2014/05/24

愛国心(Patriotism)と国粋主義(Nationalism)

良く似た意味を持つ言葉であるが、その意味するところは大きく異なる。

愛国心 Patriotismはそれほど抵抗なく受容できる言葉である。何処の国に生まれようと、又どの国に強く思い入れを感じようと人から非難される事は無い。 しかしながら国粋主義Nationalismは同じような意味合いを持っては居ても、受け入れる事がなかなか難しい言葉である。

一見同様に見える言葉ではあっても、両者は根本的に全く異なった意味合いを持って居る。愛国心は、自分の生まれた国や住んで居る国を愛する気持だ。そこには同時に他者(他国の人が同様に国を思う心)に対する理解も存在する。他方、国粋主義の根底には、自分達の国以外を認めない(他者を見下す)差別的な視線が含まれている。 

日本国内で行われているヘイトスピーチも、このところメディアを通じて海外で生活していても聞こえてくるようになった。残念ながらこれも愛国心と言うよりはナショナリズムといった方が正確であろう。

原因(言い分)は勿論色々あるだろう。それは容易に想像が付く。だが、この様な方法(憎悪を煽る事)は何処の国の人間が対象であろうと、他国の理解を得る事は無いと思う。

言い分はお互いにあるであろう。日本に対する執拗ともいえる従軍慰安婦の追求や、それに伴う戦後補償の蒸し返し、そして竹島や尖閣列島にまつわる領土問題等々、この様な課題は簡単には解けそうにもない。 自分も日本人として考えてみれば、韓国が官民挙げて騒ぐやり方には首をかしげざるを得ない。 

だが同時にこうも思う。それぞれの国民のプライドが前面に出てしまうことで対立が一層深まれば、収拾不能な事態に陥ることも十分に考えられる。海外に住む一日本人として、両国の未来が平和であって欲しいと願うものである。

ヨーロッパ諸国は第二次世界大戦前には多くの植民地を抱えていた。形こそ異なるとはいえ日本も韓国や台湾そして中国の一部(満州)等を支配下に置いて居た事は歴史上の事実である。台湾を除けば現在の日本はそれらの国々とこのところ政治的にうまく行っていない事が、先に上げたヘイトスピーチの背景になって居ると聞く。

ヨーロッパには日本以上に多くの移民が存在する。その様な環境下では経済が悪化した時や、外国人による犯罪が起きた時などは簡単にナショナリズムが形成されてしまう。そのような現象を度々見てきた。つい最近でもフランスのある町の市長選挙において、当選した新市長が国粋主義者だったことが発覚し、姉妹都市関係にあったベルギーの町が提携を解消したと言うニュースがあった。

第二次世界大戦中、ドイツがユダヤ人に対する虐殺や迫害を行った事は現在でも広く知られている。ヨーロッパではその教訓から人種差別やそれに伴う言動は犯罪行為と認識されて居て、処罰の対象となる。だが、残念なことに相変わらず旧態依然とした考え方を持ち続ける人間もまだ一部に存在している。

この問題に教育が果たしてきた役割は大きく、現在では特定の人種や集団をあからさまに非難する事は少なくなってきた。それでも経済状態が悪化し、失業者が増加すると、残念なことにナショナリズム高揚の機運が一気に高まってしまうことを度々目にしている。

イギリスにも排他的な団体は存在している。彼らの主張している「英国内で起きる犯罪は外国人(有色人種)によるものが多い!」とか、「自分達が良い仕事につけないのは、低賃金で働く有色人種や旧共産圏からの移民が多いからである」等というようなものである。

冷静に考えれば簡単に分かることだが、犯罪者は外国人ばかりとはいえない。また有色人種や旧共産圏からの労働者は、イギリス人の労働者人口が不足したため必要とされて来英した人達である。この事実を、多くの国民は理解しているはずである。それにもかかわらず、彼らが攻撃の対象となるのは、社会矛盾が引き起こす不満の矛先を一番向けやすい対象だからであろう。

移民の多くは、旧大英帝国の植民地出身者である。自分の国を離れなければならかった人々の悲劇的経緯を忘れて、不満の矛先を彼らにぶつけてみても、イギリスの抱える問題の本質が解決されることにはならないであろう。

1980年代初頭、英国とアルゼンチンがフォークランド諸島を巡って戦争になった事がある。自分が英国に来て8、9年後の出来事であったが、普段は異なった意見で真っ向から対立する労働党までもが、当時のサッチャー首相率いる保守党と歩調を同じくして開戦へと突き進んでしまった。選挙で公約した経済政策が上手く機能せず、支持率が最低だったサッチャー首相が、フォークランド紛争発生後には人気が急上昇して、その後の長期政権に繋がった事は有名である。

この時感じた事は、普段は意見を激しくぶつけ合う国会議員のみならず、国民のほとんどが一夜にして同じ方向を向いてしまうという不気味さであった。もし同様な事件が日本で起きたとしたら、日本国民はどの様に行動するのだろうか、心配になった事を今も鮮明に記憶している。

戦争に一方的な正義は無い。しかしながらフォークランド紛争の時にひしひしと感じたことは、ナショナル・プライド(国民の誇り)が、一般市民の冷静さを失わせる存在として制御が難しいという事実だった。領土問題や執拗な追及等はナショナル・プライドに火を付けるおそれがある事を、何処の国民も銘記しておくべきであろう。

『差別の構造=戦争の構造』と言う事も出来る。何の為に、誰が戦争をするのか。「二度と戦争する様な国にしたくない!」と言う強い信念から宗 道臣が始めたのが少林寺拳法である。この言葉を今一度心に刻み自分達が物事を判断するうえでの指針としたい。

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