2014/07/04

開祖のビジネスモデルはいつまで続く

どこの世界にもビジネスモデルは存在する。少林寺拳法の世界であっては、開祖宗道臣の説いた言葉(教え)が大きな指標である。
しかしながら時代の変化に伴い社会環境が大きく変わり、人々の生活も戦後に開祖が少林寺拳法を開いた当時とは様変わりしている。
Paradigm shift(概念的枠組みの変化)を無視して、今現在も発足当時と同じビジネスモデルを踏襲しているとすれば、現代を生きる人々に受け入れられる事は難しいと言わざるを得ない。

それは少林寺拳法の掲げる哲学の事を言っているのではない。哲学は変える必要は無いであろう、しかしながら戦後の何も無い時代と、今日の豊かで物のあふれた時代では人々が求めるものも当然の事ながら変化しているのではないか。


これ等の検証をする事も無く、自分達の価値観を一方的に押し付けて居ても人々の理解は得られない様な気がする。パソコンや携帯電話は言うに及ばず、電化製品から車に至るまで物があふれ返る現代であれば、人々の価値観(考え方)が70年近くも前の、戦後当時と変わらない事の方が不自然であろう。

ビジネスモデル等と言う言い方をすると、少林寺拳法は金儲けではないと不快に感じる人も居るかも知れない。これは何もビジネスとしてお金儲けを目的で少林寺を指導する、しないを言って居る訳では無い。 時代の変化やそれに伴う人々の価値観の変化を理解しないで、何十年も前と同じやり方が多くの人々に受け入れられるのか?と聞いて居る訳である。

その検証無くして「少林寺拳法は自信と勇気と行動力を養う」と言ってみても、果たして現代を生きる人々の心に響くのであろうか。
食べる物も満足になく日々の生活が厳しかった時代とは異なり、現代の若者はダイエットを必要とし痩せる為にジムに通う時代である。少林寺に入門する(これも古い言い方だが)人達が何を求め、期待して始めるのか、新しいビジネスモデルが必要になってきている。

今一つ別のパラダイムシフトが見られる例を挙げるとすれば、『少林寺拳法は固有名詞ではない』と判断されたことである。英国連盟と少林寺拳法ユニティの間では英国内における名称登録をめぐり長年に亘り係争があった事は前にも触れたが、2か月前に高裁の判断が示された事により『少林寺拳法は一般名称である』との判断が示された。

我々にとっては長年の主張が認められ嬉しい事ではあるが、これは何もBSKFとWSKOだけの問題と言う訳では無い。事の本質を理解していないと、Jiu-jitsuのように『少林寺拳法』が3月に私がこの欄で指摘した様な状態にならないと言う保証は何処にもない。それを理解した上で伝えていくべき大切な 事は何なのかを検証したうえで、 世界の人々に対してどの様なアプローチが必要なのかが問われている。

現状から目を背け、『世界で一つの少林寺拳法』と国内向けのプロパガンダを流し続けて居るだけでは、拳士の減少に歯止めが掛からないと言う事を多くの指導者は理解していると思う。どの様にして教えを守り、現代の人々に受け入れられる少林寺拳法を構築していくか、今こそ英知が求められているのではないだろうか。

6 件のコメント:

  1. いつも感心してブログを見させて頂いています、少林寺拳法の組織規模もニーズも昭和の時代とは確かに違っていると思います、しかし少林寺の根底に流れる人への成長プロセスは素晴らしいものがあると信じております。
    人が求めるものには、感動・幸福感・生活環境が大きく作用するのではないかと思っています。
    比較のつもりは全く有りませんが、
    私の趣味の写真の世界でも、ある時期フィルムの時代からデジタルの時代へ、またカメラから携帯へと変化して多くの老若男女の人たちが写真を楽しんでいます。
    少林寺拳法も一般名称になられたということで、一つの縄におさまらない環境が出てくるかもしれません。
    水野先生の薦められる少林寺拳法がさらなる発展をとげられる事を記念しております。

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  2. 匿名で申し訳ありませんが、直接の面識はございませんが、遠い日本より一道院長として先生のご活躍をお祈り申し上げます。

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  3. 投稿有難うございました。
    少林寺拳法と趣味の写真を例に挙げ説明されておりますが、「比較する気持ちは全くありません」と断わられる必要こそ全くないと思います。

    どの世界でも人が興味を抱いてくれる事から第一歩が始まります。少林寺に入ってくる人たちのほとんどが初めからプロフェッショナルの指導者を目指して居る訳では無いはずです。成長の過程で多くの発見があり、体験を通して人は成長を感じ、より深く係るようになるのではないでしょうか。

    プラグマティズムの創設者でもあるジョン・デューイは「経験に裏打ちされない知識は確固たる主体を形成しない!(価値が無い)」とまで言い切っています。つまり人は多くの経験をする事により自身の知識や技術はより磨かれ、説得力を持ったものになると言う事だと解釈しています。

    その意味からすれば宗道臣とその他のリーダーでは全く意味が違ってくる、と言う事を我々は認識する必要があります。開祖の言葉が我々の心に響いたのは、経験から導き出された言葉だったからで、同じ言葉を経験のない者が同じ様に使っても意味を成さない(意味が伝わらない、価値が無い)と言う事では無いでしょうか。

    今後共気付かれた事を投稿して下さい、有難うございました。

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  4. 投稿有難うございました。

    日本の道院長からこの様な暖かいエールを頂くだけで大きな励みになります。 つたない文章で異論も有る事は承知しております、その場合であってもご指摘頂ければありがたく思います。

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  5. はじめまして。
    興味深く、水野先生のブログ見させていただいております。
    彼の地の代表の方は、何事も曖昧であった
    時代に許された宗教と武道の混在さを当局に指摘され、実体が武道であるものを宗教として舵を切り、武道が公共の場から発展しているものをその場から撤退してしまいました。
    これは、現況のビジネスモデルから乖離しているものと思います。
    実際、ダーマ信仰についてどれだけの需要が
    あるのだろうかと思うのですが、人数が減ってきている現況がものを語っているのかもと思います。おじゃましました。

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  6. Empty様

    投稿いただき有難うございました。返事が遅れ恐縮です。

    長年少林寺拳法に打ち込んでこられた指導者こそ、声を上げるべき時が来ている様に思います。少林寺拳法が創設された当時(終戦直後)は確かに宗教登録が必要だったと思います。開祖もそれ以外に少林寺拳法をGHQ統制下では普及出来なかったと述べています。

    しかし時代が移り21世紀の現在において、武道が日本の文化として世界で認められた今日にあえて宗教団体を名乗る事は理解できません、時代の逆行ではないでしょうか。

    ご指摘のダーマ信仰は良いとしても、宗教家として自信を持ってそれらを説明できる指導者は少ないように感じます。なぜならば宗教が目的で少林寺拳法に入門した拳士は極めて少数派だと思うからです。私も武道としての少林寺拳法に魅力を感じ始めました。その様な中で開祖の説く哲学に共鳴して心境の変化があった事は事実です。

    今一度『少林寺拳法は武道か?宗教か?』と自身の胸に手を当てて考えてみれば、答えは見つかるのではないでしょうか。 宗教として武道を教える事と、武道の指導の中で宗教心を説く事は似て非なるものだと思います。前者はオウム真理教と同じ理屈でヨガと拳法が違うだけです。後者は多くの武道教育で見られるものです。

    日本の少林寺拳法が目指す方向はどの様な世界なのでしょう? 私達が理想とする少林寺拳法は後者でありたいと思います。

    又コメントして頂ければ嬉しく思います。
    結手

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