前回はイタリア、シチリアでの25周年記念大会と講習会の様子を報告した。その中で自分達がかつて同様な事(喜びとして)が出来た事を述べたが、少し掘り下げて考えてみたい。
戦後日本の武道と言う環境の中で、比較的短期間に大きな発展をとげた武道団体と言えば、宗 道臣の少林寺拳法と大山 倍達の極真会くらいであろう。両団体とも手法は異なるも、卓越した創始者が居たからこそ大きな発展に繋げられた事は疑う余地も無い。
しかしこの様な事が出来た組織が当たり前であるはずがない!そこには宗 道臣や大山 倍達に強く傾倒する指導者と拳士(弟子)が存在したからこそ、実現出来た話である。少林寺拳法に限って言えば、大きな理想をかかげて少林寺拳法を創始した宗 道臣が居たからこそ可能となった事実(発展)ではないだろうか。
もし仮に宗 道臣が居なかった少林寺拳法を想像してみれば分かると思う。数ある武道の中で短期的に、これ程大きな組織に発展する事が出来たであろうか?創始者で成功した者には、並外れた感覚と技術のみならず実行力があったからである。なにもそれは少林寺拳法の開祖 宗 道臣や極真会館の大山 倍達に限った話では無い。
目を実業界に向ければなお一層理解できるのではないか。 本田 宗一郎の居ない『HONDA』、井深 大と盛田 昭夫の居ない『SONY』、松下 幸之助の居ない『Panasonic』、国内に限った事では無い。スティーブ・ジョブスの居ないアップル、エンゾ・フェラーリの居ないフェラーリ、トーマス・エジソン(戦後ではないが)がもし居なかったら、そもそも現在まで続くGEは存在したのか。などなど数え上げればきりがない。
それらの創立者と呼ばれる人達の中には、非常にエキセントリックな人物も珍しくない。
普通の人が思いも掛けない事が出来たから、大きな成功も可能となったと言う方が正しいのかも知れない。しかし肝心な事は、その様な偉大な創始者を失った時、会社や組織がどの様に発展を続けられたのかと言う事を見てみれば、ある程度の答えは見つけられるのではないだろうか。
創始者亡き後も発展を続けることが可能となった組織や会社には、そのほとんどが多くの人知を結集して発展に繋げてきた事が見てとれる。逆の場合には組織や会社は倒産するか責任者が替る事で、その後の発展に繋げられた。
創始者亡き後も成功し発展する組織には、それらを可能にするメカニズムが存在するはずである。ほとんどの場合、創始者が実現したビジネスモデルを継承するプロセスは尊重される。武道組織の場合には中々難しい事が沢山ある。多くの組織が直面する後継者問題に複数の課題が存在する事は枚挙に暇がない。
武道団体の難しさは組織運営(経営能力)の前に、血筋や武道家としての実力等が、非常に問題を難しくしている事が挙げられるのではないだろうか。創始者は全てにおいて尊敬を集め、創始者その人が法律であっても問題は無い場合が多い。宗 道臣や大山 倍達が正にこれらに当てはまると考えられる。しかし後継者がそこを見失うと組織は崩壊に向かう事になる。この問題を克服した武道組織だけが、その後の発展に繋げられると言う事なのだと思う。
果たして現在の少林寺組織に発展に繋げられるメカニズムは存在するのか? 私には想像が出来ない。世界に多くの支社や従業員を抱える大企業でも、これらのメカニズムが機能しない会社は倒産する例を数多く見ている。もし二代目トップが、自らを創業者と同等の能力が有ると勘違いしているとすれば、残念ながらそれらを救えるマジックは存在しないであろう。
2015/05/26
2015/05/12
イタリアのおもてなし
今年の講習会シーズンが始まった。
昨年8月のBSKF40周年記念大会に参加してくれた事がきっかけとなり、今年は彼等の25周年大会と特別講習会に行く事を約束していた。過去に何度も訪れているイタリアでの講習会ではあるが、今回の訪問はお互いがWSKOと言う組織を離れてからは初めての記念すべき? 講習会となった。
以前イタリア連盟が主催した講習会に比較すれば、拳士数においては比べるまでも無い。当時イタリア連盟は発展期に入っており初めてのヨーロッパ講習会を主幹する事で、国内やヨーロッパでの問題を封じ込める事に成功し乗り切った。ヨーロッパでの講習会としてはピークの参加拳士数を記録している。
その様な事情を知る者からすれば、今回のシチリア25周年の大会・講習会は実に意義深いものであった。 第一に参加拳士の笑顔が実にイキイキとした印象を与えていた。そこには上からの命令で強制的にさせられている大会ではなく、自分達の記念大会に海外から応援に駆け付けてくれた拳士達と、共に最大限に楽しみたいと言う気持ちを見てとる事が出来た。それは昨年8月に催されたBSKF 40周年記念大会と全く同じ雰囲気が再現されたものと思われる。
2015/05/04
新たなる旅立ち No.2
前回『新たなる旅立ち』として書いたが、今回はその後の動きを述べてみたい。日本からの問い合わせや支援者に対して私から直接的な働きかけはしなかった。 しかしその様な中にあってこれまで少林寺拳法の指導者として長年運営に関わってきた人達の中から、実際の行動を起こす人達が現れた時には新鮮な驚きと同時に大きな責任を感じた。
今年の初め頃から色々と相談を受ける中で、私自身が何かお役に立てる事があれば協力させて頂く事を伝えた。そうは言ったものの形として何かが形成されるまでにはかなりの時間と努力が必要で、組織としての形が出来上がるまでには、多くの人達の協力が有ったればこそ実現に至った事は言うまでもない。
私がこの場にも何度か書いた様に、新しく拳法の組織を日本国内で立ち上げようと考えるのであれば名前にこだわる必要は無いと言う事である。今回この様な考え方に共鳴して、護身術としての武術に思い入れを強く描く指導者達によって立ち上げられた組織に、相談役と言う形で関わる事が出来て光栄に思う。
『少林寺拳法は日本以外では一般名称である』と言う事がこのところ急速に知れ渡る事となり、様々な国で色々な形の『少林寺拳法』と呼ばれるグループが活動を始めている。私がこのブログで1年ほど前に指摘したように、WSKOがいくら主張しても、『世界で一つの少林寺拳法』とは言えなくなってきた事は現実が証明している。今日の様なインターネット社会であれば世界中にどれくらいの数の『少林寺拳法』を名乗るグループが存在するのか直ぐに分かる事であろう。
この事実が理解できていないと今後世界中で出現が予想される摩訶不思議な『少林寺拳法』に振り回される事になる。「その様なグループは少林寺拳法では無い」と主張しても、次々に出てくる同様なグループに対して打つ手は無くなるであろう。日本国内では知られて居ない無数の少林寺拳法が、世界では様々な国で現に出始めている。自分達で勝手に作ったと思われる、おかしな法衣(少林寺経験者から見れば)を着た先生が、靴を履いて真顔で指導しているビデオもYoutube で見る事が出来る。真っ黒の道着を着ている少林寺拳法の指導者も存在する。私が述べた『パンドラの箱』は開いた事が見てとれると思う。
この様な現実に目を背けているばかりでは何も変わらない。しっかりと眼を開き現実を見る以外には何も解決等出来ないであろう。 同時に日本で活動を始めた元少林寺拳士による『拳法』の団体も数多く存在している。 彼等は別派ではあっても偽物では無い!長年、少林寺拳法の指導者として携わってきた人達である。組織の示す方向と自分達の信じる方向が異なった為、やむなく別組織として活動を始めたと言う方が正しい解釈であろう。
世界は益々狭く感じる様になり、情報伝達のスピードも過去のものとは格段の違いを見せる時代である。この様な時勢において数十年前と同様のプロパガンダを繰り返すだけで拳士が納得するとは考えられない。
我々が望む拳法の姿とは『宗道臣の教え』を根底に持つ組織の結束ではないかと考える。いくら名前が『少林寺拳法』であっても靴を履いて練習し、形だけの法衣(らしきもの)を着ていても、同じ拳法グループとは認めたくない人達も居る。 又逆に名前は『少林寺拳法』とは名乗って居なくとも、正当に教えを貫いて居るグループであれば共に協力が出来るのではないかと考える。
要は名前が何よりも大切(前提)ではなく、『どの様な教えをしているか』が問われているのではないか。摩訶不思議な『少林寺拳法』は自分の目で確かめて頂きたい。それに対する私のコメントは必要ないであろう。個々の拳士や指導者が判断すれば良い事である。『名前』(少林寺拳法)を取るのか、『実』(実際の指導内容)を取るのか? 拳士それぞれが選ぶ時が近づいて居る様に感じている。
今年の初め頃から色々と相談を受ける中で、私自身が何かお役に立てる事があれば協力させて頂く事を伝えた。そうは言ったものの形として何かが形成されるまでにはかなりの時間と努力が必要で、組織としての形が出来上がるまでには、多くの人達の協力が有ったればこそ実現に至った事は言うまでもない。
私がこの場にも何度か書いた様に、新しく拳法の組織を日本国内で立ち上げようと考えるのであれば名前にこだわる必要は無いと言う事である。今回この様な考え方に共鳴して、護身術としての武術に思い入れを強く描く指導者達によって立ち上げられた組織に、相談役と言う形で関わる事が出来て光栄に思う。
『少林寺拳法は日本以外では一般名称である』と言う事がこのところ急速に知れ渡る事となり、様々な国で色々な形の『少林寺拳法』と呼ばれるグループが活動を始めている。私がこのブログで1年ほど前に指摘したように、WSKOがいくら主張しても、『世界で一つの少林寺拳法』とは言えなくなってきた事は現実が証明している。今日の様なインターネット社会であれば世界中にどれくらいの数の『少林寺拳法』を名乗るグループが存在するのか直ぐに分かる事であろう。
この事実が理解できていないと今後世界中で出現が予想される摩訶不思議な『少林寺拳法』に振り回される事になる。「その様なグループは少林寺拳法では無い」と主張しても、次々に出てくる同様なグループに対して打つ手は無くなるであろう。日本国内では知られて居ない無数の少林寺拳法が、世界では様々な国で現に出始めている。自分達で勝手に作ったと思われる、おかしな法衣(少林寺経験者から見れば)を着た先生が、靴を履いて真顔で指導しているビデオもYoutube で見る事が出来る。真っ黒の道着を着ている少林寺拳法の指導者も存在する。私が述べた『パンドラの箱』は開いた事が見てとれると思う。
この様な現実に目を背けているばかりでは何も変わらない。しっかりと眼を開き現実を見る以外には何も解決等出来ないであろう。 同時に日本で活動を始めた元少林寺拳士による『拳法』の団体も数多く存在している。 彼等は別派ではあっても偽物では無い!長年、少林寺拳法の指導者として携わってきた人達である。組織の示す方向と自分達の信じる方向が異なった為、やむなく別組織として活動を始めたと言う方が正しい解釈であろう。
世界は益々狭く感じる様になり、情報伝達のスピードも過去のものとは格段の違いを見せる時代である。この様な時勢において数十年前と同様のプロパガンダを繰り返すだけで拳士が納得するとは考えられない。
我々が望む拳法の姿とは『宗道臣の教え』を根底に持つ組織の結束ではないかと考える。いくら名前が『少林寺拳法』であっても靴を履いて練習し、形だけの法衣(らしきもの)を着ていても、同じ拳法グループとは認めたくない人達も居る。 又逆に名前は『少林寺拳法』とは名乗って居なくとも、正当に教えを貫いて居るグループであれば共に協力が出来るのではないかと考える。
要は名前が何よりも大切(前提)ではなく、『どの様な教えをしているか』が問われているのではないか。摩訶不思議な『少林寺拳法』は自分の目で確かめて頂きたい。それに対する私のコメントは必要ないであろう。個々の拳士や指導者が判断すれば良い事である。『名前』(少林寺拳法)を取るのか、『実』(実際の指導内容)を取るのか? 拳士それぞれが選ぶ時が近づいて居る様に感じている。
2015/04/28
タマ 今年9歳です
| タマ1歳 |
今年で9年過ぎたと言う事は人間で言えば60代の中頃か? 小生と同年代に近い熟女になったと言う事か。しかし元気の良さは相変わらず、5、6年程前とほとんど変わる事は無いように感じられる。しかし良く観察すると顔の周りに白い毛が多くなっている。人間ならばさしずめ白髪が増えたと言う事か、自分の頭を鏡で見れば何のことはない、タマと一緒である。!
| タマ3歳 |
| タマ5歳 |
| タマ9歳 |
2015/04/07
新たなる旅立ち
年が改まったと思う間もなく早や4月である。新たな旅立ちをする人達が学校や社会に、希望に満ちた第一歩を踏み出そうとしている。 その様な季節なのかこのところの投稿欄にも、現在の少林寺拳法と言う組織が示す方向やあり方に疑問や不信を抱き、私にメールを送ってくる指導者が増えてきた。
その人達のほとんどは、これまで少林寺拳法の指導者として第一線で活躍してきた方々である。自分達が何十年も前に開祖の熱い思いに触れ、少林寺拳法こそ生き甲斐と信じ実践(指導)してきた指導者達である。 少林寺拳法の開祖宗道臣が説いた教えとはいったい何であったのか? どうして拳士はこの様に強い絆で結ばれ、少林寺拳法と言う武道に情熱を掛ける事が出来たのであろうか? 今一度原点に立ち返り検証してみる意味はあると思う。
開祖 宗道臣の教えは平たく言えば『理想境建設』である。その為の手段として人材の育成『人、人、人、全ては人の質にある』と言う名言を残した。少林寺拳法と言う武道を通して社会に貢献できる人材の育成が主目的では無かったのか? 言い換えれば良い社会作りに対する宗道臣の提言(提案)とも言える。
少林寺拳法の目指す究極の目的が『理想境建設』であり、その為の人材育成であるとすれば、富士山の頂上をめざし登山する方法論にもつながりはしないか。つまり『理想境』を富士山の頂上と仮定すれば、そこに至る一つの選択(道筋)であると言う事も出来る。 頂上にたどり着く為の道は一つでは無く、選択肢はいくつもある。これが宗道臣の提案であり「少林寺拳法だけが唯一絶対の道だ!」と言っている訳ではない。
政治も、経済も、科学も、文学や音楽やスポーツも、富士山の頂上『理想境』を目指す為の選択肢となり得るはずである。 開祖が残した言葉に真実(言いたかった事)を見い出すとすれば、少林寺拳法による人作りとは『半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを』を、行動で示す事の出来る人材の育成であった様に思う。この言葉は「我々は『少林寺拳法』と言う武道を通してその様な人材を育成したい」と言う、開祖からの提言と見る事も出来るのではないか。
指導者は自分達の組織の掲げる言葉に酔ってはいけない。少林寺拳法だけが社会に貢献できる人材を作る事が出来る組織と勘違いしては居ないだろうか? 開祖の言葉を釈尊の残した遺訓の様に感じ、現在でも教えを大切に伝えようと努力して居る指導者には敬意を表したい。しかし同時に教えが大切であればこそ、より多くの人達がその言葉(教え)に触れ、人生の指針として社会で必要とされる人材となり、活躍(実戦)して頂きたいと切に願うものである。
複数の指導者から問い合わせを頂き、私が個人的に感じた事は、情熱をもって指導してきたはずの道院長や支部長が、何故今の状況に矛盾と不満を感じるのであろうか。 それに対する私のコメントは答えでは無い! 一つの考え方と捉えて頂きたい。少林寺拳法と言う武道から得た教え(哲学)と経験(技)を、後進に伝える方法はいくらでもある。 名前(ブランド)にこだわって本質を見失っては意味が無い。利権と保身にこだわって居る組織に、良い指導など出来るはずがない。名称など何でも良い、本質を残したいと思う。
又武道の修行だけが教えを実践する方法とも思わない。投稿の中から素晴らしい体験や、少林寺拳法の哲学で得た教えを社会の中で実践している人達が居る事を知る事が出来た。教えを糧に社会の弱者に役立つ技術開発を、将来の夢として熱く語ってくれた拳士も居た。現在は異なった分野に進まれた拳士達ではあるが、開祖の教えを正に実践している人達である。このように私達の目指す(願う)社会貢献は、少林寺拳法と言う狭い世界の中にあるのではなく、いたる所にあるのではないだろうか。
その人達のほとんどは、これまで少林寺拳法の指導者として第一線で活躍してきた方々である。自分達が何十年も前に開祖の熱い思いに触れ、少林寺拳法こそ生き甲斐と信じ実践(指導)してきた指導者達である。 少林寺拳法の開祖宗道臣が説いた教えとはいったい何であったのか? どうして拳士はこの様に強い絆で結ばれ、少林寺拳法と言う武道に情熱を掛ける事が出来たのであろうか? 今一度原点に立ち返り検証してみる意味はあると思う。
開祖 宗道臣の教えは平たく言えば『理想境建設』である。その為の手段として人材の育成『人、人、人、全ては人の質にある』と言う名言を残した。少林寺拳法と言う武道を通して社会に貢献できる人材の育成が主目的では無かったのか? 言い換えれば良い社会作りに対する宗道臣の提言(提案)とも言える。
少林寺拳法の目指す究極の目的が『理想境建設』であり、その為の人材育成であるとすれば、富士山の頂上をめざし登山する方法論にもつながりはしないか。つまり『理想境』を富士山の頂上と仮定すれば、そこに至る一つの選択(道筋)であると言う事も出来る。 頂上にたどり着く為の道は一つでは無く、選択肢はいくつもある。これが宗道臣の提案であり「少林寺拳法だけが唯一絶対の道だ!」と言っている訳ではない。
政治も、経済も、科学も、文学や音楽やスポーツも、富士山の頂上『理想境』を目指す為の選択肢となり得るはずである。 開祖が残した言葉に真実(言いたかった事)を見い出すとすれば、少林寺拳法による人作りとは『半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを』を、行動で示す事の出来る人材の育成であった様に思う。この言葉は「我々は『少林寺拳法』と言う武道を通してその様な人材を育成したい」と言う、開祖からの提言と見る事も出来るのではないか。
指導者は自分達の組織の掲げる言葉に酔ってはいけない。少林寺拳法だけが社会に貢献できる人材を作る事が出来る組織と勘違いしては居ないだろうか? 開祖の言葉を釈尊の残した遺訓の様に感じ、現在でも教えを大切に伝えようと努力して居る指導者には敬意を表したい。しかし同時に教えが大切であればこそ、より多くの人達がその言葉(教え)に触れ、人生の指針として社会で必要とされる人材となり、活躍(実戦)して頂きたいと切に願うものである。
複数の指導者から問い合わせを頂き、私が個人的に感じた事は、情熱をもって指導してきたはずの道院長や支部長が、何故今の状況に矛盾と不満を感じるのであろうか。 それに対する私のコメントは答えでは無い! 一つの考え方と捉えて頂きたい。少林寺拳法と言う武道から得た教え(哲学)と経験(技)を、後進に伝える方法はいくらでもある。 名前(ブランド)にこだわって本質を見失っては意味が無い。利権と保身にこだわって居る組織に、良い指導など出来るはずがない。名称など何でも良い、本質を残したいと思う。
又武道の修行だけが教えを実践する方法とも思わない。投稿の中から素晴らしい体験や、少林寺拳法の哲学で得た教えを社会の中で実践している人達が居る事を知る事が出来た。教えを糧に社会の弱者に役立つ技術開発を、将来の夢として熱く語ってくれた拳士も居た。現在は異なった分野に進まれた拳士達ではあるが、開祖の教えを正に実践している人達である。このように私達の目指す(願う)社会貢献は、少林寺拳法と言う狭い世界の中にあるのではなく、いたる所にあるのではないだろうか。
2015/02/20
少林寺拳法の道院長は真の宗教者か
宗教法人を名乗る組織が日本には18万2千以上も団体が有ると聞き驚いた。世界広しと言えども一つの国に18万もの宗教を名乗る団体が存在する国は聞いた事が無い。ただしこの数字は国(文科省)に届け出たものと、地方自治体に登録したものとがあり中には重複している団体も有るらしい。
のっけからこの様な驚くべき数字になってしまったが、勿論日本ばかりではなく世界各国では様々な宗教が数多く存在している事も事実である。その中には前のブログでも書いた様にカルト的性格の強い団体も多く含まれている。只一つ言えるとすれば日本の様に18万もの宗教団体が存在する国は無いと言う事だ。
その主な理由は多くの国で一神教が多く、仮にその国で一般的に信じられている宗教とは異なった宗教の人達が居たとしても、百も二百も異なった宗教が出て来る事が難しいのが実体であろう。クリスチャン(キリスト教徒)が中心の国でも、カソリックからプロテスタント、ギリシャ正教まで色々あるが、その国内に20も30も違うキリスト教の団体があると言う国は聞いた事が無い。
テロ国家ISの問題で一躍日本国内でも存在が注目を集めているイスラム教徒だが、イスラムの国においてもキリスト教が中心の国と概ね、宗教団体の有り方(数)は同じである様に思う。前にも書いた様にこれら一神教の国々では中々異教徒(異なった宗教)を認めない人達が多い事も、宗教団体が派生しない主な理由なのかも知れない。
日本では逆に土着の宗教(神道)が諸々(八百万)の神々を認める事から一神教とは全く異なった宗教観が培われた。仏教やキリスト教が海外から入ってきた宗教にも関わらず、問題なく共存して行けるのは神道的価値観が根底にあったせいとも言えなくもない。八百万の神々という信仰からすれば18万余りの宗教団体等どうってことは無い現象なのであろうか。
そこで今、宗教団体を標榜する少林寺拳法と言う組織の道院長にあえて確認しておきたい事がある。貴方はご自身の事を「私は宗教家である!」と自信をもって言えますか。
私も開祖 宗道臣の本は一通り読んではいるが、とても自分の事を胸を張って「宗教家です」とは言えないからである。もしその様な道院長がおられるとしたら色々と伺ってみたい事がある。
逆に「私は宗教家では無い」と言われるのであれば、では宗教法人であるはずの少林寺拳法という組織は、宗教団体として何を教えている団体なのか是非伺ってみたい。
のっけからこの様な驚くべき数字になってしまったが、勿論日本ばかりではなく世界各国では様々な宗教が数多く存在している事も事実である。その中には前のブログでも書いた様にカルト的性格の強い団体も多く含まれている。只一つ言えるとすれば日本の様に18万もの宗教団体が存在する国は無いと言う事だ。
その主な理由は多くの国で一神教が多く、仮にその国で一般的に信じられている宗教とは異なった宗教の人達が居たとしても、百も二百も異なった宗教が出て来る事が難しいのが実体であろう。クリスチャン(キリスト教徒)が中心の国でも、カソリックからプロテスタント、ギリシャ正教まで色々あるが、その国内に20も30も違うキリスト教の団体があると言う国は聞いた事が無い。
テロ国家ISの問題で一躍日本国内でも存在が注目を集めているイスラム教徒だが、イスラムの国においてもキリスト教が中心の国と概ね、宗教団体の有り方(数)は同じである様に思う。前にも書いた様にこれら一神教の国々では中々異教徒(異なった宗教)を認めない人達が多い事も、宗教団体が派生しない主な理由なのかも知れない。
日本では逆に土着の宗教(神道)が諸々(八百万)の神々を認める事から一神教とは全く異なった宗教観が培われた。仏教やキリスト教が海外から入ってきた宗教にも関わらず、問題なく共存して行けるのは神道的価値観が根底にあったせいとも言えなくもない。八百万の神々という信仰からすれば18万余りの宗教団体等どうってことは無い現象なのであろうか。
そこで今、宗教団体を標榜する少林寺拳法と言う組織の道院長にあえて確認しておきたい事がある。貴方はご自身の事を「私は宗教家である!」と自信をもって言えますか。
私も開祖 宗道臣の本は一通り読んではいるが、とても自分の事を胸を張って「宗教家です」とは言えないからである。もしその様な道院長がおられるとしたら色々と伺ってみたい事がある。
逆に「私は宗教家では無い」と言われるのであれば、では宗教法人であるはずの少林寺拳法という組織は、宗教団体として何を教えている団体なのか是非伺ってみたい。
2015/02/02
実像と虚像の狭間で
日本の武道が世界に紹介されて久しいが、近代的な社会になってから初めに世界で名声を得たのは柔道ではないかと思う。勿論それ以前にも柔術や剣術があった事は知られてはいたが、世界から認知を得るのには時間が掛かった事も事実であろう。
その様な中で、2020年の東京オリンピックに向けて、空手が新しくオリンピック種目に加わる為のロビー活動がニュースで紹介された。空手は1980年代初めにもすでにオリンピック種目として検討されていた事は知られて居るが、当時の空手界は日本国内の各流派によるルール統一が難しく、見送られてきた経緯がある。その間に韓国のTaekwondo(テコンドウ)が先にオリンピック種目に加えられ空手界は今日までそのチャンスが無かった。
そのスポーツの普及度からすれば空手の方がテコンドウより遥かに競技人口が大きい事は事実ではあるが、これまで種目として認められなかった主な原因は異なった流派による綱引きが大きな理由であろう。ここにきて空手の世界も世界空手道連盟(World Karate Federation, WKF)がスペインのマドリードに本部を置き、東京オリンピックを契機にオリンピック種目に名乗りを上げたと言う事だと思う。
柔道も空手も日本から出た武道にもかかわらず、世界連盟の本部がフランスやスペインにある事は何を意味しているのであろうか。世界に誇る事の出来る日本文化が広く世界中で認められる機会を、日本と言う限られた世界での価値観によって自ら難しくして来た事実は否めない。その事が柔道や空手の団体をして世界組織の本部を海外に求めた一因ではないかと想像する。
翻って我々の少林寺拳法を見てみれば世界へ普及する事の難しさをより一層感じずにはいられない。その最も大きな原因は組織の抱える不透明な構図ではないか。日本国内では宗教団体を標榜すると同時に一般財団法人(公益では無い)も運営している。世界連合(WSKO)は宗教法人では無いがその説明には当然の事ながら難しい問題を抱える事は言うまでもない。
今一つの問題は少林寺拳法と言う組織の掲げる矛盾は、海外に於いてさえ指導者に対してボランティアを要求する姿勢である。5年程前に私の事を糾弾するために支部長達を集めて行われた会議の席で「水野は少林寺拳法を指導して収入を得ている」との発言が有ったと報告を受けた。これには参加した支部長から「何故それが問題になるのか?」と逆に質問され、トップが答えに窮したと伝え聞いた。
質問した支部長に言わせれば「それがいけないとすれば、(組織のトップである)あなたや職員はどの様に収入を得ているのか」との思いがあったのであろう。「自分は特別な存在だから組織から給料を貰っても当然である、しかし他の支部長はボランティアなので少林寺拳法の指導で収入を得てはならない」。この様な論理が世界中で通用するはずも無い事は誰が考えても明らかである。それが少林寺拳法と言う武道が世界に発展する事を妨げている最も大きな原因ではないだろうか。
本音と建前を巧みに使い分けて組織を維持して行けるほど世界は甘くは無い。経済的に厳しい国も有る。その人達に対してもボランティアで指導を強要すれば確実に辞めてしまうであろう。先進国においてさえ同様な問題は存在している。海外で日本人が働く事の難しさを全く理解しない人達の机上の空論と言われても仕方がない。
日本人に限らないが海外で働くと言う事は先進国、途上国を問わず非常に難しい規制がある。先ず合法的に働くためには当然の事ながらその国で働く為の労働許可証を取得する必要が生ずる。私が労働許可証を取得した経緯はブログでも紹介したので繰り返さないが簡単な事では無い。労働許可証が幸い得られたとしても許可された勤務先の仕事以外から収入を得る事は許されない。少林寺拳法の指導員として得られた労働許可証で他の仕事をして検挙される事になれば国外退去は免れ得ない(もちろんその逆も)。
「私は少林寺拳法をボランティアで教えているので収入を得る事は出来ない、よって別の仕事で収入を得る必要があります」この様な理屈が通用すると本気で考えて居るとすれば、世の中の仕組みを全く理解して居ないトップが君臨する組織と言われても仕方がない。その様な組織が世界に発展して行けると多くの拳士は信じて居るのであろうか。
私が一例として挙げた組織の抱える矛盾は他にも数多くある。日本では当たり前の事が、世界でも普遍的に当たり前であるはずもない事は理解して頂けると思う。『実像と虚像の狭間で』とのタイトルで書き始めたが、実像以外に物事が発展して行く事はあり得ないと思う。残念ながら少なからぬ人達が虚像に怯え、本来の有るべき実像が見えていないと感じた事が今回の表現となった。
個々の表現で不快に感じられる箇所があったらお許し頂きたい。決して個人的な批判をしているのでは無い事をご理解頂ければと願っている。
その様な中で、2020年の東京オリンピックに向けて、空手が新しくオリンピック種目に加わる為のロビー活動がニュースで紹介された。空手は1980年代初めにもすでにオリンピック種目として検討されていた事は知られて居るが、当時の空手界は日本国内の各流派によるルール統一が難しく、見送られてきた経緯がある。その間に韓国のTaekwondo(テコンドウ)が先にオリンピック種目に加えられ空手界は今日までそのチャンスが無かった。
そのスポーツの普及度からすれば空手の方がテコンドウより遥かに競技人口が大きい事は事実ではあるが、これまで種目として認められなかった主な原因は異なった流派による綱引きが大きな理由であろう。ここにきて空手の世界も世界空手道連盟(World Karate Federation, WKF)がスペインのマドリードに本部を置き、東京オリンピックを契機にオリンピック種目に名乗りを上げたと言う事だと思う。
柔道も空手も日本から出た武道にもかかわらず、世界連盟の本部がフランスやスペインにある事は何を意味しているのであろうか。世界に誇る事の出来る日本文化が広く世界中で認められる機会を、日本と言う限られた世界での価値観によって自ら難しくして来た事実は否めない。その事が柔道や空手の団体をして世界組織の本部を海外に求めた一因ではないかと想像する。
翻って我々の少林寺拳法を見てみれば世界へ普及する事の難しさをより一層感じずにはいられない。その最も大きな原因は組織の抱える不透明な構図ではないか。日本国内では宗教団体を標榜すると同時に一般財団法人(公益では無い)も運営している。世界連合(WSKO)は宗教法人では無いがその説明には当然の事ながら難しい問題を抱える事は言うまでもない。
今一つの問題は少林寺拳法と言う組織の掲げる矛盾は、海外に於いてさえ指導者に対してボランティアを要求する姿勢である。5年程前に私の事を糾弾するために支部長達を集めて行われた会議の席で「水野は少林寺拳法を指導して収入を得ている」との発言が有ったと報告を受けた。これには参加した支部長から「何故それが問題になるのか?」と逆に質問され、トップが答えに窮したと伝え聞いた。
質問した支部長に言わせれば「それがいけないとすれば、(組織のトップである)あなたや職員はどの様に収入を得ているのか」との思いがあったのであろう。「自分は特別な存在だから組織から給料を貰っても当然である、しかし他の支部長はボランティアなので少林寺拳法の指導で収入を得てはならない」。この様な論理が世界中で通用するはずも無い事は誰が考えても明らかである。それが少林寺拳法と言う武道が世界に発展する事を妨げている最も大きな原因ではないだろうか。
本音と建前を巧みに使い分けて組織を維持して行けるほど世界は甘くは無い。経済的に厳しい国も有る。その人達に対してもボランティアで指導を強要すれば確実に辞めてしまうであろう。先進国においてさえ同様な問題は存在している。海外で日本人が働く事の難しさを全く理解しない人達の机上の空論と言われても仕方がない。
日本人に限らないが海外で働くと言う事は先進国、途上国を問わず非常に難しい規制がある。先ず合法的に働くためには当然の事ながらその国で働く為の労働許可証を取得する必要が生ずる。私が労働許可証を取得した経緯はブログでも紹介したので繰り返さないが簡単な事では無い。労働許可証が幸い得られたとしても許可された勤務先の仕事以外から収入を得る事は許されない。少林寺拳法の指導員として得られた労働許可証で他の仕事をして検挙される事になれば国外退去は免れ得ない(もちろんその逆も)。
「私は少林寺拳法をボランティアで教えているので収入を得る事は出来ない、よって別の仕事で収入を得る必要があります」この様な理屈が通用すると本気で考えて居るとすれば、世の中の仕組みを全く理解して居ないトップが君臨する組織と言われても仕方がない。その様な組織が世界に発展して行けると多くの拳士は信じて居るのであろうか。
私が一例として挙げた組織の抱える矛盾は他にも数多くある。日本では当たり前の事が、世界でも普遍的に当たり前であるはずもない事は理解して頂けると思う。『実像と虚像の狭間で』とのタイトルで書き始めたが、実像以外に物事が発展して行く事はあり得ないと思う。残念ながら少なからぬ人達が虚像に怯え、本来の有るべき実像が見えていないと感じた事が今回の表現となった。
個々の表現で不快に感じられる箇所があったらお許し頂きたい。決して個人的な批判をしているのでは無い事をご理解頂ければと願っている。
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