2008/04/27

識字率5%の意味するもの

日本の識字率は世界でも最高と言われる。事実かどうかは別としても確かにヨーロッパの先進国に比べても日本の方に分があるように感じている。英国における文盲率は30%と聞いた事がある。なぜならば英国に流入する外国人は日本に比べてはるかに多いからだ。

最近では日本も一頃より文盲率は上がって来ていると思われる。なぜならば経済大国であることが世界中に知れ渡る事により海外から日本を目指す外国人が増えているからである。識字率とはこのような在留外国人も含めて数えるためどうしても外国人比率の多い国は文盲率も高くなるという訳である。

日本は昔から読み、書き、算盤といって一部の社会層の人ばかりでなく一般教養としてこれらの学習を重んじてきた。その結果、世界でもまれに見る識字率の高さと、数学とまで行かなくとも計算能力の高さを有した国民であった。その事が江戸期から明治に時代が変わるやヨーロッパ先進国の技術やあらゆる文化の導入を短時間でなし得た原動力であったことは言うまでもない。

しかし今日取り上げたのは日本人の識字率である。ある人に言わせると日本人の識字率は5%であるらしい。これを直接読んで憤慨される人達は多いと思うが、ここで言う識字率5%と言うのは文盲率95%という訳ではない。5%くらいの人が新聞やニュース等から本質を見抜く力(眼力)を持っていると言いたいのだと思う。確かに昨今の日本国内の報道を見ると表面しか追っかけていないものをよく目にする。特に週刊誌やゴシップ中心のワイドショーに踊る文字を見ていると、前にも書いた『眼光紙背に徹す』は今の日本社会では不可能かな?と考えてしまう。

つまりここで言う識字率5%とはそれらマスコミの軽薄な論調に惑わされず、真実を行間から読み取れる人の事を言っているわけだ。

しかしながらこのようなマスメディアが発達した日本においては、表現の自由と言う事もあってTVニュースに流される映像や付随するコメント、そして新聞や週刊誌の果たす洗脳効果は想像するだけで気味が悪くなる。当然中には意図の感じられる見出しや映像などが一般の視聴者や読者を一方的な方向へ向けさせる役割を果たすことも度々目にする事がある。

これらマスコミの果たす役割は想像以上に大きく司法が裁く前に世論が形成されてしまい、国民の目はマスコミの描いたストーリーにいつの間にか流されてしまう。司法の判決以前に犯人を特定してしまう事も出かねない情勢であると言っても過言ではないであろう。オウムの松本サリン事件はまだ記憶に新しいが被害者にさえもマスコミが煽った論調で、犯人にされそうになった被害者が訴えている姿は事の重大さを認識する上で大きな教訓とはならなかった。

それにつけても、マスコミによる昨今の現象は異状を通り越して陳腐でさえある。ところかまわず電車や地下鉄の車両内はもとより週刊誌やゴシップ取材にしのぎを削るTVのバラエティー番組など、国民の知る権利とは名ばかりの興味本位の煽り方で、これでは本質などほとんど見抜けないのが良くわかる。視聴率を上げる為に番組制作をしなければならない民法ならともかく、国民から受信料をとって番組制作をしている天下のNHKでさえも、随分政府のご機嫌取りをしているような番組を時々見かける。これでは同じ公共放送と言ってもイギリスのBBC放送等とは政権との関わりではスタンスにおいて随分と差がある。

民族的なテーストの差も当然文面や映像に反映される事であろう。直接的な惨たらしい戦争地から送られる映像を流せば一部の日本の視聴者からはクレームが付くのかもしれない。しかしながら戦争の本質的な残虐さが伝えられてこそマスメディアが果たす真の価値が有るのではないか?単に綺麗な映像ばかりを視聴者に流し続ける事がメディアに関わる者の本来求められる姿勢ではないように思う。

2008/04/20

本当の豊かな社会とは

現在日本のおかれている豊かさは国連開発計画(UNDP)による06年度の報告では世界で7番目というランキングらしい。
その報告書によれば、日本は米国、スイス、オランダより順位は上でフランス16位、イタリア17位、英国18位、ドイツ21位よりはるかに豊かな国と位置付けられている事になる。

しかしこの報告書は今一つシックリこない。現実の経済状態を見ても確かに『失われた10年』と呼ばれた一時期の経済状態からは抜け出したのかも知れないが、自分が感じる豊かさの実態がその様な事を言われても『うんそうか』とはうなずけないのだ。

ではなぜシックリ来ないのかといえば、長年見てきたヨーロッパ諸国の人々の生活ぶりである。カルチャーが違うので一概に比較は出来ないのかもしれないが、例えば昨年の少林寺拳法創始60周年記念大会に英国連盟からは26名の拳士が参加した。

そしてそのほとんどの拳士は2週間くらいの日本滞在時間を取り、少林寺拳法のスケジュール以外にも観光等を楽しむ計画をタップリ取っているのである。

ヨーロッパに住んで思うことは彼らのライフスタイルが実に自由気ままに、何処へでも出掛けて行ける時間的余裕を持っている事である。確かに日本の平均年収などと比べると額面では遥かに分が悪いと思う。しかしながら一方で少ない収入イコール惨めな人生では無いと考えるようになった。日本という国のGDPは確かに世界でも屈指の高さである事は間違いない。しかしその豊かさはもしかすると国民生活の犠牲においてのみ成り立った数値ではないかと考えてしまう。

年収の額面も確かに豊かさを図る一つの指針にはなるであろう。しかしながらである、例えば年収が1000万を超える人でもその収入をどの様に使うかも豊かさを見る上では指針になるのではないだろうか?何千万円もの高収入がある人でもそのお金を使えない(使う時間が取れない)とか、その代わりに豪邸を建てたり高級車を買ったり、資産を残したりだけでは本当に豊かな生活をしていると言い切れるであろうか?

ステータスのシンボルとしての豪邸や高級車では豊かな生活とは呼べないのではないか。その日の食べるものにも困るようではとても豊かな生活とは言えないが、豪邸や高級車は無くとも(持てなくても)好きなときに好きなところへ出掛け、自由に楽しむ為の時間を持つ人間のほうが豊かではないかと考えるようになった。

これも英国に住んで長年イギリス人やフランス人、イタリア人等のヨーロッパ人達の生き方を見て来たからかも知れない。彼らのライフスタイルは至ってシンプルな人が多い。勿論物に執着する人も居る事は否定しない(ある意味では日本人より多いかもしれないが)が、自分の生き方をある程度もったヨーロピアンは物よりも時間の使い方を大切にしているのではないかと思う。

なぜそう感じるかと言えば、先にも書いたが少林寺拳法という一つの楽しみの為に日本へ出掛ける拳士を何人も知っている。

彼らは勿論拳法の練習や、そこで出会う仲間達との交流も楽しみにしている。又観光もその楽しみの重要な要素ではあるとは思うが、観光だけが目的なら毎年異なった文化の国へ行った方が楽しいはずである。そこには少林寺拳法や友人、そこに暮らす人達の文化に対する共鳴等、拳士である彼ら彼女らが好きなものに時間とコストを惜しみなく掛けられる時間的、精神的な余裕のようなものを感じるのである。

そんな事を想うとき本当の豊かさとは、自分の好きな生き方が出来る人達が本当に豊かな人達ではないかと思うようになった。

経済的な指標も一つの目安かもしれない、確かにアフリカやアジアの途上国に比べれば日本は充分に豊かな国である事には疑問の余地は無い。しかし人はこの世に生を受けて死するまでの時間には限りもある事を考えると、生きている時間の中でどれくらい自分の満足できる時間を過ごしたか?が最終的な豊かさの基準ではないかとも思ったりしている。

2008/04/09

調査捕鯨は日本人が考える以上に複雑だ

このところオーストラリア政府は政権が変わってから日本の調査捕鯨に厳しい態度を示している。日本政府のこの問題に対する反応は余りにも楽観的といわねばならない。先ず何が楽観的かと言えば、来日した外務大臣との会談では『この問題(調査捕鯨)が両国の他分野に対する影響は極力排除しなければならない事で合意した』?この様な意味不明の言い回しは外務官僚お得意の落としどころかも知れない。

その外務大臣閣下が日本に居るうちに、本国では環境大臣が『調査捕鯨は違法だ!』と決め付けて、『国際裁判所に提訴する』とのたまわって居るではないか。何のことはない日本の外交力の無さ(脆弱さ)を見せ付けられたようで、がっかりしたのは今回が初めてではない。

高村外務大臣閣下は我が少林寺拳法連盟の議員連盟会長であらせられるので文句を言うつもりは無い。しかしながら外務官僚が当然掌握していなければならないオーストラリア政府労働党の新キャビネットの閣僚発言が、どの様な外交問題を引き起こす可能性があるかと言う時に、玉虫色の落としどころと言う手法を相変わらず使っている事である。

南氷洋上でおきているグリンピースやシーシェパードの行動を見れば、その様な悠長な事を言ってお茶を濁していられない時に来ている事は誰が見ても分かる。アメリカのCIAリストによれば、シーシェパードは『環境テロリスト』のカテゴリーに含まれているし、グリンピースなる団体は国際環境保護団体を名乗ってはいるが、その中に居る人達は本当の意味で環境保護を訴えている人ばかりではない。政治活動の一環として環境は今や票に繋がる重要なマニフェストである。 

環境保護者の多くは善意によるところは多いが、残念ながらその純粋さが逆にカルト主義者に完全に洗脳されている事に、気が付いていない人達がほとんどである。この様な場合オウム事件を検証してみれば分かるように、傍がいくら正論を言っても麻原彰晃に洗脳された信者には全く通じないのと同じである。では何が洗脳されているかといえば『鯨は賢い!』『鯨は可愛い!』『鯨は絶滅の危機にある!』と言うことの3点を無条件で信じている。信じることは自由だがそれらの3条件を信じる!信じない!の自由は個人にあることを認めようとしない事が問題を大きくしている。 

問題はグリンピースのメンバーも、それ以外の人達もその事態を認識していない事である。そこから生じる考え方の違いは理論でどのように説明されようが、麻原に帰依したオウムのメンバーに正論をぶつけるのと同じ結果であることを理解していない事と同じだ。一般的に英国やアメリカでは捕鯨に否定的な人でも、グリンピースやシーシェパードと皆同じ意見と言う訳ではない。論理的に話せば日本の調査捕鯨に理解を示す人も居る。しかし捕鯨カルトに洗脳された人達にはこの論理は通用しない事を理解しないと永久的に無駄な努力をする事になる。

国際裁判所にオーストラリア政府が提訴するというのなら日本政府も受けてたつのも一つの選択だ。その場において日本の主張をぶつける事もアピールにはなる。欧米のメディアはその多くが半捕鯨の立場が強い事も知っておかねばならないが、それでも科学的そして論理的裏づけのある裁判でのディベートは捕鯨に対する認識を改めさせる可能性はある。グリンピースやシーシェパードのスポンサーと成り下がったオーストラリア新政権に媚を売ってあいまいにするよりも余程意義があるように思う。

2008/04/04

F1GPは時代のニーズか逆行か?

昨今グランプリ サーカス(F1 GP)では話題も色々と賑やかである。シンガポールがグランプリの夜間レースを招致するとか、メルボルン市が夜間グランプリ拒否で2010年以後のオーストラリアGPが無くなるとかが紙面をにぎわしている。この環境問題が取り立たされて居る時にF1のレースはある意味において非常に時代錯誤の部分もあるが、そんな極端とも言える条件下で生み出される新たなテクノロジーは将来の車社会を救う事が出来るのかもしれない。

燃費や使われる資材、開発エンジニアーやドライバーに支払われるコストなど、どれ一つを取っても尋常なレベルではない。そして今度は昼間のレースでは飽き足らず、電気代も桁外れのコストが必要になる夜間レースときたもんだ。いったい彼ら興行者のメンタリティーは興味さえ引ければ何をしても良いと考えて居るのであろうか?GPレースが好きな自分でも夜間レースが新技術開発に寄与するとは考えられないが。

又同時に市街地で行われるレースにも今一つ納得がいかない。確かに一般道を使った方が実際の市販車により近い技術が開発されるのかも知れないが、これも夜間レースと同じ理由で技術開発よりも観客の興味が対象であることは明らかだ。100キロ以上のスピードでぶつかってもF1カーに施された諸々のセーフティ デバイスがドライバーを守ってくれるのは確かに素晴らしい技術ではある。しかしながら今日のF1カーに使われているテクノロジーが将来一般の市販車に使われる事があるのだろうか?と素朴な疑問がわいてくる。

カーボン コンポジットで作られたシャシーだけでも数十億円も掛かるコストは、市販車には縁の無い素材と技術(衝撃吸収のクラッシャブル構造)や、これまた桁違いのカーボン素材で作られたブレーキ(F1専用)等。ちょっと考えてみればすぐ分かる事だが一般車両で車両重量が600キロの車で、エンジンパワーが1000馬力を超える様な車等ありえないことである。日産マーチですら車体重量は800キロも有り、エンジンパワーは58馬力〜79馬力と言う事を考えてみれば、如何に浮世離れした現実味の無いコストを掛けているかが分かるはずである。

ホンダの創始者本田宗一郎氏は『F1は走る実験室だ』と言う有名な言葉を残した。確かにこれまでのガソリン エンジン車の発展においては市販車も含めてかなりのテクノロジーをF1から得ている事は認めよう。しかしながら今日の環境問題が問われる時代に過去と同じ様に内燃機関を中心とした車が生き残っていけるのであろうか?そこの定義も無く膨大な資源の消費と開発コストを掛け続ける事に少なからぬ疑問を押さえる事が出来ない。願わくば好きなGPサーカスが次世代の車社会に対する提言と方向性を示してくれる事を期待したい。

2008/03/24

少林寺拳法はどの様に海外に発展させるべきか

海外において少林寺拳法の普及度は正直なところまだまだ初期段階ではないか。日本文化の一つである武道などは比較的早い時期から海外に紹介されている。柔道に至っては英国に伝えられたのは第二次世界大戦以前の話だ。近年では空手や合気道といった武道も英国中のいたるところで道場を見かける。この様に海外における日本文化の発展にはその国と日本がどれくらい結び付きが強いのか!という事とも無縁ではない。

ほとんどの場合は経済的な結び付きが最初であろう。日本経済の発展と共にその優れた工業製品が世界中で売られる事と相まって人の交流も当然出来てくる。そんな中から色々な文化的交流事業も出てくるのだと思う。

自分はヨーロッパ以外にも少林寺拳法指導のため途上国も訪れた事があるが、その様な国の場合にはどうしても文化的交流は経済同様、先進国に比べて日本との関係も薄くなるのは確かである。日本からするとアフリカ諸国はやはり地理上の距離以上に遠い存在である。 

しかしながらその様な国の国民が少林寺拳法に興味が無いのか?と言えばそんなことは無い。アフリカの国からは今でも指導者を送って欲しいという要請がWSKO本部ばかりでなく自分のもとにも何度も寄せられる。指導者としては甚だ心苦しい事ではあるが多くの場合これらの要請にはこたえられない。先ず初めに問題になる事はこれら途上国に行こうとする指導者が居ない事である。

主な理由は色々有るが経済的な自立が難しい事に加え、環境、衛生、政治といった少林寺拳法指導以前のこれらの問題をどう乗り越えられるかという事である。これらの問題は個人のレベルでは限界がある為なかなか根本的な問題解決とはならないのが現実である。

何もアフリカやアジアの途上国ばかりでなくヨーロッパの国からもこの様な要請は多い。これまで旧共産圏であった国々からの問い合わせや、それらの国がEUに加盟するようになりより現実的な要請が来るようになった。

ここでも問題は一筋縄では解決しない。先ず指導者の数がヨーロッパにおいても決定的に少ない。そしてそれら旧共産圏の国々は英国といえども結びつきは日本や他のヨーロッパ諸国とは比べ物にならないくらい小さいからである。

そんな中、現在小生のメイフェアー支部に定期的に練習に来るチェコ人の拳士が居る。初めメールを貰った時は又いつものように『指導に来てくれ』という要請かと思い事情を説明しWSKO本部を紹介した。本部事務局からは『現在指導員を送る事が出来ないので近隣の国の支部に登録して練習しなさい』という説明がなされた。しかしその後再度小生に連絡が入り、『その様な事情でロンドンに通わせて欲しい』と言う。

通わせて欲しいといわれても『チェコとロンドンは遠いので隣国のドイツかフィンランドの方がより近いのではないか』と説明したが『どうしてもロンドンに通いたい』と言うではないか。まあそうは言っても何処まで続けられるかと半信半疑ではあったがともかく入門を許可した。その後3ヶ月に一度の割合で3日間続けて通うようになり、時には期間が半年位開く場合も有るがおおむねこのペースで1年半以上続いている。 

現在の恵まれた日本の環境からすれば『なぜそこまでして少林寺拳法を?』と疑問を持たれるかも知れない。このチェコの拳士に限って言えば本人は警察官で別に生活に困っているわけではない。随分古い英文の『少林寺拳法その思想と技法』をコピーしたものを大切に持っている。彼の言葉を借りれば『素晴らしい教えと技術を是非チェコで広めたい』という事らしい。そんな熱い思いに打たれて練習を許可したわけであるが、少しでも早く上達させてやりたいと思うと同時に、言葉の壁が高いこの拳士に如何に少林寺拳法の本質を伝えられるかと頭を悩ませている。

熱心なだけではなく、以前空手をやっていたらしく技術の習得も飲み込みが非常に早い。普通の拳士が何ヶ月も掛かる技を来る都度に上達しているのを見ると、飛行機で遠くから通ってくる熱意はこんなところにも差が出るものかなと感じさせられる。 本人がいくら才能が有っても少林寺拳法の指導者にそれ程簡単になれるわけではない。こんな時願わくば誰か情熱のある日本の指導者がこのような国に出向いて指導してくれないものかと思ってしまう。

世界はまだまだ広い。日本の若い有段者の人達には海外に目を向けて世界に飛び出して欲しい。そんな中で日本の素晴らしさも、そして又変えなければいけない事も見えてくると思うのだが。

2008/03/15

中国の態度、国際基準では普通です

中国産の毒ギョウザ事件は中国の公安当局の『中国国内での混入の可能性は極めて低い』と言う一言で片付けられそうである。この様な態度に日本国内は100%の人達(想像だが)が大いに怒っていることだろう。

以前に投稿頂いた中にも中々進展しない毒ギョウザ事件に言及されていたが、日本人にしてみればどうして中国当局は正直に認めて早く謝罪しないのか? 『中国側が素直に認めて謝罪すれば、日本はこれ以上問題をこじらせないのに』と多くの日本人が思っていることではないかと勝手に想像している。 確かに被害者を出した日本が憤慨する気持ちは十分に分かる。しかし一方で中国にとってはこの問題の解決方法を間違えると、日本一国では済まない事が起こりうる重大事件でもある。

過去にもアメリカやカナダで中国製ペットフードで犬や猫が死んだ事件があった。又子供用のおもちゃにも基準を超える鉛が検出され、輸入が中止された事件も起きている。今回は死亡事故ではないが人の食べ物による毒物混入事件である。なおさら中国当局としては神経質にならざるを得ない。

そして中国は夏にオリンピックを控えている。その直前になった今、中国の食に対する安全が揺らぎ始めるとオリンピックそのものにも影響が出ると言う事だろう。そうなれば国家の威信を掛けて取り組んできたオリンピック事業が失敗になり、国としての面子も落とす事になりかねない。幸いと言うべきか、不幸にと言うべきかは分からないが、中国は共産党による一党独裁体制でこの様な事件が起きた場合でも政府は容易にマスコミをコントロールできる。これは日本やアメリカ等の西側先進国とは大きく事情が異なっている。

そんな中で日本国内は蜂の巣を突いた様な報道ぶりである。勿論一般の中国国民がこの様な日本の報道を見る事は極めて少ないが中国政府にとっては迷惑な話だろう。この様な情報は日本から世界中に発信されてしまう事を中国政府は良く知っているからだ。

そんな訳で中国公安当局が発表した結果は、日本とは180度異なった見解となった。この一例を上げ中国当局の行動を非難する事は簡単である。しかしその事により問題解決が近くなるとは思われない。ここは感情をひとまず抑え冷静に、又科学的に一つ一つ検証していくべきだと思う。

話が少しずれるが、中国以外の国でもこの様な例はいくらでもある。日本人の文化では自分が間違いを犯したら正直に認め先ず謝罪する事が大事な条件だろうと思う。しかしながら外国の文化は日本のそれと同じ国ばかりではない。むしろ異なった文化(習慣)の国の方が多いくらいであろう。現実に間違いを犯したことを認識していても色々と言い訳をしたり、立場が強い場合には決して認めない事もある。この様な態度は日本人には中々馴染めない事ではあるが、現実の世界ではむしろ日本の立場の方が少数派ではないかと思う。

話をギョウザ事件に戻して、では日本はうやむやにして中国の言い分を認めるべきか?それが出来ない事は明白である。問題は決定的な客観的、科学的事実を追求して証明する以外に解決の道は無い。中国が日本に原因を押し付けてきても冷静に対応し、決定的な証拠が挙がればそれを中国当局に示し説明を求めるべきであろう。又同時に世界にもその結果を公表する事も大事な後始末であろう。日本と中国に対する世界の国々の信用度は、現段階では日本の方が遥かに高い事も事実である。何処へ出しても文句が付けようのない客観的証拠が示されれば中国当局も認めざるを得ない。もし万が一に中国が認めなくともそれ以外の国々は日本の言い分を支持すると思うからだ。

ここで厄介な事は、中国が政府によるマスコミのコントロールが容易な事とは逆に、日本のメディアは諸刃の刀である。問題の解決を科学的に立証しようとする時に新聞、週刊誌は言うに及ばずTVニュースやワイドショウ番組まで国民意識を扇動する様な事が日常起きている。英国に長年住んでいても日本のワイドショウ等の様な番組は見た事がない。(知らないだけかも?)アメリカ等ではあることは知っているが、結論をマスメディアが世論を扇動して導き出す事も、逆の意味で中国と同じ様に危険である。感情が先にくると問題解決に繋がらないばかりか、ヒステリックなナショナリズムを引き起こす。これはギョウザ事件以上に日本と中国との関係を悪くさせる事になるはずである。もしこの様な目的で犯人が毒ギョウザを作ったとしたら日本も中国もまんまと犯人に乗せられた事になるのではないか。

2008/03/06

最近の車の乗り心地

車のサスペンションと言うものはそれ自体が非常に乗り心地に大きく作用する事は誰でも知っている。

しかしながら昨今のモータースポーツ、とりわけフォーミュラー カーでのサスペンション開発は乗り心地以外にも重要な要素があるようだ。アクティブ サスペンションやリアクティブ サスペンション等と聞くとF1のサスペンションを想像するが、スプリングの代わりに油圧を使ったこれらのサスペンションは90年代にはいくつかのティームが採用し良い成績を収めたが、93年にはレギュレーションが変更され使えなくなってしまった。

油圧によるサスペンションはフランスのシトロエンが有名である。シトロエンが初めて油圧(ハイドロ ニューマティク)と呼ばれる窒素ガスと油圧による革新的なサスペンションをDSというシリーズで出した事を記憶しているが、実際にDSにはパリでタクシーに乗った事が1回だけある。そのときの印象は車と言うより舟に乗ったときの様な、路面からの突起に対する反応が実に柔らかだった事を覚えている。その後2度程CXというシトロエンにも乗ったがDSの時程の感激は感じなかった。

CXの後継車XMや一回り小型のGS、最新のC5など益々進歩したシトロエンのハイドロシステムではあるが、いつの間にやら優れたスチール製のスプリングを使ったサスペンションとの違いが気薄になってきたように感じるのは自分だけだろうか? 

最近では良くできた電子制御のエアー サスペンションが、いつの間にやらハイドロのサスペンションより乗り心地やハンドリングを含めて評判も良いようである。しかしながら1950年代中ごろにハイドロリックの優れた乗り心地をより簡素なシステムで実現したシトロエンの実績は少しも価値が下がるものではない。

確かにサーキット走行には柔らか過ぎる乗り心地であろうが、その作られた目的とするところが快適さの追求であれば現在でも充分に通用する技術であると思う。

20代くらいまではとんがった(硬い)サスペンションの車を良しとした時代もあったが、50代も後半に達する頃には価値観が大きく変わってくる。何より体が正直で速く走る車も確かに魅力ではあるが、長時間運転しても疲労感の少ない車が欲しくなる。

それにしても昔からフランスの車は大衆車にも関わらずシートやサスペンションに随分と優れたデザインを取り入れたものが多かった。ルノー サンク(5)やシトロエン2CVなど大衆車の先端にあるモデルでもなぜこんなに乗り心地が良いのか?と不思議だった。別に凝ったサスでもなかったのに。

そこへゆくと同年代の日本車の大衆車ときたら乗り心地は随分とひどかった。近年こそこれら欧州の大衆車と変わらぬまでになってはきたが、エンジンがハイブリッドや燃料電池に置き換えられる時代に車の持つ快適な移動手段としてのツールとは?という問いかけも重要な意味があると思う。静かでエアコンも有りステレオやカーナビだけが快適な移動手段のツールでは少々寂しくは無いか。