を追及できるメカニズム(株主総会等)は存在する。少林寺拳法と言う一大武道組織(宗教組織?)の責任体系はあるのか。無いとすればその様な組織の改革と、それに伴う発展は将来も望めない事はハッキリしている様に思うが、この様な現実を多くの指導者はどうとらえているのであろうか。いま個々の指導者の質が問われている。

2014/11/07

己こそ己の寄るべ

沢山の人達が投稿してくれています、有難うございました、心から感謝したいと思います。

しかしこれで終わりではありません、ここからが本当の戦いが始まるのだと思います。 戦うと言う事は人を傷つける事も覚悟しなければなりません。 肉体的に怪我をさせると言う意味ではなく、親しい仲間や先輩、後輩とも時には意見の異なる場合が出てきます。その様な時でも怯む事無く自分の信念を貫く事が出来るのか?と言う事です。

ここで一つ明確にしておかなければならない事があると思います。色々な意見を述べている人達は少なからず少林寺拳法そのものに愛着や良い感情を持って居ると言う事です。無関心であれば意見など述べる必要もなく、組織がどうなろうと知った事ではないはずです。この前提を認識した上で、ある時には戦わなくてはならない場合が出てくる事も、充分考えられる事ではないでしょうか。

投稿の折りにも例を挙げて説明したマイケル・シャーマー(博士)の指摘するカルト理論に付いて書いてみたいと思います。

1. 指導者に対する崇拝聖人、あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。
2. 指導者の無謬(むびゅう)性、指導者は絶対に間違いを犯さないという確信。
3. 指導者の知識の広さ、哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者は広い知識がある。
4. 説得のテクニック、新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。
5. 秘密の計画、信仰の真の目的と計画が曖昧としている、あるいは新規入信者や一般大衆には、それらが明確に提示されていない。
6. 欺瞞入信者や信徒は、その頂点に立つ指導者や、集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。
7. 金融面および性的な利用入信者や信徒は、その金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得され、指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。
8. 知識絶対的な真理、さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極なものに対する盲信。
9. 絶対的な道徳観指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。
10. その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。

シャーマーは Skeptics Society(懐疑協会)を創設して科学、心理学、社会問題、宗教、カルト理論などをテーマとした講演を行っています。

上記の10項目の中で『日本の少林寺拳法』はいくつ当てはまるのでしょう? 1、2、3、5、6、8、9、10と私の個人的な見解ではこれらの8項目が該当するように感じます。 具体例をそれぞれの項目ごとに書き出して見る事にします。

1.は少林寺拳法の創始者(宗道臣)に対する組織の扱い。
2.に関しては宗教組織の代表が表現したと言われる最高解釈権者(=師家)に対する説明が一例として上げられると思います。
3.は現在の指導者ではなく、創始者に向けられた思いだと考えます。
4.に付いては拳士や指導者に向けた方法として寛大なものから威圧的なものまでさまざまな方法を見ていますが、意見の分かれる所も有ると思います。
5.は組織に不都合なものは隠蔽し、新入門者には宗教色を余り意識させない様な方法が見られる。
6.組織トップが目指す計画や方向性が明らかにされておらず、一般会員には真実は知らされない事が度々ある。
8.創始者に対する検証が許されない。
9.これも創始者が確立した価値観が、組織の内外共に普遍性があるとの盲信が見られる。
10.現在の組織そのものである。

以上の見解には異論もあると思われますが、あくまでも私の個人的見解である事お断わりして表記したものです。

人がどの様に見るのかではなく、一拳士、一指導者として『少林寺拳法』をどう考えるかが問われているのです。最後に問われるのは『自己確立』がどれくらいできているのか? そこにこそ『己こそ己の寄る辺、己をおきて誰に寄るベぞ』、今こそ明確に自身の判断を下す時にきて居ませんか?

2014/10/03

世界で一番強い武道とは

私が少林寺拳法という日本で生まれた武道を指導していると言うと、武道とは余り縁の無い部外者から「世界で一番強い武道は何か?」と聞かれる事がある。

門外漢からすれば世界で一番強い武道を練習したいと言うよりは、興味の対象として知識の一部にしたいのかも知れない。少し考えれば間の抜けた質問である事に気が付くと思うのだが、本人は案外真面目に聞いて居るのかも知れない。

その様な時、私の答えは「強い奴がやる武道が一番強い、但しそれはスタイルでは無い! どの様な武道でも良い」と答える事にしている。どの様な武道であれ『世界一強い』等と不遜な形容が付けられるものなどある訳がない。

アルティメイト・ファイト(究極の戦い)等と呼ばれ、檻に入った格闘家が大衆の前で戦う競技を映像で見た事がある。 筋肉隆々の厳ついファイター達が様々な技を繰り出し戦い勝敗を決める訳であるが、その「チャンピオンが修練した格闘技が世界で一番強い武道なのか?」と聞かれれば、単純に「Yes」とは言え無いであろう。たまたまチャンピオンになる資質を持った人間が良い指導者に恵まれ厳しい修練をしたからチャンピオンになった訳で、誰が修練しても同様にチャンピオンになれる訳では無い。

この様な例はいくらでもある。 100メートルを12秒台で走る人は一般社会ではかなり早い人であろう。しかしオリンピックに出てくるアスリートであれば10秒台で走れる選手以外はその対象にもならない。言うなれば限られた才能を持つ者だけに与えられた戦いの場なのだ。