2010/01/20

何か変だなと一般国民が感じない今の日本での報道

このところ政界がまたまた政治資金やら、不正献金の問題で騒がしい。
以前から感じていた事ではあるが、日本の司法当局は、マスメディアに対して、どんな対応をしているのだろうと、不思議に感じた事が何度もある。
これは何も民放ばかりではなく、公共放送といわれるNHKまでもが良く使うフレーズがある。『関係者からの証言によれば』等と表現され、いかにも情報源が真実であるような言い方を良く見かける。

この“関係者”とはいった誰の事を言うのであろうか?
今回もその事が使われた背景は、事情聴取を受けていた国会議員が逮捕され、その事件について伝えるニュースでも出てきた。まさか逮捕された本人が直接メディアに話したとは考えられない。それ以外の関係者と言えば逮捕に踏み切った特捜部か、検察の誰かと言う事になる。少し慎重に考えればこの様な状態がおかしい事は直ぐ分かるのに、中々それ自体が問題として論じられた事を余り聞いた事がない。

何がおかしいのか?
本来、仮に容疑の掛かった人物を逮捕したとしても、その時点で容疑者が有罪と決まったわけではない事は明白である。 個人の人権にとっても容疑者の個人的情報は、裁判以外の場では保護されなければならない。そうであるにもかかわらず、関係者と呼ばれる人達から、その人物や関係部署の名前を出す事も無く、又真実かどうかも確認できた訳でもないのに、いかにもと言うような情報がぞろぞろと紹介される事に違和感を感じるのは、小生だけであろうか?
足利事件での冤罪が昨年あれほど脚光を浴びたのに、警察や検察ばかりでなく一方の責任を問われるべきマスメディアは、今回もその反省のかけらも見られない。客観的事実だけを伝えなければならないはずの、メディアが面白おかしくテレビのニュースから、ワイドショーまでくり返し放送し、又新聞、週刊誌は同じ情報のソースを何の検証もしないまま垂れ流す事に、一般の日本国民は何の不思議も感じなくなってしまったのであろうか。

大きな問題は裁判での結果が出る前に、多くの国民がメディアに洗脳されてしまい、その事により国論までが左右される事態が現実に出てきていることである。
ニュースや新聞での内閣や政府の支持率や、容疑を公表された政治家に対して使われる、『説明責任がなされていない』と言う言葉ほど、自分達の責任を放り出して都合の良い言い訳にしているとしか思えない。本来のメディアの誠実な立場から言えば、その情報の根拠こそ自ら説明しなければならないはずではないか。それをいかにも政治家や容疑者本人から説明されないからと言って、それを持って黒のレッテルを(イメージ的に)貼って、その事による国民の真実を知る権利どころか、見方を変えれば情報操作と言われても仕方が無いところまで来ているのではないか。

又単純に考えても、テレビ画面に映し出された時間内で、果たしてどの様に説明すれば国民は説明責任を受け入れるのであろうか?預金通帳を見せたり、関係するドキュメントをメディアの前で公表すれば理解されるのであろうか?おそらくどんな説明も何の助けにもならない事は明白である。なぜならばそれを伝えるメディアそのものが、すでに答え『有罪ありき』を導き出しているようにも見えてしまうからである。このメディアの姿勢こそ本来批判されなければならないはずであるのに、この様な論調は何所にも見られない。

国会での記者クラブが海外のメディアから批判される事は度々起きている。なぜならば記者クラブを構成しているメディアは、極論を言えば何の努力もしないで、政府や閣僚、官僚からの情報をいちはやく入手できるからである。これは言い換えれば、どこのメディアも特出は許されず、同じ情報源を、多少のフレーズを変えて大衆にばら撒いていることになる。本来であれば、多様な情報源からそれぞれの信頼にたる客観的な裏付けをとり、それを元にメディアで紹介するのが良質な情報活動であると思う。

世界の先進国と呼ばれる国の中で、マスメディアの一元的な法人が許されているのは日本だけではないか。日本国内のこの状態を海外から見れば、その異常さに気が付くと思う。テレビ放送をする会社が、新聞から雑誌まで、幅広く情報を流す(コントロールできる)事は欧米の社会では禁じられている。情報の均一化は国民の知る権利どころか、国民の思考方法まで左右させる事が出来る力を持っている事を知っているからだ。

マスメディアが導き出した結論、『有罪』が本当の結論では断じてない事は言うまでもないが、そこで導き出された洗脳(言葉は極端ではあるが)は、価値観が均一的(欧米諸国と比べ)な日本と云う国民体質を考えると恐ろしい事ではないだろうか。

『誰も戦争など肯定する国民は居ない』と言う事は簡単であるし、その事事態が間違っているとは思わない、しかし何度も言うように、特別な情報源を明かさないまま、垂れ流される一方的な情報を、何の疑いも無く受け入れる国民的な体質と、その事を良く知っている人達が一部に居る事も事実である。

開祖宗道臣の残した遺訓、『拳士一人ひとりが賢くなって、物事の真実を見抜ける力を持たなければならない』、と講習会で多くの指導者を前に話していた事がつい先日の様に思い出される。その言葉の意味するところが『眼光紙背に徹す』だろうと想像している。

2008/11/26

英会話はそれ程大切か?

1年ほど前に英会話教室の最王手ノバが倒産した。ノバに限った事ではないが相変わらず日本は英会話ビジネスが盛んな国である。

学校教育での英語教育の歪みは前にも書いた事があるが、日本人の英語教育に掛ける情熱は並々ならぬものを感じる。どうしてそれ程英語が大切か理解できない。確かに英語は話せないより話せた方が良い。しかしながら何か目的が有って英会話の勉強に打ち込むのなら理解できるが、海外旅行の為などが目的ならば余り意味を持たないのではないか。

ロンドンにおけるJSTV(日本語放送テレビ)の番組にも英会話の番組を少なからず見かける。もし真剣に英会話を身に着けたいのならば当地のTV(BBCや民法)番組の方が余程役に立つし、わざわざ高額な料金を支払って日本語の衛星放送を受信している人達は、イギリスやフランスで英会話の番組を見るために受信しているわけではない。それにもかかわらずいくつもの英会話番組には思わず『お金を返せ!』と言いたくなる。

日本人はなぜそれ程英語を話したいのであろうか?
一頃 cosmopolitan(国際人)と言う言い方がされたことがある。英語を話す事がその条件とでも考えているとしたらとんでもない勘違いも良いところだ。英語を話すだけならイギリスやアメリカの3歳児でも話す。しかしこの様な子供がいくら英語が話せても誰もコスモポリタンとは言わないであろう。

本当の意味で国際人と言われるような人ならば英語のみならず4カ国か5ヶ国語くらい話せなければ嘘くさくなる。これだけコンピュータや携帯電話が普及してきた世の中である。今少しすれば携帯端末サイズくらいの翻訳機が発売されても不思議ではない。そんな時になって高額な代金と時間を使って英会話を勉強してきた事が無駄にならねば良いと思うのだが。

大切な事は流暢に話せるか?では無く、何を話すか!と言う事ではないか。国家の品格の著者 藤原正彦氏の言葉を借りれば、英語が上手く話せれば話せるほどその話す内容が大切になってくる。もし中身の無い話を流暢な言葉で話せばバカを証明する事になってしまう。上手く英語が話せない人ならば黙っている事で日本人の謙虚さと受け取られる場合もあるが。藤原氏に言わせると英国人のインテリ層は日本の文化や歴史にも精通している者が多い。その様な連中の前で発音だけは上手に話せても、自国の歴史や文化を理解していなければ余計バカにされるだけだと言う訳だ。

確かに何年か前に自分も日本へ行く飛行機の中で、隣の席に座ったイギリス人のビジネスマンが日経を読んでいる光景に出会った事があるし、又別の機会には自民党政権の話や野党の政治家の名前をすらすらと織り交ぜて、日本の政局を流暢な日本語で話す人物にも会った事がある。こんな事を目の当たりに経験すると確かに英語(会話)を勉強する事も良いが、その前に日本の歴史や文化について一通りの知識は先に勉強しておかなければ、英語を話す事によって余計に恥ずかしい思いをする事があると言うのもうなずける話しである。

英国連盟に所属する拳士の中にもイギリスの大学を卒業して日本に研究者として留学した者や、人文社会学で日本の宗教体系から禅文化を論文に残したものが認められて博士号を取得した拳士まで居る。元々は少林寺拳法の武道としての魅力から入門してきた拳士達ではあるが、そこから日本に対する興味が進み研究対象になる事は自然な流れなのかもしれない。彼等の話す日本語には日常会話としてのレベルでは無い、一般の日本人が聞いても難しい専門分野内容の話が出てくることを思うと、英語の前に日本語を正確に勉強する事の方が大切だと思うようにも感じる。

2008/11/19

ゴルフのブルーモーション

今年のホリデーは日本から来た学生時代からの友人二人と、自分と家内の4人でポルトガルへ出かけた。ポルトガルは今年2回目である。ポルトガルが初めてと言う友人達と行った訳だが、自分はこれまでに拳法の関係で5回ほど訪れており好きな国の一つである。

家内も4月に家族で訪れた時が初めてのポルトガルであったが、その時は南部のアルガーブ地方に滞在したので北部の観光地等は初めてだった。それがホリデーであれば一ヶ所に滞在して、のんびりする事が目的であるので問題は無かったが、それまでの自分が経験した『ポルトガルは日本人の好みに合った美味い食事!』と言うには4月のホリデーは正直がっかりした事を覚えている。

今回は日本から来た友人と観光旅行が目的だった為、北の町ポート(Port)にロンドンから到着した。ここはポートワインの由来の街である。

ロンドンのスタンステッド空港からライアン エアーという格安の飛行機で飛んだ。飛行時間は2時間半位だからたいしたことは無いがこれまで一度も利用したことの無いスタンステッド空港が驚くほど大きく斬新なデザインの空港であった事に少なからず驚いた。

さて、今回の話はポルトガルの旅行が目的ではない。Portの空港に到着してネットで予約しておいたレンタカーを受け取りに行き、予約ではトヨタ カローラのエステート(ワゴン)ディーゼル車を頼んでおいたのだが、我々のスーツケースの大きさ(特に日本からの2人)がカローラ エステートでは納まらないのでは?と言う事で急遽ヴォルクス ワーゲンのゴルフ エステートをあてがわれた。大きさは普通のゴルフと同じだったが荷室部分がはるかに大きい為問題なく収納できた。この車はブルーモーションと言う低燃費型のターボ ディーゼルのエンジンらしい。

英国は日本と同じ左側通行のため、初めのうちは右側通行とマニュアルのトランスミッション(右手操作)に慣れるべく慎重に走り出したがその軽快な運動能力に驚いてしまった。ポルトガルの高速道路はガラガラで飛ばすにはこれ以上の条件は無い。気持ちよくアクセルを踏み続ければスピードメーターは軽く150kmを超えてしまう。車内はそのスピード域でも声を大きくして話さなくても普通に会話が可能で、ガソリンエンジンの車と同等か、より静かに感じる程であった。

レブカウンターが1500回転を越える辺りからトルクの乗った実に気持ちの良い加速を味わうことが出来る。一昔前のディーゼル エンジンの特徴だった加速が遅い、エンジン音がうるさい、排気ガスが汚いと言ったイメージからは程遠い素晴らしい印象を受けた。ブルーモーションとは聞きなれない名前が付いていたが何でもvwのディーゼル車の中でも燃費効率の良い車種に付けられる名称らしい。4モーションと言うのは昔からvw車にはあったが、これは四輪駆動の車を意味していたのでブルーモーションは同社の新しい省エネ車、それもディーゼルエンジン車に付けられる名称で運転の楽しめる車の名称かもしれない。

今回のポルトガル縦断には自分のほか日本から来た友人も運転を楽しんだ。特にポルトガル中部の町エボラから高速道路を使って南部のアルガーブ地方までの区間は他のヨーロッパ諸国とは異なり、車の少ないこともあり快適なドライブだった。

150kmからでも加速を受け付けるターボディーゼルには本当に感銘した。燃費の良さが売りのエンジンだとは思ったが、仮に普通のガソリンエンジン程度の燃費率だとしても、自分は魅力的なエンジンだと思った。その主な理由は先程ものべたようにエンジン音が静かである。走行中の車内ではガソリン車よりも静かだと感じた。停止した車のアイドリング状態を車外に出て音を聞けばガソリン車の方が静かだと思うが、一旦走り出してしまうとエンジン回転の低さも手伝い、非常にスムーズで静かな印象だった。加速も申し分なく、一昔前のディーゼルエンジン車を知る我々の世代には、今日のそれ(優れたディーゼルエンジン)は以前スイスで乗ったルノーのディーゼル、メガーヌも含め格段の進歩を感じずにはいられない。

ロンドンへ帰ってからも目はついついブルーモーションを探すが、イギリスはアメリカや日本と同様にディーゼル嫌いの国で中々見つからない。

ディーゼル嫌いの日本でもガソリンに比べればディーゼル フュールの値段は随分安いのに、イギリスは逆に少しではあるが高い!こんな馬鹿な事が許されて良いのか。あれほど政府に口うるさいイギリス人は、なぜこの件(ディーゼルの高値)については文句を言わないのか自分には理解できない。

価格がヨーロッパ大陸や日本のように安ければもっと多くの人達がディーゼル車に乗ると思う。現在もEU圏内にありながら通貨はスターリング ポンドを貫きユーロ圏に加わらない。同じヨーロッパ域内でも好みや政策がこれ程異なった国々を、EUと言う枠で治めようという試みは、はたしてこの先どうなるのであろうか興味は尽きない。

来年の今頃はVWブルーモーションのゴルフに乗っているのかな?楽しみでもある。

2008/10/31

警察官から裁判官まで

アメリカと言う国は本当に不思議な国である。世界中の紛争地に何らかの理由を付けて関わる事を率先してやっているように感じる。

確かに世界のスーパー パワー国家であることは誰しも認めているところであるが、もしかするとこの様な態度(おせっかい)がアメリカ人が望んでいない反感を生みだし、その結果としてアメリカに於ける9.11のテロにつながったのではないか?と思える節が無いでもない。

アメリカ議会において日本の従軍慰安婦問題が議題に取り上げられたことについて、いったい彼らのメンタリティは何をしてこの様な他国の事案にまで首を突っ込むのか小生には理解出来ない。

前にも書いたが第二次世界大戦の結果、日本が無条件降伏をしたからといって歴史まで彼らが都合の良いように書くことまで承服したわけではない。

何度も書いたようにこれらの案件(双方の意見が食い違う)には『客観的事実が必要だ!』と言う事は真実を伝え続ける為にも大前提となる事は世界共通の理念ではあるまいか。

日本政府が従軍慰安婦(当時はその様には呼んでいなかった)に関する国の関与を示す記録は無かった(抹消された可能性はあるとしても)と正式に抗議しているがアメリカ議会は無視のようである。

今一つ明確にすべきは当時の朝鮮半島は独立した国家ではなく台湾と同様に日本の領土として国際的にも認められていた事である。兵士や軍属として強制的に狩り出された朝鮮半島の人達が不満を持つことは理解できるが、彼ら彼女らを『朝鮮人』として軍属や挺身隊に徴用したわけではない。

東京裁判(極東軍事裁判)は歴史的に見ても違法な裁判であった事がこのところ当時のこの裁判に関わった人達の供述からも証明されている。

ちょっと冷静に考えれば分かる事だが、国の代わりに個人を当てはめて考えれば答えは明らかであろう。AとBと言う二人が喧嘩をしてAが勝ったとする、普通裁判になる場合には仮にBに非があったとしてもAが裁判官や検事、弁護人までやる事(任命する)は無いだろう、そんな事をすれば誰も正統な裁判とは評価しないからである。

事実東京裁判においてインドのパル判事は『東京裁判は裁判にあらず、復讐の儀式にすぎない』と強く抗議し、裁判自体を違法として、根底から否定した事が記録として残されている。

パル判事から指摘された『原爆投下や東京大空襲の方が罪深い』(被災者の99%が非戦闘員の民間人)と言う事実には無視を決め込み歴史を自分達(戦勝国)の都合の良い様に書き換えてきたのがアメリカを初めとする当時の連合国である。

日本政府からの抗議『従軍慰安婦を国として強制した事実は無い』と言う主張にも無視を決め込むこの様な態度は、『自分たちは世界の平和や人権に貢献している』と自負して居ても、現実には期待とは裏腹に世界中の多くの国や民族に敵対心をあおっているとしか思えない。

歴史に向き合い日本政府に従軍慰安婦問題について正式な謝罪を要求するならば、まず先に広島と長崎に対する原爆投下を謝罪する態度こそがアメリカの取るべき姿ではないか。日本国民がテロ行為等の報復行動に出ることはまず考えられないが、価値観の異なった国であればテロも充分に考えられる。

教育、宗教政治体制等どれもがテロの可能性としては否定できない。アメリカ国民が意図しないこれらの政治や経済のプロパガンダが結果的に世界中に敵を増やしているとすれば割を食っているのはアメリカ国民かもしれない。

2008/10/17

車の二極化(その2)

現代社会の車の二極化の一方は経済的な要素をより多く持った車の台頭であろう。小排気量の車は勿論そうだが、昨今の環境やエコロジーブーム、そして究極的には原油高騰に伴うガソリンやディーゼルの値上がりが、ハイブリッド車や燃料電池車そして究極的には電気自動車へと開発を急がせている。

数年前にはある程度予想も出来たが、まさかガソリンの値段が1リットル£1-20を超える時代がこれ程早くこようとは多くの人が想像していなかったのでは無いだろうか。 

その1でも触れた様に自分がこのところ興味を持つ車の種類が変わってきた事である。ガソリン価格の高騰と言う事も確かに一因ではあるが、それだけが原因ではない。以前はほとんど興味がわかなかったディーゼルの車、それも小排気量車がやけに気になり始めた。

英国は日本に似ていて乗用車のディーゼル比率がそれ程高くは無い。ひるがえってヨーロッパ大陸の国々では車種によっては50%を超えるディーゼル乗用車も珍しくは無い。なぜこの様に英国とそれ以外のヨーロッパ諸国では差が出るのであろうか?

英国ではディーゼル燃料の価格が日本や他のヨーロッパ諸国の様に安くなく、無鉛ガソリンと同じ価格である。そんなことも今ひとつディーゼルエンジンの乗用車が普及しない要因ではないかと想像している。

一昔前のディーゼルエンジンは確かに良いイメージは無かった。パワー不足(加速が悪い)、黒煙を出す(環境に悪い)、エンジン音がうるさい、等がおもな理由だった。だったと言う事は過去形である!現在の洗練されたディーゼルエンジンの車に乗れば多くのディーゼル嫌いの人が考えを改めるのではないかと思う。

特に最近ではヨーロッパ大陸の国々ばかりではなく、英国でも積極的にディーゼル車を買う人達が増えてきた。ガソリンと値段の差が無い英国だが、これ程までに燃料代が上がってくると少しでも燃費の良い車にと思うのが普通の選択だ。ディーゼルはその点ガソリン車に比べればはるかに燃費は良い。1Lで走れる距離に大きな差があればかなりの人がディーゼル車に興味を持つことは容易に想像がつく。

そして最新のディーゼルエンジンに乗ってみれば、過去のディーゼルとの違いを改めて認識することになる。パワーもガソリン車に劣らなく、トルクが太いため加速も充分に楽しめる。エンジン音もほとんどガソリンのそれと区別がつかない位になっているし、黒煙を吐いて坂道に差し掛かったらヒイヒイ言うようなエンジンは最近のディーゼル乗用車では先ずお目にかからない。

その様な体験が自分の好みを変えてきた事も確かである。今ひとつは車の持つポテンシャルをフルに使い切ってみたいと思うようになった。その1でも書いたように大排気量のスポーツカーやリムジンでは乗せられている感覚が強く、自分で車をコントロールしている感覚が乏しくなる事である。

その点1000ccくらいのエンジン車ならばパワーも知れている。パワーアシストも高級車や大排気量車の様には付いていない。環境さえ許せば車の持つポテンシャルをフルに引き出すことができる。田舎の曲がりくねったB級道路(スピードカメラも無く、制限速度もゆるい)を飛ばす楽しさも味わえる。それが小排気量のディーゼルエンジンならばよりベターな感じがする。

その様な事を想像するに1000cc~1200cc位の、ディーゼルターボのエンジンを積んだ、マニュアル トランスミッションの小型車が欲しいと心から思うようになった。大きく振り回せない車に乗っている自分を想像すると、トヨタではないがいかにもIQが疑われそうでカッコ悪いイメージになりそうだ。

2008/10/11

車の二極化(その1)

このところ原油の先物相場の値上がりに引きずられ、ガソリンの値上がりが随分と高くなってしまった。そのせいもあって車の売れ行きが酷く落ち込み、アメリカやヨーロッパなどはこれまでのところ前年比でかなり落ち込んでいるようだ。

そんな中にあって車の二極化が目立つようになってきた。一方は高級車と呼ばれる種類の車で一台数千万もする車、もう一方は経済の方向性もあって小型の小排気量車と云う具合である。

高級車と呼ばれる車を買う人達はいつの時代もそんなに変わらないのかも知れない。年間生産台数が数百台にも満たない高価格なスポーツカーや、排気量が6,000ccを超えるリムジン等を買う人達にとっては、少々経済の風向きが下方修正されたからといってどうと云うことも無いのであろう。

しかし自動車会社が主な顧客としている一般人は大きく経済の動向に影響される事は云うまでもない。特に昨今の世界経済の不透明さや、原油価格の高騰に引きずられた燃料価格の高止まりは、これらの車を買う人達の心理状況にも大きく影響を与える事は今さら云うまでもない。

アメリカやヨーロッパの新車売れ行き状況は前年度比のマイナス15%~30%という具合で、昨年まで他の自動車メーカーが苦戦する中、独り勝ちの状態であったトヨタまでもが、今年の販売台数を大きく下方修正するほどである。

ハイブリッド技術を誇り、他のメーカーとはかけ離れて成功をしてきたトヨタであるだけにその影響は世界中の車メーカーに大きな不安を与えた事は事実であろう。そのトヨタが自慢のハイブリッド車ではなく、コンベンショナルな技術を使って小型車を発売しようとしている。名前はIQと云うらしいが、いかにもIQ(知能指数)が高いものが選ぶと云う様な斜に構えた見方は自分だけかも知れない。

以前の自分の好みは単純だった。ポルシェやフェラーリは今でも見ると良いなとは思うが、以前はこのようなスポーツカーに乗りたい!と心底思っていた。乗りたいと思っても簡単に買える様な車ではないことは充分に承知していたが、それだからこそ何時かは買ってみたい車であった。

そんな自分が最近興味を持つようになった車は全く逆な方向の車である。現在乗っている車も結構大きいが、この様な大きな車はガソリン代の高騰と云うだけが理由ではなく、何か車に乗せられている感じが強いのだ。

確かにパワーも有り、ほとんどの取り回しはパワーアシストが備わり、高速走行も安定しているし楽チン極まりない。しかしながら前述した車に乗せられている感はどうしても拭えず、車の持つポテンシャルをフルに使い切る場所など、ドイツのオートバーンかサーキット位しかない。

以前ドイツを旅したときメルセデスCクラスのレンタカーで時速200kmオーバーで1,500km程を運転した経験が有るがあの様な道路環境は他の国には存在しない。ドイツの整備されたオートバーンであっても時速200kmオーバーを連続して維持することは無理である。追い越し車線に出てくるトレーラーや小型車に行く手を阻まれてしまうからだ。

それでも合法的にその様な運転が許される国であれば、ポルシェやフェラーリも魅力的なチョイスであろう。経済的事情が許すのであれば本当に欲しい車だ。しかし現実に英国に住む自分にとってロンドン域内では30マイル制限も珍しくない。日本に比べればいくらかは道路事情がましかも知れないが、ロンドン市内や周辺の高速道路には至る所にスピードカメラが設置されている事を考えれば、高性能の車はもはや宝の持ち腐れに等しい。 

そればかりか普段の乗り方が車の持つポテンシャルの半分も使わないとすれば、エンジンやサスペンションに掛かるストレスも相当なもので車にもよろしくないことは言うまでもない。以前聞いた話だが、『日本で使われているメルセデスSクラスはエンジンが回らない!』と言うのが定説らしい。普段ショーファー ドリブンの車として使われ、車の持つポテンシャルの30%くらいの速度域が、日常使われるスピードの上限である事がその主な原因との事だった。(その2に続く

2008/09/26

悲観主義よりも楽観主義のすすめ

楽観主義と悲観主義と言う言葉がある。英語にも Optimism と Pessimism と言う言い方をするが、自分は確実にoptimistの部類に入る人種である。大まかな見方をすると海外に出てくる日本人にはpessimistな人は少ないように思う。もし悲観主義者が外国で生活するとなると色々と大変である。文化の違いによるストレスはかなり大きく、性格的に悲観主義的な部分が大きい人では生活するだけでストレスが溜まりノイローゼになってしまう。

何か事を始めるに当たり思い悩む人は多いが、自分の場合はほぼ直感的に決める特徴がある。時として思い違いもあり失敗する事もあるが、行動に移る方が早い方である。言い換えれば走り出してから考え、修正が必要な場合には走りながら修正するタイプであろう。よく充分な計画と戦略を練って物事に当たると言う事を聞くが、確かにしっかりした計画が成功の重要な要因である事は分かる。しかしながら何事も計画通りに進むとは限らない、そればかりか計画通りに行かない事の方が多いのではないかとさえ思う。そんな失敗を先に考え最初の一歩を踏み出せないとしたら、成功どころかいつまで経っても結果は出てこない。

『失敗から学べ!』と聞く事もあるが、はたして人は失敗からそれ程学べるのであろうか?疑問のほうが大きい。失敗をイメージして物事に当たれば、その事自体がネガティブ効果を発揮して失敗する確立はより高くなるように思う。それよりも成功する事をイメージして事に当たったほうが、成功する可能性が高いと思うのだが。こんな事を書くと『何とノー天気な野郎だ』と笑われそうだが、事実そのとおりノー天気な性分だから文句の言いようも無い。『失敗からは学べない!』と自分が思うのは、『失敗した事は、取り返せない場合の方が多い』と経験から言いたいのである。

言い訳に聞こえるかもしれないが、言わんとするところはそうではない。もし人間が失敗から学ぶ事が可能であり、そしてその結果として失敗を取り返すことが出来ると仮定すると、誰も失敗する人は居なくなってしまう。なぜならば2度目、3度目には成功するからだ。しかしながら現実はそうではなく、失敗から学ぶ事など簡単には出来ないからその様に言って慰めているのではないか。

時間も異なるし環境も違う、禅的な言い方をすれば『一期一会』である。二度とその失敗を取り返せないのであれば、『失敗からは学べない』と言う事にはならないか。もしそうであるならば失敗に目を向け、又同じ様な失敗を繰り返すのではないか?とビクビクしながら事に当たる方が、その精神的ネガティブ イメージを繰り返し学習しているようなもので、余計に失敗の確立を大きくしている事になるのではないか。

ゴルフのパットを思い出してみると、前のグリーンで読み間違えてボギーになった事をくよくよ考えて、目の前のボールが又外れるのでは?と思い悩んで引きずって居ると、その時のパットは外れる事の方が多かった。つまり失敗したイメージが脳の中で繰り返される事により自然にその現象が腕の動きに連動してしまい、のびのびとしたパッティングのストロークを阻害する結果につながり易いと言う事ではないか。

この現象は何もゴルフに限った事ではなく、人の脳が及ぼす良いイメージと悪いイメージの作用は、理論では割り切れない影響が色々な形で現れるとは想像できまいか。

そうであるならば逆も又真実なり、『悪いイメージが悪い結果を招く確立を高くする』と言う事は、『良いイメージは良い結果を招く確立が高くなる!』と言い換えても良いのではないか。ゴルフの上達を夢見る人には、スイングの前に必ず良い結果を頭に描いてスタンスに入る事を心がけるだけでも、何割かのスコアは良くなる事を自分の体験から信じるのである。