2007/10/27

個性ある先生達

少林寺拳法はこれまで数多くの指導者を輩出しているが、草創期開祖の直弟子と呼ばれる人達には個性の強い先生達が数多く居た。それぞれに異なった個性の持ち主ではあったが個々に得意分野を持ち、それがまたそれぞれの先生達の大きな魅力でもあった。

ある先生が『もし開祖に出会っていなかったらどんな人生を歩んで居たか分からない』と言っていた事を思い出す。考えてみると開祖はそれだけ幅広い人材を受け入れる度量があったことが、結果としてそう言った人達を指導者にまで育て上げたわけである。

自分が少林寺拳法を始めて影響を受けた先生は結構な数になる。すべての分野で影響を受けたと言うわけではないが個々の先生や先輩から自分が感心したことや共鳴したこと等は、その後の少林寺拳法に対する自身のあり方にも少なからず影響している事は間違いない事実である。
多くの場合それらの先生から影響を受けるのは技の場合が多い。技と一口に言っても少林寺拳法は剛法、柔法、整法その他にも尺丈や如意棒等数が多い。それら自分が未熟な部分を満たしてくれる指導者には技術修練を通して技術と共に考え方まで学ぶ事が多い。

そんな中で『これは自分とは違うな』と感じることも勿論あるが、多くの場合素晴しい技に出会った時などそれに至る修練の過程でその先生が培われた経験などは大いに参考になることが多かった。

ある先生は整法や活法に大変秀でた実績があり講習会の都度当身や絞め技で手本を見せ、見事に甦生させて拳法の当身の仕方や活法のやり方まで指導して頂いた。学生合宿や国際講習会等どのような場所や相手でもその切れ味は変わらなかった。

当然急所の捉え方は的確で指1本で相手を制す圧法も見事であった。また同時にその先生は整法も深く研究されており多くの拳士が講習会の後で体調の悪いところを直してもらっていた事を思い出す。

また別の先生には柔法に対するヒントを数多く学んだ。直接手を取って指導頂いた時には長年悩んできた技が『眼から鱗が落ちる』とはまさにこの事か思うほど理解できた。とは言ってもすべての柔法の技が理解できた訳ではない。数多くの失敗や別の先生からのアドバイスでは理解できず悩んでいた技である。それが氷解した時のうれしさから余計にその先生の技に対する信頼とそこに至るまで技を極められた先生に尊敬の気持ちが強く感じられたものである。

総じてこれら開祖の直弟子と呼ばれる先生方は強面の人が多かった、顔が怖いと言うのではない。開祖から厳しく妥協の無い指導を受けた直弟子達の物事に対する姿勢、そこから醸し出される言葉や雰囲気が強面に感じられたのではないかと想像する。

その様な先生達が少林寺拳法の歴史を創ってきたと言っても過言ではない。少林寺拳法独特の剛柔一体の演武を完成させた先生方や尺上や如意と言った法器を得意とした先生も居る。この様な多様な個性の先生達をひとまとめに指導できた開祖宗道臣の偉大さには今更ながら感服させられる。

こうした多様性のある人達を擁する事が出来た少林寺拳法と言う武道が比較的短い歴史の中で組織がこれほどまでに急成長してきた主な理由ではないかと思う。

2007/10/16

ゲイ プライド

毎年夏になるとロンドンのマーブルアーチから始るデモンストレーションの一つにゲイ プライドと言うものがある。

当初は何のデモか分らなかったが何十万人ものゲイとレズビアンのデモだと分った。毎年この日にはハイドパーク沿いのパークレーンという道(ロンドン北部から南部へ行くための中心地を通る道)は2時間以上交通規制が敷かれ車の通行は完全に麻痺してしまう。

アメリカが発祥の起源らしいが、毎年この季節には世界中の都市でゲイ プライドと銘打ったパレードに何十万人ものゲイやレズが参加して祝うらしい。一種のお祭りなのであろう。

道場への道のりなのでこのデモにぶつかるとその日の練習には出られない。それ程延々とゲイ プライドは続くのである。

断っておくが、ゲイやレズの事をとやかく言うつもりはない。個人的な事で他人が傍から中傷するものではない事は充分承知しているが、同時に「それ程自慢(プライド等と)する事か?」とも思ってしまう。

ある時、道場で練習に遅れた理由を説明するときに『今日はゲイ プライドのデモがあるとは知らなかった。全く迷惑なことだ。』と言うような事を話したと思う。道場が終わって更衣室に行くときに一人の男の拳士から『先生、余り彼らの事を批判しないほうがいいと思います』と言われた。

自分はゲイの人達を攻撃したわけではなく、デモが迷惑であると言いたかったのだが、結果的に(聞き方によっては)ゲイそのものを批判しているように聞こえたのかも知れない。彼の言い分によるとゲイの人達は長年歴史的に差別されてきたので、この自由な時代において、自分達の権利(人権)をあのように主張しているのだという事だった。

それは理解できる。しかしそれでも性的指向をそれ程誇りを持ってこれ見よがしに主張するべきことなのか?小生には未だ正直なところ答えを出し切れていない。

ゲイの人権が大切と主張するのであれば、ストレート(普通人)の権利も大切であるはずだと思う。歴史的にキリスト教等では確かにゲイを認めてこなかった(違法だった)。特にカトリック教会等は避妊すら認めていない団体であれば、ゲイやレズといった存在を認められるはずもない。

しかしこれには理由が有るからではないのか。世の中の人達のマジョリティ(大多数)がゲイやレズになってしまえば、人類は滅亡に向う事は避けられないのではないか?

ゲイ プライドのデモを見ていると実に様々な人達がいるものだと認識できる。個人の人権が尊重される事は何の問題もなく、大切な事だと自分も思う。多様化する人間文化ではあるが果たしてこのままの価値観で良いのかどうか。考えても容易に答えは見つからないのが、この問題の難しさではないだろうか。

人類などと大上段に構えなくともヒトは間違いなく地球上のスピーシーズ(生き物)の一つである事には疑問の余地がない。生き物であれば種の存続には♂と♀という二つの異なった性の調和こそ『種』の存続や発展には欠かせない要素だと個人的には思うのだが。

2007/10/11

マルタという国

マルタ共和国 今年のホリデーで行った島(独立国)である。
マルタは地理的環境から古くは北アフリカのハンニバル、カルタゴの支配を受け後にアラブ人やノルマン人そしてスペインなどの支配を受けてきた。ナポレオンによるエジプト遠征時にはフランスの支配下におかれ、その後英国が支配するといっためまぐるしい変革を経てきている。
行く前には地中海の真ん中にあるし、イタリアのシシリー島に一番近いためイタリアの影響があって食事は上手いかな?と期待していたのだが、残念ながら期待していたとおりには行かなかった。

現在の首都は世界遺産にも登録されたバレッタで、城壁に囲まれた旧市街地は歴史的な建物に現代のビジネスが織り成す独特な雰囲気を醸し出している。

     

我々が滞在したところはバレッタとは島を挟んで反対側に位置するリゾート地であった。島の反対側といっても島(国)自体が淡路島の半分程度と小さい為バスの移動でも30分程度で行けることになる。我々は英国の旅行会社を通して行った為、滞在先のホテルや周りの観光客などはイギリス人ばかりでロンドンに居るのとそれ程変わった環境とはいえなかったが、唯一地中海のさんさんと注ぐ太陽だけは何ものにも代えがたい精神的喜びだった。

首都バレッタの市街地に入った時、目に飛び込んできたストリート名“Wembley St.”を見た時にいったい何処に居るのか?と一瞬迷った。(Wembleyはロンドンの家のある地区だ。)ホテルの食事はそのほとんどが英国からの年配のホリデー客と言う事もあって、朝はイングリッシュ ブレックファーストから始まり夕食もロースト ビーフやポテトがどっさりと言う典型的な英国料理で締めくくられるのには、イタリア料理等を期待していた我々を大いにがっかりさせた。

町に出ると道路はイギリスの植民地時代の名残か日本やイギリスと同じシステム、車は左側通行なので比較的道を横断する場合にも他のヨーロッパや北アフリカの国に比べて緊張する事も無かった。

交通システムの中では町を走るバスに興味があった。何十年も前のバスを思わせるデザインの車が現役で走り回っている事だった。何かに似ているなと考えていたら『となりのトトロ』に出てくるバスのイメージそっくりではないか!何枚も写真を撮った。愛くるしいノスタルジックを感じさせるバスであったが不思議にも1台として黒煙を上げているものには出会わなかった。おそらく外観をそのまま使っていてもエンジン等の動力機関は最新の物に交換してあるように思われた。



マルタ滞在中隣のゴゾという島にも渡ってみた。ゴゾ島はフェリーで25分と目と鼻の先に位置する小さな島である。こんな小さな島にも協会がいくつもあることには感心した。中でも一番古い教会は第二次世界大戦でドイツから空爆を受け協会の天井に穴が開いたが、落下した爆弾は不発(神の救いか?)だったらしくその爆弾(レプリカだと思う)が陳列されていた。

滞在先でもゴゾ島でも日本人観光客に何度も出くわしたが、こんな小さな島にまで数多くの日本人が観光に来るという。日本という国の豊かさはやっぱり近年特に経済力を付けてきた韓国や中国とは未だ格段の差が有るのかも知れない。

       

2007/10/06

高級車とは

車にことのほか思い入れが強かった自分はロンドンに来て驚いたことがある。英国には車を所有するのにガレージや保管場所を証明する必要が無い事である。その為夜になると路上のいたるところに(シングルイエロー、黄色の単線区域)には駐車した車で一杯になる。

昼間は駐車違反となるこの様なシングルイエローの道路も夜6時半を過ぎるとほとんどの場所で問題なく駐車可能である事も驚きだった。日本ならば昼間であろうと夜であろうと駐車違反の場所に車を留めれば何時でもレッカーのお世話になることだろう。さすがにロンドンでもダブルイエロー(黄色の二重線等)は厳しく何時でも取締りの対象となるが。

そんなことからロンドン中心地には多くの高級車が路上駐車をしているのを見たときには驚いた。今小生の道場があるメイフェアー地区はロンドン中心地でも一際高級車が多い。70年代には100メートルを歩く間にロールスやベントレー等の高級車が何台も留まっている光景を見かけた。このごろではSクラスのメルセデスやフェラーリも良く見る。

しかし本当の意味でイギリス人の彼らが高級車と認める車はロールス ロイスやベントレー アストン マーティン等のように一つ一つクラフツマン(熟練工)によって手作業で作られた車であることが説明を受けて分かった。この様な高級車は皮シートやウォールナッツのダッシュボードばかりでなく車のボディーも手作業で造られている。

ドイツ製高級車がウイング(フェンダー)からドアまでビシッとチリの合ったラインで極められているのに対してふっくらとしたラインでドアも緩やかなカーブを熟練工の手作業だけで打ち出したロールスやアストンの車体は日の光も時として柔らかな反射となる。チリの合わせ方などはドイツ車や日本車には及ばないが手で打ち出したシェイプはなんとも言えない高級感をかもし出す。

70年代まで作られたロールス ロイスのコーニッシュやアストンDB6くらいまでの英国製高級車には色濃くこの様な熟練工の技が見られた。残念ながら今日ではこの様な車を見かけることがなくなってしまったが、プレスによる何万台でも同じ形に型押しされた大量生産車が今では高級車の部類になってしまった事は少々寂しくもある。

もともと車はすべて高級車であった。フォードによる量産車の生産が車社会に革命を起こしたことは言うまでもないが、そのお陰で世界中で普通に誰でも車を所有することが出来るようになった。そういう意味では車における産業革命も感謝すべき事なのだろう。アメリカでT型フォードが成功する以前の車と言えば内燃機関のエンジンにコーチビルダーと呼ばれる馬車を作る熟練工に車体を作らせていたのだから、一般の庶民に買えるわけがなかった事は容易に想像がつく。

1920年代、30年代の車はどれも高級車だったことは言うまでもない。 ブガッティー ロワイヤル、イスパノ スイザ、昭和天皇が3台所有されたグロッサー メルセデス、どのクルマをとっても一般人が買える車ではなかった。

では現代の高級車はどうか? フェラーリ、ポルシェ、は言うに及ばずメルセデスやBMWそして日本製のレクサスまで高級車の範囲は広くなったがクラフツマン(熟練工)の技は残念ながら必要なくなってしまった。

マイバッハ(5200万円)やブガッティ ヴェイロン(1億7000万円)そして最近売り出されたロールスのファントムドロップヘッド クーペ(5200万円)等は現在の超高級車だが、さすがに70年代とは異なり、これまでのところ夜中の路上駐車でお目に掛かったことは無い 。

2007/09/27

自己責任型社会

ロンドンに来たばかりの日本人が先ず驚く事は、歩行者のマナーの悪さではないか?歩行者用の信号機が赤であるにも拘らず車が近くまで来ていなければ堂々と横断する。小生も当初良いのかな?と思いつつ何時の間にやら他の人達と同じ様に渡っている。

これは警察官が近くに居ても全く同じである。それを見た警察官が注意をする事など見た事がない。この様な街は多分ヨーロッパでも少数派であろう。なぜならばスウェーデンやフィンランド辺りから来た人達にも初めは驚きのようである。何も外国人ばかりでは無く英国の地方都市から来たイギリス人やスコットランド人にもこの様な習慣は無いようだ。

ではパリやローマと言ったヨーロッパの他の大都市ではどうかと言えば、やっぱりロンドンと同じ様に歩行者は赤信号無視の人達が多い。 さすがに車は信号を無視する事は少ない。なぜなら信号機の近くにはカメラが据え付けられている場合があり信号無視の車が通るとピカーッと来るからだ。後で罰金を払わされることでもあり一応ルールは機能している。

ロンドンの拳士が日本に行って先ず感じることは、東京のような大都会でも歩行者が赤信号で皆行儀良く待っている事だ。当たり前の事だがロンドンの交通システムに慣れている彼らには逆に新鮮に映るのかもしれない。『先生日本人は行儀が良いね』と聞かれた時には何とも答えようが無かった。

この習慣を考えて見ると日本では法律を厳格に運用しようとする。市民の便宜性よりも法律が優先される事は当然な事としても警察官が規則通り歩行者にも車と同様の取締りの対象とする事も歩行者が信号機を守る一因ではないかと想像する。

今一つ社会の中での人々の法律や官憲に対する信頼も大きな違いと言えるのかもしれない。ヨーロッパ人の彼らにとって法律は最後の手段であってそれが個々のケースで市民を守ってくれるとは考えていない事だろう。

自分の身は自分で守る、つまり交通環境の中にあっても車や機械(信号機)を100%は信用しない(信用できる機械を作っていないとも言えるかもしれないが)。事実ロンドンを車で走っていると点灯していない信号機を時々見かける事がある。

彼らにとって信号機を信じて青信号で横断中に車にはねられる事も自己責任の範疇(自損という意味で、治療費や慰謝料は支払われるにしても)に入るわけで、そうであるなら『赤で横断しても責任は自分にあるのだから文句は無いだろう』式の言い分だと想像する。

翻って日本人のメンタリティーとしては、法律がある限り法(お上や法律)が市民を守ってくれる式の信頼型、悪く言えば社会依存型メンタリティと言えるのかもしれない。

現実問題としていくら法整備が整っていても最終的に身を守る(交通事故から)のは自分自身だという事は日本もヨーロッパも同じはずだが、お上や機械に対する信頼がヨーロッパでは今一つ低いことも自己責任型社会の原因として挙げられるのかもしれない。

交通システムでその他気付いた事は東京などの大きな交差点で時々見かける縦横同時に車が止まり、横断歩道が交差点の真中にX字に書かれており、歩行者がどの方向にも自由に渡れる交差点はヨーロッパでは見たことが無い。

それに歩行者、なかでも特に視覚不自由者の為に音楽やヒヨコの泣き声が流される交差点も見かけない。横断歩道にはこれも視覚不自由者の為に歩道の一部にパターンがブロックに入っている事も親切なシステムだと思う。自分が視覚不自由者ではない為イギリスでのシステムがどの様に作られているか分からないが、日本のこの様な装置は小生がイギリスのシステムが分からないのと同様に外国人の健常者にもなかなか分からないと思う。

自己責任型の特徴を一つの事故が起きたことを例に見るとかなり異なる結果になる。例えば歩行者が携帯電話などに夢中で赤信号に気付かず横断歩道に入り車と接触する事故が起きたとすると、日本のシステムであれば歩行者に非があるこの様な場合でも車の運転者は前方不注意と言うペナルティを少なからず問われ、歩行者が怪我をしたような場合には治療費を支払うばかりではなくお見舞いにも行く事になるのではないか?

しかし自己責任型社会においては歩行者が携帯電話をしながら信号無視という責任が問われる為、状況にもよるので一概には云えないが運転者に責任が及ぶ事は考えにくい。もしその事故で歩行者が軽い怪我で、車にダメージが生じたとすれば歩行者に修理の為の賠償責任が課せられる事も充分にありうると云う事である。

この様に考えるとお上が守ってくれる(依存型)社会にあっては法律も強い立場(この場合歩行者よりも車)の方により厳しい責任を要求する事になり、自己責任型社会においては車(運転者)も人も同じ立場におかれると言うわけである。

2007/09/22

ミュージシャンの素晴らしさ

世の中でミュージシャンと呼ばれる人達は数多い事と思うが、時々彼らを羨ましいなァと思うことがある。

それは音楽のジャンルを問わず、そのジャンルの好きな人々を魅了することが出来ると言う事ではないか。クラッシックが好きな人、ポップスのファン、演歌や歌謡曲の好きな人とそのジャンルは様々であるが、それぞれの音楽を愛する人達にそれぞれの分野で感動や勇気を与える事もミュージシャンには出来ると言うことだ。

音楽を聴き涙する人や、その音楽と接することによって生きる希望を見出す人が居ても何の不思議も無い。音楽や歌が人に与える力は我々が想像するよりもはるかに大きいと思う。

自分の場合はジャズが好きであるため何度も好きなミュージシャンのコンサートには足を運んだことがある。いくら好きなミュージシャンでもその日のコンディションが当日のプレーに大きく関わっている事を時々その日のコンサートで知らされることがある。

彼らもある意味アスリート達に近いのかも知れない。期待した音が出なかったり、今一つ乗りが悪かったりすることも時々経験した。 ジャズと言う音楽の持つ特徴かもしれないが、総じて大きなコンサートホールでのギグは今一つミュージシャンが乗れなかったり、観客とのコミュニケーションが上手くいかない事を目の当たりにしたことが何度かあった。

もちろんこの様な例ばかりではなく、大きなコンサートホール全体を巻き込んだ素晴らしい演奏を聞かせてくれるミュージシャンも幾度も経験しているので、やっぱりその人個人の問題なのか?得意、不得意があるのか?はたまたその日の体調や精神状態が影響しているのかは断言できない。

ミュージシャンのすごさはその本人が自覚しているかどうかは別に、かなり本能的なところで音楽に向き合っていると言うことではないか。言い換えるとミュージシャン本人の持つ文化的特長(民族的と言い換えても良い)が全面に出ている場合が良くある。

これはその文化を共有しないものにとっては少しも楽しくは無い。ジャズのプレーヤーが黒人でなくても良いが、マイルスやコルトレーンの演奏にはどこか音楽の中に彼らの血から出たのではないかと思わせるフレーズや表現があるように思う。

これはテクニック(演奏技術や音楽的教養)とは異なった部分での音の使い方であったり、白人のジャズ ミュージシャンが努力して出せる音ではないように感じるのだ。勿論マイルスやコルトレーンの演奏技術や音楽的教養は人一倍優れていることは誰しも認めるところだが。  

同じように演歌の好きな人にとっては日本や韓国に見られるコブシの利いた歌い方こそが、魅力の一つであろうがこれとてもそれ以外の文化を共有しない国の人達にとっては理解できない部分だと思う。

インド系の人達が聞く民族音楽も我々にはどれも同じに聞こえるし、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネそして悲哀を全面に出したポルトガルのファドも、寂の部分では言葉は分からずとも悲しさは充分に伝わってくる。しかしながらポルトガル人が感じる事の出来るファドの持つ音楽的な深さは残念ながら小生には理解できなかった。

マリアゴンザレスと言うファド名手(ポルトガルの美空ひばりとニックネームを付けた)のCDからは彼女の声の素晴らしさと歌の上手さは理解できても、本当の意味での感動は我々日本人にはなかなか難しいように感じられた。

別の言い方をすれば、美空ひばりの良さがヨーロッパやインド、アラブ、アフリカ等の国で理解されることは難しいだろう。

そんな音楽の世界でクラッシック音楽だけが洋の東西を問わず、ミュージシャンの国籍や文化的背景にも関係なく愛されている事は基礎としての音楽の持つ要素が世界的に統一されているからであろう。勿論ジャズの世界においても黒人ミュージシャンばかりが素晴らしいと言うことではない、白人のミュージシャンや優れた日本人のジャズマンも知っている。

どのジャンルの音楽についても言えることはクラッシック音楽で確立された基礎としての音楽的要素を充分に習得せずには一流と言われるミュージシャンにはなりえないと思う。

冒頭にも書いたがミュージシャンの素晴らしさ(羨ましさ)は、自分の好きな分野で人々を幸福にする出来ると言う事だ。そしてレコードやCD等の記録媒体により何十年でも多くの人々に感動を与え続けられることではないかと思う。

2007/09/19

常勝の日本がそれ程喜ばしいか?

現在少林寺拳法は世界で32ヶ国まで広まってはいるが柔道や空手などと比べるとまだまだ少ない数である。歴史的に世界へのデビューがこれらの日本武道よりも遅かった事も影響している。

これまでの少林寺拳法の国際大会では日本がほとんどの部門で優勝している。別に優勝することが悪いわけではない。インドネシアも時々良い結果を出してはいるが、優勝はそのほとんどが日本の拳士が独占していると言っても過言では無いだろう。

よく空手の国際試合等で日本人選手が外国の選手に負けると『空手よお前もか』みたいな見出しが新聞などに出る事がある。日本人の心情としては理解できないことも無いが、現実的に考えれば世界的に普及したスポーツであれば例えそのスポーツを創造した国であっても常勝できることは考えられない。

イギリスはフットボール、ラグビー、クリケット、ゴルフ、テニス等世界でメジャーなスポーツとして定着ているスポーツを生み出した国である。しかしその多くがほとんどの国際試合やワールド カップ等の大会においてイギリス人選手がいつも勝つと言う事は無い。

つまりフットボールを例にとっても世界中で最も広く愛されるスポーツであり、どこの国でも統括組織が整備され、優秀な選手は国境を超えてプレーをしている。4年に一度のワールド カップにおいてもイングランドは強豪国の一つではあるが、優勝したのは1966年の自国開催の1回だけである。

このことはフットボールと言うスポーツがもはやイギリスと言う発祥国のアドバンテージが通用しないほど世界中に広まっている事を指し示している。言い換えるならばいつも毎回同じ国しか優勝しないようなスポーツは、その発展段階がまだまだ世界規模では無いという証ではないだろうか。

柔道もオリンピックでは毎回全てのカテゴリーで日本人選手が金メダルと言う事は不可能に近い。なぜならばオリンピック ゲームはどこの国でも政府が振興に力を入れている。日本からも優秀な指導者を招き技術力アップに余念が無い。その様なスポーツこそ世界中で認められた、言い換えれば市民権を得たスポーツと言えるのではないか。

その意味においては日本が常勝の少林寺拳法は、現時点においては残念ながら真の意味で世界中で認知されたスポーツ(武道)とは言えないように思う。逆の意味において空手が世界大会で勝てなくなって来た事は、それだけ空手が世界中で普及している証でもあり日本の一般市民の心情は別にして、空手家としては喜ばしいことであるとも言える訳だ。

ここで言いたい事は『だから少林寺拳法もオリンピック ゲームになるように努力するべきだ』と言う様な短絡的なことではない。少林寺拳法がオリンピック競技を目指していないことは承知している。しかしオリンピックの普及力を利用せずに、どうやってに少林寺拳法を発展させてゆくのか?その発展はどの様に世界中で広まることが好ましいのか?等のストラテジー(戦略)が必要ではないか。

オリンピック スポーツの持つネガティブ ポイントを単に羅列する事は簡単な事である。しかしながら『オリンピック競技でないからその害を受けない』というのは無理があると思う。我々少林寺拳法の指導者はオリンピックから何を学び、少林寺拳法がその様にならない為にはどうすべきかを提示しなければなるまい。

卑しくも少林寺拳法は『理想境建設に邁進す』と言う崇高な理想を掲げる団体である。その目指すところがいくら崇高なものであっても賛同者(この場合拳士)の数が少なくては実現は難しい。

また『世界の平和と福祉に貢献』しようとする団体であれば、世界中に少林寺拳法を修練する拳士が必要になる。こんな状況を見るとき国際大会において日本が常勝と云う事は余り嬉しくない現実ではないか。

本当の意味で世界中のあらゆる国に少林寺拳法が普及してゆけば国際大会での日本の常勝は無くなると思う。しかしその時こそ我々が掲げる理想にはいくらかでも近くなったと言えるような気がする。