前回の報告では世界で一つの少林寺拳法と題して所見を述べたが、少林寺拳法が『一般名称』として認知された事は、確かに我々英国連盟にとって喜ばしい事には違いないが、果たしてその事のみをとらえて全てが満足できるか?と言う現実に立ち返って考えてみたい。
武道の世界を見渡せば分かる様に、空手や柔術と言った団体には様々なグループが存在している。これはそれらの武道が『一般名称』として認知されて久しい事にも起因するが、少林寺拳法にも将来的に考えれば同様な問題が発生しないとは言い切れない。
日本国内の空手団体を見渡しても、伝統空手のグループからフルコン系の団体まで数えればきりがない。中にはもともと少林寺拳法をやって居たグループも含まれている。空手を名乗る理由は少林寺拳法と名乗る事により英国連盟と同様名称問題で訴えられる事を恐れた結果であると充分に考えられる。又同時に空手といわれる武道が個々の名称問題にあまり関心が無く、比較的おおらかに新しいグループも吸収していった事が主な理由かもしれない。
今一つ気になる事を柔術を例に挙げて考えてみたい、英国には日本を起源とする柔術以外に、諸々の格闘技を寄せ集めた『Jujitu(じゅうじつ)』と呼ばれるグループが数多く存在している。 彼らは日本から伝わった様に演出する事には熱心だが、真の武道と言うものを全く理解していない事が様々な機会に散見される。
一度そのデモンストレーションの様子を見た事があるが、柔道かレスリングか分からない様な技で倒した相手に馬乗りになり、両手で持った石で相手の頭を打ち付けると言う派手なパフォーマンスだった。この様な現状を目の当たりにすれば、それがたとえ護身術だと言われても一般の人達には中々受け入れ難い感情が湧く事であろう。
又それとは逆に、確かに日本を起源とする柔術の団体も存在している。彼等は前述のグループと同一に見られる事を嫌い『Jujutsu(じゅうじゅつ)』と書き、デモンストレーションにおいても先程の様な極端なものは行わない。 しかしながら、グループの数が多く、又一般的な英国人の認知を得ているのはどちらかと問えば先に上げたJujituグループだと思う。
武道の技術習得には何年もの歳月がかかる。まして指導者になる為には色々な事を学ばねばならず一朝一旦に出来る事はほとんどない。そこで彼等の思考方法をもってすれば、似たようなしぐさ(技と呼べるかどうかは別として)であればジュウジツの先生としてやっていけると考えたのではないか。空手を数か月習った者や、柔道の技を2,3習っただけの者がプロレス紛いの派手な格闘技とくっ付けてジュウジツの先生が出来上がると言う訳だ。
現に私のクラスにもそういった連中が練習に来たことが過去に何度かある。中にはジュウジツをやっていると正直に言う者も居たが、ほとんどの者たちは練習について行けず数か月で脱落してしまう事が普通であった。少林寺拳法の剛柔一体の技には、彼等にとって大いに学びたい魅力があったのだと思う。残念ながら逆小手一つとっても生半可な練習で習得出来ない事は拳士なら容易に想像が付くと思う。
何が言いたいのかと言えば、この様な現実を間近で見ている立場からすれば少林寺拳法が同様のグループを抱えないと言う保証はどこにもないということなのだ。ある時気が付けばユニオン・ジャックや星条旗柄の派手な道着を着た少林寺拳法家が我々の隣でデモンストレーションをすると言う事態があながち起こらないとは言い切れまい。
では何を持ってすれば、この様な事態を回避できるのか? 現実問題として考えておかないと笑い話では済まされない重大な課題ではないだろうか。
その中でも最大の問題は、少林寺拳法の定義ではないかと思う。何を持って少林寺拳法とするか。 それは『開祖宗道臣の残した技術と哲学を伝えられる団体かどうか』と言う事につきる。いくら似たような動作や技を教えていたとしても、色々な武術の寄せ集めでは到底認める事は出来ない。真摯に開祖宗道臣の教えと向き合い、その伝統を自分達の指導の中心に置いて居る事が大切な要件ではないかと思う。
こうした志を共有するグループが、互いに所属する組織は異なっても認知し合える状況にしていかねば、いつの日か思いもよらぬ異形の少林寺拳法グループが世界中に出来上がる事も想像に難くない。
我々は今、分かれ道に直面しているのではないだろうか。我々拳士が英知を結集して協力する事が出来るかどうか、世界で一つ(宗道臣の遺訓)の少林寺拳法が発展していけるかどうかが問われているのである。商標登録では少林寺拳法を守る事が出来ない!と言う事を、今度の一般名称化は如実に表していると思うが如何であろう?
合掌
返信削除ブログ見せていただきました。少林寺拳法が創設されて60年が過ぎ開祖が亡くなられてから30年以上がたちました。創始者が亡くなられてから他の武道団体では早晩分裂が起きるものですが少林寺拳法では30年以上にわたってひとつでまとまってきました。これは普及布教に心血を注がれたmizuno先生をはじめとする多くの古参の先生方の努力のたまものです。これからの少林寺拳法は指導者の方々の個々の自覚と責任において
開祖の残された思想と技術をどう継承発展をするかが問われる時代になったと思います。
合掌礼拝
投稿有難うございました。
返信削除たかが少林寺拳法、されど少林寺拳法、どの様な団体であっても、習う人の気持ちがどのベクトルを指しているのか? でその後の接し方(指導方法)が決まるのではないでしょうか。 それを無視した指導者では可能性のある拳士の芽を潰してしまうように思います。
私たち(教える側)の思いだけでは、残念ながらすべての人に満足を与えることはできません。習う人達が少林寺拳法という団体に何を求め、何を期待しているのか。
指導者自身が諸々の課題に胸襟を開いて話し合い、謙虚に自身の胸に手を当てて、心の底にある言葉に耳を傾けられるか、そこに少林寺拳法を将来の発展につなげていけるかどうかの、ヒントがあるのではないでしょうか。
今ほど『人、人、人すべては人の質にある』、教える側の質が問われている様に感じています。
今後とも率直なご意見をお願い致します。
結手
合掌
返信削除ブログの再開おめでとうございます。
『世界で一つの少林寺拳法』と言うタイトルを見させて頂き、水野先生の考えられる今後の少林寺拳法の危機感と少林寺拳法の拳士が向かうべきベクトルを提示していかなくては。と言う、すごく大きなものを感じました。
実際に水野先生は、開祖がされて来られたように、世界の情勢を常に高所から見ておられ、世界の多くの方達に所見を提示して来られております。
その事が少林寺拳法は単なる武道ではなく人間完成の行であるといわれた開祖の言葉どうりの少林寺拳法を水野先生は継承されておられると思っております。
少林寺拳法は、武道の面でも人を活かす拳法であり、思想の面でも自他共栄の考え方の出来る武道です。
世界の有識者の方々は多くなるであろう少林寺拳法の中でも幸せを与えてくれる真の少林寺拳法との差別化が自然になされると思います。
水野先生の進まれる大河なる少林寺拳法を応援させて頂きます。
心強い応援メッセージ感謝申し上げます。
返信削除どの様な世界でも同じ事かもしれませんが、とりわけ趣味の世界であってみれば、楽しくなければ続ける事は困難です。
自分たちがどのようなきっかけで少林寺拳法を学ぶ様になったのか。 そしてそこから何を得て(学んで)続けてこられたのか?
拳法の練習では厳しい中にも喜びや満足があったはずです。厳しさだけの練習や、楽しさの無い環境では続ける事は難しかったと思います。
指導者も今一度原点(一拳士)に立ち返り、現在までの自身の歴史を見つめ直してみる事で、有意義な発見が出来るのかもしれません。
自身の生き方に満足(納得)できない人が説く、『理想境建設』などおよそ説得力を持ちません。
少林寺拳法の説く理想境とは、世界中が平和になると言う様な夢物語では無いと思っています。それが悪いと言っている訳ではありません。
まず現実になにができるか? 自分が理想(納得できる)とする生き方をしているか。開祖が言われた言葉が今も耳元に響いています、「小さな事が出来ない奴に、大きな事が出来るわけが無い!」厳しい言葉ですが真実だと共感できました。
人に説く前に自分自身が理想とする生き方を心がけたいと願っています。 又投稿を期待しています。 結手
「人、人、人すべては人の質にある!上に立つ人の考え方で、良くもなるし、悪くもなると話された開祖宗道臣の思いを胸に秘め、青少年育成に何かお手伝いできるのではないか」
返信削除その様な思いで自身の修行と護身鍛錬、そして大きな(理想郷)目標を持って修業をしてきましたが、最近これでいいのかと思う様な事が多々あります。
合掌礼ひとつで会話ができなくても同じ目標(技)をあれば通じ合えると信じていました。なのに話もしようとせず、交流も持たずに、あれは偽物だ!あんなの少林寺拳法ではない、表現は悪いですが(真似してるだけや!)その様な考えを持っているとしたら、この先どうなって行くのでしょうか?
空手、合気道その他の武道は驚くほど少林寺拳法の技を取り入れています(you tubeなどで確認ができます)。考えてみればDVDや多くの本を出しているのに、知られて、研究されて、退会した人が他で教えるいるのであれば当然ですね。
開祖の思いもなく、教えも知らない人たちがこの先、堂々と少林寺拳法(日本ではまだ無理ですが)を名乗ったりしたら、私たちは何を持って修業してきたんでしょう? 別に人に認めてもらうために修行をしていませんがね。
拳法本部には自分の意見を聞いてくれるリーダーは居ないんでしょうか?それとも言わないんでしょうか、とすればとっても不幸なことだと思います。反対意見こそが貴重な意見あり、受け止めて話し合って決して行く、これが会議だと思います。
なんか考えがごっちゃになって、言っていることもバラバラです。どうしましょう!
でも少林寺拳法が大好きです!
投稿有難うございました。
返信削除私のブログでの見解は勿論一つの見方でしかありません、受け取る人により解釈も異なって当然です。
只あえて投稿してまで、自身の意見を書かれる人の方が、少林寺拳法に対する情熱(思い入れ)が、強いように感じるのは私だけでしょうか?
「反対意見こそが貴重な意見」という事に大きくうなずいております。 全ての反対意見が貴重だとは思いませんが、「全てに賛成」という人達より、より多くの建設的なアイデアが含まれている事も事実ではないでしょうか。
最後の一行、「でも少林寺拳法が大好き」という心情、察して余りある言葉だと思います。
又の投稿期待しております。
結手
合掌
返信削除はじめまして、私は休眠拳士です。
こういっては語弊があるかもしれませんが、
「長くて辛い戦いではなかったでしょうか? お疲れ様でした。」
と表現するのが的確な気がします。
お気を悪くされたのでしたら、申し訳ありません。
梶原道全先生が御生前、兵庫武専の尼崎開催月に頻繁に顔を出されていました。
もう25年以上になるでしょうか、当時の本部の方向性によく疑問を投げかけられていたように記憶しています。
「少林寺拳法は何だかんだ言っても格闘技や! 世界平和がどうのこうのも今の時代大事やが、格闘技の要素がなくなったら少林寺拳法やないんや!」
と、事あるごとにおっしゃっていました。
東京方面から派遣講師の先生がいらっしゃった際の実技指導に対しては、かなり辛辣に意見されていたのも記憶しています。
その先生は、演武審査をいかに高得点に持っていくかというのを強調されていましたので、そういった部分への批判めいたところを感じることができました。
その梶原先生の本部に対しての強烈な苦情について、最も印象に残っているのは、武専の卒業論文の最優秀に、
「少林寺拳法の教義について」
というのが選出されたときでした。
梶原先生は、
「少林寺拳法に教義など存在せん! 金剛禅にしか教義はないんや。本部にはキツく意見しておいたから。」
と、おっしゃっておられました。
その後、信条の 「日本人として・・・・」 が 「愛民愛郷の・・・」 に変更される前のことですが、変更にあたり本部内部での検討はあったようですが、
「総裁が変えると決めたから変わる」
と、武専での授業の際に鈴木先生がおっしゃっていましたので、そのときの話されぶりから察するに総意ではなかったようです。(私の主観です。事実かどうかはわかりません。)
その後、USAの古い支部長の先生と懇意にさせていただいていたのですが、この先生は、信条の変更についてかなり苦言を呈されていました。
開祖の教えの根幹は、「日本を復活させるために、若い人たちに自信を取り戻させる」、ということを強調されていたように記憶しています。
ここまでで、私が何を述べたかったというと、水野先生や英国連盟の方々が、本部と決定的な対立をするまでに、これらの布石があったということなのです。
「反対意見こそ貴重」 というのはどこの世界でもあると思いますが、本部内では、結局、総裁の考え通りにことが運ばれていったわけでして、これまでにいくつもの裁判がありましたが、本部にとって都合の悪い結果はあいまいにしか伝わってこなかったのが良い例ではないでしょうか?
2000年前後から、世界中のあちこちに支部が設立される拡張路線に走って、その後の継続運営に支障が続出し、現在では、新規支部設立が該当国で最初になる場合は認めないという方針になっているようです。(ただし、本部の有力な先生方や、国会議員、在外公館等がバックについていれば例外が認められているのも新設支部が認められた時点で推測できます。例えばベトナム。)
と、言いますのは、実際に該当国だけではなく周辺国も含めて支部がまったくない地域での支部設立を計画し、数年がかりで講習会や審査(日本を含め、住んでいる国の国外に出かけるため、多額の費用がかかる)を受けて準備して申請したものの、結局却下されたという事例を偶然その本人から聞いたからです。
別のUSAの古い支部長の先生は、
「本部はやたら、手続き手続きいいよるが、外人という立場の我々が生活しながら少林寺拳法をやり続ける大変さがわかっとらん。」
と、おっしゃっていました。これは水野先生にも当てはまるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
もっとも、連盟がUSAにもできましたし、電話とFAXと手紙しか通信手段がなかった時代に比べると、ずいぶんと経費もかからなくなってきているのですが・・・
現在ほど情報が交錯していなかった入門後より、少しづつ見聞きも含め入手した情報を総合すると、開祖の時代と現在の2代目の決定的な違いは、政治家との関係だと思います。
開祖の時代は、政治家が開祖を利用しようと近づいてくることが多かったようです。(私の入門前ですので、全て伝聞です。)
現在の2代目は、逆に政治家を、いわば泣きつく形で利用している、というのが実態のようです。
ただ、政治家は選挙に落ちればただの人ですから、そのときは良くても、いずれ問題が大きくなったときに、さらに困ることになります。
ここ10数年以内では、財団法人化の際や、宗教法人格死守のために、政治家を利用していますね。
その結果、一番不便を強いられているのは、末端の指導者や拳士でしょうか?
ついでに、政治家拳士について不思議なことがあるので、追記しておきます。
1.行ったはずのない昇段試験日と会場で、なぜか合格者名簿に氏名が載っている。
2.所属名簿には記載があるだけで、稽古に来たのを見たことがないにもかかわらず、なぜか、特別昇段試験合格者名簿に氏名が載っている。
しかも、有名な政治家の場合、会報にデカデカと載る。
彼らは、いつ稽古してるんでしょう?
不思議ですねぇ・・・
我々一般拳士は、参座が足りないからと、受験申請が却下されることが、よくあるのですが・・・
水野先生が危惧されていらっしゃいます、「今後、変な自称少林寺拳法が出てくると予想される」 という件ですが、既に日本国外に存在するのを、私は知っています。
日本国内にも、少林寺拳法流空手や、不動全少林寺拳法などが昔から存在します。
これらも含め、これから世界中で似て異なものがそれらしく広まっていくのでしょうね。
ただ、そうなってしまった場合、その国で最初に始めたものがその国での 「本家」 になってしまいますので、ますますおかしくなっていくことでしょう。
開祖、宗道臣の思想・理念を継承する少林寺拳法が、今後どのようになっていくのか、休眠拳士としても興味があります。
英国では、2つの少林寺拳法が存在するという、いびつな形が続き今後もいろいろとあるでしょうが、お体にだけはお気をつけてくださいませ。
結手
Tairaさん 長文の投稿有難うございました。
返信削除この投稿に対するカウンターは2015年の新たなる旅立ちNo.2に書きました。一度ご覧ください。
結手