2014/09/19

少林寺拳法は武道か宗教か

私が書いた『開祖のビジネスモデルはいつまで続く』と言うタイトルに寄せられた投稿で、「少林寺拳法は実態が武道であるものを宗教に舵を切り、武道が公共の場から発展しているものをその場から撤退してしまいました」又同時に「実際、ダーマ信仰についてどれだけの需要があるのだろうかと思うのですが」と述べられていました。

ダーマ信仰の需要が有るかどうかは別問題としても、開祖 宗道臣が少林寺拳法を創始した当時(戦後間もない頃)と、21世紀の今日では明らかに社会背景が異なって居ます。開祖も法話の中で「自分はなりたくてなった坊主では無い、政策坊主である」とはっきり述べています。裏を返せばGHQの統制下で武道の練習が禁じられていた社会情勢下での苦肉の策が、宗教法人格の登録と言う選択肢であったと理解しておりました。

しかしながら時間が経って社会情勢も変わり、人々が武道の練習も自由に出来る様になった今日において、改めて宗教法人を強調する事に何らかの不自然さを指摘する人が表れても当然の事だと思います。時代は今や海外においても日本の武道が見直され、日本文化の一つとして多くの国で評価されている事も見落してはいけないと思います。

それに対する私の見解は「ダーマ信仰は良いとしても、宗教家として自信を持ってそれらを説明できる指導者は少ないように感じます。なぜならば宗教が目的で少林寺拳法に入門した拳士は極めて少数派だと思うからです。私も武道としての少林寺拳法に魅力を感じ始めました。その様な中で開祖の説く哲学に共鳴して心境の変化があった事は事実です。」

「しかし同時に宗教として武道を教える事と、武道の指導の中で宗教心を説く事は似て非なるものだと思います。前者はオウム真理教と同じ理屈でヨガと拳法が違うだけです。後者は多くの武道教育で見られるものです」、続けて「果たして日本の少林寺拳法が目指す方向はどの様な世界なのでしょう? 私達(BSKF)が理想とする少林寺拳法は後者でありたいと思います」とも書きました、この見解は今も変わりません。

少林寺拳法を指導する立場の人は明確に自身の見解を持つ必要があると思います。それが無い指導者では少林寺拳法の指導など出来ない事は明らかです。門下生から「先生ダーマとは何ですか?」と聞かれたらどの様に答えるのでしょう。同時に小学生に対してダーマ信仰を説明しても理解が得られるかは難しい課題だと思います。指導者の皆さんの意見も聞いてみたいと思っています。

8 件のコメント:

  1. 水野先生、先般はコメントありがとうございました。
    彼の地の指導の中心は門下生を信徒と呼び、
    月謝を信徒香資と呼び、僧階もあり、祭壇も奨励しております。
    宗教であれば、関係の本を、宗教関係の出版社から出し、宗教の棚におくことにすればよいのではと思いますが、どうも世間的には宗教色をなくしているのが疑問ではあります。
    武道であるのか宗教であるのかは正直、中にいる方々が苦悶している気がします。というのは、門下生の方々は大部分武道と思って入っているのにも関わらず武道ではないという言葉もあるので、外部の方には説明出来ない状態になっているのではと思います。

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  2. emptyさん引き続いての問題提起有難うございました。

    私もemptyさんからの投稿が切っ掛けとなり、心の中で引っ掛かっていた未解決の問題に私なりの答えを提示したいと思います。

    26日のこのブログで自分が整理した思いをぶつけてみたいと思います。そして一人でも多くの道院長が真剣に考えてくれる事を願うものです。 

    emptyさんからの投稿が私の少林寺拳法に対する心の迷い(どの様に表現するか)に決定的な役割を果たした事だけはお伝えしておきたいと思います。

    有難うございました。 結手

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  3. この度の組織改革の時、宗教のほうのトップが全国廻りで説明をしている時に、ある道院長がこれでは、怪しい新興宗教ではないか?いま我々がいくら話しをしても、本山に帰ってあの方が白のものを黒といえば黒になるのか?
    という質問に。当然です・・我々門信徒は最高解釈権者の師家のもとにあるのですから師家の言われる事が全てですとの答えに・・終わったなって思いました・・

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  4. 投稿有難うございました。

    組織改革と言う言葉は大変都合の良い言葉です。そこには改革により如何にも前より良い組織に生まれ変わる、と言う様な意味合いを感じさせるからです。

    師家の判断(最高解釈権者?不思議な言葉ですが)の一言が総てを決めるのであれば、話し合いなど何の意味を持たない事は明白です。

    特定の人物に過大な権限を与え、その判断に組織全員が疑う事無く従う事を想像すると恐ろしい組織が想像できます。
     
    私が感じた事を指導者の皆さんは自身の問題としてどの様に捉えるのか、26日のこのブログを読んだ後検討して頂きたいと思います。

    何も変わらないと言うのであれば、終わったなと言うのは組織ではなく変われない指導者自身の問題ではないでしょうか。

    厳しい表現になり恐縮ですが、私の貧しいボキャブラリーでは他に表現できませんでした。又の投稿を期待しています。 結手

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  5. >匿名さん。
    横からですみません。
    彼の地の組織は、一般財団、一般社団、宗教法人となっているようですが、宗教であれば宗教法人の代表がトップとなるようですが、この組織はこの上にまたトップがおられるということで、おそらく、中におられる方もわかりにくく、外におられる方もわかりにくいシステムに思います。
    また、世界連合も組織ですね。

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  6. Emptyさん度々の書きこみ有難うございます。

    貴方の組織に対する思いの強さ感じます。同時に矛盾を感じてはいても自身では何も変えられないジレンマも感じての投稿であろうと思います。

    組織内の構造はある程度理解していますが、名称とその組織の代表は一応別々の責任者が任命されて居ます。それらの組織の代表者の上に、上の投稿者が書かれている『最高解釈権者』なる人物が居ると言う現実ではないでしょうか。

    一つ言える事は、これ等の矛盾が解決されない限り組織の弱体化は解消できないでしょう。なぜならば誰も責任を問う体制になって居ないからだと思います。

    結手

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  7. ご隠居拳士2014/09/26 4:11:00

    人が、武道の道に精進を重ね、徳をつみ多くの人に慕われたとしても、
    道を変えない限り、武道家であり、宗教家ではない。---剣聖かな~。
    人が、神仏の存在にめざめ、徳をつむために、数々の荒行にいどみ、高度の体術を会得したとしても、
    道を変えない限り、宗教(信仰)家であり、武道(術)家ではない。---役の行者(エンノギョウジャ)?
    あなたは如何ですか?
    「パターン1  少林寺拳法の演武を見て、強さにあこがれ、修練を重ねたら、拳士になっていた。」
    「パターン2  金剛禅の思想にふれ、その思想を深めるべく易筋行をおこなったら門徒になっていた。」
    「パターン3  少林寺拳法の演武を見て、強さにあこがれ、修練を重ねたら、門徒になっていた。」
    多くの拳士は、「パターン1」だと思います。
    「パターン2」の人がいても全く問題ありません。
    「パターン3」、これって、違和感を感じませんか?
    水野先生の例にある、「ヨガの練習を見て、健康と美しさにあこがれ、練習を続けたら、信者になっていた。」というxxxxx教と同じパターンです。
    門徒にならないと、幸せになれませんか?人を幸せにできませんか?
    少林寺拳法を教える事、学ぶ事で幸せになった人から、その環境を取り上げる事が「幸福運動」でしょうか?
    開祖は、「一般法人」を認めていますよ。
    結手

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  8. ご隠居拳士様度々の投稿有難うございます。

    毎回読むことが楽しくなってきました。私のブログよりご隠居拳士さんの表現は易しくても、鋭いご指摘に多くの方がうなずかれて居る事と思います。

    例に挙げられた3つの有り方、全くそのとおりでしょう。100%同意致します。
    私は1)の例が当てはまると思います。 極めて少数派ではあってもご隠居拳士さんの言われる2)の拳士が居ても何の不思議も有りません、ご指摘どおり何の問題もありません。 問題は3)のケースでしょうね、この場合は何処か違和感どころか『いわ~~感』を禁じ得ません。

    始めから『少林寺拳法は金剛禅』と言う宗教なんだと納得して入った人達は不満を言う事も無いと思います。

    次回の投稿も期待しております、有難うございました。結手

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